自然体

人は一番身近で一番よくわかっていないのが自分というもの。

どれだけ真理や真実、どれだけ洞察や体験を積んでも自分と言うものはよくわからないもの。毎日、鏡で見る自分も本当の自分ではなく、他人が言う自分も本当の自分ではないとして、では何が自分なのか。

自分を正しく持っている人は、心一心に自然体で生きている。
生きる力があり、何でも自分で問題を見つけ解決し他と共生し社会に貢献する。

しかし自分を正しく持っていなければ心が拡散し二心三心となり不自然になる。
そうなると人に依存してしまい、何も自分ではできなくなり社会にも自由に貢献することができなくなる。

大事なことは自分で決めることであるけれど、自分自身の人生を肯定的に考え、自信を持つことであると思う。そしてそういうことで正しい自分でいることに勉めることもまた自然体であれることだとも思う。

自分で自信が持てず、いつも誰かの籠の中で甘んじているとそもそも自分が天から同一に与えられている自然の恩恵を自らで日陰に入り受け取ることをしなくなってしまう。

自然界に於いても身近では自然の植物が人工的に守られてしまうと自分で自生することができなくなり淘汰されてしまうように自らが持っている力を使おうとしなくなるともはや自分が分からなくなってしまう。

自然に陶冶されるのも、それぞれが自生していく中で学んでいくことであり、その中で自生できないものは自然淘汰される。

自然は厳しいからこそ、お互いが助け合い自立して共生することを学んだのが人間であるのだとも思う。

その自然を遠ざけることを不自然といい、不自然がいろいろなことにまた変化を促す。

何が良くて何が悪いのではなく、こういうものが自然であるとして人間の情をどうコントロールしていくのかがわかるのも自分があるかどうかによる。自分の感情の中にあれば人は自分を見失う、しかしその刹那も自然に自らを天を敬い天を信じて歩んでいけば必然的に自我があらわれる、そしてその自我を学問により身を修めていくのが生きているものの道理であると思う。

自分と言うものをよく理解し、自分と言うものを自然にあわせることは天人合一の実践を行うと言うこと。

日々、事があるなしに関わらず感性を磨き、感応力を高め、天を敬い、天にあわせ、そういう人にこそ天は寄り添い、その運行ともにするのが道なのだから自分をしっかりと持って歩んでいくことが本質的になにもしないという無為自然体ということ。

これは誤解されがちだけれどもただぼーっと何もしないのではなく、自分を正しく持っていて自分自身でいられることが自然体で何もしないということ。

無理をして、一部の人たちに偏りがちな社会から、皆で支える社会を切り開くためにも、様々なことを見つめるなかでも特にこの自分というものから見つめていきたい。

シンクロニシティや一期一会は、その時々の自分の自然体によるものだから。

子どもたちには、自然体でいられるような自立した社会が継承できるように歪みを正し、自分の在り方そのものを見直し続けていきたい。

発菩提心

人は生きていると様々な過ちをする。そしてそれはほとんどが自我や自分の都合を優先することで起きる。

何かの巡り合わせによる苦難に出逢う時、相手を思いやる心に自分の我が混じればそれは正しい判断ではなく、心が迷い精神が蝕まれ平常心ではいれなくなる。

そしてそういうときにこそ過ちが起きる。

しかし人間はその出来事を受け容れ真摯に懺悔し、正しく澄んだ真心で悔い改めることで過ちを乗り越えさらに周囲への思いやりの心や慈しみの優しさ、「御蔭さま」という感謝が生まれ清々しく新たな一歩を踏み出すことができるのだと思う。

その新たな一歩は他への思いやりや優しい心でまた新たに生きることへの決意であり、自分だけのことを優先せず相手のための自分を使っていきたいという施しの気持ちで生きるということでいることを忘れないという覚悟にもなる。

観音菩薩の教えに六波羅蜜がある。

持戒、忍辱、禅定、精進、布施、智慧 というのがある。

これは一つ一つも大事だけれど、全てをまとめて調和しているものでもある。

簡単に言えば、常に謙虚に様々なことに心を籠めて生き、心はいつも平常心に定め、耐え忍び寛容の心で多くを許し、生活一つ一つ今、ここに全てを全身全霊でお勤めし続け、自分のできることの最大限で相手に尽くし、正しい見識と叡智をもっと人々を導き助けていくような慈愛の心で実践することだと思う。

そのこと自体により発菩提心という自分が人を助けたいと思う利他の心をいつも座右にしながら歩んでいくのが観音様のいう慈愛の道であるのではないかと私の体験と邂逅からもいつも思う。

しかし巡り合わせにより様々な状況に於いて日頃のその慈愛の道が天に試されその都度、御蔭に出逢えるかに自らの誠の実践が求められることになる。

私は御蔭さまに出逢うとき光を感じそこに命の源のようなものを感じる、そしてその命にはそれぞれに価値があり確かな意味が存在しているともい感じる。

自分自身が何よりも偉大なものに生かされている実感を持つことが真の意味で生きるということであり、それはもともと幸せになるということを肯定して明るく素直に優しい心で活き活きと生きていくことなのではないかと思う。

清々しい心のまま、明るく正しく思いやり助けあい支え合う豊かな人生を歩む人が一人でも多くこの世に生まれるのは様々な出来事との邂逅があり、巡り合わせがある。

そこで毎回、自分の発菩提心に気付くことが子どものままで生きることになることだとも思う。

そういう子どもたちを真心を持って生き接し、そういう子どもたちがずっと安心して豊かに思いやり自立して生きられる社会を一期一会の機縁から導きだしていくことでより見守ることを広げていきたい。

心やさしい人たち、思いやり溢れる人たちが慈愛の道を歩めることに祝福を、巡り合わせと御蔭さまに心から感謝。

一期一会に。

自分の意志

時代的にか、最近は自分で色々なことを決めない人が多い、他人に決めさせたことを決めたとし、本当の意味で自分の決めたことに責任を持とうとしない甘い人が増えてきているように思う。つまりは、自分の人生に納得していない人たちが多いと言うこと。

甘さを思うと、過干渉過保護に何でも自分で決めさせずにその人を手伝うとその人にとっての人生が喪失することになることが在る。どうしても誤った判断をしてしまう人間らしい弱さではなく、決めないから、また決めたことをやらないというのはそれは弱さではなく単なる甘えであると思う。

もともと自分で物事を決めない人は意志薄弱だと言う定義が在る。

なぜなら、決めないことで自分が自分にとっての都合の良い人でいられるからでもあるし決めなければ意志を持つ必要もないからだ。

しかし、自分の人生がそのままで本当に良いのかを自問するとき、そこでそのまま受身に人に覆いかぶさって連れていってもらおうとする人と、それを自分の意志で主体として自分の足で歩む人とがいる。

何でもそうだけれど、自分の人生にならなければ幸せにはなれず、自分で納得しなければ自分というものを正しく修得していくことはできない。

それなのに、自分で考えず他人にばかり責任を押し付けて自分の面倒を観てくれるか見てくれないばかりを試して依存するというのはとても危険なことだと思う。

そしてその依存に対して甘える人もいる。
そういう人はどんな環境の中でもその環境に甘んじる、例えば、自分が好きなことをやっているからと好き勝手にやることが良いと思い、本来好きには色々な制限や制約があるのにそれは果たそうとはせず、好きなことをやっているのだからを単なる好きなだけやらせてもらえると勘違いし自分勝手自己満足に甘えてしまうということ。

これでは、いつかはその好き勝手が他人に迷惑を増やしその場を去るようになる。

もし、環境に甘んじず、結果責任を持ち、全体の役割の中に自分の存在が明確に立ち、相手も自分と同じように納得した「決める人生を歩んでいる」と言う風に自立して公平に平等に思っているのならば、環境に甘んじるはずはない。

むしろその環境が厳しく感じ、より意志を強くして様々なルールを守るために自律していくことができるのだと思う。

その組織を築くリーダーは、当然、甘えがあってはならず、お互いが納得する人生を歩むために、単なる上辺だけの薄っぺらな同情やもしくは肩書きからの刷り込みからの差別感情か、もしくは孤独で寂しいことなどからのエゴで愛着をわざわざ持とうとするのはお互いに同じ目的を持った同志として自立しているとは言い難いと思う。

人はそれぞれの命を天から与えられ、その人なりに自分自身で生きていくことではじめて平等に公平に天から命を分け与えられる存在となる。

どんな環境下にあったとしても、自分の与えられた環境の中で精いっぱい生きるのは、自分から自分の人生を納得するように生きるということであり、それは周囲の環境に甘んじず依存しないという自分の強い決意、自分の意志がいる。

それは簡単に言えば、物事に対して結果責任を持つことであり、それを自分で決めれることだと思う。つまりはここでの結果とは、責任のことであり、任されたことに対してどれだけ自分が本気であるのかが問われるのだと思う。

自分で決めないで流されると言うのは、周りに迷惑をかけていることをすら自分勝手に自己満足に浸りたいというのはともに活かし合おうとするのではなく、誰かに縋っていたいというただ苦しみから逃げたいという甘えになる。好きなことをやるのには必ず責任が生じる、その責任から逃れたいから好きなことをしないや、好きなことをやりながら責任を取らないのは無責任ということになる。好きなことをやる自由には責任が伴うのだと思う。

その責任をどう果たすのかを自分で決断することで、周りへの感謝に気付き、周囲と共生し貢献することでより社会や人々を良くすることで自分の人生の生きがいを感じることもできるのだとも思う。

つまりはここでの本当の甘さとは何か?

それは、自分の人生にこれでいいのかを自問しないこと、考え切らないこと、さらには他人のせいにしようとしたい自分自身と正対しない甘えた根性のことを言うのだと思う。

幼少期に、どんな過保護過干渉、放任無関心を受けたのかはわからないけれど、このままで本当に良いのならばそれでもいいけれど、それは自分自身で決めないといけない、あくまで周囲は納得できるように手伝うことはできても代わりにその人の人生を生きてあげることできないからだ。

自分の人生は、まず自分で決めるところからはじまる。

それは、仕事でもそうだけれどどんな理由があったにせよ自分が納得するように意志を固め、その意志を貫くことだ。それを簡単にルールを破るや、何かの約束を忘れるなど、当然、人としてもあるけれど、それ以前に何より人生への「姿勢そのもの」が受身であれば何をやったとしてもそれは結果責任を取れることにはならない。

自分で決めた以上は、その責任は自分で取る覚悟を持つことは姿勢を正すこと。

それこそが自分の決めた人生、自分の決めた本当の意志、自分の自分らしい人生であると思う。

今の人たちは何かと流され他人のせいにし、自分で決めずに決められることが貢献だと勘違いし、不幸になることも他人のせいにし、自分の人生も他人に委ねて金太郎飴のように個性がわからない人たちが多い中、子どもたちには自分らしい自分の人生を生きられるように自分で考えて決断し行動できるような人になれるような自立を促すような大人の見守りを用意していきたいと思う。

大人たちが今は自分で決めない以上、子どもたちは依存されて本当に大変だけれど、その中でも自分のやりたいことが甘えずに立派に自立して行えるよう、自分はどうしたいのかを決めて納得できるように厳父と慈母の心で真摯に関わっていきたい。

私自身、結局相手を甘やかしたことで自他を受身にし縋りの悪循環をするのなら、本懐とは異なるので、刷り込みよりも相手を思いやりぬき、相手の人生の本当の幸せを願い、本人が納得する道を歩めるようにクールに温かく支援していきたいと思う。

同源

玄米を食べだしてからもう何年かになるけれど、年数をかけるたびにその効力と効能に驚くことが多い。

以前、無理をして働き世界のすべてを背負っているかのように仕事をしていたときに体調を壊し限界を超えて寝込んだときに偶然出会ったのが玄米食だったことが懐かしい。

最近では、易を学び橋本左内から繋がった石塚左玄の無双原理に出会いその理論を知覚することもできた。

その有名な言葉には、「食は本なり、体は末なり、心はまたその末なり」がある。

これは論語大学の徳は本なり、財は末なりに沿って言葉になったのだろうけれどよく考え抜かれた比喩であると思う。

食べるとは、どこで食べるのかを思う時それは細胞が食べていることになる。その細胞がなぜ食べるのかを思えば健康でいるために食べるということになる。つまりは、健康は天の運行と地の原則、人としての命の育むであるからしてそれを維持するには食べることにより天地自然の状態でいることが大切だということだと私は思う。

つまりは、体ばかりに囚われて医を施すのではなく、また心の状態ばかりに囚われるのではなく、まず食べるということを通じて生活そのもの根源的に天地自然の流れに沿わせていくことで人間としての存在意義と命を育み養っていこうということだと私は解釈した。

これはとても大切なことだと思う。

私も偏っているやゲンマイオタクなどと言われることがあるけれど、極端に聞こえるのは確信を持っているからそう思われるだけで、心身の病という病はすべて玄米により治癒できると思っている。

それくらい、根源的なものを健康の極意と考えているからだと思う。

だから、私が炊く玄米は美味しいとよく言われ、美味しいから楽しく、楽しいからまた美味しい、そしてだからこそそれを食べることで健やかで康らかにいることができる。

昔から医食同源という言葉が漢方にある。
つまりは、これはすべての源は辿りついてみると同じであったという意味であると思う。

それを玄米というもので表現したところがこの石塚左玄の面白いところだ。

私も玄米を観ると、変な言い方で誤解を受けそうだけれどそこに宇宙を感じることが在る。なぜなら、種とは、そこに生命のすべてを具備しているものであり、そこに水が触れることでキラキラと躍動が生まれ、芽が出て実がなり、そして循環することにより万物流転の原理もそこに顕れる。

穀物とは、私たちが共生のためにこの国土、身土の中で選んだパートナーであり、それを行うことで止揚の和を得られ、地球の一部と全体として大いなる天からの役割を果たすことができるという先人の叡智が籠められているからだと思う。

だからこそ、私たちは玄米を食べる必要がある。

どんな状況であったにせよ、日本人の根源に玄米を据えるのはかの天照大神が示した豊葦原瑞穂の国、つまりは稲穂によって繁栄するという啓示を得るところに還ることが初心であることだとも思う。

玄米をより効果的にすべての生活に活かし、人々の迷いや悩み、そして心身の自浄を促していけるように工夫していきたい。

子どもたちには、なかなか刷り込みや色々な現状の説明が多すぎて言葉にできないものだけれど、その一粒に祈りと念を乗せ次世代へ健やかな育みを遺せるように正しく食べる実践で感化していきたいと思う。

自然の理法

私が尊敬する偉人に二宮尊徳が在る。
この方のもっとも尊敬しているところは、その語録に自然の理法を体得した安らぎを感じることができるからだ。

私も植物や自然から物語を学ぶことが多く、天然であることに静かな心を感じつつ、根源にある命をかんながらの道に照らし学び理解することでより穏やかな心を持てる機会が多くある。

よくも考えてみると、天地自然は止まることも休むこともなく宇宙のように永遠に悠久であり続けることであるからしてすべてはそのままの存在であるという意味では、何も考えずそのままでいるということをいうのだとしそれを私は天然自然であると定義している。

だからこそ自分の素直な澄んだ心に従い、善悪もないところでそのままでいることこそ自然でありそういう日月草木天地循環の中にあり自分がそのままでいることを考えないとしていれば道に照らし人間は不思議と安楽を感じながら生きていくのだと思う。

しかし、自然から離れ、この自然の世界である天の界とは別に人間がこの人の界を立てているのだからこそそこに別の人としてが生まれる。

何も考えなくても済む動植物のあるがままの自然に対し、人間が立てた人の間だけの世界には人間だけで生きているという人間中心の社会が在る。そこには、俗世間での善悪があり、正邪があり、白黒があり、左右が在る、東西南北もあるのもこの人間が人間である人界というものがあるからだと思う。

そこに人としての生き方、つまりは倫理道徳というものがある。

二宮尊徳は、この天界と人界の間に於いて我々はどうあるべきかを報徳という教えにより4つの言霊で迷える人々を導いた。

それを「至誠、分度、推譲、勤労」とし、一円融合させた自然の理法を体得した東洋世界における非常に達した人であるのではないかと私は思う。

まずこの至誠は、天界とともに歩む生をいい、至誠こそが天の命を全うする方法とし、かの吉田松陰も常にその至誠を何よりも重んじ、なぜ生まれてきたのか、そして死ぬのかという生死の極みに純粋無垢に生きたひとでもある。澄んだ水のようなまま流れていくことに悠久の姿を見出すのが天然であると私は思う。つまりは天然であることとは、自分の内面の個性に従い澄んだまま天と繋がったままで生きること、つまりは純粋無垢なところを永遠に具備していることが大切だということだと信じている。

そしてそれが私たちがこの天道地理の中にあり、この宇宙や地球に於いて生きているということの根本根源の原理だということを顕すのだと思う。

そして人界とは、私たちが人間が人間の身で勝手に立てた社会であるからこそ不自然が生まれ不調和というものが起きてきたとする。

だからこそ人としてどうあるべきかという学問が生まなければ存在もできず、、そこに道を修めた人の教えがいる。でなければ混沌として自分たちの存在することすらもできなくなり滅んでしまうからだ。この人間の社会は個が全体と離れることにより比較対象が生まれ、差別や不公正、不公平などが次々に発生する。そしてその不調和に対して結果が無残なもので混沌とした生命が誕生すらもできないような状況を毎回生み出していく、そこでそうならないようにと孔子の言う思いやりの「仁」「恕」、仏陀の悲しみの「大悲」、孟子の良心である「惻隠」、アマテラスの真心である「かんながら」など、人間としてその不調和に於いてどうあるべきか説いてくる。

つまりは、人は人であるからこそ人としてどうあるべきかを問われる。

しかし、それも何かしらの意味があるとしそれを天地開闢であるとしたのではないか、そして、分度、推譲、勤労と報徳仕法を創造したところに二宮尊徳の凄みがある。

まず分度とは、人として足るを知るということであり無い物ねだりではなく在るものをどう活かすかと言う一切を排除をしない考え方の基本原理であり、そして人であるからこそ、自分を立てて相手を立てるという共存共栄の原理を示した。そして推譲でいう譲りあうことで東西南北を分けずに常に自らの存在自身が一部が全体になるという分かれることのない総合的な包括、つまり包み込まれるような人間の温かさを優先することでまた一切を排除しないようにした、さらに勤労として、自分の成すべき役割を果たすことで、どんな人でも何かの役に立ち、その自立して役に立つためによく働くことこそ人界に於いてよりより助け合い認め合うという一円融合してすべてのものを活かすということを顕わし、また一切を排除せず何より人界の目指す平和を築き上げようとしたと私は定義する。

人間が人間であるが所以はすべては人に成ることによる。
人であることは、すべて一切を排除しないということである。

本業である一円対話の極意はそこであり、それを太極であるともいえる。

人とは、何も排除せずすべてを丸ごと受容した姿であることは何よりも自らの内面世界に於いての自然の理法を徳というものによって具現化されたものであると私は思う。

天界と人界に於いて、私たちが結いしものはその天然自然の体現であり、悠久をその身に修めることであると思う。

つまりは、悠然としてあるがままでいることで天命を活かすこと。

これを子どもたちに例えれば、子どもたちのままでどれだけの生死の間を子どもたちのままでいらせられるか、そして人として道として何も排除せずに活かし合い助け合う社会を学問や教えにより人を修め導くことができるのか。

真に見守るには、まずは自分自身が実践によりその自然の理法を体得するにある。

子どもたちの未来を、二宮尊徳の報徳の教えにより切り開けるように意義を明確にし取り組んでいきたい。

存在価値

集団や組織を見ているとよく感じる刷り込みが在る、それは間違ったお金や物質欲が優先されやすい時代だからこその短絡的個人主義教育のことだ。たとえばこの国の今の教育は、それぞれの個々のスキルを重視するばかりに責任を大人たちが持つことで子どもも双方酷く孤立化してきているように思う。

お互いに何かうまくいかないことを思うとすぐに能力がないからやスキルが足りないからという風に責任をどうしようもならないところで納得しようとする。

たとえば、すべての動植物がでは何か周囲との共生が成り立たないとき、それを自分自身の能力のせいにするだろうか、スキルのせいにするだろうか、実際はないからこそそれを別のところを活かしともに補填していくのだと思う。

何でも完璧な部品のようなスキル至上主義では人間として本来もっとも活かせる協力や協働という力を合わせるというところを使っていけることはない。

すべてを自分がやらないといけないのなら、誰でも自分が能力がないと思うもの。

スポーツでもエースでピッチャーでレギュラーがもっとも価値があると思う人もいるけれど、本当はそういう一人に負担がかかる形はとても皆で力を合わせると言う人間の本質を活かせはしない。

それぞれがすべて責任を持った中で生まれた関係であれば、時としてエースが代わり、時としてレギュラーも代わり、皆で一丸となって力をあわせることができるものだ。

今の社会は教育が個人の責任にばかりを追求するうことにより、それぞれが助け合って生きる社会を築く方を優先しないから孤独に疲れていくのだと私は思う。

何かを行う時、自分がみんなにとって何ができるか、自分がみんなに対して何ができるかを思い、自分の責任の範囲をもっとみんなの中での一人として自分の価値を尊重し、周囲を尊重していけば自然に自分のスキル不足は人間の繋がりの可能性により払拭されていくのだと私は思う。

今の人たちが集団がうまくいかない理由は、それぞれが人としての信頼関係のルールをよく破ることにあることと、他を人としてあまり信用しなくなったことにもよる。つい自分が過去においてけぼりや騙されたなどとし孤独を感じた記憶が邪魔をし不安を増やしたことで、人を無条件で信頼して心を開くことができにくくなっているからだとも思う。

しかし、本来ルールを破るや破らないということではなくその前にある本質、「お互いに信頼して生きる」という人としてみんなの中にある自分の存在価値に自信を持てるようになることがまずは先決だと思う。

それは生まれてきてから、自分で満たされる存在がいることをまず自分自身が深く感じて生きていることだと思う。

最初に自分が生まれて満たされたのは両親であり、祖父母であり、兄弟姉妹であり、友人たちであり、周囲の生き物たちすべて自分が存在することで存在価値が出てきている人もいるのだ。

会社で言えば、あなたがいることで会社が存在でき、あなたがいることで自分たちが満たされることもある。そうやって周囲に自分の存在を必要とされていると心を開けば自然に協力することができると私は思う。

つい、すぐに自分が先に他人を諦めたり仲間を信じなかったりするものだけれど、それは自分自身の存在価値を自らで貶めることになり、自己肯定もできず他人も肯定できないと言う寂しい人間観を沁みつけることになる。

まずは子どもたちのモデルとして、自分自身の存在価値に自信が持てるような行動と心棒、真心をもって日々を協働していければと願う。

結果責任を持てると言うのは、自分たちの存在価値を自分たちで持てるようになること、その先に家族の幸せがあり、子どもたちの幸せ、最初と最後のプロセスに自分の幸福が待っていることを信じて自分の人生を自分で切り開いてほしいと思う。

みんなの中での自分、自分を通してのみんなを満たせるような人が幸せを広げていくと信じて。

怠慢

仕事を何となく繰り返しているとやっているうちに次第にやった気になっていることがある。

例えば、先回りし良かれと思って何でもその気になってやっていると在るときふと気がつくと次第に自分がこれだけやっているのだからと自己満足に陥ることがある。

そしてこれだけやっているからこうなったのだと現状に満足して一人で勘違いしだすと、そのうちに面倒なことを無意識に怠り少しずつ避けだして自分でも気付かないうちに大きな災難と迷惑を呼び込むことになる。

自分自身の誠実さや日々の精進を忘れれば必ずそこに禍の芽が育っていることに自分で気づけなくなる。境内の雑草と同じで、そして塵のように日々新しく生え、新しく積もっていくものを毎日摘み取り掃くことをしなければそのうちにその環境の大きなところばかりが視界が囚われ、小さくても確かに発生している大切な些事に気づけなり心が粗雑になっていく。

そしてそれを慢心とも言う。

たとえ元に理念と言うものを掲げ、志を持ち、固い決意と覚悟で歩み出した道だとしても一期一会に最善を尽くしていない日々を送ればすぐにそれは問題の形となって具現化してくる。

いきなり現れあたふたしてもいつのまにか大きくなったものに対して今までやっていたのになぜというようなこともあり受け容れられず一人衝撃を受けてしまうのもそういう時なのだろうと思う。

事物はそれが最良かどうかというのは、ある意味ではだれにも決めることはできない。だからこそ、自分に矢印をいつも向け続け自分はどうなのかと内省をすることで人は自律し正しくあることができ、感謝し他を活かすことができるようになる。

先日、また保育現場で様々な問題を見つめ取り組んでいく中でも同じようにそのものを体験することがあった。

たとえば園長は職員や子どもに良かれと思うことをたくさんやったとする、それを色々な形で用意していく。そのうちに、次第にこれだけやっているのだからという一方的な気持ちが自分に生まれ慢心し、無意識にそれを返してもらおうとさえ思ったりもする。

そのうちに、良いことをやってもやってもうまくいかないジレンマに陥ることがある。そしてそこからお互いが分かり合えなくなり、お互いに失望していくことがある。

発想を先程の定義に沿って見れば、そもそも何のためにそれだけやっているのかは本来それは自分のためではなく皆のために自分がやりたかったことであることであるのに、それが感謝されたり、良いことだったと思うが故に気持ちが満足し怠慢に陥るのではないか。

本来は、それは皆の幸せを願ってのことであれば決して怠慢することではなく、常に相手の立場にたって親心をもって無償の愛を送り続けることであり見返りを求めるものではなく見守るものであるものだ。

つい経営者の刷り込みで自分がお金を払っているだのお金をもらっているだのととかく社員や顧客をそういう考え方で判断してしまいがちになる。しかし、人としてまず考えればそれはただの役割分担であり責任と言うものを誤解しているだけだと言わないだろうか。

企業だからビジネスだからなどとあるけれど、その前に人としての方がなければ人は消耗品になってしまわないだろうか。

それで果たして、本当に子どもたちが憧れ目指すような大人の働き方の至善のモデルになっているのだろうか。

家人でいえば自分が親で社員が子どもというだけだとしたら自立と共生を思う時、すべての集団はそういう風に親子関係が成り立ってはいないだろうか。そしてそこには上司部下ではなく兄弟姉妹ということにならないだろうか。

社員も顧客もすべてが自分の家族だと定義して、もう一度しっかりと自分の役割が一体何なのかをよく考えないといけない。そしてどう自分が在ることがもっとも皆を幸せにするのかを願い、それを真摯に怠らず丁寧に実践していくことが本来の精進であるし日々の仕事であるのだと私は思う。

わが身を顧みると私自身もついここまでやっているのだからや、自分がやっている影響のことばかりに目を奪われることが在る。そんな時こそ、本来の在るべき姿を謙虚に受け止め、大切にしていくものを優先するような思いやりをもった人であり続けたい。

常に神聖な境内を預かる身として自らを慎み、日々を浄化し、水のように澄んだ心ですべてを包みこみ、天然一体となった無窮のかんながらの人でありたいと願う。省みるとあまりにもまだまだ未熟だけれどもその今の自分の弱さを受け容れ、本当に大事なものを守れる強さを持てるように現状に決して満足しないような謙虚な実践を積み上げていきたいと思う。

感謝