怠慢

仕事を何となく繰り返しているとやっているうちに次第にやった気になっていることがある。

例えば、先回りし良かれと思って何でもその気になってやっていると在るときふと気がつくと次第に自分がこれだけやっているのだからと自己満足に陥ることがある。

そしてこれだけやっているからこうなったのだと現状に満足して一人で勘違いしだすと、そのうちに面倒なことを無意識に怠り少しずつ避けだして自分でも気付かないうちに大きな災難と迷惑を呼び込むことになる。

自分自身の誠実さや日々の精進を忘れれば必ずそこに禍の芽が育っていることに自分で気づけなくなる。境内の雑草と同じで、そして塵のように日々新しく生え、新しく積もっていくものを毎日摘み取り掃くことをしなければそのうちにその環境の大きなところばかりが視界が囚われ、小さくても確かに発生している大切な些事に気づけなり心が粗雑になっていく。

そしてそれを慢心とも言う。

たとえ元に理念と言うものを掲げ、志を持ち、固い決意と覚悟で歩み出した道だとしても一期一会に最善を尽くしていない日々を送ればすぐにそれは問題の形となって具現化してくる。

いきなり現れあたふたしてもいつのまにか大きくなったものに対して今までやっていたのになぜというようなこともあり受け容れられず一人衝撃を受けてしまうのもそういう時なのだろうと思う。

事物はそれが最良かどうかというのは、ある意味ではだれにも決めることはできない。だからこそ、自分に矢印をいつも向け続け自分はどうなのかと内省をすることで人は自律し正しくあることができ、感謝し他を活かすことができるようになる。

先日、また保育現場で様々な問題を見つめ取り組んでいく中でも同じようにそのものを体験することがあった。

たとえば園長は職員や子どもに良かれと思うことをたくさんやったとする、それを色々な形で用意していく。そのうちに、次第にこれだけやっているのだからという一方的な気持ちが自分に生まれ慢心し、無意識にそれを返してもらおうとさえ思ったりもする。

そのうちに、良いことをやってもやってもうまくいかないジレンマに陥ることがある。そしてそこからお互いが分かり合えなくなり、お互いに失望していくことがある。

発想を先程の定義に沿って見れば、そもそも何のためにそれだけやっているのかは本来それは自分のためではなく皆のために自分がやりたかったことであることであるのに、それが感謝されたり、良いことだったと思うが故に気持ちが満足し怠慢に陥るのではないか。

本来は、それは皆の幸せを願ってのことであれば決して怠慢することではなく、常に相手の立場にたって親心をもって無償の愛を送り続けることであり見返りを求めるものではなく見守るものであるものだ。

つい経営者の刷り込みで自分がお金を払っているだのお金をもらっているだのととかく社員や顧客をそういう考え方で判断してしまいがちになる。しかし、人としてまず考えればそれはただの役割分担であり責任と言うものを誤解しているだけだと言わないだろうか。

企業だからビジネスだからなどとあるけれど、その前に人としての方がなければ人は消耗品になってしまわないだろうか。

それで果たして、本当に子どもたちが憧れ目指すような大人の働き方の至善のモデルになっているのだろうか。

家人でいえば自分が親で社員が子どもというだけだとしたら自立と共生を思う時、すべての集団はそういう風に親子関係が成り立ってはいないだろうか。そしてそこには上司部下ではなく兄弟姉妹ということにならないだろうか。

社員も顧客もすべてが自分の家族だと定義して、もう一度しっかりと自分の役割が一体何なのかをよく考えないといけない。そしてどう自分が在ることがもっとも皆を幸せにするのかを願い、それを真摯に怠らず丁寧に実践していくことが本来の精進であるし日々の仕事であるのだと私は思う。

わが身を顧みると私自身もついここまでやっているのだからや、自分がやっている影響のことばかりに目を奪われることが在る。そんな時こそ、本来の在るべき姿を謙虚に受け止め、大切にしていくものを優先するような思いやりをもった人であり続けたい。

常に神聖な境内を預かる身として自らを慎み、日々を浄化し、水のように澄んだ心ですべてを包みこみ、天然一体となった無窮のかんながらの人でありたいと願う。省みるとあまりにもまだまだ未熟だけれどもその今の自分の弱さを受け容れ、本当に大事なものを守れる強さを持てるように現状に決して満足しないような謙虚な実践を積み上げていきたいと思う。

感謝