循環の営み

身土不二という言葉は元々は仏教用語で「身」と、「土」は切り離せないという意味になる。それを玄米無双原理を提唱した、石塚左玄が同じく食養に活かし、その土地で取れたものがもっとも身体に合ったものであるとし、今では地産地消などもその原理で語られることもある。

私はある時を境に、玄米食に換え主食というものを軸に自分を正すというような正食法を自らで試しながら取り組んでいる。それにできるなら、その土地のものを食べるという生活の一部としての食を全うしようとも心がけている。

そもそも今のような時代は、複合汚染から口から様々な化学物質や自らの身体に不適合なものを日々に摂取するような環境がある。人間は食も外食産業が盛んな中で単なる欲望から食べるのと、日々の営みとしての生活のために食べるのとでは「食」ということの定義が異なってもいる。

私たちは大いなる地球の循環の一部として生活を営んでいる。

これは別に普通に通勤し給料が貰えることで衣食住が足りるというものは本筋の営みや循環であるはずがない。それはあくまで人間社会で架空に切り取られた一部の人間側の循環であり、ごみ問題も、差別の問題も、多々様々に循環しない不合理なものをさも循環のように見えるように刷り込んだだけで本来あるべき営みというものが無視されているのである。

元来の私たちの生きる上で必要なすべては、地球の営み、その循環の上に成り立っている。

地球上のありとあらゆる植物も動物も、そして菌類や様々な生命は食物連鎖という偉大な循環の中で調和し生きている。

もともとの全ての命には一切の無駄がなく、その生も死も地球の必然の中で正しく循環することでそれぞれの使命を全うしそしてまた次の循環の一部として存在を維持してきたものだ。

それが人間が人工的に地球の営みを破壊し、食を通して生も死も人間都合で扱われたことで循環が乱れ、地球の営みが狂ってきたことで起きる問題の対応をまた科学に依存し処理するという繰り返しの中で遂に行き着いてきているのが今の状況であるのだろうとも思う。

本来おかしなことを人間がしなければ自然に必要な分だけ手に入り世の中に不必要と思われることなどもない循環があったものだ。

人間に役立つ能力があると評価され、人間に役立たなければ要らないものだと自分勝手に人間により裁かれ身勝手に処理されていくなかで心の中の循環まで破壊されるもの。

私たちはこれからのことを真摯に考えなければならない時機が迫ってきている、食糧難とはなんであるのか、それを見つめていかなければならない。

もはや循環しない世界では、迫りくる末路、その生命の危機に人間も過去の負の遺産の先送りという間違いを隠しきれないところまできているのだ。

如何に地球の循環に溶け込み生きていくのか、それは人間が助け合って協力してみんなで営みを大切に生きていくことであろうとも思う。そしてそれはもともと循環の中で生きていこうと勇気を持って決意することである。

無駄なものなどはない、人々の叡智を結集すれば食事もそうだし営みもきっと満ち足りた中で穏やかに生きていけるものだ。自然の大いなる循環にあわせるための科学であれば必要であろうけれど、人間の大いなる野望のための科学であればそれは使い方が間違っているのだ。

循環の中で生きる人だけが、万物の霊長としての使命を果たせるもの。道具が使えるのならばなおさら、周囲の小さな無限の生きものたちに思いやりを持ちながら生きていこうとするのは私たちが末永く生きていく道でもあるのであろうとも思う。

助け合い、分け合い、思いやりの社会を築き生きていくことは、大宇宙の循環の中で心身一如に生きる事。

子どもたちにもそういった自然に溶け込み循環の流れに沿うような生き方を示していければと思う。一円観で融合させ、新たな境地を切り開いてみせます。

摩訶不思議生命源泉力

全ての生命は生きていく力、生き抜く力、それはまるで生命エネルギーというものを持っていてどんなに過酷な環境の中でも逞しく生きてきた。

多くの困難を力に換えてもはやここまでかという状態でも諦めずに何度も何度も立ち上がってきた、そして乗り越えた。

その乗り越えた姿が今の私たちである。

希望だけを見つめて、日々を積み上げ、長い年月を耐え忍び信じる心を見失わなかった。

そしてまた目覚めてそしてまた生き抜いた。

いのちのバトンはその諦めない心が繋いだ襷に込められた魂の力、その極を常に移動し何度も何度も甦ってきた。七転び八起きと乗り越える度に、私たちは螺旋のようなエネルギーを発しながらさらなる高みへと貫いてきた。

偉大な自然界は、その全宇宙から地球にいたるまですべてに平等にまったく同じ偉大な生命力を私たちにも与えてくださっている。

私たち大和の民、私たち日本人は世界を易える役割がある。

このような時代に生まれた私たちが立ち返るべきところはどこであるか。

私たちの国歌としても詠われているかの古今和歌集の一文に下記がある。

「わが君は千代に八千代に細(さざ)れ石の巌となりて苔のむすまで」

直訳すると「私の敬愛する人よ、千年も八千年も、小さな石が巨岩となって、さらにその表面を苔が覆うようになるまでの永い歳月を、どうか息災でいて下さい」という意味になっている。

「さざれ石」というものがある。

これはもともと小さな石の意味だけれど、科学的には長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによって1つの大きな岩の塊に変化したものである。

昔からさざれ石には神霊が宿る石と言われて神社などではよく見かけるものだ。小さな石はまるでただの砂利である、しかしそれが長い年月、積み重ねてきた様々な出来事を耐え忍び巌となるというものの象徴でもある。これは神社の大樹でもそう、苔むすほどに長い年月風雪に耐えて生きている力に何度も私たちは勇気づけられてきたのだ。

私たちは昔から、耐える事、忍ぶこと、つまり積極的に待つことを美徳に常に生活の中で心に太陽を抱き、神と道、かんながらの存在を信じて乗り越えてきた神話の民族なのである。

未来に決して希望を見失わず、日々に目覚めて起き上がり、また立ち向かい、そして乗り越える。

千年後も、万年後も、億万年後も時が続く限り、、これが命の源泉である。

子ども達には、何よりもそういう摩訶不思議な生命力の源泉を知覚してほしいと思う。日々、生きていることに心を傾けて信じるということの素晴らしさ、美しさを身近な自然の植物や昆虫、動物や大気、火山や星々など全てのものから学び掴んでほしいと心から願う。

私の人生の持ち時間で一体どこまでのことができるのか。

何を遺していけるのか、負の遺産ではなく本物の遺産を遺して譲ってあげたいと祈る。

これもあの摩訶不思議な存在にすべてに委ねて今に全てを懸けて生きてみようと思う。

志は大空の下、ますます逞しくまた嫋やかに咲く花々のようである。

冒険はまだまだ続く、愉快な旅の一ページ。

和の大切さ

言葉は語られる人によってその人に多大な影響を与えるものであると思う。自分では気づいていることでもそれを他人から言われなければ気づかないこともある。

気づくということは、体験を交わし合うことであり、互いにその体験を共感し受容するということである。人が自立するためにも社会の中でこのような相互受容の環境を用意されていることは人間にとって大切なことであると思う。

しかし人は身勝手なもので、ある人からの言葉は聴き入れることができ、またはある人からの言葉は聴き入れることができない人があるものだ。

性質が素直な人であれば、我以外皆わが師ではないけれど誰の言うことでも正直に受け取ることができるし、逆に性質が偏屈や意固地、頑固で捻くれた人であれば誰がどんなに何を言っても一向に受け取らないものである。

この世の自然界の慈愛は平等であるからして、常に正直で素直であるものには安心とともに優しく感じられ、そうではないものには不安とともに厳しく感じるもの。

生き方というものは選べるのに、それに気づかない人は多いものである。

人生の中で師という絶対的に何を言われても聴き入れる人を持つことはとても大切なことでそういう信頼でき、尊敬できる人を一人は持つということは人生で迷いをなくし自分らしく生きていくためには大切なことであろうとも私は思う。

以前、メンターというものを得たいと相談をされたことがあるけれど、そうであれば素直になることだと何度も諭したことがある。しかしその人は結局最後まで素直に心を開かずメンターが身近にいることもわからないようであった。

そういう人は善い習慣を身に着ける事であり、素直の習慣付けは「我以外皆わが師」に勝るものはないと私は思う。

人の言うことをそのままに受け容れることができる人は、自分のことや相手のことをありのままそのままに受け容れることができる人でもある。

この受け容れるの正しい定義は全部丸ごと受け容れることを受け容れるということなのに、自分の都合の悪いところは受け容れず、自分の都合の良いように一部だけ切り取って受け容れましたというのでは本当の意味で全部丸ごと受け容れたということではない。

正しく受け容れるというのは、素直にありのままにすべて聴き入れますということである。

人はつい保身から自分を守ろうとして最初からどうしても相手のいうことを素直に丸ごと聴こうとはせず、最後は何とか自分なりの解釈に落とし込もうと躍起になる人もいる。

親身になって相手を思いやる人がいくら周囲にたくさんいたとしても本人がそういう素直な心がけがなければ人との和を大切にすることはできなくなる。

和の大切さとは、人が人を信じる事である、そして正しく明るく柔かく心を清らかでいることで存在を丸ごと受け容れてくれる人と受け容れられた人で深いご縁を結び同行しつつ共生協力してそれぞれの道を豊かに歩んでいけるものであると私は思う。

ここでの和の実践とは相手のことを丸ごと信じる事が自分でできてはじめて、自分のことを丸ごと信じてもらう実践のことである。その人の存在を丸ごと受け容れたところで語り合い助け合うことこそが和なのである。

それをまず自分からできてはじめて素直に和を大切に生きる事なのである。

今の時代は、ずるがしこい都市化された経済社会の中でどうしても傷を持ち自らで癒せず刷り込みに苦しんでいる人たちがたくさんいる。こんな悪循環を正そうと、世の中の人たちを救うべく一人一人の苦しみを取り除こうと精進されている人がいる。

これも仏縁というものかもしれない。

今回の素晴らしい出逢いの中でも、自らの道の定めた真言の意味を悟る。
仏法に帰依するということは、現実の言霊に生きることである。

縁尋機妙 多逢聖因、人生はやっぱり不思議なことばかり。

子どもたちのためにも一期一会の念と感謝とともにさらなる精進の機会にしていきたい。

天換

陰極まれば陽になり、陽極まれば陰になるという言葉が易経にある。

天は一糸乱れず伸縮自在に、同円の縁をなぞりながら陰陽の調和のままに往来を繰り返しているものだと私は感じている。

天には気があり、天には機がある。

天地自然に溶け込み、自らの生命を主体としてかんじながら道を歩めば次第にその意図は示されていることに気づけるもの。

どんな宗教者であれ、どんなビジネスマンであれ、その心が正直に研ぎ澄まされ、素直な感性を磨いていけばある一定のレベルの直観は得ることができるのだとも思う。

今の時代は、どこまでも利権や保守の力が台頭し貨幣経済の架空の流行により行き着くところまでに入り込んでいる。責任を他に押し付け、ありもしないものを存在しているように見せかけ、気が付けばだれもどうにもできない所まで来ているものが極まってきていて転換する時機が顕われているようにも思う。

物質的文明を優先してくれば、本となる心や命というものが次第に忙殺されていくものでありそうなれば今のようにお金さえあれば経済さえ保障されていれば安全で安心なのだと勘違いし、一部の保身や利権の人たちにより本来の在るべき姿が隠蔽され気が付けば完全に刷り込まれてしまっているものである。

このままであれば必ず人類は大きな試練を迎える時機を迎え必ずそのツケがまわってくるのは誰にでも予測できるものである。

今の社会の歪んだ閉塞感は、本来の地球の共生原理原則から離れて久しいことで深刻な諦め感がでていて何も誰も変えられないという気持ちがあることは周知のこと。

これが天の転換により変わろうとするのは地球の創造の力でもある。
そうやって天地の狭間にいる私たちは幾度もの天換を経て今まで生きてきた。

偉大なる信頼を基盤に、素直で正直に慎まやかに謙虚で生きているものがその天の運行に溶け込み真の生命を維持していることも自然界を感じれば一目瞭然であろうとも思う。

自然界の王道にあるように、常にそういう正しい心構えで生きていなければ必ず生命は滅びるのである。

私は脚下の理念、子ども第一主義を貫くためにこの今にある陰陽の極まりの中でどうあるべきかということを決断しなければならない。

今までのような陽に偏っていた時代の中でのものから陰に天換されていく節目に出逢っている、このために生まれてきたのではないかとも使命を感じる。

天変地異は、私のかんながらの道の上にある自然の命そのものである。

子ども達には未来があり希望がある。
その子どもたちを守っていくのが私たちの使命である。

どうか深い祈りの中で一つでも一人でも多くのあるがままの心を開いていきたい。

人生の仕事

仕事では責任を自らで持とうする人と一向に責任を自らで持とうとしない人に大きく分かれている。また他人から与えられた時にその責任をポジティブに考えている人と、ネガティブに考えている人がいる。

誰かにいつも決めてもらえるような教育や今の時代のような誤った個人主義の社会環境が影響を与えているのであろうとも思う。

自分だけでやらないといけないというのと、皆と一緒に自分がやらなくてはいけないのではその心の在り方も異なってくる。

自分だけでやりたくないからとあまり何もしないことが責任を回避できると思っている人たちもいる。

しかし仕事でも何でも、皆の中で自らの結果に責任を負おうとはせずやっただけで誰か任せというのでは皆に必要とされ求められた価値やその大切な任務を遂行することはできはしない。

何かの組織に存在するということは、当然そこで自分が何かの業務を任されているということである。ただ何となくやっていればいれるはずはなく、自分が何を自らで責任を果たすかということを理解しているかどうかによる。

そしてその結果というもので任務を如何に効果的に正しく遂行したかが自他に明確になり、自らがどのような価値を生んでいるのかを自覚するができる。

自己評価するにも、その責任が何なのかを理解しなければ価値も評することもできないものだ。

会社の事業でも、社会やお客様により評価された結果が利益や契約数で明確になるように、社員も社長も誰しも期待されていることに対してどのような責任を果たしているかでその評価は自然に得られるものである。

しかし責任を果たさず、曖昧にしていつまでも責任回避をし自分が負わず現実から逃げるようなことをすれば反省ばかりするわりに何も組織に貢献できないようなことになってしまうことがある。

今の政治などもそうだけれど、責任の意味をはき違えているように思う。反省ばかりするけれど、どのような結果責任を果たすかは一向に述べようともしない、やっていますやっていますと頑張っていることを伝えてもどうしようもないのである。

人間はせめて自分の行動に責任を持てないのでは納得する仕事もできはしないし、そんなことをいつまでも続けていたら自分の価値は下がっていく一方である。

本来、自分の価値を確かめるのは自分なのであるからしてその結果責任というものは任務を遂行するうえで大切なモノサシになる。

どれだけ期待に応えられたか、どれだけ期待以上の成果を出したかということに自分自身が徹底的にこだわらなければ自分で納得することもできない、それはただの自己満足である。

どのような結果に応えることが任務を確実に遂行することになるのを先に確認し、それをスケジュールや納期に代え、そのテーマや本質、今後の展開など、ありとあらゆるものを前もって明瞭に自得しつつその結果責任を自らで納得をし正しく負うことが大事なのであると私は思う。

結果だけという意味ではなく、その結果責任というものにこだわることは現実を受け容れ正しい努力を行い、自分に責任を持って生きる事である。

自分から主体的に結果に対してシビアになることはとても大切でそれがあるから結果以上にそのプロセスを大切にできるのである。そしてプロセスである理念やこだわりに対して責任を持てる人とは自分の人生を自分で決め、そのことに責任を負い、同じように理念やこだわりにも責任を負うことを誇りにすらしているものである。

いつまでも何も決めず、責任を負わない生き方をしていたら迷惑をより周囲へかけてしまうもの。仕事とはライフワークである、つまりその人にしかできないことを一生をかけて行うことに責任を持つことである。

それがライフワーク(人生の仕事)であり、自分でしかできないことである。

そういうことを子ども心に持てるように、今の大人は自分の生き方に問いを持たなければならないと思う。本当に自分はこの道で生きていくのか、そしてそれを人生の仕事にするのか、結果に対して納得するほどに責任を持つのかということが大切であると改めて思う。

自分にしかできない仕事とは、自分の一生涯懸けて取り組む人生のテーマでありライフワークである。これからも納得して働けるような職場環境をカグヤでは子どもを見守ることとつなげて実践していこうと思う。

社会的責任と本質

企業の社会的責任としてCSRを取り入れている企業は増えている。

環境に対して配慮していくことは、持続可能な社会を維持するためにも必要なことであり企業は社会のために存在するのだから当然、競争ばかりで自分ばかりを優先するのではなく周囲を豊かにしていくために循環するように務めることは必須課題でもある。

現在、何かをはじめようとするとそれはすぐに法令のようにしようとするけれど本来、商売は物々交換からはじまりそれから人の顔という信頼を通じてお金という信用取引があったものが、今のような顔も見えないビジネスに変化してきたことも起因する。

ここでの顔の見えないビジネスというのは、グローバリゼーションという世界戦略の中で流通するエゴやサービスに傾倒しすぎているようなものであると私は思う。

今でも田舎にいけば、昔からの生活を維持しているお年寄りもいる。

それは農業、漁業であったり、自分たちだけでも食べていければいいというものであり「生きていくこと」に意識を置いて繰り返しやっていけることを大切にしている。

しかし今では、農業も大規模である必要があり、漁業も大漁に得なければお金にならないから生きてはいけないという風に、生活するためにはもっと稼がなければという原理が働きさらに競争からスピードが増したことで様々な異文化や価値観が折衝し勝ち組負け組など市場はさらに競争を深めていく。

国民の営利のためなら何をしてもいいと植民地的な発想で金融全体を走らせるような考え方が、弱い立場の人権を侵害したり環境持続不可能な社会へと悪循環を巻き起こしているようにも見える。

企業自体がそういうことをやめなければということで企業に倫理観をということでもCSRを用いたのだろうけれど、実際は自己満足のものが多く見られ正しくなっていく例は少ないようにも思う。

以前から私は両立するには本質であること、つまり「本物」を行うことの大切さをずっと考え抜いてきた。

それは善いことを行うことで善く稼ぐということであり、それは三方にも善い仕事が皆に善いお金を循環するということであり、これを言い換えれば経済と道徳の一致、つまりは本質本業こそが正しい仕事であると言い切れるような善い循環を生むビジネスを行うことであると確信してやっている。

環境と言えば、巷では自分たちの一部だけで偏ったものを本物のエコやロハスやスローだといい、もしくは何かよほどの大きな寄付をして社会奉仕したなどと広い範囲でやったから貢献しているなどというけれどそれがCSRの本質だとは私は思えない。

企業の社会的責任とは、人間の道として社会が永続し善い循環を続けていくためにそれぞれが自らの本業の質を高め道徳に根ざしつつ日々を正していくことであると私は思う。

教育や福祉もしかり、金融や流通などもしかり、どんな職業であれ差別せずに自分の中で思いやりを循環させるような働きかけを続けることで、社会的責任を果たし、全ての生命が共存共栄する地球の資源を皆で大切に平和利用していくことになっていくものだ。

サスティナブルであるとは、循環していく社会のままであること。

その循環とは自然界と同じく、皆で偉大な恩恵を謙虚に分度を弁え感謝で享受していける社会のことであると私は思う。

これからの時代は、きっと社会に必要とされなければ生き残ることはできない。昔から普遍的に守られてきた価値観こそが最先端の価値観になっていく時代に入ったと思っている。

見た目や目先の損得ではなく、循環できるような会社であることを理念に掲げ、不動の覚悟で取り組めるかどうかによるもののように思う。それは別に古臭くなればいい、何か聖人君子になればいいというのではなく、本質を究めていくことであると思う。

これからが本格的な刷り込みの取れる社会がやってくる、付け焼刃のものではなく企業が社会的責任を果たせるかどうか、すべてがひっくり返るような経済社会の先をいけるように精進していきたいと思います。

天の営みと準備

人は問題意識と危機感があるかないかで人生が大きく左右されている。

リーダーシップもそうだけれど、如何に日頃からの営みに余念なく過ごしているかが有事にはっきりと顕われるもの。それは常に出来事に対して準備をしているかどうかによるものだと思う。

準備していない人は、日頃の危機意識が低いため準備を怠るから起きてからしか考えることができないのである。意志薄弱なため、危機に日頃から備える胆力も継続するための念力も弱いため、事前に計画を立てることもできないし、その時になってみないとまたは追い込まれないと何もしようとはしない。

つまりこれは準備を怠っているのであり、準備不足のため結局はその場しのぎで乗り切るわけだからあまりその後の力にもならなければたいした成長もない。運や不運で後は言い訳するのがオチなのだから、自分の逃げ癖を変えることもできず習慣を味方にもできず結局はだらしない自分に気づくだけでまた次なる危険に晒されるように人生を送ることになる。

これとは異なり、準備している人は日頃の問題意識も危機感も高く有事に備えているため起きる前にすべての手を打っているものである。油断大敵だと自戒し常に謙虚に物事を捉え、日頃から事前に計画を立てるために余念がない。強烈な意志の力で地味に持続し継続をしているからその時でも追い込まれるようなこともない。

つまりこれは準備に余念がないのであり、どんなことがあってもそれを自分の体験や経験として検証をしさらなる順応力を磨き環境に依存せず溶け込むように常に最善を尽くすように今を大切に過ごしている。運不運もなく、全ての物事を学びとするのだから習慣を味方にし、より自立したリーダーとして人々を守りつつ正しく安全に導くことができるようになる。

常に準備を怠らないとは、心配をすることでもある。

中国の菜根譚に下記がある。

「天の機緘は測られず。抑えて伸べ、伸べては抑え、皆是れ英雄を播弄し、豪傑を顛倒する処なり。君子は只だ是れ、逆に来たれば順に受け、安きに居りて危きを思うのみ。天も亦其の伎倆を用うる所無し。 」

これは私の意訳になるけれど、「天の精密な細工や仕掛けは予測できないものである。まるで押したり引いたりと、千差万別である。これが英雄を翻弄し豪傑をも転倒させるものだ。君子やリーダーは、そういうものに対して逆境であればこそ順境であるように受容し、安全安心である中においても常に危機意識で過ごしているものである。天もこのようなすぐれた準備の持ち主には何も影響を及ぼすことはない。」と思っている。

つまり簡単に言えば、日頃から有事に備えておくのは自然の叡智を活かすことでもある。何かがあればまるで音楽のようにその音の強弱や微細な旋律に心から耳を傾けていく素直な心で応じていくようにすることである。

天を敬い生活を謙虚にしていれば、人は粛々と備えていくものである。

ついこれが準備不足でもいくつかの危機を乗り切れた体験を通じて傲慢な自信から、過信をし自己満足に陥り、何か危機を乗り切る興奮状態こそがリーダーシップのように勘違いしている人もいるけれどそれは本末転倒である。

実際は、大切な人たちの思いや生活を預かるのがリーダーの務めなのだから当然日頃からの営みに準備を怠らず最善を尽くすために前もって取り組み続けていることである。

何かがあってからでは遅いし、何かがある前だと早すぎることもある。

ちゃんと準備するというのは、天の営みに溶け込むように生活をしていくことであると私は思う。子ども達には、日々に生きる力を発揮し、意思を貫き継続する大切さを実践し、常に備えあれば憂いなしの営みを示していきたい。

自立した大人の姿によって、これからの大変な時代を見守る力にしていきたい。

情報リテラシー10

今のような情報技術が進むと、様々なことを操作していくことができるもの。

いつの時代も最先端の道具を使うのは、使い手がどう使うかで変わってくるというのは変わらない。

いくら才能を磨き、突出した能力を得たとしてもそれを一体何にどう使うのかということが問題であり、それを正しく活かせるかどうかというのは人間の倫理道徳によるものであると思う。

鋭利な刃物を創る技術があったとしても、それを使う人間によってそれはどうにでも使えるもの。人間が成熟していないのに大変高度な道具を与えてしまえば間違ったことに遣ってしまうというのはよくあることであると思う。

以前、何かの映画でも似たようなものがあったけれど、力に魅せられ力に翻弄され力に支配されるという物語はいくらでも周囲に転がっている話である。

あくまでツールや道具というものは、使う側がバージョンアップしていくことでそれ相応の道具にしていくことが正しいことなのであると思う。使う側ありきで道具ははじめて世の中に有益なものになるということである。

私たちの扱う見守るほいくソフトも同じく、いくら最高のものを作ったとしてもそれが人間の持っている最善の叡智を引き出さなかったり、人間の持ちうる道徳倫理の心に訴えかけないものであればいくらでもその道具をエゴに使われてしまうものになる。

どれくらい現場の人たちのことを心配し思いやり、如何に刷り込みに気づかせ本来の根本的な課題に立ち返る機会を創出するかということがこのソフトでは大切になっているからだ。

人はつい簡単便利なものを欲しがり、それを自己満足で使おうとして道具に支配されてしまっているものもいる。パソコンでもそうだし、情報でもそう、使い方を見ていれば使い手の思想がどれくらい成熟しているかがわかるものなのだと思う。

情報リテラシーで考えてみると、今のような情報過多の時代はどれだけ情報をたくさん出せばいいかではなく、どれだけ本物の情報を発し続けるかということに意義がある。

人はよく分からない誇張された情報を与えられたり、偽物の情報で塗り固められたりする中で見た目ばかりから判断するようになってしまってきた。本来、正しい情報は見た目ではわからず、心の眼のような深い目を開いて洞察したり観察することで得ていたものである。

今の時代は、派手で見た目のよいものばかりに移り目になり右往左往していて盲目になりつつある。だからこそ、地味でも「本物」の情報を得られるようにすることと本物の情報を発し続けることでシンプルに削り磨き上げシンプルにしていくことが大切であるのだ。

それは一つに絞り込まれたものを実践を介して表現することであったり、大きな柱が立ち上がるようにいつも成果を一つの場所に集約したものを表現していくようなものである。

例えば、それがこだわりであり理念であったりするものを真摯に地味に発信し続けることで常に温故知新に上書きしていくようなものである。

変えていくものと変わらないものとを正しく発するには、正直な実践と誠実な態度と継続する信念が必要であるのだと思う。

情報リテラシーは、操作できるように勘違いしているようだけれどもそんなインチキな技術は所詮浮雲のように霧散するものである。

いつまでも語り継がれるような偉大な情報とは心の中を通じで残り譲られていくものである。

この仕事の奥の深さは、そういう情報に接する側の心構えにこそある。
これからも社業を通して本物のITを究めていこうと思う。

甦る力

復興ということを考えてみる。

明々としていては本当の明るさがわからないように時には暗さというものがあるから真の明るさや真の暗さを知ることができるもの。

私たちは明々とした人工的なネオンの中で、夜も朝のように日々暮らしているから本当の輝きというものを見失っているものだ。そういう当たり前のことに気づく感性もどこかに置き忘れ、目くらましにあって居場所を取り戻せない中であるときを境に急に真っ暗になることもあるものだ。

眼でばかり情報も物事を追っていたら次第に大事なことを捉えることができなくなる。だからこそ時には、暗い夜道に感性を高め夜空を見上げたら遠くに見える無数の星々に心を傾けることも大切なことになる。

そうすれば希望とともに朝はまたやってくるもの。

復興とは、自然界が陰陽循環するように陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる両極を行き来する中で新生を繰り返すようなものであると私は思う。

自然の中で生きていれば光と闇が新たに繰り返されることは当然のことだ。

あの植物たちも、様々な環境の変化の中で壊しては造り、また造っては壊すという風にたくましくしなやかに運命を受け容れて生きているもの。

この世には、常に変化という破壊と創造がありどちらも偉大なるいのちの輝きであろうとも思う。

私たちは生を通じて明暗の中にある真の光を見出すことができれば、その光に抱かれた自然界の見守りを実感して更なる生きる力を発揮していくものだと思う。

先日、師からもこれからは如何に立ち直る力を子どもたちが育んでいけるか、それは見守りと子ども集団の中でこそ存在することだと仰っていた。

私が社会を洞察すれば、孤立、孤別、孤人という間違った孤人主義が蔓延し、自分ひとりでも容易に生きていけるのだと勘違いしてそれを自立したことだと思っている人たちが増えてきているように思う。極端に言えば、お金があれば何とでもなるとさえ思っている人もいる。

本当の自立とは、大自然との共生やいのちとの繋がりの中で活かし生かされる中で営まれていくものであると私は思う。

生きものを大切に思いやることやいのちを大事にすることなどは自然への畏敬であり私たちは見守りの中にいることを決して忘れてしまってはいけないのだ。

だからこそ、何よりも大切なのはこれから私たち人間がどのようにみんなが協力して新しく生まれ変わり甦ることかということが復興への気づきの本質であるべきなのだと思う。

今から時代は深い闇の中に入っていくのであろうと思う。

だからこそ、これからはもっと協力や友愛の心、チームワークや助け合いという人との繋がりを重んじることこそが世直しになるのであろうとも思う。

光と闇の中で、私たちは生きる意味を掴んでいくもの。すべての物事を天の恩恵だと丸ごと受け容れ、本来のあるべき姿を体現していきたい。

子ども達には、大自然に心を委ねる感性の重要性を示すため自らが自然人としてさらなる精進を歩んでいきたい。社業の方針はより明確に定まってきている。

感謝

刷り込みと現実

今回の震災後の原発危機から色々と思うことがある。

一連の経過をよく観察していたら、事故対応後、その人格が見えるもの。

以前私も交通事故があったけれど、事故当時の様子とその後の対応を経過で観ればその人が何を大事にしているのか何を優先しているのかはよく分かる。

特に保身などに走ると、誠意のつじつまがあわなくなるので真実が明確になっていく。

ここで本当に反省するかどうかがこれからの未来を左右するのに、これで気づけなければ必ず将来により深く大きくなって同じようなことが起きる。

因果応報ではないけれど、この世の原理原則は、逃げても必ず追ってくるように避けられず法則に沿うように天が反省を促してくださっているのだからそれに謙虚に気づき受け容れ改善することが人の道であるはずだ。

今回のことで刷り込みに気づき、現実がはっきりしたものがある。

人間は歴史から学ばないというのは、刷り込みに刷り込みを上書きに塗り込み、常に現実というものを分からないように自分たちの都合よく誤魔化して生きるからであろう。

今回の件で足元や目先で言えば、原発は安全ではないし、東電は優良企業などではない、政府は見せかけであり、国民の生活は守られない、報道は本当のことは伝えず、識者は御用学者であった、、等々いくらでも出てくる。

今までは誰しも疑いはするもののきっとそうではないと思っていたことが、今回のことを機によりはっきりと現実がどういうものかを認識する善い機会になっただけである。

こういうことは一部の人には問題であっても自分や全体の問題にしない、弱い立場の女性や子どもなどはではどうなるのか、こんな社会を善い社会だという人は本当は誰もいない。

利権や保身は常に信じてくれている優しく弱いものを犠牲にする。

また扇動やデマ、風評被害などもよく観察すればそれは単に不安や恐怖から現実を受け容れる胆力が本人にないだけあり、本当のことを考え知るのが単に怖いだけである。風評被害とは本当のことを言わない人と、本当のことを知りたくない人が一緒になって行うパニックのことである。

人間は冷静になって話を伝えればパニックなどは起こさない、現実を知った人間の大多数は最後は自ずから倫理道徳に沿って判断するものであろうとも思う、それは過去が証明しているからだ。

これから本当のことを知るには、同じような体験をした人の話を聴くのがいい。
それはデマではない、現場で起きたことである。
常に答えは現場に存在するものであり、現場には事例が異なっても嘘がない。

そういう話を聴いてまさか自分に限ってはと人は自分を守ろうと思うのだろうけれど、誰にも等しく原理原則に従ってほぼ同じようなことになっていくもの、きっとその差はただの運である。

最悪の事態に備えることは繊細になってストレスを溜めこむことではない。現実を把握し、どう自らで判断するのかを納得し自ら決断をすることである。

希望としては子ども達には、自分で考えて判断し行動する力を持てるように見守るを広げ危険回避力を身に着けるような環境を用意できればと願う。

いつの時代も、本当のことを受け容れる心の強さとそれをゆるし新しいものを創造していく優しさを持てる人物が時代を超えて人間を導いていくことを忘れてはいけない。

どんなに悲しいことがあったとしても、すべての機会を学びにしていくことを通じて私は子ども第一主義を貫いていきたい。

明日への希望は、これからの自分の生き方が決める。