実践

こういうブログもそうだけれど、何かを書きだすということはそれを実践していることが前提になっている。しかし、書いているうちに分かった気になっていてはそれは正しく実践しているというわけではない。

本を書いたり、文章を書くというのは、自分ができてもいないのに理屈や分析でもある程度は書けてしまうもの。しかもそういう真理や気づきは、その瞬間で止めるわけではなく一生涯継続するものだからこそ悟ることが目的になってはならず、それを天地自然にどう活かし還元し尽くせるかという自分の使命を遣い切るという気概が必要であると私は思っている。

しかし、他人の評価にやられてしまい真理をさも知ってしまっていると傲慢になり、至誠や真心、思いやりがすり替わり、次第に自分の現場から離れてしまい周囲に迷惑をかけてしまう人がいる。これは怖いことである。

だからこそ現場人は、覚悟を決めた場所と一生自分の現場を持つものだ。

そこで正しい自分の分度を見極めて、その分度外はその他の人に任す。そして一つの道で分度の器を深め広げていくことで自分の身近な周囲と活かしあいながら世界で協力したり世の中を感化したりするものだと思う。

何だか今は新しいベンチャー企業などは勇猛果敢に挑戦せよといきり立つけれど別に慎重か挑戦かというものを比べることは変なことで、結局はやっていることが本質的であれば常に慎重に且つ果敢に挑戦しているともいえるものだ。

本質的でやれるかどうかは大変難しい、特にこのような時代は刷り込みとの闘い、つまりは自分自身との闘いがすべてになっている。だからこそ、常に矛盾と対峙し根源を見定め、自分の意志で自分を正しい方向へと導く芯の強さと柔軟性がなければ内外の環境で命を発揮できることはない。

そうした中で真摯に懸命に理念に取り組むことで、徳を積み上げていくことであると私は思う。

徳を積むというのは、周りからそう思われるために無理をすることでも、周りに思わせることで何かを言わせることでもない。今の人たちは、何かと周りの評価を気にしすぎて自分というものを次第に見失っている傾向がある。

自分がそうしたいと思ったからやっただけということが大切で、正直に自分の思いやりを実践することが徳を積むことに繋がっているものだ。

自然の姿ではなく、無理をして自分を殺して相手にあわせていけばそのうちにボロが出てより何もできなくなっていく。そうしているうちに人間関係に不可欠な信頼関係は創造することも維持することもできなくなるものだ。

自分から素直になって行動することを恐れて、他人の評価を気にすることは自分の実践を自分で遠ざけることにもなるものだ。

自分を管理することができてはじめて管理者であり、自分を修めることができてはじめて修まったと言えるのである。結局は、最大単位の世界での出来事も最小単位の自分の周囲の出来事とイコールなのであるから、世の中を易えようと働きかけるならまずは自分が正しくいることに限るということであるのだろうと思う。

ただし禍福は一円、吉凶もまた一円、他人がいくら良いや悪いなど評価があってもそれは本当の意味でどうなのかは時間に語らせればいい。ようはどれだけ信念を持って正しいことを遣り続けられるかの闘いということだ。

子ども達には、自分の決めた道を自分で歩むことを実践することだとし、自分の道を歩むからこそ他人の道を見守れるのだと謙虚に取り組むことを示していきたい。

好事魔多しではないけれど、実践ができている気がするときこそ最大の危機感を持って注意して薄氷の上を歩くように粛々と取り組んでいきたい。