法螺貝の場

昨日は、糸島にある暁の城で法螺貝講習会の場をつくってくれました。この暁の城は、日本の和の文化を伝承し、未来へと結ぶための活動をしています。達磨をはじめ、提灯も温故知新され美しいアートとしての側面を活かして展開されていました。黒を基調に統一されたデザインに世界観を感じます。自分たちがイメージしているものを自分の手でつくりこんでいく中に思いが入っていて落ち着く場ができていました。

考えてみると、私もものづくりや場づくりに没頭するタイプです。氣がつくて何時間、何日経ったかわからないほどにイメージの中に入り込みます。古民家甦生なども大事な局面においては寝ても覚めても同じことしか考えておらず、家と一体になっていきます。

数センチ、あるいは数ミリ、空間そのものを把握認識し、ちょっとしたズレた変化にも敏感になります。家を離れても、何か異変があると身体感覚で変化を感じるほどです。場に佇み、深呼吸して感覚を澄ませると、家の声が聴こえてきます。また空気の流れや光の移り変わり、地面から通ってくる氣や配置されている家具や道具たちの位置からの調和不調和も感じます。鳥瞰的に空間認識をし、あらゆるものを感受していく喜びに没頭します。

法螺貝講習では、法螺貝の歴史から螺旋という法理のこと、身近な健康法から伝統的な活用法、知恵までをお伝えしました。具体的には波動や振動を体験してもらう方が早く、それぞれの心身に吹き込みました。

本当は吹いてもらう体験もしたかったのですが、人数が多いとはそうはいきません。本当に法螺貝とご縁がある方、そして法螺貝に導かれる方と結んでいくことが法螺貝の喜びにもなります。

道具をはじめ場は、出会いやご縁という観えない空間の記憶を結ぶものです。

この先、糸島でどのような法螺貝の場が醸成されるのか、和の系譜を辿る同志たちの発展がとても楽しみです。

徳の循環といのちの螺旋

私たちはすぐにあれもこれもと欲望から足し算になっていくものです。そしてあれが足りない、これが足りないと不足を思います。この不足を思うというの足し算の生き方をしているということです。それを続けていたら、ないものねだりばかりをしてはあるものに氣づくことができません。もはや手に持っていても、持っていないと忘れています。この忘れるという行為は、別のものに意識がいっているからです。

よく足元を見つめよという言葉や、立ち止まって考えろという言葉もあります。これも忘れていたものを思い出すような金言の一つです。

満たされない思いや充たされていないという欲は増大するばかりで減ることはありません。人類はずっとこの欲望の螺旋と向き合ってきました。もっともっとと求めては、まだ足りないといって際限がなく増大させていきます。

この反対に引き算になっていくものもあります。これを捨てるとかあれを捨てるなどいって削っていくのもまた引き算のように思います。しかし本質は、足るを知るということをいい、初心を忘れないということでもあります。

すでにあるものに感謝をしたり、自分にしか与えられていない存在価値に氣づいたり、あるいは周囲のご縁が唯一無二であること、先祖や先人たちの徳が与えられていることなど、すでにいただいているものを思い出す生き方のことです。

私が場づくりで取り組んでいるのは、極端に言えばこの一点だけです。

私は子どもを丸ごと信じるという信条を持ち、25年間、子ども第一義の理念を掲げて子ども心を守り子どもの憧れる大人や未来のために社業と生き方に取り組んできました。

だからこそ子どもに忘れてほしくないことがあり、その周囲の大人にも思い出してほしいことがある。その願いと祈りが今の私の暮らしフルネスや場づくりに投影されています。

この世界は完璧ではなくても完全であるという事実。存在価値そのものが美しく素晴らしいという事実。人間は調和を學び、本来の在り方や生き方を思い出せば平和は身近から宇宙まで広がっていきます。

引き続き、丁寧に日常の暮らしを徳の循環といのちの螺旋と共に思い出していきたいと思います。

小さな実践

暮らしというものは小さな実践の積み重ねで成り立ちます。そして同様に文化も日々の小さな習慣によって根付いていくものです。この根付いていくという考え方こそ、暮らしというものを感得するために必要なことだと思います。

そもそも暮らしと呼ばれている言葉の定義は色々とあります。しかし大別するなら根がある暮らしか、根無しの暮らしかということに分けてもいいかもしれません。

根があるものは当然、そこに土があります。暮らしがあるというのは、そこには場があるということです。根無しということになれば、場がない生活のことです。

本来、土というのは時間をかけて醸成していくものです。セメントの上で植物を育てるのと、土があるところで育てるのでは異なります。その違いは、いのちが循環するか、しないかということでもあります。

いのちが循環するには、土をはじめ水、そして光、風や空気など様々なものが働きます。その中で暮らしを支える最も大切なものは土だと私は直感しています。土台があってこその舞台。土台がなければ舞台もありません。

土台を育てるというのは、人間では人間性を育てることです。いのちの実感をはじめ様々な五感を磨いて、先人が譲ってくださった大切な智慧を伝承して実践を続けていくことです。

小さなことでは、いのり、そしてお手入れ、調和などあらゆるものがあります。その組み合わせをよく場と折り合いをつけながら実践を修養していきます。

それが運命を換え、徳を循環させ、文化を醸成し、人類だけでなく地球を含めたあらゆるものが仕合せと安心でいのちを活性化していき豊かになります。

これは思想ではなく、小さな実践。

小さな実践をすることが場づくりの基本ということです。

引き続き、場を調えて伝承者が育つ環境を調えていきたいと思います。

地域の文化

地域の文化というものを観察すると、その地域に根付いてきた習慣や生き方、人々の暮らしがよく観えてきます。本来、地域で循環をしあらゆるものが地域の単位で調っていたころは地域文化はよく育ちました。そして地域文化が育っている場所では、よく人も育ちました。これは育つということの本質が、よい土壌が調っていることが前提になっているからです。

田んぼでも畑でも土壌がやせ細って硬く生き物もいないようなものになればよく育つことはありません。ではなぜそんなに土壌がやせ細り衰えているのか。これは畑や田んぼならすぐにわかります。目先の収穫をしようとして、農薬や化学肥料を大量に入れては効率優先に取り組むからです。すると、作物は一時的に大量に収穫できても土が弱ってくるから次第によい作物が育たなくなります。そのうち水耕栽培のように、土がなくても育つように遺伝子を組み替えたり色々とその場しのぎの技術で乗り切ります。そのうち何をしても効率がよくないとし、その場所を捨てて別のところに移動していきます。

地域の文化はこれと似ています。育つ環境が失われていくと似たように文化も荒廃していきます。

本来、経済というのは経世済民といい文化づくりの言葉です。文化づくりは地域の徳が循環する中で育つものです。つまりは土づくりは徳を積むことで醸成されていくということです。

これは太古のむかしから、山が平地を潤すように水が流れあらゆる生命を活性化するように徳が循環することで土地や地域は発展を継続してきて今もあります。そういうものを無視して、目先の損得や個々の欲望を最大化させれば土はやせ細り衰えてしまうのです。

ずっと住み続けたい町とは、文化や暮らしが甦生し続けて徳が循環するような場がある町ということだと私は感じます。

近代、時代背景を観るとほとんどこのようなことは言葉の定義も異なり、常識から外れ思想のように言われますがそのうち時間が経過すれば誰しもが現実に向き合う日はやってきます。

世界の潮流や競争、比較、分断などよりも足元の土をよく観てよく味わい直すところから文化づくりは続いていくように思います。引き続き、子孫や未来のためにも丁寧に暮らしを調えて実践を磨いていきたいと思います。

暮らしの夏至祭

一年で最も昼の長さが長くなる2026年6月21日、英彦山守静坊では暮らしの中の夏至祭を行います。夏至は太陽の恵みを最大限に享受する日として、世界各地で独自の祭りや儀式が行われています。例えば神道では半年間の穢れを祓う「夏越の禊」も、夏至の頃に行われる代表的な風習の一つです。太陽と地球の関係性のエネルギーがあり、そして中庸になる一期一会の光で人々は自然への感謝と無病息災を祈ります。

現在、お山の暮らしを甦生していますがお山との関係性を磨いていくとかつての日本人が忘れてはいけない大切な初心や生き方、そして場があることに氣づきます。

現代は、時間に追われ忙しさや無理をして頑張る生活の中で自然感覚が麻痺してしまう人も増えています。この自然感覚とは、暮らしの場が失われているということです。

今回の夏至祭では、自然感覚と仏道を修養された仙人も一緒に参加し、生き方や場づくりを共にしながら先祖供養の大切さや日々の自己内省や環境づくりなども学び合います。

また夏至は陽極陰性ともいいます。陽が極まり陰が産まれる、つまり一陰来復です。冬至が光がやってきて陽に転じるのに対して、夏至は光が陰になっていきます。しかしこれが自然の法理でり、陰もまた好循環の兆しなのです。盛者必衰であり、老化していくのはいのちの循環です。

その大切な節目に、よく内省し養生し今を受け容れて甦生することがいのちを逞しくし健康にしていきます。無病息災を祈り、長寿を祝い、ご先祖様に感謝する大切な暮らしの行事なのです。

日子山仙螺講の方々と、法螺貝を立て、法螺貝を磨き合います。お水と紙やすりで丁寧に手入れします。英彦山の倒木を片付け、場を清め調えて、甦生した石風呂サウナを実践しお山の霊水で禊をします。

また音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

私たちが大切にしているのは、「場づくり」です。人は個人で回復するよりも、場によって人間性は回復します。純度の高い場、そして純度が磨かれ続ける場は、人間の自然感覚を呼び覚まします。

環境や場は、人を見守り続けます。

田徳の場づくり

古民家和楽の前の自然農の田んぼで今年からいよいよ「場の田植え」を行います。場の田植えとは、単にむかしからの田植え体験をするのではなく日本の知恵の結晶でもある「田んぼを活かして元氣が甦生する仕組み」を學び、自分の暮らしへ持ち帰ることができる場づくりを伝承します。

田んぼというのは、不思議な存在です。

二宮尊徳は、田徳といって田んぼは宝の宝庫であるとしました。天地と祖先と人間が共同で育てる場として、無尽蔵の宝が湧き出てくる場としました。それをどう活かすか、甦生させるかは「場づくり」次第なのです。

私は場道家として、この場づくりを伝承するために実践を続けています。

私たちの田んぼ、むかしの五穀田に来て一緒に暮らしの循環の体験の中に入れば本来の自分を取り戻し、時間感覚が自然に還り、あらゆる五感が目覚め幸福を感じます。

忙しく、無理をし、自分を見失いがちな現代の効率優先の社会の中で自然のリズムを味わい、美しい古民家での土間や竈ごはん、そして生き物いっぱいの田んぼに来て関の山から流れてくる自然のお水に手足をつけて自然に育った苗を触れば場徳に心が甦生するものです。

今までは借りた田んぼでお米づくりをしてきました。

それでは長い期間をかけて発酵し醸成するような場づくりができませんでした。いよいよ暮らしフルネスの実践のために田んぼを譲り受け、古民家和楽と懐かしい暮らし、そして美しい棚田の風景と共に一体になった場づくりができるようになりました。

この場所は、ナキ古墳があった場所でいにしえからの暮らしが今も息づいている場所です。

この場所で、一期一会の「田徳の場づくり」をご一緒しぜひ場づくりを自分の居る場所に帰り発展してほしいと願います。

今回は、2026年6月19日から24日までの5日間でお田植祭と田植えを行います。19日は、綱分八幡宮宮司によるご祈祷、24日はお田植と生演奏、法螺貝奉納などもあります。

場づくりを通して忘れかけている真の豊かさを甦生していきたいと思います。

文化の甦生

人間というものは手段と目的がすぐに入れ替わる生き物です。それは生き方がそれだけ影響を与えるということでもあります。どのような生き方をするかというのは、言い換えれば何を根源として理解し何を本質として生きるのか。つまりは何のために産まれ、どう生きるのかという目的を忘れないで日々を生きるということです。

例えば、現代文明を観察すると生きるための手段として経済効率があります。便利さを追求し、消費することで国家を繁栄させていきました。それは多国間の競争に勝つための手段として採用され、日本でも明治以降に数々の経済政策が実行されてきました。

しかしそれはあくまで現代の競争社会の中でどう生きるかの手段の一つであり、本来の何のために生きるかという目的は後回しにされていきます。そのうち目的を思い出す人もほとんどいなくなり、みんなが手段の奴隷のように働き始めます。

人間はよくもわるくも習慣の生き物であり、脳が全自動で処理をして同じことを繰り返すことができます。その時、人は心を忘れ手段に没頭していきます。この状態のことを「忙しい」と言います。

この忙しいの本質は、極端に聞こえるかもしれませんが真奥には目的を忘れて生きているということに他なりません。

初心を忘れないというのは、別の言い方では目的を忘れずにいるということです。

目的を忘れないでいるには、手段に呑み込まれないための仕組みが必要です。例えば、何のために生きるのかということを忘れないというのは、何のために生きるのかという答えを歩む暮らしをしていることが重要です。

それは心が初心を忘れない生活のことです。心は自然の一部としていのちの循環と共に歩みます。これは人類に限らず、すべての微生物から植物、動物まで同じです。自然の循環の中で徳が巡るようにいのちを歩みます。

その状態を保持しているのなら、その人は初心を忘れません。なぜなら感覚や感性、また全体のいのちの一部として生きる目的、役割、存在を感じながらいるからです。その人は忙しくなりません、さらに言えば、時間的な忙しさはあっても、心は亡くしていない状態であるからです。

人類は初心を忘れる時、人ではなくなります。

人間とは関係性の中で存在するいのちの一つですが、それは徳の循環する中にいるときに味わい感じられるものです。

本来の人類の文化や文明が損傷して忘れさられていくのは、目的を忘れ手段をおいかける存在になっている時です。

人間性の回復をすることが、文化の甦生の本質です。

今週は文化についてご縁がありますが、粛々と脚下の実践を通して子どもたちの未来のためにただただ現実を変えていきたいと思います。

天寿の場

氣の流れというものがあります。これは風や水などを観察するとすぐに氣づきます。日々の小さな澱みのところに風や水が流れると清々しくなるものです。氣の流れは循環の流れ、いのちの営みそのものでもあります。

現代の科学では証明できていないものは本当にたくさん存在します。例えば人体の神秘も未だにほとんど解明できていません。脳科学がいくら進んでも、知恵のことはほとんど未解明です。

これは場づくりにも関係があります。

世間一般で言われるような場づくりは、科学的な分野だけで語れます。しかし実際に私が取り組んでいる場づくりは科学では証明できないものばかりです。ただ似た分野はたくさん存在します。

それは気功であったり、中医でいう鍼灸の経脈などであったり、禅であったり、あるいは自然農などの農法であったり親和性が強くあります。

本来、解明できていなくてもそれを日常的に利用したものが「暮らし」でした。人間は日々の暮らしの蓄積で徳を循環させいのちを最大限活かして天寿を全うしてきました。

現代は、天寿の全うよりも目先の欲望や不安の解消にエネルギーを使います。このエネルギーは人工的なものはほとんどで無理ばかりをして経済効率を高めても自然循環は澱むばかりです。

自然循環が澱まないような暮らしを今こそ実践することで、不安が解消され安心していのちを全うしていけるような場が増えていくように思います。

暮らしの甦生で天寿の場を増やしていきたいと思います。

手段と目的~初心の大切さ~

人間は油断をすると手段と目的が入れ替わっていくものです。習慣の動物でもあり、人間の脳はすぐに自動化を進めます。そのうち、何のためやっているのかという目的を忘れることができるようになります。すると、目的がなくても自動で行動できるようになります。そのうち目的を忘れてしまい手段が目的のように変わるのです。

よく初心忘れるべからずという言葉もありますが、はじめの目的を忘れるなという意味です。

これは暮らしでも同じことが言えるものです。

本来、人類は自然循環の中で行われる全体最適の生産と同じ場所で暮らしていました。それが自然から離れ、自然を征服して、自然を消費するような場所で働くことになりました。

現代は、暮らしの中に働くがあるのではなく、働く中に少しだけ暮らしを取り入れようとする始末です。これも目的と手段が入れ替わった事例です。

また学校制度なども同様です。最初の目的が忘れ去られ、手段としての制度に依存するようになりました。本来の暮らしの中の家庭教育や地域共同体の中で見守られ育つという仕組みが消え、制度依存をしては学校でやれる限界を露呈しています。誰もが余裕や余白を忘れては、ひたすら働くための人間を育成するような場所に換わっていきました。

そもそも何のために人は学ぶのか、何のために生きるのか、何のためにという目的を話し合うことはほとんどなく、どうやるか、何をすればいいか、どこに入るかなど手段ばかりを求められていけばそのうち人間は手段だけをする生き物になっていくでしょう。

今では何のためにという目的を優先し、初心を忘れない人を変人や奇人と呼んだりもします。すべての行為行動には意味があり、意味は目的を持つ時に顕現するものです。

目的を改めて共有し、その目的から離れないでいることが今の時代は自分という存在を大切にする重要な仕組みや環境になります。それをできるだけ仲間や同志、多くの人たちを共有することで世の中に目的があったことを思い出させるだけで心の余裕や余白も増えていくものです。

引き続き、一円対話や初心会議、暮らしの甦生を通して人間の目的を思い出し真に豊かで幸福な実感を弘めていきたいと思います。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。