運と変

人生には運というもものがあります。そして運には兆しがあります。この兆しが観えるというのは、流れを観ているともいえます。流れこそが兆しということです。

「運」という字の語源の意味は、もともと「雲」の変化から生まれ物事の流れや巡り合わせを表す意味を持つ漢字だといわれます。

空の雲は悠然と変化を已みません。顕れては消え、またあらゆる姿に変化します。これは天候と結んでいます。そしてその雲の正体は水です。水もまた循環を已まず、あらゆる姿に変化します。大地に降り注ぎ、そして水はあらゆるものと和合して変化していきます。

変化をしないものは一切存在しないというのがこの宇宙、そして私たちのいのちの正体ということでしょう。つまり時も場も人もすべて運動を已まないということです。

生死が繰り返されるように、それもまた変化です。

私たちは変化を忘れるのは、流れを忘れてしまうからです。一つのカタチに固定された意識や思い込みが変化を勘違いさせていきます。だからこそ謙虚でなければ変化を澄んだ心で感じ続けることができなくなります。

変化を観る人は、運を観る人です。そして運がいい人というのは、変がいい人ということにもなるのではないかと私は思います。

変は常に流れています。まるで偉大な物語がつらつらと結ばれて綴られるように変化は記録され記憶されていきます。仏陀は、因果応報ともいいました。これも流れを観ている意識です。

人生はそれぞれに変化の中に和合して自分の旅を歩みます。

時には嵐があり、大雨があり晴天があり静寂と出会います。それもまた運です。そして変化するとき、人はそれに逆らうか和合するのかを選べます。

私が好きな良寛さんのお手紙に、

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがるる妙法にて候」

とあります。

まさに、運の本質を見抜いた言葉であろうと思います。山伏には「承る」という生き方があるといいます。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれという諺もあります。選ばない人生は、流れに従いながら兆しをよく観て謙虚に調和していこうとする生き方です。

まさにこの柔弱こそ、徳を磨いていくことではないかと私は直感します。

世界の流れをよく観察して、子どもたちによい流れを結んでいきたいものです。