人は自己を責めるとき、自己の関係が歪むものです。人間は脳で自分というものを認識します。外から見られる自分、こうでありたい自分、あらゆる自分が自分という存在を象り認識するものです。しかし自己には、本来の自分というものもあります。これはあるがままの自分でもあり、何ものでもない事実としての自分です。
例えば、紅葉の木はライオンではありません。蟻は鯉ではなく、石は虫でもありません。そんなことは客観的に観ればすぐにわかります。しかし、人間は何にでもなれると認識することができるからか主観的に自分を別の何かと思うものです。
これは幼少期からの環境や教育に左右されることが多いように思います。人間は人間という存在で世界を刷り込みます。実際には、自然というようにあらゆるいのちが循環謳歌して活かし食べあいながら暮らしている場が地球です。その地球の中には、あらゆる生き物たちがいます。
そしてその生き物は生来もって生まれたものがあります。猫は猫になるように姿形もできています。人間と同じように鼻も口も毛もありますが、猫は猫なので得意不得意があるのです。
自分というものはどのようになっているのか、それは先祖の徳の集積でできています。同じ人であっても、辿ってきた先祖の生き方や特徴や業が異なりますからそれを色濃く受けていますから人はみんな別人です。似てるように見えても、同じ存在は一つもありません。これは指紋がすべて異なるように、また葉脈が異なるようになるのと同じです。
それぞれにそれぞれ固有の特徴があります。他の人にできても、自分にできないことがあります。逆を言えば、自分にしかできないこともあり今の自分だからこそできることがあるのです。
他人と比較したり、完璧を求めたり、承認欲求などに自己を奪われてしまうと不平不満ばかりで不幸になるものです。
よくよく自己を見つめ直して自己を認めることで、事実や現実を直視することが「あるがまま」で生きるということかもしれません。
あるがままの自己を愛するというのは、あるがままの他者を愛するということでもあります。これでいい、これがいい、ちょうどいい、相応しいと生きることは、今の全てを肯定する生き方です。自己肯定感などとよく教育界では叫ばれますが、実際にはみんながあるがままを認め合える社會にできるよう、環境や教育を変えていけばいいだけです。
あるがままである世界は、いのちが活き活きと充たされ合う自然の道です。
引き続き、かんながらの道を歩むからこそ何度も繰り返し成長を確かめるための必要な節目があることに感謝して丁寧に道を拓いていきたいと思います。
