流れと螺旋

中国最古の医書『黄帝内経』には「正氣内に存すれば、邪干すべからず」(体の正しい働きが保たれていれば、病邪は容易に侵入できない)」という言葉があります。そして現代では有名な「未病」(みびょう)という言葉もまたこの『黄帝内経』で初めて使用された言葉です。

そこには「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」とあります。これに対して既病とは、既に症状が出ている状態のことをいいます。未病とはまだ病気が表面に現れていない状態のことをいいます。

現代では、病気は病院が治すもののようになり病気になってからはじめて人は病気を認識します。そして病院もまた病気になってから診療を受ける場所になっています。

本来は病気というものは、生命を支えている循環の何らかの流れが滞り、流れなくなって循環しなくなったことをいいます。

自然治癒を洞察するとそれはすぐに察知できるものです。自然界も同様に、循環や流れが滞ると問題が発生してきます。スムーズに静かに流れていれば、自然も穏やかです。しかしそこに何らかの澱みや流れの滞りが起こればそれが災害となっていきます。

つまり自然は常に「調和」するために流れや循環を已まないようにしているのです。

そして人間の身体もこれを同じです。

人間の身体では、血液やリンパ、呼吸や腸内や神経などあらゆるものが流れています。それが疲れや感情や自立神経の乱れ、食べ物の片寄りや睡眠や運動不足などで流れが滞ってくると病気が表層に出てきます。

誰しもが調和している状態を健康であると知っているのは、この「流れ」というものを自明しているからともいえます。

流れが澱み、滞れば不調和が産まれ調和に戻そうと自己免疫力が働きます。それが自然治癒です。つまり自然治癒というのは、流れを取り戻そうとする根源力のことです。

これは人体だけでなく宇宙も同様の真理で働いています。

場の道場では、薬草をはじめ太陽や月のリズム、そして呼吸法、滝行や坐禅、自然農や発酵などあらゆることを体験を通して場づくりを学びます。これは未病を実践するためです。

つまり未病の場というものは、流れが澱まない場であるということ。言い換えれば、循環しようとするのを邪魔せず、自然の流れになるように調えるということです。

これを私は場づくりの中心に据えています。

そしてその養生法が暮らしフルネスということになります。

氣は風、いのちは水、この風水によって流れ(螺旋)は常に循環するのです。

自然治癒の学びを深めつつ、螺旋の真理を甦生していきたいと思います。

 

心の伝承

先日から盂蘭盆会の準備で場を調え、落雁をつくり菊花のお供えをしています。元々は釈迦の弟子、目連のお母さまの苦しみを解き放つためにはじめられたともいわれますがそれが長い歳月を経てこの日本でも仏道の伝来とともに継続している行事です。

よく来客があるのでおもてなしすることが多いので、いつもとやっていることはほとんど変わりません。それが祖先をお迎え、共にゆっくりと心穏やかに過ごし、いのり送り出すという具合です。

そのために場を調え、心を落ち着かせ、法螺貝やお経、お線香を立ていのります。

しかしこの時間があることで、自分の中にあるご先祖様や今も一緒に生きている霊魂の存在を感じます。時間というものは、誰にも平等ですがどのような意識で過ごしているのかでその時間の質は全く異なります。

一年の中で、この盂蘭盆会をどのような心で過ごすのか。

私にとっては、欠かすことのできない心の栄養になっています。

また家祈祷といって、祖霊をお迎えするために家や場を調えていきます。床の間には静寂と徳の薫りが満ち、凛とした空気が宿ります。

日本人でよかったと感じる懐かしい風景です。

子どもたちや子孫へ、心の伝承を続けていきたいと思います。

大地と徳治

昨日、熊本で大きな地震があり私のいる場所も大きく長く揺れました。東日本大震災の時の揺れを思い出し、あの時、受け取った自然からのメッセージを振り返りました。暮らしフルネスに取り組む今があるのは、あの地震からの声をいただき、初心を忘れないようにしてきたからです。

中国の思想に「天人合一」(天人相関)という思想があります。これは紀元前二世紀、中国・前漢の時代に生きた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ)という人物が人類に投げかけた問いの思想です。

当時の中国では、法律によって国を治める法家、自然に任せる道家など、さまざまな思想が競い合っていました。その中で董仲舒は、「国は力ではなく徳によって治まる」と説きました。その理由は、人間は自然の外側に立つ存在ではなく、天地とともに生きる一つの生命であるとしすべては相関関係と因果によって為ると直観しました。つまり空を流れる雲も、山を吹き抜ける風も、川の流れも、月や太陽の光も、大地の震えも、人間とは無関係に存在するものではなく、同じ宇宙の理によって結ばれていると見立てたのです。

つまり天と人も自然の一部であり分かれているものではない。だからこそ人間社会が私欲によって乱れれば、その歪みは自然との調和を失い、やがて社会全体の苦しみとなって現れると説きました。

そして為政者こそ、自然のメッセージを真摯に受けとり自らを省みる鏡にせよといいました。そしてその政治の実践のことを「徳治」と定義し、まず国を導く者自身が徳を積み、人を敬い、自然を敬い、その姿によって人々を導くことが政治の根本であるとしたのです。それを当時の漢の武帝によって国家の理念として採用され、その思想がのちに日本にも渡来し、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」、熊沢蕃山の治山治水、二宮尊徳の「天道に従う」、西郷隆盛の「敬天愛人」など、日本の思想の根底にも、天地を敬い、人を敬い、自らを正すという和の系譜が脈々と受け継がれたといいます。

どんなにお金があっても、便利な文明を築いても、科学技術が発展しても、驕れるもの必ず滅びるものです。平安末期の鴨長明の時代も大地震がありました。そして彼が遺した書物『方丈記』にあるように、大地が震えればこの世に絶対に安全などというものは存在しない、万物は変化して已まないし無常。人間の傲慢さはいつかは必ず天人合一に現れると氣づくのです。

今の世界に響き渡る大地の声は私たちへの偉大な問いかけではないかと感じます。そして為政者こそ災害の時に自らを省み、改心して徳を積み人々の心を治めよと聴こえてきます。

人類全体が謙虚にならなければ、すべてのいのちの幸福はない。

今こそ、徳治覚醒の刻です。

今日は、これから英彦山の宿坊で大地座禅と初心を深め禊をしてご祈祷して過ごします。

今夜の満月の心が、どうか穏やかに人々の内省を調えていただけますように。

地球の利益

現在、無肥料無農薬で自然農のお米づくりをしていますが周囲の田んぼと違う光景に色々と観えてくるものがあるものです。

たとえば、資本主義の経済の中では利益の最大化を目指すために大量生産をして原価を抑えて利益を出そうとします。その原価の抑え方は、効率化がほとんどです。労働力を抑えて、生産能力を最大化するというものです。

そのために田んぼでは巨大な農業機械や便利な農薬や肥料が用いられます。実際にお米の価値も粒が大きくて虫に食べられていないもので収量が多いと利益になります。そのために、農家は労働力の最大化をはかり圃場の拡大を目指します。

しかし私の田んぼはまったくのその逆です。

そもそも収量は一つの田んぼでは限界がありますし、稲だけを育てているのではなく暮らしを豊かにするために田んぼ全体の生態系と一緒にいのちが循環しあう中で仕合せや喜びを感じます。

ほとんどが手作業です。労働力の最大化というよりも無駄ばかりです。しかしその無駄が心地よく、田んぼの小さな生き物たちを見てはまた雑草が生えては必要な分だけを除草します。

労働力の最大化というよりは、自然が育てて見守ってくださっている偉大な力を実感することができるのです。

そもそもいのちは誰が育てているのか、それは自然ですし他力ですし、自分以外の存在が丸ごとでゆりかごのようにいのちを見守っています。その偉大な労働力の御蔭で、私たちはいのちを繋いでいくことができています。

それぞれが自分のいのちを精一杯生きることによって恩返しをしていきます。人間だけがつくった社会のシステムの中でどっぷりつかった機械化されるのではなく、生命全体の循環の一部としていのち全体が耀くように自分を生き切っていくのです。

つまりそれぞれに生き方というものがあり、それを生きることによって全体と一体になって徳が循環するようにしていきます。

資本主義の中の利益の最大化というのは、結局は誰の利益かということです。株主や資本家のということです。利益の最大化というものが、もしも地球のためということになればどうなるか。

すると、みんな地球が喜ぶように「循環」や「流れ」が澱みなく絶やさずに安心するようにすることが利益の最大化になることをすぐに自明するようにも思います。

田んぼであれば、お水が流れていくなかですべての生命たちが多様ないのちを活性化させて自由に暮らしを謳歌できるような場をつくることでしょう。

引き続き、生き方を通して田んぼと関り、本来の日本人としての生き方や先人からの遺訓や遺徳を後世の子孫たちのために暮らしで結んでいきたいと思います。

不老不死の妙薬

英彦山で、満月の日に不老不死の妙薬、不老園を煎じています。これをお茶にしてみんなでいただきます。お茶は本来、薬でしたからむかしながらの薬の摂取方法ということです。

もともと霊山には澄み切ったお水が流れ、あらゆる薬草が生えてきます。その力を使って治療をすることが修験者たちの一つの生業でした。これが衰退したのは、明治のころの山伏禁止令により山伏がいなくなったこと、近代医学が普及し制度ができて公的な医療から排除されたこと、また経済的理由からお山で暮らす人たちがいなくなったこと、そして宿坊文化が失われたことなどが考えられます。

もともと修験道では宿坊が、修行者を受け入れるだけでなく、薬草を育て、薬を調合し、病人を看る拠点でもありました。その宿坊そのものが減少してその土地ならではの秘薬や薬湯、養生法も消失しました。養生思想も同時に消え、治療中心の医療、対処療法が社会の中心になりました。不老不死の妙薬もまた、お山から消えていきました。

もともと修験道において「薬」とは、丸薬や煎じ薬だけではありませんでした。お山の湧水、薬草、発酵食、温泉、呼吸法、滝行、山歩き、祈り、四季の食生活まで含めた「養生」そのものが薬としてきました。

英彦山にも玉屋窟から不老長寿の霊水が湧いていますし、行場はお山のあちこちに遺っています。

私が宿坊の甦生で、石風呂やサウナ、薬草園、治水、発酵食、薬味、座禅、水垢離、滝行や法螺貝をつくるのはこれらの日本で失われた宿坊文化を甦生するためです。そこにこの不老不死の妙薬、不老園は欠かすことはできない大切な先人の智慧です。

そもそも修験道が目指したのはお山の恵みをいただき、心身を整え、生命の流れを取り戻すことでした。だからこそ不老園が英彦山のご神体を想像する大切な存在だったように私は思います。

他の修験のお山ではどうなっているでしょうか?それを少し深めてみます。

奈良県の吉野・大峯山には、日本を代表する修験道の霊薬「陀羅尼助丸」は役行者が発祥で、主原料のキハダ(黄柏)を用いた胃腸薬として約1300年にわたり受け継がれてきたものがあります。長野県の木曽御嶽山の、「百草丸」も同様です。他には、山形県の出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)では、宿坊ごとに独自の霊薬や薬湯があるといいます。薬草酒や薬湯などを用い、修行と養生を一体のものとして実践しているといいます。石川県・岐阜県にまたがる白山では、白山修験の山伏たちが山の薬草や霊水を活用し、「白山霊薬」や「延命水」があります。富山県の立山では、立山修験の薬草文化が、後に全国へ広まった富山のあの薬売りとも深く関わっているといいます。和歌山県の高野山では、真言密教の医学と修験文化が融合し、「高野山陀羅尼助」などの寺院薬が今でもあります。滋賀県の比叡山では、天台宗の僧侶たちが医術や薬学を学び、人々へ施薬を行う「施薬院」が産まれました。和歌山県の熊野三山では、熊野修験の山伏が薬草を用いた霊薬や薬湯を伝えています。愛媛県の石鎚山では、石鎚修験の行者が薬草酒や薬餅などを養生に用い、そして山陰地方の伯耆大山でも独自の山伏薬が伝承されています。

修験の霊山には必ず妙薬があり、そう考えてみると修験道発祥の地、霊峰英彦山の不老園は1500年以上前から存在した可能でもあります。修験の霊山による修験者たちのお山の暮らしこそが、薬草文化そのものを調えたのでしょう。暮らしと薬は一体だったのです。

まだまだ時間はかかりますが、子孫たちのためにも宿坊文化や先人たちの知恵を一つ一つ丁寧に甦生していきたいと思います。文化の伝承はみんなで今でも使い続け、活かし続けることで生き続けていきます。失われたものではなく、継続し続けるものとして不老園を養生の暮らしに取り入れて頂きたいと思います。

ご協力をよろしくお願いします。

お水

四千年前の中国最古といわれる夏王朝に禹王という人物がいます。この方は、水土の理を深く理解し、水の道に従って天下を治めた聖王、そして水神とも呼ばれ民衆に称えられます。

この禹王の時代は天下は大洪水に苦しんでいました。川はあふれ、田畑は水に沈み、人々は住む場所と食べ物を失っていました。そして暮らし消え、村が崩れ、国も乱れました。

むかしは水を治めることは、川だけを治めることではなく、人々の命と暮らしを治めることです。この禹王の父である鯀は、国家の命運をかけて水を堤防で囲い込み、力によって押さえようとしましたが力によって水は抑え込めずに行き場を失った水は力を増し、ついには堤防を破り、さらに大きな洪水となってあふれました。そして処罰されいのちを失いました。

その父の失敗を受け継いだ禹王は、まったく反対の道を選びます。水を力で抑え込むのではなく、流す。そして水が本来向かう道を拓くという考え方によって治水を実現しました。そして、国家を同様に見事に治めていきます。

この禹王の治水を「禹の水を治むるは、水の道なり」と孟子はいいました。

この禹王が行ったのは、もともと水土の中にある道を読み取り、流れを塞いでいるものを取り除き、水が本来の働きを取り戻せるように調えて治めたのです。治めるとは、支配することではなく、本来の働きが自然に現れるように調えたということ。

最近、流域という言葉をよく聴きます。流域は、お水が集まりそこで数々の生命が結ばれ繁栄していく場のことです。そして水土は、その土地がその土地らしく育つ場ができることです。

私は徳積循環に関心がありますから、この水土に強く惹かれます。この水土は、風土と似ていますが明らかに水の道のことを示唆します。

お水を知るには、その土地の水土を知ることからはじまります。つまりお水の源流、上流のお山からです。お山を知ることが下流を知ることにつながります。そしてお山を知るには、先人たちが続けてきたお山の暮らし(智慧)を実践することからです。

私が英彦山の宿坊でお山の暮らしを甦生するのは、水土を學び直すためです。水土こそいのちの甦生の要諦ともいえます。どのようにいのちが循環しているか、どうすれば甦生するのかを観るのです。

お水が喜び廻れば、人の心も癒され喜び廻ります。お水が土と人を結ぶのです。

古代の中国では「善く国を治める者は、まず水を治める」とし、為政者の徳目第一とされました。「治める」のは、力の支配ではなく「徳を活かす」ことだと定義していたのです。

最後に作者不明の有名なお水の徳目、「水五訓」で締めくくります。

一 常に己の進路を求めてやまず自ら動いて他を動かすは水なり

二 如何なる障害にも屈せず巌(いわ)をも透す力を蓄えながらよく方円の器にも従い和合の性を兼ね備えるは水なり

三 自ら清くして他の汚れを洗い清濁合わせ容れるの量あるは水なり

四 力となり光となり生産と生活に無限の奉仕を行い何ら報いを求めざるは水なり

五 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるもその性を失わざるは水なり

今年の私のテーマは「お水」です。

一緒にお水を先生に学び直していきましょう。

ご縁は実験

昨夜は地元の面白い先輩と一緒に、石風呂や囲炉裏を楽しみました。色々な生き方がありますが、自分の好きなことややりたいことに素直に生きている姿に好奇心が反応します。

人は興味があるものに色々と取り組みますが、そのうち条件をつけたり評価をしたりして最初の動機や初心を忘れてしまうものです。楽しみながら取り組んでいることは疲れもなく、面白いと思うから続きます。

人間は面白いと感じるものに素直に反応します。

子どもとか大人とかいって妙に納得するようになっていますが、本来は未知なるものに人は深く惹かれるものです。

未知なものを忘れ、知ったような気になったり、評価を恐れたり、失敗を避けたり、忙しいと思うと、余計なことをしないようにと生き始めていくものです。知っている世界の中で生きると、好奇心は塞がれワクワクドキドキしなくなっていくものです。

結局、面白いと思うものはこのワクワクとドキドキが必要です。

ドキドキのないワクワクもなく、ワクワクもないドキドキもありません。

これどうなるのだろうと、未知に突入していくことの醍醐味。そして少し怖いけどやってみようと試行錯誤していくときの愉快痛快さ。

人生は一度切りだからこそ、一期一会の実験を楽しみたいと願うものです。

そしてその実験はご縁が結びます。

どのような実験ができるご縁になるのか、出会いを大切に楽しんでいきたいと思います。

地域のお掃除

日々に継続して掃除をしていると、掃除が如何に人間の教育に必要不可欠なものかということがわかるものです。掃除は、ただ物を片付けて綺麗にしているのではなく人間の持っている欲望や心のお手入れをすることの大切さを教えてくれます。

私は掃除というよりも、お手入れという言い方をする方が多く暮らしフルネスではお手入れを中心に体験をすることが多くあります。

そもそもお手入れというのは、自分の感覚で触れることで氣づけるものです。

人間というのは、頭でっかちに妄想や知識が優先されていると自分の感覚が麻痺していくものです。正しいことをやっていれば、何も問題ないとさえ勘違いするものです。

実際には、何かを動けば動くだけの無駄や無理などが産まれます。それは自然環境問題でも同じです。何かをすれば何かのゴミや負担が増えるものです。そしてこれは仕事でも同様です。

人は何かをやろうとすると、そこに発生する諸問題は無視して前進すると後で片づけようもないものになりいくら埋めても遠くに捨てても問題は返ってくるようになります。

そうならないように先人たちは、1つを行えば1つを片付けていつも現場が調っているように配慮していきました。これが自然の循環の仕組みです。日々の暮らしも、様々な変化があるから一つ行えば一つ調えては丁寧な暮らしを紡いできました。

掃除をするというのは、暮らしのお手入れと同じなのです。

地域の清掃もまた、同様に暮らしのお手入れです。

誰が観ていなくても、関わっているからこそ片づけて調えていく。そのことで、自分の暮らしは落ち着いてきます。自分の暮らしが落ち着けば、周囲もまた落ち着いてきます。

安心と安静、安全というのは、日々の掃除から調えていくものです。

本日は、これから地域の中学校の生徒たちのお掃除に参加しますがこの数年で本当に地域が豊かになっているように感じます。子どもたちが健やかに育っていくのを見守れるのは幸せです。

自分も恥ずかしくないように丁寧に暮らしを調えていきたいと思います。

 

暮らしの知恵

今度、むかしの五穀田の草取りの日にインドのスパイスカレーの体験をセットにしています。はじめての出会いは、リズム&ドラム演奏で著名な三嶋ラッコさんのご自宅で奥様のカレーをいただいたことです。奥様は、長年インドで修行生活をしていて子育てもインドでやってこられた異文化を受容するような豊かな感性の方でした。

その独自に調合されたスパイスカレーがとても美味しく、これはいつか暮らしフルネスの中で体験したいと願って今回がその機会になります。

そもそもインドのスパイスカレーの歴史はとても古く、高温多湿の日本と気候条件も近く、医食同源に太古のむかしから人類の健康を支えてきた大切な暮らしの知恵としての食べ物でした。

インドのアーユルヴェーダでは、食べ物は薬であり、薬もまた食べ物であるという考え方があります。病気になってから治すのではなく、日々の食事によって心身の調和を保ち、健康を育むことを大切にしてきました。インドではその中心はスパイスです。

例えば、ターメリックは抗酸化作用や抗炎症作用をもち、体内の炎症を穏やかに整えます。クミンは消化を助け、胃腸の働きを高めます。コリアンダーは余分な熱を鎮め、カルダモンは口や胃を爽やかにし、シナモンは体を温めて血行を促します。クローブやブラックペッパーには抗菌作用があり、フェヌグリークは血糖値や代謝を支える働きがあるとされています。それぞれが異なる役割をもちながら、組み合わせることで互いの力を引き出し合うという具合です。

まるで漢方薬のようにあらゆる薬効を調合して最適なものにする。腸内環境の具合をみながら食材の能力を活かし、健康を調える。ここには最古の医療の原型があるように私は直感します。

その調合のことをインドでは、「マサラ」といいます。

このマサラとは特定の一つのスパイスではなく、「調合」を意味する言葉です。家庭ごとに受け継がれる配合があり、母から娘へ、祖母から孫へと伝えられてきました。同じカレーでも家によって味が違うのは、それぞれの家に「我が家のマサラ」があるからです。

家々の家庭の味、お母さんの味がスパイスでできているというのも浪漫があります。その家の家庭の体質にも調和して見事なことです。私の家は、胃腸が強くないのと皮膚も弱いです。お水をよく飲みます、なので子どもたちが自然に美味しいと感じるお母さんの味付けの調合が自然にでてきます。それがお母さんの味になります。

暮らしというのは、なぜ智慧があるか。

そこには、先人たちの思いやりや優しさがあるからです。私が暮らしフルネスで実践するのもまた、その真心を味わいながら暮らしていく安心感が得られるからです。

田んぼの草取りとインドスパイスは、医食同源の掛け合わせです。

場がどのように人間性を快復していくか、そして子どもたちを支えていくか。

一緒に大地の巡りを整える養生と、スパイスで身体の巡りを整える養生をし暮らしを調えていきたいと思います。古民家和楽の冷たい地下伏流水で竈で炊いたご飯で食文化を味わうのが楽しみです。

 

螺旋の霊峰

無肥料無農薬の自然農の実践をする「むかしの五穀田」の田んぼにはたくさんの藻類が生息しています。お山からの湧水をかけ流しにしていることからお水が循環し、水生生物たちの居心地のよい螺旋の場が産まれています。

そもそも居心地のよい場とは何か、それは「流れや循環が途切れない場」のことです。言い換えれば、それは変化が已まない場のことをいいます。

いのちの循環は、巡りの螺旋を通して繰り返され宇宙の歩みと共に私たちすべてが運ばれます。

眼には観えませんが、宇宙の壮大ないのちのエネルギーを受けては私たちのミクロからマクロまでの全体の生命はそれに呼応して呼吸をするように調和活動をしています。宇宙のリズムとも呼んでいいこの呼吸は、あらゆる生命の中で一切絶えずに行われていきます。それを螺旋の真理と私は呼びます。

田んぼで発生する発酵と腐敗というものまた螺旋の真理の顕現した姿です。螺旋に右螺旋左螺旋があるように、万物に陰陽があるようにある条件と環境においてその螺旋運動が変化します。

法螺貝を吹き始め、法螺貝をつくりはじめてからその螺旋の神秘をいつも身近に感じるようになりました。自然はすべて螺旋運動で呼吸していて、その螺旋運動の巡りを見立てることにより場所の流れを確認していくことができます。

螺旋は風を巡らせ、お水を巡らせ、光を巡らせ、いのちを巡らせます。

遺伝子からブラックホールに至るまで、この世の真理は螺旋運動の最中に存在します。

「場づくり」の根源は、この螺旋運動の調和に由ります。

私は場道家として、あとどれくらいの寿命があるのかわかりません。もう数年で寿命が尽きるかもしれません。しかしその寿命もまた螺旋運動の調和に貢献できるはずです。

お水に守られて導かれてきた人生、お水にご恩返しをしていきたいと思います。

今日も午後から英彦山守静坊で法螺貝とのご縁を待っている方々との邂逅です。螺旋の霊峰英彦山から丁寧に螺旋の場、いのちが育つ場を調えていきたいと思います。