自己満足というものがあります。これは自分が満足することを優先するという考え方です。また自己陶酔というものもあります。自分中心に物事を考える時に使われています。その対義語は、自己卑下ともいいます。自己嫌悪なども似ています。
結局、自己を中心に陶酔したり卑下したりと自己とはやっかいな存在です。どれだけ自己を理解して、自己になっているかというのは人生の修行の醍醐味かもしれません。
自己を知るというのは、自己を學ぶことですからそれだけ現実の世界を別の観え方に変える力があります。
私も元々、職人気質でこだわりが強い方です。簡単に言えば、オタクです。興味が湧けば、ついもっともっとと深淵を覗こうと時間を忘れて追及します。発達障がいだとも言われます。しかしその追及したものが、先ほどの自己満足や自己陶酔となると周囲にご迷惑をかけることがよくあります。自分のこだわりを押し付けて、それがたまたまピッタリと合う人もたまにいますがほとんどの人はそこまで求めていません。ほとんどの人たちは、本質的に善いものであればそれでいいのです。善い以上のものを求めるのは、孤高の芸術家や真理の求道者となります。私は欲深いので、バランスを意識しています。この世を謳歌するのが好きなので全体快適が性に合います。
私にとって本質的に善いものとは、自然体であるものです。
例えば、私はよく暮らしの中で室礼をします。お花一つでも、そんなに豪勢に活けたり、花瓶などにこだわることもそこまでありません。藍染や染付のむかしのものであればどれもがお気に入りになりますし、花は旬のもので一輪あればそれでいいです。花がなければ、季節の色合いのあるものや自然の造形が美しいと感じたものを活けます。
なるべく自然に自然体であればそれでいいという具合です。
遣りすぎたり、凝りすぎたり、こうでないといけないとこだわることは不自然をつくります。不自然とは、頑張りすぎることでもあります。頑張らないというのは、無理をしないことであり、自己であるがままでいるということでもあります。
あるがままの善さというのが、私が思う本質的に善いものです。
それを「徳」とも呼びます。
現代は、みんなが無理をして自己を見失っているように思います。自分らしさやあるがままの自分というのを保つために無理をする、頑張るでは本末転倒です。
もっと氣楽に、もっと肩の力を抜いて、手放していくことが暮らしフルネスの面白さでもあります。一年の巡りを私たち実践者と一緒にすることで、暮らしフルネスの道に入れます。
なかなか一年間もと思う人もいるかもしれませんが、私にしてみればたった一年でその喜びや価値観、意識が変わるのだから楽なものです。一年が一生になる、つまり人生は誰もが一日は一生ということでしょう。
そろそろ頃合い、ゆっくりと自然に場の道場に生徒を集めていこうと思います。
