英彦山の宿坊であれこれと忙しく作務をしていると、やることが多いからかその時はあまりお山や自然の情景が心に観えてきません。視野も狭くなり耳も遠くなり虫や鳥の音なども雑音のように感じられ、木漏れ日も樹木たちも生い茂っている雑草と相まってただ植物が多いという具合です。
しかし、その作務をすべて止めて手放したあと霊水を浴び、火を浴び、光を浴び、風を浴びて静かに坐るとそれまでの景色が一変します。
虫や鳥の鳴き声に自然の歓喜や幸福の感情が伝わってきて、木々の木漏れ日や雑草の生い茂る様子がいのち輝く美しい楽園のように感じます。同じ景色だったものが、自分の心や感覚の状況でまるで別のものに変化するのです。
私たちは頭でだけ考えて行動しているときは、感覚を閉ざしていきます。感覚が閉ざせば、心は開かず目に見える世界は物質的になります。しかし感覚が鋭敏になれば、心は開き目に観えるあらゆるものは物ではなく心の一部になります。
心の一部になっているというのは、どの物質や生命にもいのちがありそのいのちの徳や存在を感じるのです。それはまるで物を見るときに、いのちの眼鏡をかけたら物のいのちや徳がありありと輝いて観えるという具合です。いのちは元々、夜空の星々のように輝いているからです。
日常の生活のなかで私たちは日々に頭を使います。例えば、時間を考えてスケジュールを組み、計算をし段取りをして一日をはじめます。それはそれで、忙しい毎日のなかでやることはたくさんありますからそれが日常です。
しかしこれを先ほどの心のままでいると暮らしは激変します。朝目覚めたときから太陽の訪れを感じ、周囲のものたちが一緒に目覚め動きはじめます。無機質な道具や家具であっても、夜は眠り朝は目覚めます。自然物の中にいれば、植物をはじめすべての生き物たちが夜と交代していのちを使い始めます。夜は夜で夜に生きているいのちもあります。心で観れば、この世のすべては同時に活き活きとしてそれぞれに感覚があるだけで喜び幸福を味わっているのです。
つまり万物に宿る徳が発揮されているともいえます。
その徳を感じ徳に触る暮らしが、私が提唱している暮らしフルネスでもあります。そしてよく話す足るを知るのは、別に不足に対して足りていると言い聞かせる文言ではありません。冒頭のように、心や感覚が目覚めればすでにある徳に氣づくという意味で私は用いています。すでにこの世の一切の万物には徳が具わり存在しているではないかということです。
その徳を実践するというのは何を実践というのか、それは本来具わっている徳を用いて徳を感じて道を歩んでいこうということです。原点に帰れば、どの教えも徳に帰ります。
これから少しの間、北陸まで師友と心の旅に出ますが同じ道を歩んだ先人たちのいのちと徳を感じてみたいと思います。
