原体験と原風景

昨日は安泰寺で修行者たちと一緒に禅のお食事やお掃除や作務をしました。現在も約10名ほど、ほとんどが外国人でしたが皆さんとても目が活き活きと輝いておられテキパキと心地よく動いておられました。山の上にある自給自足の場には、様々な試行錯誤もありその苦労も感じました。しかし、その苦労の合間には座禅の時間もあり自分と向き合うための大切な場が創造されていました。

私たちは自分が何のために生きるのかという問いをはじめ、どう生きるかということを大切にする時間というのが現代では取りにくいように思います。

学生時代も、早朝から夜中まで勉強漬けで進学のことばかり。その後は、就職したら結婚や子どもなど誕生し家族のことがあればほとんど考える時間もないのが現状の平均的な様子ではないでしょうか。

本来、子どもの多感なときにこそじっくりとゆっくりとその時間や場があるといいかもしれません。しかし大人になっても、ふとした時に人は立ち止まり自分と向き合い、自分の一度しかない人生を考える時間があることは仕合せなことです。

私は、お陰様で会社の仲間にも恵まれ週に一度は内省をするお時間を持て、英彦山の山中で自然と調和するための作務をし、古民家や自然農がある御蔭で暮らしのお手入れをする時間を持てています。座禅をするお時間をはじめ、このブログを書いている時間、日々の日記や法螺貝を吹いたりご祈祷をしたり、妙見神社をはじめご先祖様やお導きいただいたメンターのご遺徳にお経をあげる日々です。

その都度に、先ほどの何のためにやどう生きるかということを覚えます。

どう生きているかという自分を客観的に見つめることは、どう生きてきたかということを振り返ることでもあります。自分が生きていることは、自分と一緒に周囲も生きているということで、それは生かされているということに氣づく大切な機会です。

修行というのは、苦行のようになっているものもありますがかつての人類は自然の中で自然と共に歩むという修行をしてきました。その修行は、自然の中での原体験であり人間が人間であるときの何かを思い出させるものです。

ここで氣づいた原体験と原風景を、場に戻りさらに甦生していきたいと思います。