自他を喜ばせる

人を元氣にするというのは、自分が元氣になることでもあります。自分が元氣な人は、人のことも元氣にすることができるのです。これは自他一体で、自分自身にとっても同様に自分が元氣であればもう一つの自分もまた元氣になります。

元氣というのは、自分が喜んでいるということです。同時に周りも喜んでいるということです。その元氣は周囲を暖かくし、みんなを明るくするものです。

元氣であり続けようとするのは、喜びであり続けようとすることと同義です。

その喜びは、単なる瞬間的な楽しさではなく心から望んでいるものです。それは場合によっては感情が揺さぶられるような冒険かもしれません。あるいは、恐怖の中でも勇気を出して突き進むことかもしれません。

しかしそうやって挑戦し続けることが元氣の源泉であり、その挑戦が自他の喜びになっていくようにも思います。またそれは人によって異なります。ある人は、自分と同じように愛したり、思いやったり、自分自身と思って周囲とかかわることで元氣になる人もいます。

それぞれに挑戦のかたちは異なりますが、そのどれもが元氣と繋がっているのです。

子どもたちが元氣でいるのは、成長するからです。その成長は、学びそのものであり、学ぶことで自分自身との調和が生まれそれが喜びとして開花していくからです。子どもたちを見守るためには、まずその見守る大人が一つのお手本になるような生き方をしている必要があります。周囲のお手本が偉大な先生にもなるからです。

未来のためにも、挑戦を続け自他を喜ばせ、地球を喜ばせ、神さまも喜ばせられるような偉大な何かを譲り遺していきたいと思います。

場力

世界には同じようなことをやっている人がいるものです。昨日もアメリカから2名の方が、聴福庵に見学に来られましたが通じ合う話が多く楽しい時間を過ごすことができました。

不思議ですが、似た人たちや同じ目的を持っている人はいつも同じことを考え波動もまた似ているものです。しかし、同時に似ているからことお互いの異なりから発見することも多くあります。

つまり何が似ていて、何が似ていないのかが合わせ鏡のようにわかるということです。その似ているものの普遍性が何で、似ていないものからたくさんのことを発見し学ぶことができるのです。

私自身も昨日は、何か力になればとオープンにお伝えしましたが私の方が学ぶことが多かったように思います。

場づくりというのは、その場で何をするかということに由ります。

つまり何のためにその場をつくるか、そして何がその場で発生していくようにするのか。そこにはその場の思想というものがあるのです。その場の思想は、思想が先か、場が先かというとこれは表裏一体です。

なのでその場がどうなるかは、常に思想と場に磨きをかけて光らせ続けていく必要があるのです。場力があるとよく人に言われるのは、その主人の思想力があるということでもあり、同時にそれは場によく反映されているということです。

この場は、その思想全体の集中する舞台ですからその舞台には役者が集まるのです。

子どもたちが安心して暮らしていける世の中になるようにここから変化を伝道していきたいと思います。

御縁

御縁というものは誰にもあります。そのご縁の中でも自分の魂や本心が望んでいるものは、そのご縁との結びつきを強く厚くしていきます。御縁というのは、それだけ自分自身と深く関係しているということになります。

御縁には人とだけではなく、物とのご縁というものもあります。そして空間や場所、思想や思い出、歴史や感覚というものもあります。それをどれだけ磨いたか、関係を高めたかということがご縁の姿です。

私も思い返せば、ふとした出会いの中から自分にとってとても大切なご縁をずっとつなげて磨いてきました。一期一会にその時機にしか出会わないご縁もあれば、ずっと長い道中で共に出会い続けるご縁もあります。お互いにこの世に存在する長さも感覚も異なりますから巡り会えた仕合せは格別なものです。

お互いにたくさんの思い出や絆を結んでまた次の道へと向かっていきます。

いつかは離れ離れになってしまうとしても、その一瞬の仕合せやめぐり合わせに感謝するのです。最近は、木々や山、岩との出会いが増えています。不思議なことですが、200年以上の枝垂れ桜や銀杏の木をお手入れし守るご縁です。幼い頃から、神社の境内には樹齢数百年の楠や杉がありましたが眺めているだけの存在でした。

人が関わり大切に守ってきたものには、人との深いつながりやご縁が感じられます。

時代を超えても思いは思い出と共に懐かしく、思い出と共に豊かになります。

私たちはこの世で豊かに生きていくために御縁を深く味わう感覚を持っているのです。人類のそう遠くない未来、原点回帰することが予想されます。その原点回帰は、新しいとか古いとかではなく普遍的なものに気づきなおすことです。

複雑怪奇に分類わけされたこの世の中の霧がかった空を澄んだものに転じていくことです。暮らしフルネスは、この転じるものの礎になるものだと信じています。子どもたちがご縁に恵まれ豊かに育っていけるように見守り続けていきたいと思います。

徳に報いる

生きていると御恩をいただいたところに恩返ししたいと次第に思うようになります。恩返しをしたいという気持ちは何処からくるのか、それは自分というものを育ててもらった感謝からくるものです。これは親孝行に似ています。

今までお世話になった存在、大切に育ててくださった存在に対して何かお返ししたいと思うようになるのです。

思い返すと、私も沢山の御恩をいただいてここまで来ました。それは故郷などの土地の恩、そして他の場所でいただいた恩、地球や自然からの恩など数えきれないほどの恩をいただきまた今もその恩を引き続きいただいています。歳を経ていくと共にその恩が観えてくるようになります。

それだけ多くの恩に包まれているのです。その恩に次第に感謝するようになるとき、徳に報いたいと願うようになっていきます。自分を育ててくださったもの、自分というものを与えてくださったすべてに自分は何かできないかと思うようになるのです。それが「徳」を積む動機になります。

この徳は決して良いことをすることが徳になるとはいいません。その人らしく、その人の持ち味を活かして自分にかできないことをやるとき徳は顕現してきます。素直で純粋、真心で恩返しに生きようとするとき徳は湧き出してきます。

なぜ自分にこの才能があるのか、なぜ自分がこれを与えられたのか、なぜ今なのか、そのようななぜを合わせていくとき、可能性を発見し挑戦をしていきます。周囲の固定概念やそれまでのルールに縛られずにその人らしく育てていただいた徳に報いるのです。

その根底にあるもの、それは恩返しの真心からであればそれは徳積の仕合せを深く味わっているように思います。

子どもたちの未来のために、自分がいただいた偉大な御恩を同じように次へと譲り渡していけるように自分らしいやり方と自分の徳で貢献していきたいと思います。

本懐に向かう

面白いことをしている人の周りには面白い人が集まってきます。価値は価値を呼び、その価値がその人のスケールになっていくからです。類は友を呼ぶともいいますが、人脈を聴くと大体、近い人たちのコミュニティは繋がっています。

たとえば、私はジャンル分けしにくいタイプのようで周りが何の人かということを一言で語れるものがありません。変な人とか、ユニークな人とか、発明家とか、いう人もいますが実際には名前でしか呼ばれません。何屋さんかわからないといのは、会社の時から言われていましたが目的がはっきりとある人は手段は何でも使うので結果的にそうなってしまうのでしょう。

一般的には、職業によって分類わけされてこの人はこの職業の人と呼ばれます。しかし話をよく聴いてみればその職業はみんな手段です。その手段を見てその人のイメージを思い込んでも、実際には本質とは異なることがほとんどです。

なので大切なのは、話を聴いてみることです。それも深く目的や本質を確認することです。そうやって人を見直してみると、自分と同じ志の人が周りに集まっていることに気づきます。それぞれに手段は異なりますが、目指しているものが似ているのです。似ているから、一緒にやっていて楽しいし、協力し合うことで心が喜び合うのです。

もちろん人格的に魅力のある人と一緒にいることも素晴らしいことですが、意見が異なってもその人なりのやり方で同じような目的に達しようとしている人の話はとても参考になるものです。

維新の志士たちも、坂本龍馬のようにいろいろな意見を集めて船中八策を提言したように手段を集めれば目的に達する方法を発見することもできるのです。

私も今、手段を変えて創意工夫をしながら目的に達しようと目標を定めていますが大事なのはその表面には観えない同志との組み合わせの妙を活用していくことに注力しています。

御縁というのは一期一会です。

何がどれにつながるのかは、この後次第にわかってきますがこの時代のこの一コマのこの一瞬に面白い結びつきが発生していくのを実感するのは生きる喜びです。子どもたちのために本懐に向かっていきたいと思います。

場と智慧

日本の神話で最初の合議によりアイデアを出して実行して世の中を明るくしたことに天岩戸伝説というものがあります。この伝説の中心人物が、私の運営するBA(場の道場)に御鎮座する神さま、八意思兼神(オモイカネ)です。この神さまは他にも、国譲り・天孫降臨など重大な局面で智慧を出してみんなで物事を解決していく「場」を創造していきました。

この天岩戸伝説は御存じの人の方が多いと思いますが、簡単に言うとアマテラスの弟のスサノオを悪さをしてショックを受けたアマテラスが岩戸の中に隠れて引きこもってしまった。そのことで太陽が消えたように世の中が暗くなり混乱が起きた。それを解決するためにすべての神様が一堂に集まり、場で話し合いをし智慧を出した。そのファシリテーション役がオモイカネが行い下記のようなアイデアにまとめました。

一つは、常世の長鳴鳥(ニワトリ)を集め、鳴き声で夜明けを知らせること。二つ目は天安河の岩と、金山の鉄で鍛冶屋の天津麻羅に鍛えさせること。その鍛えたもので伊斯許理度売命が「八咫鏡」をつくること。三つ目は玉祖命が「八尺瓊勾玉」を繋いだ珠を作ること。四つ目が天児屋命と布刀玉命が雄鹿の肩の骨を抜きとって朱桜の枝で焼くという占いをして事をはじめることなどです。

実は三種の神器の勾玉と鏡はここの智慧で出てくるものです。

それを使って神様たちが作戦を実行しアマテラスを岩戸から出てきてもらいます。有名なのは実際にはアメノウズメノミコトが岩戸の前で必死に踊っていたら裸踊りになってしまいそれをみた神さまたちが笑い転げているとその様子にアマテラスが気になって岩戸から出てきたという具合です。それで鏡をつかいアマテラスの純粋な美しさに気づかせ真榊と勾玉で出てきたところを岩戸を開けて戻らないようにみんなで頼んだという話です。オープンに協力して持ち味を活かし、神さまたちの笑いが「和来」(わらい)となって、みんなが心和むことでまた調和が訪れて世の中がまた明るくなったというシーンでしょう。それから禍が転じて福が続いているという日本人の親祖たちの智慧で今があります。

本来、場と智慧があって禍福が一円になっていくものです。

私の取り組んでいる場が、現在の世界の課題や問題を解決していけるように真心を込めて磨き上げていきたいと思います。

 

真の教育者

宇宙の星々の中に優劣というものはありません。その光にもまた光り方があり、それぞれに特有の徳を備えた光があるものです。私たちが夜空をみるとき、夜空に特別に明るい星があったとしてもその星が一番ではありません。つまり星々に一番はないのです。

これは地球上の植物でも同様です。当たり前のことですが、いのちはそれぞれに花が咲きます。その花はどれもが徳性がありどれもが独自の魅力で輝いています。それを一つのかたちで決めて、それに他を合わせようとすることは本来の姿ではないのです。

私たち人類は人口が80億人を超えています。同じ顔が一つもないように、同じ指紋がないように私たちはそれぞれに別々のものをもっています。これを時代を遡れば、さらに大勢いの人々がそれぞれの徳性を輝かせていたことがわかります。

それぞれのいのちにはそれぞれの役割があります。その役割を一つしかないと思うところに問題があり、差別が発生します。生まれてきた以上、必ずなんらかの役割をもっていて役割がないものは一つとしても存在しないのです。

他と比べては、他と役割を奪い合うような環境になっていますが本来はもっと自分の徳性に集中し自らを光らせていくことに注力していく方がいいのです。

教育というものは、本来は可能性を引き出す行為であることは普遍的なことです。それぞれの徳性をもっと引き出させる。そうやってそのものの徳性が一番になってしまえば役割はその中に存在します。

みんなその徳性で誰かに喜んでもらいたい、みんなが仕合せになってほしいと光るのです。その理由は、自らの光そのものが喜びになり、その喜びがあふれ出てみんなの喜びになるからです。

この世の中というのは、そうやってみんなで仕合せを享受し合える天国もあります。それぞれが自分自身を知り、自分自身で生きられるように可能性をつぶさずに可能性を信じてあげる存在こそ真の教育者でしょう。

子どもたちの未来のためにも、自分自身が固定概念を毀し、新しい価値を創造していけるように精進していきたいと思います。

両輪

コロナウイルスが出てからほとんど田舎のようなところで暮らしていますが久しぶりに都会にいくと人の多さに驚きます。20年近く都心で生活して福岡と二拠点で往来していましたがこんなに長く東京に行かなかったことははじめてです。

思い返すと子どもの頃、人の多いところにいるのは疲れていました。大人になり都会に住めば気にならなくなっていましたが、久しぶりに都会の人混みの中にいるとどっと疲れます。

何が疲れるのかと思うと、もちろん視界に入ってくる情報が多すぎて気になることもありますが様々な音や匂いや物体に五感が反応し過ぎて疲れたのがわかります。

田舎の自然の中で過ごしていると、五感が鋭敏になっていきます。都会は便利ですから、五感を使うよりも便利なものに委ねていくことで適応していきます。脳がある程度まで対応できれば、脳の反応だけで事足ります。

バーチャルリアリティの技術が進化していくのも、都会での生活がベースになっていることがわかります。現実と理想の間で、人類はあらゆることを分類わけして切り取って住み分けていきます。

とはいえ、田舎でも私たちは便利な道具を用いて自然と分離させていきます。

例えば私がこの書いているブログの部屋も、外の自然と窓ガラスを隔てて分けています。窓を開ければ寒い空気が入ってきます。窓が閉まっているから自然を眺めながらも寒さはありません。頭では寒いのだろうとわかっていても、身体は寒さを感じていません。香りも音もあまり入ってきませんし、雨も風も入ってこないので五感のアンテナはその感覚を拾おうとはしていません。

自然というのは、全身全霊で感受するものです。

そうして自然の持つ様々な気配を動植物たちは分かち合い共に生きています。いのちは自然を受け容れる器があります。いのちのままであることは偉大なことです。そして人間は愛があります。思いやりや真心で人間のあらゆる行いを受け容れる偉大な愛を持っているともいえます。

このいのちと愛のことは、そろそろ付き合いを決めた方がよさそうな時機に入ってきました。

新しい価値と普遍的な価値の学び、その両輪をまわしてみたいと思います。

智慧の集積

人間は、よりよく生きるために心を鎮めるための手段をたくさん発明してきました。心の乱れや穢れをどう穏やかにして静かに洗い清めるかはそれぞれにあり、今でもそれは多くの場所で活用されています。

例えば、宗教の儀式や伝統的な暮らし、また芸術芸能などの行事、他にも聖地巡礼や道、作法などです。如何に、浄化していくか、そしてその心の乱れをととのえていくかを何千年も前から行われているのです。

これはもう運命的というか宿命的なものを感じるものです。

その格言も、世界中の思想家、実践家によって今も変わらずに語り継がれみんな子孫たちもそれに従って精進を続けています。

むかしある人に、人は何かを理解するために相対的にしたということを聴いたことがありました。「理解」するために私たちは脳を働かせ、文字を発明し、文明を発展させ、今でもそれをやっているのです。

理解して何になるのかというものもありますが、理解したいという欲求はもう長いこと刷り込まれていますからそれはなくなりません。理解してそれを捨てるというのは、心の力が必要になります。そこには矛盾が発生してくるからです。

不思議な話ですが人間は元々の状態、「純粋無垢」になろうとし体験を経て様々な知識を得て世の中を渡り歩きますがまた元の状態に回帰しようと何度も続けています。それは人の一生でも然り、人類の時代でも然りです。言い換えるのなら、宝石を磨き続けて拭き清め続けて光を放ち続けることに意味があるようで、汚泥の中の蓮の花を美しく咲かせ続けるようで、そこに意味を感じるのでしょう。

私たちはそれぞれの時代にどう磨いていくか、心を穏やかに沈めて純粋に回帰するかは時代を生きるテーマです。今の時代、世界がIT技術で結ばれ世界のあらゆる場所と物理的に繋がってきました。

その御蔭で今まで知らなかったあらゆる知恵が結ばれるようになったともいえます。智慧を集めていくことは、この先の子どもたちの未来に新しい世界を拓いていくためにも大切だと私は感じます。

この場所に暮らしフルネスの智慧を集めて、新たな取り組みに挑戦していきたいと思います。

答えは初心

人生を歩んでいると、大事な局面で大切なことを教えてくださる人と出会います。もちろん人だけではないのですが、人づてで私たちはアドバイスをいただき人生を好転させていくことができます。それを人の運ともいいます。私の人生を振り返ると、本当に善い人に巡り会ってきました。その御蔭様で今の自分があります。

感謝の心というものは、この一期一会の出会いの美しさやすばらしさを感じるときにこそ磨かれるようにも思います。

私たちは生きている中で、傲慢になりやすくすぐに初心を忘れてしまいます。毎日、お手入れをしていても埃や塵が積もっていくように謙虚さから遠ざかります。そんな時、貴重な意見や真心で整える機会を得られることはとても有難いことです。

昨日も、ある方とのお話の中で「神さまを喜ばせる」ということを思い出しました。

日本人は元々、世界の宗教と同じように祈願をしますがそれよりもずっと前に「喜ばせる」という素直で明るい清らかな心を持っているように思います。例えば、神社でも舞を奉納し、みんなで直会をし、行事をし、そこには和があり、笑いがあり、結びがありました。

日本人はもともと調和を尊び、日々に穢れていくものを祓い清らかでいよう、そしてみんなで喜び合う明るい民族です。まさに清く明るく楽しく生きていこうと初心をもっている民族だと感じます。そこに伝統や歴史が重なり、自然から学び共生し合う美しさや本質を極める精神、そして善きことを実践して精進して徳を積んできたように思います。

私は一体、何を甦生させようとしているのかを思い返すとこの初心を思い出します。

人生の中ではたくさんの手段があり、その手段探しや実現するために日々に追われますが本来は初心を遂げるためにその手段があるだけです。

自分自身がどうあるか。

原点回帰すると、周りに答えはなく自分自身の生き方の中にこそ答えがありその答えをただ真剣に生き切ることで答えを生きることができます。答えは初心なのです。

子どもたちのためにも初心を忘れずに、丁寧に自分自身を生き切っていきたいと思います。