暮らしフルネスの本懐

万物にはそのものの徳というものが備わっています。それを磨き明らかにしていくことを、明徳という言い方をします。この明徳は、大和心そのものでもあり日本人に連綿と続いてきた大切な生き方です。私は、この大和心の甦生のことを「暮らしフルネス」と定義しています。もっとシンプルにいえば、この徳を明らかにし、徳を循環し徳によって治める世の中になっていくことが暮らしを実践する理由ということです。

私が本業として取り組んできた見守るという保育も、またむかしの田んぼや伝統固定種の高菜、そして古民家での智慧の甦生やあらゆる現在の取り組みに至るまですべてはこの大和心がそうさせているともいえます。

和というのは、徳が引き出されることでわかります。和食であれば、素材のもっているそのものの味や魅力が引き出されたことをいいます。私は料理人ではありませんが、井戸水や炭火をつかい素材そのままで味わうものを好んでつくります。余計な味付けなどしなくても、そのままの味が出た方がその徳が明らかになるから好むのでしょう。

このみんなが使っている「和」や「暮らし」は、本当の意味になっているのでしょうか。なんとなくわかりやすく使われていますが、日本人の和や日本人の暮らしではないものがほとんどになっているようにも感じます。

そもそもこの和や暮らしは、長い歴史の中で用いられた言葉です。歴史を学ばずして、先人の智慧の伝承なくして使うようなものではありません。現在は、何か新しい知識やそれを上手に分かりやすく便利なした言葉がすぐに独り歩きしていきます。しかし、本来は長い年月を経て醸成された発酵したような言葉であることが本質です。

だからこそ、知識ではわからないものが「言葉(言霊)」の中に存在しているともいえます。同じ、「暮らし」という言葉を使ってみたとしてもです。その暮らしという言葉は、使う人の持つ歴史や伝統によってまったく意味が異なっているということです。

私はもともと「和風」という言葉が嫌いです。和風は和ではないから、言葉遊びのようになるのが苦手なので嫌いという具合です。本物の「和」は、和風のものとは一切異なります。ひょっとしたら、昔気質なのかもしれませんが日本人としての誇りがあるからどうしても和風が馴染まないのかもしれません。西洋の文化や他国の文化はいつも尊敬しています。だからこそ、この便利な和風はどこか失礼ではないかとも感じてしまうのでしょう。これは決して和風がわるいと言っているのではなく、少し苦手というニュアンスで書いています。

刷り込まれた知識や、社会通念があるということが前提ですが私たちは何が本来の和であるのか、何が本来の暮らしであるのかをみんなで実践を磨き合う中で学び直す必要性を感じています。

私がこの場の道場での取り組みは、それを子どもたちに伝承し未来を智慧で満たすためです。先人の深い愛や思いやり、そして暮らしを次の世代へ伝道していきたいと思います。

世界変革への門出

昨日は、聴福庵にてブロックチェーンエンジニアたちと一緒に鏡開きを行いました。お昼にはその鏡開きの御餅を使い、七つの穀物と七つの若草を使いお雑煮にしたり、かき餅にしてみんなで食べました。

鏡開きでは、まずみんなで鏡餅に感謝をして参拝して、その後は「おめでとうございます」と声掛けをしながら御餅を木槌で開いていきました。清々しい門出と福がみなさんにつながるようにと祈り行いました。

寒い日でしたが、炭をたくさん使った古民家はとてもぬくもり、またコロナでテレワークからなかなか会えない仲間たちと一緒に雑談をしたり学び合い、教え合う時間は、何よりも有意義でした。

畳になれていない人も多く、少し腰が痛いこともありましたが懐かしい未来の時間をみんなで過ごす豊かな時間です。

一昔前まで、日本人はどのような環境で仕事をしていたのでしょうか。そういうことを知っている人ももういませんし、たいした文献も残っていません。

しかしむかしから続いている場所で、むかしの真心をもって文化を継承している人がいるとそこには懐かしい未来の場が甦生するのです。私がそうであるように、私の暮らしフルネスの実践の中に人が入ればそこに何かを直感してくれます。

それは私が先人の智慧を尊び、日本人であることの素晴らしさ、文化の偉大さを実感しているからにほかなりません。現在は、都市化され国家を優先して生活というものを激変させましたからむかしからある本来の豊かな暮らしを失っていきました。

生きているということは、決して生活のためだけではなく暮らしのためにあります。この暮らしは、現代の暮らしではなく、懐かしい暮らしのことを言うのです。暮らしの定義を換えない限り、本来の私たちの豊かさは原点回帰しないのではないかとも感じます。

コロナで私たちは大切な何かを思い出し、そしてコロナ後に世界は人類のしあわせとは何かということを考えようと話していました。しかし、現在の社会情勢をみていたら原点回帰は元の経済優先の仕事中心に戻ることのように報道されます。

残念なことです。

人は一人ひとりの中での意識の変革によってしか世界は変わっていきません。まずは自分自身が変わることで、つまり暮らしを換えることで世界は真に変革していくと私は思っているのです。

子どもたちの未来、子孫たちの平和のために、世界の変革をこの場所、私のいる足元から変えるために実践を積んでいきたいと思います。

存在

人はいつも同じ人とずっと一緒にいるわけではありません。特に若い時に知り合った友や、そしてご縁のあった方々とはまた離れて暮らしていくものです。しかし、これはいつの時代も同じですが離れていても心は傍にいるという感覚といものがあります。

これは同じ志を持っていたり、共感をしたり、もしくは、ご縁を信じていたりする感覚を持っているということです。そしてこれは、生きている存在だけではなくご先祖さまやもしくは故郷のように形のないものにもそれを感じるものです。

人との出会いというものは、誰かが引き合わせていきます。その誰かは、まるで先にそうなることを知っていたかのようにその人と人を見事に繋ぎ合わせていきます。ここには、まるで時間という概念がなく未来も過去も今もありません。言い換えるのなら、「そうなるご縁を知っている」かのようです。

つまり、未来を予測するのでもなく、過去からつなぐでもなく、今その瞬間に感じたわけでもなく、「そういうご縁である」と最初から確定して存在しているのです。これを天命とか運命とか宿命だという人もいます。しかし、よく考えてみるとこの世のすべての存在に想像を膨らますとき、複雑にみえて実はシンプルに「ただそこにあるもの」という事実に気づきます。

存在は、いのちのカタチであり、カタチとしての認識が存在となっているのです。そしてこの存在するということを人間の感覚でとらえるとき、そこには役割があるという認識を持ちます。

役割があり存在があるとするのなら、そこにはご縁があるということになります。そのご縁は、丸ごと一体でありそのすべてに役割がある。役割を誰かが無理に決めるのでもなく、存在そのものを役割にするという考え方です。

私たちの心というのは、その存在をいつも身近に感じているものです。

懐かしいという感覚は、どこかその存在のことを示唆しているように私はいつも感じます。古いものに触れても、新しいものに触っても、懐かしいのです。形と無形は永遠に循環していきますが、そこに存在する真心はいつまでも不滅にあります。そういうものを身近に感じて暮らしていけることこそ、真の意味で豊かなことでありいのちが磨かれていることではないかとも感じます。

難しい書き方になりましたが、昨日、ちょうど哲学者の方と一緒だったのでその影響もあったかもしれません。子どもたちの未来のために一つ一つの存在に深く感謝して、今日も一日を過ごしていきたいと思います。

行事の本当の意味

私たちは様々な年中行事という文化を持っています。保育園や幼稚園をはじめ、老人ホームなど、生活の中で行事は当然のように実施されていきます。最近は、イベントのように行事は使われていますが本来は日本人の心を守るためのものだったのではないかと私は感じます。

その理由は、すべての行事が感謝に関係していることからです。私たちは、何のためにそれをやるのかという理由を持っています。そして行事であればその行事がはじまった理由があります。その理由は初心でもあり、その初心を甦生し繰り返していくなかで智慧や真心を伝承していくのです。

なんとなく忙しくなり、とにかくやるだけ続けていくなかで簡素化していくとその本質や意味が失われていくものです。だからといって、ガチガチに形を決めてそれをただやっていたら行事で疲れてしまいます。本来は、自然体で行事をし、そのまま感謝で実施されていくのが一番です。

しかし自然体であるためには、日々の暮らしの方をしっかりと維持していることが重要です。そもそも行事は、暮らしの中での行事であって決して暮らしから外れた単なるイベントではありません。これは暮らしの節目に感謝していくものでありその節目に心をなくさないように、先人への感謝を思い出すようにと豊かに取り組んでいくものだと私は思います。

豊かさというものは、心のゆとりでもあります。心のゆとりとは、感謝の心を持っていることであり、決して時間が暇になることではありません。ゆとりがあるというのは、心が感謝で満ち足りているということです。

世間ではゆとり教育とかいって、テクニックや方法論ばかりが議論されましたが本来は日本人がもっていた心のゆとりの回復であったのではないかと私は思います。そのためにまず必要なことが行事の改革であるというのは私の直観する本筋です。

時代が変わっていくなかでも大切なものはいつまでも失ってはいけません。

その大切なものを甦生させ続けていく、伊勢神宮が式年遷宮をするように、神道では常若という実践があるように、これは日本の先人たちがいつまでも子孫のためにと祈り続けてきた一つのカタチなのです。

行事の本当の意味を知ることは、私たちのルーツと未来をつなぎ永続させていくことです。子どもたちの未来のためにも、暮らしフルネスの大本命の一つ、行事の改革に今年から本格的に取り組んでいきたいと思います。

行事の意味~人日の節供~

現在、和漢方のことなどを深めていて七草がゆの効能も調べています。同時にまもなく到来する人日の節供(七草の節供)の準備をしています。

まずこの人日の節供(じんじつのせっく)という呼び名は、中国では1日が鶏、2日が狗、3日が羊、4日が猪、5日が牛、6日が馬とそれぞれ獣畜を占う日があり、その日にあたる動物は殺生しないことになっていました。7日が人を占う日なのでこの日は人との争いは避け、犯罪者に対する処罰もしなかったそうです。

そもそもこの七草粥を食べる習慣は古代中国から伝来したものを奈良時代から平安時代にかけて宮中行事となり、江戸時代に「五節供」の1つ「人日の節供」(七草の節供)として幕府の公式行事となったことがわかっています。そして明治5年(1872)12月の「明治の改暦」に伴い廃止された行事です。

もっと遡れば、七草粥になったのは、室町時代になってからだともいわれています。それまでは「羮」(あつもの)といってお雑煮のような汁物、汁椀の中に七草が入ったものだったのが想像できます。この七草は中国最古の歳時記「荊楚歳時記」に「正月七日、人日と為し、七種菜を以って羹と為す」から「七種菜羹」を食べて邪気払いをし健康と無病息災を願う行事があったことがわかっています。日本に伝来してから正月初子の日に若菜を摘み取る「若菜摘み」の風習と和合し「供若菜」という宮廷行事になったともあります。「延喜式」にも「正月十五日供御七種粥料」と記されていて、米の他、粟、きび、胡麻、小豆などの穀物が入っていたそうです。それを入れた粥を食すると一年の邪気を払うと信じられていました。邪気払いですから、鬼退治などでも使われる穀物中心になっています。

話を節供に戻しますが「節句」という字になっていますが本来は「節の日に供える」という意味でした。区切りとしての「句」に挿げ替えられていますが「お供えをするこころの文化」というのが、この節句の本質であるということがわかります。

明治の歴の廃止で七草粥だけなんとなく残っていますが、そもそも節供とは何かということを理解して取り組むことでその意味を感じ効力が発揮されるようにも思います。

現代は、物質文明で科学的なものしか信じない風潮がありますが本来は目に見えない存在、私たちがいつもいただいている御蔭様の見守りや恩徳に対して感謝する心が「おもてなし」をふるまい、しつらうことで顕現していくものです。

日本人の大切にしてきた「供養」するという実践が、単なる意味もないものになっているのは残念なことです。子どもたちには、その意味を理解できるように今一度、食べるだけではなくそれを室礼したり、おもてなしする作法や道を伝承していけたらと思っています。

最後に、郷里の福岡県には、七草汁というものがあります。これは七草を中心に味噌仕立てにした汁、「カツオ菜」を使うことが特徴です。福岡ではカツオ菜や高菜は古くから親しまれてきた伝統野菜です。これが雑煮や吸い物に使われることも多いそうで名前も「カツオの出汁がなくても同じぐらいおいしい」ことからそう呼ばれいるそうです。

今週末は来客がたくさん来られます。みんなで福を分けて豊かな暮らしフルネスの時間を過ごしたいと思います。

 

2022のテーマ

昨年は、今まで知りあうはずではない方々とのご縁が広がった一年になりました。また徳積堂、和楽と古いものを甦生し、新しい場へと生まれ変わらせる機会をいただきました。そして多くの御蔭様を経て、これから英彦山の甦生に取り組むことになります。

一年に一度、振り返る機会があるというのはとても豊かなことです。節目に私たちは、今まで何をしてきたか、そしてこれからどうして生きたいかということに向き合う時間を得られます。

自分の人生をどのように使ってきたか、それが一年の経過で観てとることができます。私は選ばないという生き方を実践していますが、振り返っていると選ばない中で選ばれているという感覚を実感します。私が選んでいなくても、選ばれているという事実。そして私が選んだと思っていたら、選ばれているという事実。つまり自他一体のように、ご縁の中心に事実はあり常に「選択されている」ということがわかるのです。

これは私の生き方ですが、この方法が甦生の極意にもなっています。

別の言い方では、天にお任せして生きていくという生き方です。天が何かをさせようと私を誕生させます。その天の命に従うように自由に生きていきます。その自由に生きる中で私たちは偉大な愛に気づいていきます。他にも、偉大な恩恵、偉大な感謝、ありとあらゆる自然の恩徳に巡り会って人生を深く味わっていくことができるのです。

昨年のテーマは「感謝を磨く」でした。どれだけ感謝が磨けたはわかりませんが、当たり前に気づき足るを知る機会は今までよりも多かったように思います。コロナのこともあり、今までの既存の資本主義や経済発展という物差しと向き合って新しい生き方、「暮らしフルネス」という自著を上梓することもできました。

そしてこれからのコロナ後に入るために私たち人類の意識は一つ変わっていかなければなりません。それは今までの物質的に偏る豊を手放す決断が必要になります。私たちの先祖たちは、子孫のために徳を積みました。これは単なる発展ではなく、地球の生命と共に暮らしを豊かにしていくという道を選んだのです。これは先ほどの選ばれたという言い方にすれば、人類は地球に選ばれているのです。もう少し謙虚になって、バランスを保つ工夫をしなければこの歪は大きな揺れ戻しになって人類に襲い掛かってくるようにも思います。

ここからの一年は、私たちはどのような選択をするかでこの先の1000年が決まります。ここに人間、一人ひとりの試練がはじまっています。私もその一人として天を信じて選ばれた側の心で謙虚に道を切り拓いていきたいと思います。

最後に今年のテーマは、「いのちを磨く」ということにしました。いのちは愛そのものであり、愛はいのちを慈しみ尊重するときに顕現します。愛は人類と地球を救うものであるという事実は普遍的です。それはかつての聖人たちがみんな後ろ姿で示したものです。

時代が変わっても、人は人を愛し、愛は地球そのものを丸ごと包みます。

この美しい時間をいつまでも子どもたちや、新しいいのちにつないでいけるようにこんな時代だからこそ勇猛果敢に徳を積んでいきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。

 

漢方と不老園

昨日、久しぶりに郷里の有名な漢方医のところを尋ねました。一つには、叔父さんの体質改善のアドバイスをいただくことで、もう一つは、古の英彦山の生薬「不老園」を甦生するための相談です。

改めて、色々と発見したこともあり、少し整理してみます。

まず漢方医学というものがあります。これは調べると「狭義では漢方薬を投与する医学体系を指す。また漢方は、漢方薬そのものを意味する場合もある。広義では、中国医学を基に日本で発展した伝統医学を指し、鍼、灸、指圧なども含む。」とあります。しかし、実際に漢方医の診断を拝見していると総合診療をしているのがわかります。つまり全身の症状、体格、骨格、内臓の状態、皮膚の状態、体力の程度、生活環境、生活リズム、精神状態、自律神経、きりがありませんがあらゆるものを総合的に分析して経験や知恵を活かして直観的に何が問題であるのかを判断します。そのうえで、それを治癒する方法をあらゆる手段を用いて実施していきます。

昨日も漢方医のお話をお聴きしていたら、西洋医学で末期がんの医者が治療に来たことがあるとも仰っていました。自分たちは西洋医学で治療しているが、がんが治らないからここに来たという具合です。実際に、その医院ではがんを完治した人の話がたくさんあり、どの話も納得できるようなことばかりでした。

例えば、心の持ち方、生活の気を付け方、回復までのプロセスに寄り添いながら漢方薬を煎じていきます。時間はかかっても、確実に体質改善を行っていくのです。私が、以前、取り組んでいたコンサルティングも対処療法と根源治癒がありました。緊急のものは対処療法しますが、実際に理念や初心を含めて盤石な状態にするにはやはり時間をかけても体質改善をするしかありません。今、会社で取り組んでいる一円対話もまた未病であり、体質改善につながるものです。

ここから話を英彦山の生薬の話に換わりますが、先生と一緒にこれから不老園を復活させてみることにしています。これは山伏たちの暮らしの中心にあったもので、千数百年も前から重宝され、全国各地の病院たちを治癒したものです。

もともと山伏の生薬については、求菩提資料館にこう書かれていました。

近世の山伏は民間祈祷師であるばかりでなく、人々にとっては頼りになる民間療法の専門家でもありました。つまり、病気を治すための加持祈祷を行うかたわら、薬草・薬石をそえることを忘れなかったのです。山伏たちは、本草学に関する知識を持ち、山中で薬草を採取あるいは栽培して、さまざまな薬をつくりました。つくった薬は年に一度の檀家廻の際に配って歩き、翌年檀家を訪ねた折にもしもその薬が呑まれていれば、代金を頂くといった具合でした。「入れ薬」のはじまりです。」

明治のころから、民間医療薬が禁止されまた修験道廃止令も出て、この伝説の生薬である不老園は徐々に世の中から消えていきました。今では古文書の中にいくつか書かれているのが残っているだけで生薬はどこにも販売されておりません。

先生とお話をしていると、この不老園は特に自律神経を整える成分でできていると仰っていました。かつての山伏たちは、心身を治癒する医師たちでもありましたからこの生薬はとても人々の病気を治癒し、未病を維持するのにもとても重宝したはずです。

しかし明治の頃というのは、調べれば調べるほどとんでもないことをしていることを実感します。明治維新のことばかり話しては、やってきたことを肯定していますがよくよく吟味して否定して改善する必要性を私は感じています。歴史を変えたり、消したり壊したら、ちゃんと責任をもって日本人のためにやり直すべきはやり直す必要を感じています。

子どもたちのためにも、先人たちが人生を懸けてつないで結んできた叡智を甦生させて伝承していきたいと思います。

道心の中にこそ真の暮らしはある

最近、別々の人たちから「道心」のことを聞く機会がありました。具体的には、「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」というものです。これは天台宗の開祖、最澄の遺した言葉で一心戒文というものの中に出てきます。

この一心戒文は最澄の弟子、光定(こうじょう)がまとめたものですがこれは同じ道を歩む人たちへの心得と心構えを遺したものです。

この道心とは、以前このブログで書きましたがこれは徳を高めて道を志す道徳心です。最澄が目指した世界はどこにあったのか、これは1200年前からずっと今にいたるまで世界の人類がみんなが最終的に目指すゴールの姿も同じです。

如何に平和を譲り遺せるか、そして人は如何に思いやりに満ちた仏さまのような心を保つことができるか。人間の徳を磨き続けて、いつまでも平和の世の中にしたいと発願した人たちの御蔭で私たちは今でも平和のカタチを心に遺して学び続けていけるように思います。

もしもこのような道徳心というものを知らなければ、私たちは文明や文化そのものを真の意味で発展していくことはできません。どの時代であっても、私たちは目先の利害や損得、欲に呑まれてしまい本当の人間の幸福や豊かさの意味を忘れてしまいます。

そうならないように、お手本になること、そしてそうありたいと願う生き方の中にこそ真の教えはあります。今でこそ、宗教は何か学問とは別の信仰と区別されていますが本来は宗教は学校であり学問のもっとも磨き抜かれた道場でした。

その道場で学んだ教師、むかしは聖人といいましたが彼らが各地を巡り、どう生きることが人々の真の仕合せにつながっているかを初心を忘れないようにと伝法していたのです。そうやって、人が持つ地獄のような苦しみから解き放ち、手放すことを教え、共に実践し心と現世の幸福に導いたのでしょう。

しかし、実際にはどの時代にも人間は目先の欲に呑まれます。自戒として、最澄が「道心があるなかにこそ真の暮らしは存在する」といったのではないかと私は思うのです。

現代の人たちが理解しやすくしようとするとこの「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」の「衣食」を「仕事」という言葉に置き換えればピンと来るのではないかとも思います。

「道心の中に仕事あり、仕事の中に道心なし」

です。

仕事ばかりして生きていますが、その中に真の暮らしはあるのでしょうか。本来、人間は真に暮らしをしている中にこそ、本当の意味の仕事があるのではないでしょうか。志や理念、初心を忘れないで働く人は、暮らしをととのえて働いているでしょう。しかしそういうものを持たずに単にお金のためだけに仕事をしていたらそこに真の暮らしはないということです。

どの時代も、真理や普遍性というものは変わることはありません。しかし時代と共に、欲が形を変えていきますから私たちもまた先人に倣い対応していくしかありません。

最澄は、大乗仏教を唱え、能力のあるないにかかわらずすべての人々を救おうと志しました。そのため、誰にでもできること、特別な能力がなくてもどんな人でも救われる方法をその時代に突き詰めたのでしょう。それがこの一心戒文の中で感じ取ることができます。

私が「暮らしフルネス」を提唱し、実践し、それを弘めようとするのもまたこの道徳心を磨く、そして徳を積むことを誰でもできるようにして道心を甦生させようと発願したからです。

最後に、最澄のこの言葉で締めくくります。

「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。故に古人曰く、経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす。即ち此れ国宝なり」

道心ある人が国宝であると、徳を積み、道を歩む中にこそ平和と天国があります。宝とは、すべてこの真の暮らしの中にこそあるということです。

子どもたちのためにも、自分の志を生き、自分の道に専念していきたいと思います。

子どもたちの未来に向けて

最近、カーボンニュートラルートラルや脱炭素社会という言葉をよく聞くと思います。これは地球温暖化の原因となる温室効果ガスの排出量を実質ゼロにしようとすることやその社会のことをいいます。

産業革命以降、40%も上昇した二酸化炭素の排出量があり地球温暖化が進んでいます。先進国が優先して取り組んだ京都議定書から発展途上国も参加したパリ協定、それをもってしても温暖化を止めることにはならない計算です。

なので5年ごとに、見直しをかけるとし昨年、日本からは「2050年を目途に、温室効果ガスの排出を全体としてゼロにする」という脱炭素社会への所信表明をしています。

具体的には二酸化炭素だけでなくメタンや一酸化炭素など、温室効果ガス全体の排出をゼロにするという内容でした。そこでカーボンニュートラルという言葉が出ます。このニュートラルというのは、CO2の排出量と吸収量を相殺してゼロにするものです。つまり「CO2実質ゼロ」だとここからいいます。

出したものを差し引きするという考え方です。余談ですが、先日お酒を飲んでいたときにお酒の量と同じ量のお水を飲めば血管や心臓に負担をかけないからいいと医者に言われた話がありました。プラスマイナスゼロのゼロが実質ゼロということでしょう。このカーボンニュートラルは、温室効果ガスの吸収、および除去量を排出量から差し引いた合計をゼロにすることで温室効果ガスの排出を実質的にゼロにする仕組みです。

また排出・廃棄物を最小限に抑えつつ資源を有効活用する循環型社会「ゼロエミッション」という言葉も誕生しました。この「ゼロエミッション」は産業活動から発生するものをゼロに近いものにするために最大限資源の有効活用を目指す理念のことをいいます。つまり、完全に循環して無駄が生まれない、日本では江戸時代に誕生していた循環型社会を実現しようとするものです。

ちなみにこの「ゼロエミッション(zeroemission)」の語源は、数字の0を表す「zero」と排出を表す「emission」を組み合わせた言葉の造語で排出ゼロ構想ともいわれ1994年に国連大学によって提唱されたものです。

難しく説明しましたが、結局はシンプルに言えば過剰な産業発展で傷んだ地球を思いやるためにそれぞれの国でちゃんと考えて新しい産業構造を構築してくださいという具合です。そこに、新しいゲームルールのようなものを設定しそれぞれで競い合って取り組みましょうというものです。取り組まないものには罰則や罰金などを制裁しますよという感じでしょうか。

世界を変えるという仕組みの一つに、構造全体を換えてしまうためのルールや法規制というものがあります。私は、別の仕組みとして原点回帰というものがあると思っています。本来の原点は何か、本質は何か、真の意味での豊かさや幸福さに気づき実践して変わろうというものです。

世の中は経済が最優先ですから前者を取ります、これも確かに分かりやすく欲望も活かそうという発想です。しかし、それだけでは片手落ちです。私は後者の真の意味でというのが大好きなので暮らしフルネスを提唱するのです。

今、全世界全人類が同じ課題に取り組む必要がでてきた時代でもあります。新しく懐かしい生き方、そして働き方、暮らし方を子どもたちの未来にむけてここから提案していきたいと思います。

暮らしフルネスの実践

現在、気候変動をはじめ環境問題は待ったなしで人類に大きな影響を与えています。もともとこのままでは環境破壊が自然の回復スピードを超えてしまうということはずっといわれ続けてきたことです。

言われはじめてからも人類の多くは聴き入れず、今のような時代にまで入ってきました。環境問題は人間の問題であるとはわかっていながらも具体的な解決策を外へ外へと求めては自分自身を変えようとは人間はなかなかしないものです。

それは自分一人が変わっても世界が変わらないと思っているからかもしれません。しかしそれは現象や物体に対しての影響のところだけで、実際には人間の意識や価値観、一人一人の中の変化がなければ最終的に世界が変わることもないのです。

一人一人の変化というのは、話を聞いて頭で理解しただけでわかるわけではありません。それはわかったという気にはなりますが、具体的な暮らしや生き方が変わっていかなければ結局は真の意味でわかることはないのです。

真の意味で自分が変わることが世界が変わることなのかと気づき理解するとき、人は自分自身のそれまでの人生を向き合う必要がでてきます。それは今まで自分が何をやってきたのか、いったい何を学んできたのかという大きな労苦との矛盾に出会います。人間はそれだけしてきた苦労を簡単に捨てることはありません。今更手放すことはとても大変なことなのです。なので人間は理解を線引きしとどめ、そこからの深い学びを止めてしまうように思うのです。人間が学びを止めるから、世界の変化もそこまでで止まってしまいます。これはとても悲しく残念なことです。そしてこれが環境問題がいつまでも真の意味で解決に向かわない根本原因でもあるように私は思います。

人間がその問題に素直に対応するためには、具体的な生き方や実践をみんなで一緒に取り組んでいく必要があります。そうやって今度は、意識をみんなで変化させていくのです。そのためにも学びを止めるわけにはいきません。

私が暮らしフルネスを提唱したのは、足るを知る暮らし、心が満ち足りた生き方をすることの実践が環境問題も解決すると確信したからです。人間が真の意味で心豊かであるのなら、この世の環境問題は発生しないことに気づいたからです。

人間が変わるということ、これ以外に世界が変わることはありません。そしてそれは誰かのせいにしたら永遠に変わりません。すべての環境問題が一人一人の意識の改革にあると気づき、具体的な暮らしを変えたときだけこの人類の文明は真の意味で平和に向かって転換するのです。

子どもたちの平和な未来のために、諦めずに暮らしフルネスの実践を楽しんでいきたいと思います。