変化の最中

先日、終わりがはじまりということについて書きました。これは「今」というものを中心軸に物事を捉えるとき、始まりと終わりは常に表裏一体ということの意味です。同様に明暗も陰陽も、上下も左右もその中心は変化その最中に存在します。

そう考えるとき、変化とはその両方が移り変わる瞬間に発生していることに気づきます。それが終わりが始まりであり、始まりが終わりである証明です。

しかし人はそれまでの過去の習慣を変えられず、今までと同じように終わりをそのままに終わり、始まりもそのまま終わらせてしまうものです。つまりは何も始まらずに何も終わらないという状況になって停滞してしまうものです。

せっかく頑張って始めたものもそのまま終わってしまえばそれは始まっていなかったことになります。そしてそのまま終わらせてしまえば始まりもなかったことにしてしまいます。

何かをちゃんと始めるというのはその分、同時に何かをちゃんと終わらせるということを意味するのです。つまりは今までの何かを終わらせてはじめて、始めることができるということになります。今までのものを持ちながらその手に新しいものを持つことはできません。もしも両方に持つのであれば、その両手に持てないものはどこかに置くか誰かに渡さなければなりません。自分が持つしかないと思い込んでいつまでも手放すことができなければ、いっぱいいっぱいになったその手には新しいものを持つことができなくなります。器と同様に、その器に何を載せるか、私たちはそれを転換しながらその時代を生きているからです。

さらに人間には決して終わることがないこと、終わってはならないものというものがあります。それが変えてはならないものであり、変わらないもののことです。これは理念や初心、目的や信念、道などもそうですがこれは始まりも終わりもない永遠のものです。

しかし時代は変わっていき環境も変化していくのだから、何かが始まり何かが終わるのは世の常です。その時にいつまでも過去にこだわり、それを手放さずに変化しなければそのまま時代と共に淘汰されてしまいます。それが自然の理だからです。だからこそ、過去にそれがいくら良かったとしてもあるときに次への挑戦がはじまるときその功績や成功を手放さなくてはなりません。いや、むしろその成功事例や功績こそを手放さなければ終わりがはじまりにならないからです。

変化と永遠は、温故知新する中で常に向き合う大きなテーマです。諺に、「創業は易く守成は難し」とありますがはじめることよりも終わりを始まりにしていくことの方がよほど難しいことなのかもしれません。

引き続き、次世代の子どもたちの環境のためにも変えていくことの重要さを実践により伝承していきたいと思います。

EQとSQ~非認知スキルの意味~

現在、世界では教育改革が進められ今まで認知スキルが優先されていたものから非認知スキルが重要になってくるとし各国の教育現場ではアクティブラーニングをはじめ様々な取り組みがはじまっています。

このEQとは、Emotional QuotientまたはEmotional Intelligence Quotientの略のことで「感情知能指数」とされ「自分自身と他の人達との感情を理解し、自らもモチベートし、自らの感情と他の人達との諸関係を効果的にマネジメントする能力」というように定義されています。

このEQ能力の概念の創始者であるピーター・サロベイ教授は、EQ能力を「人生をより良く生きるために必要な能力」としています。さらにそれを発展し、SQ能力というものが言われ始めました。

このSQとは、Social Intelligence and the Biology Quotientの略で、「社会性の知能指数」とされ、「職場内の意欲や他者の能力を引き出すもので、対人関係や社会性に関わる神経回路と内分泌系に支えられている」としています。さらにSQは、Spiritual Intelligence Quotientの略で魂の知能指数ともいわれることもあります。心や魂を成熟していく力とも読み取ることもできます。

簡単に言えば、学んだことを活かす力とそれを周囲の人々と協力して社會を思いやり持続可能にしていく力とも言えます。人類は今、岐路に立っていることもここからわかります。

かつてはIQ能力といってIntelligence Quotientの略ですがこのIQが高ければ高偏差値につながり、ひいては高学歴につながり、高学歴が高収入につながるという時代もありました。いい学校に入りさえすれば将来が約束されているという時代の学校の在り方と、今のように社會を形成する実力が必要になった時代の学校の在り方ではその場や環境、そのほかの存在意義が全く異なってきます。

なぜいまこのEQやSQが必要になったか、それは個人主義が蔓延しそれぞれが好き勝手に生きていけば社會が壊れていきます。社會があっての時分ですから如何に善い社會、好循環の社會を築きあげていく人物、もしくは会社が社會に必要不可欠になってきたことを証明しています。

日本ではかつては地域社會がちゃんと機能しており、子どもたちは地域が見守り育てていく場がありました。誰もが他人事ではなく、子どもは地域みんなの子どもだとしそれぞれに思いやり注意し、関心と愛情をもって育ててきました。その中で子どもたちは自然にEQやSQも高まっていったともいえます。

しかしその地域が消失したことにより、その能力が急激に失われそれを学校で担おうとなったのです。これは産業界や企業界からの要請であるのはOECDの調査や方針からもわかります。

企業においても今は、協働することや他を思いやり共感することなどが失われ働き方改革などと言われ取り組まれていますが、本来の地域社會の甦生のような抜本的な改革はあまりなされておりません。

私たちの実践する一円対話はそれを解決するものであり、子どもたちにEQやSQを身に着けていくための場や環境を醸成するものです。時代が変わり、暮らしも失われ、当たり前にあった力も失われていきます。何を変えて何を変えてはならないか、温故知新しながら私たちの役割を果たしていきたいと思います。

調和する生き方~ベテランの意味~

歳を経ていくと、体験を積んだ分の知識が増えていくものです。そして歳をとっていくのだからそれだけ様々なものが身に着いていきます。人は誰しも最初は新人で、その後、中堅などと呼ばれ、最後はベテランなどと言われます。それは経験年数と共に、それだけの経験と知識が増えていき立場や肩書なども変わっていくからです。

先日、ある人から老害という話を聞きました。そういうこともあるのかと私にはとてもショックな言葉でしたが、謙虚さを失えば誰しもそう呼ばれるかもしれないと感じたものです。

老害という言葉を辞書で調べると、「自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪。」と書かれています。この対義語には老益というものもあり、主に「チームへの貢献度が高いベテラン選手、全体や組織への貢献度が高い経験豊富な謙虚な老人」ということでしょうか。

同じベテランでも、いつまでも自分が自分がと自分が全面的に前に出てしまい自分が正しい、自分がリーダーだといつまでも先頭でやろうとすると周りが育たなくなっていくように思います。逆に、自分よりも全体を思いやり若い人たちや経験が足りない人たちのフォローやカバーに入ることで次世代を育てたり、大事な局面で心を支えたりすればベテランとしての価値が引き出されていくようにも思います。

人間は誰しも老人になっていきますが、自分自身が今、どのような状況なのかを客観視し、自分自身がどうあることがもっとも全体の役に立つのかを考えて行動するにはやはり謙虚さや素直さが必要になるように思います。

そしてこの謙虚さや素直さは、感謝の豊かさと徳の積み方によって磨かれていきます。

経験することで何を磨いてきたか、老いていく中で何をそぎ落としてきたか、それが歳を経た時に顕著に顕れるのかもしれません。私も老いていますから、いつまでも過去のままでいることはできず降りていく時季を迎えています。尖がったり、偏ったりが磨かれて調和されて一円になる時期です。

降りていく時だからこそ「人は皆わが師」であると尊敬し心を高め、自分自身を謙虚に見つめて素直な感性を常に磨き直していきたいと思います。

 

終わりは始まり~はじまりの有難さ~

実践とは継続をすることですが、継続するのは目的を忘れないということでもあります。何のためにやるのかということが明確であり、そのために努力する人は自然体で日々に精進していくことができます。しかしこの目的がはっきりしていない人は、終わらせることが目的になったりしていますから何かが終わればすぐに気が抜けて継続が止まってしまいます。

目的がはっきりしていないから、楽になりたくなるのであり、楽になりたいために終わらせようとします。目的を忘れ頑張れば楽になると頑張っていけばいくほど、早く終わらせて楽になりたいという欲求にかられていくものです。

よく理由も精査せずに、やりたくないことをやらされてきてそれに抵抗して頑張ってきた人ほどこの終わらせたいという気持ちは強くなるのかもしれません。しかし少し考えてみれば分かりますが、この世の中に終わるものなどはないことがわかります。

太陽が毎日沈み、翌朝出てくるように寝て起きれば朝がくるようにこの世は循環して終わることはありません。これは死ねば終わりと思う人もいますが、植物のように枯れてもそれは肥料になって次の代の生になりますから人間もその人が周囲のための甦生循環の一つになります。

それなのにいちいち終わらせてしまっては、繋がりが途絶えてしまうからご縁が分からなくなるだけではなく内省して学ぶ循環が途切れてまた同じことばかりをしているような気持になってより疲れてしまうのです。

本来、終わりなどはないのだから継続するというのはつながっているものを辿っていると思ったり、これがどのような好循環になっているのかを思いその循環をより活性化していくためにその出来事は一つのプロセスだと思うことです。

そのように意識が切り替わるのならば、継続することが当たり前になっていきます。やったりやらなかったりするのは、すべてはつながって存在するということを自覚できていないからです。周りをみては、評価を気にし、みんなの期待や失敗や挫折を気にするからそれを終わらせようとして評価されるまでを頑張ろうとしますがそんなことを繰り返していたら不安と恐怖で新しいことをやることが楽しくなくなってくるかもしれません。

なんでも終わりばかりを気にするのではなく、これは始まりなのだと意識を変えるだけで継続することができるようになります。終わらせることが目的ではなく、目的は続いているのだから常にはじまりであると実践していくことが、楽ではなく楽しいを選んだことになります。

楽を目指して頑張る人と、楽しいを味わい努力する人では一生の間にとても大きな生き方や生き様の差が出てきます。それは人生の磨き方が異なるからです。どうせ磨くのなら、早く磨いて終わらせたいではなく磨くことそのものが仕合せだと感じることが自分を玉にしていくように思います。

引き続き継続の面白さ、「はじまりの有難さ」を感じながら子ども第一義の実践を味わっていきたいと思います。

人生の創作活動

人は自分という存在を自覚するのは、周りの人たちのことを深く知ることで理解できるものがあります。どのような家族や友人や仲間に囲まれているか、その環境の中で自分自身が形成されてきたことに気づきます。自分が今、自分を自覚できるのは与えられてきた環境やご縁によって自分自身になったともいえるからです。

そう考えてみると、自分はこれまでどう生きてきたか、そしてこれからどう生きていくかという事も考えていくことができます。生まれながらに恵まれた環境を与えられて、善い人、善い友、善い教えに触れてきた人は仕合せに気づきその恩恵に感謝しながら肯定的に生きていけます。しかし時として恵まれない厳しい環境を与えられてしまい、善いものに出会えない場合はなんでも否定的にしてしまうことがあります。

人生は巡りあわせではありますが、どのような道を生きてどのような人生を送るかは生れ落ちたところで決まります。与えられた場所に感謝して、その場所をもっと善くしていこうとする努力こそが人生の醍醐味であり、そこに不平不満を言って腐っていても何も変わることはありません。

自分自身を変えるということは、今の自分を創り続けるという努力が必要になります。それは日々に感動や感謝、そして感激をする心、感性を磨き、心を瑞々しくし続ける努力とも言えます。心が閉ざされて感情も冷めてしまえば、与えられた環境を活かすことができなくなります。また同時に環境を感じる力がなくなり、環境に流されてしまうようになります。

人間は環境を創造していくことができる生き物ですから、与えられた環境下の中で如何に五感を研ぎ澄まして自分自身を毀していくかは人生の命題であり、それぞれの大きないのちのテーマです。

人生は死ぬまで自分自身を創造していく創作活動です。

子どもたちにもその後ろ姿から何かを感じ取ってもらえるように精進していきたいと思います。

四時ノ循環

吉田松陰に「留魂録」というものがあります。これは処刑直前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた弟子たちや同志へ向けての遺書とも言えます。

その中の第八節に四時ノ循環というものがあります。原文を紹介すると、

「 一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ」

「今日死を決するの安心は四時の順環にい於いて得る所あり。
蓋し彼の禾稼(かか)を見るに、春種し、夏苗し、秋刈り、 冬蔵す。
秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り、 醴を為り、村野歓謦あり。
未だ曾て西成に臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。
吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず實らざるに 似たれば惜しむべきに似たり。
然れども義卿の身を以て云えば、是れ亦秀実の時 なり、何ぞ必ずしも哀しまん。
何となれば人寿は定まりなし。
禾稼の必ず四時を経る如きに非ず。
十歳にして死する者は十歳中自ら四時あり。
二十は自ら二十の四時あり。
三十は自ら三十の四時あり。
五十、百は自ら五十、百の四時あり。
十歳を以て短しとするは蟪古をして霊椿たらしめん と欲するなり。
百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪古たらしめんと欲する なり。
斉しく命に達せずとす。
義卿三十、四時巳に備はる、亦秀 で亦実る、その秕(しいな)たるとその粟たると吾が知る所に非ず。
もし同志の士その微衷を憐み継紹の人あらば、 乃ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ぢざるなり。
同志其れ是れを考思せよ。」

自然界と等しく、いのちは永遠に循環しているものです。いつがはじまりでいつが終わりか、そんなものは本当はないに等しいものかもしれません。そう考えてみると、すべてのいのちが循環を已まないようにあらゆるいのちはその使命を全うしているともいえます。

そしてそれは傍から見れば、早死にした人であっても、結果がうまくいっていないように思われたとしても、その人にはその人の大切な役割があり、それを果たしているとも言えます。

同志や仲間たちに死を恐れさせず、自分の天命を全うせよと自分のいのちの最期に語り掛けて至誠であり続けよと教えます。塾生たちと一緒に、そして同志たちと一緒に、自分のすべての生命を受け容れ全うしようとする純粋な魂には感動するものがあります。

思想や志は、たとえ体躯が朽ちても永遠に遺るものであるのは循環が証明しています。如何に好循環を産み出すかは、その人の生き方と生き様次第です。

循環を忘れないようにいのちのままに魂を磨いていきたいと思います。

豊かな苦労と時間

昨日、吉野杉樽に漬けこんでおいた高菜の手入れを行いました。今年は収穫量が少なかったため、いつもの4分の1しかなく貴重な存在になっています。郷里の伝統の堀池高菜の甦生のために固定種の種を蒔き、樽にそれまでの菌を住まわせ環境を用意して6年以上になりますが今では暮らしの一部になっています。

手塩にかけて育てるという言葉もありますが、漬物は塩を入れて何回も何回も漬け直すことでいつまでも美味しく食べられます。そして樽もまた、塩分濃度によって発酵もすれば腐敗もしますから常に塩を入れ続けなければなりません。

特にこの青菜のものは、日ごろから食べようとするとあまりにも塩分が強いと塩辛くなりすぎて食べれませんから適度な塩分が必要になります。適度な塩分というものは、手間暇をかけて見極めていく必要があります。

当たり前に食卓に出てくる漬物一つでさえ、種を蒔き育苗をし、生育を見守り収穫をする。その後、道具や高菜を洗い天日干しをし、漬けこんだら何度も何度も漬け換えをする。その年月は最低でも一年以上、もう6年物の高菜は6年間それをずっと続けていることになります。

苦労と時間をかけてつくられていると感じるからこそ「もったいなく」感じ、そこにぬくもりと豊かさを感じます。

今ではお金さえあればなんでも買えて余剰にありすぐに捨てられるような環境がありますが、この手間暇の苦労と時間はそこには感じられないものです。自分で作物を育て、自分で食べるものを用意し、そしてそれを美味しく食べるという原始的な活動は、目には見えない苦労や時間を味わう貴重な存在として暮らしを豊かにしていきます。

本当の豊かさに気づいて、如何にそれを今の時代とのバランスを保っていくかはこれからを生きていく子どもたちの課題でもあり、今を生きる私たちの命題です。

引き続き、豊かな苦労と時間という実践を積み重ねながら本来の豊かさの意味を暮らしの大切さを子どもたちに伝道していきたいと思います。

守る=変わる

理念の話をしていると、よく「自分には理念などない」や「理念がなくても経営はできる」という言葉をいただくことがあります。確かに、今まで考えることもなく、そんなに理念理念と声高に言わなくても大きくなってきた組織や、上手くいってきた会社ではそんなものはなくても問題がなかったという声もあります。

この理念という言葉は、あまり聞きなれないものであり最初は理念から考えて取り組むということをちゃんとやっているところも少ないと思います。確かに私も普通に仕事をはじめてからはそんなに理念のことを考えなくても、目の前に与えられたことを必死にやるだけで精一杯の時期を体験していたのを思い出します。

しかし、仕事を覚えていく中でいくつもの困難や壁にぶちあたります。その中でどうしても判断基準や拠り所が必要になり次第に理念のことを考えるようになってきます。そもそも何のためにやるのかや、本来これはどういうことなのかと、仕事が本物になればなるほどにそのことが必要になってくるからです。

そして変化を迫られます、自分がそのままではどうにもならないことに気づくのです。そして変化と向き合うとき、同時に理念というものに向き合うことになります。なぜなら変化とは、守るべきものがあることに気づくときに発生するものだからです。

これは変えてはならないというものは、言い換えるのなら「これは守られなければならない」というものです。それを信条ともいい、信念ともいい、その目的そのものだったりします。それがなくなれば元も子もない状態になるのはすぐにわかります。そしてそれを守ろうとすると変わることを恐れなくなっていきます。

つまりは変わる人というのは、守るものがあるからこそ自分が変わらなければならないという状況になるということです。そしてその守るものこそが理念であり、理念経営とはつまりは守るためにみんなで変わっていこうとする仕組みのことです。

これをもしも逆にすればどうなるか、変化を恐れ自分を守ることを最優先して大事な守るものは守らないとなると滅びてしまうのは自明の理です。だからこそ「自分は一体何を守っているのか」という言葉を常に自分に問いかけ、本当に守りたいもののために変化を恐れずに取り組んでいくことが「守る=変わる」ということになります。

大切に守るものがあるからこそ人は変われます。

その守るものをみんなで守ろうとすること、それが理念を実践するということです。時代が変わっても環境が変わっても、結局は人は生き方と生き様です。人を守れる強さとは生き方を守れる強さのことです。

引き続き子どもたちの今を見守るためにも理念経営の実践からの気づきを子どものいる周囲へと伝道していきたいと思います。

理念=経営

企業をはじめすべての組織には、その組織を創るための目的というものがあります。何のためにそれを創り、そして何処を目指していくのかといったものですが目的と方針、方向性こそがその組織の運命を決めていきます。

またその組織で働く人たちは何かの判断をみんなで決めて協力していくとき、拠り所にしていくものがあります。それは原点でもあり、物事のはじまりに決めた初心だともいえます。

こういうものを理念と呼びますが、その理念を持ったままにみんなで力を合わせて協力して働くことを経営と呼びます。

つまりは本質として「理念=経営」であり、「経営=理念」です。これを勘違いして理念と経営を分けている人がいます。それは分けたのは経営者であり、経営者は「自分=理念」だと思い込んでいるからです。

経営者も組織の中の一人であって目的に向かって一緒に働く全体の一部です。組織の目的と方向性をその組織のだれよりも鮮明に明確に観えており、みんなが判断に迷ったときにそれを示唆したり、導いたり、思い出させたりするのが経営者の役割です。

理念があって働ける仕合せは、日々の経営の生き甲斐とも言えます。生き方と働き方とは、言い換えるのなら理念と経営のことです。それを一致させていくというのは、言っていることと遣っていることが一致しているということです。まさに理念経営とは言行一致のことであり、偉大な目的に向かってみんなで協力してその目指したところまでを言語化し明文化して、一人ひとりがはっきりと自分自身で観えるようになるまで浸透していることで実現します。

これを誰か任せにしたり、自分は知らなくてもいいとしていたらいつまでもその目的が達成されることもなく、またバラバラになって組織は次第に崩壊していきます。さらには言行不一致になれば不平や不満、正直者が馬鹿をみる組織になり次第にみんな諦めてその組織は腐っていきます。

生き方と働き方が分かれているということは、生き甲斐と遣り甲斐が分かれているということです。そんなものは本来なく、生き甲斐と遣り甲斐が一致するからこそその両方は成立するものです。

だからこそ大事なのは、理念経営を実践することだと思います。

それを邪魔するものは、マンネリ化であったり、歪んだ個人主義であったり、経営者の独善であったり、伝えられなかったり、振り返りがなかったり、そんな時間すらも設けていなかったりと色々と理由がありますが、本来、その組織の本質に立ち返ることが理念経営にしていくということです。

経営という字の本来の意味は、続いていく営みです。つまり永遠の営みとも言えます。理念経営とは、理念が永続していく仕組みのことです。組織はその時々で変化してひょっとすると滅んでいくことがあるかもしれません、それは国家においても然りです。

しかし滅んでも滅ばないで続いていくものこそが理念であり、それを実践することが理念経営の本質です。大義や信念、そして道を子孫へとつなげていくのが今を生きる私たちの使命ですから自分の代の私腹を肥やすための理念経営などはありません。

引き続き、子どもたちのためにも目的に向かって生き方と働き方、生き甲斐と遣り甲斐の組織を世の中の広め社會をさらに豊かにしていく手助けに邁進していきたいと思います。

 

配慮の学び直し

人間は自分の思ったこととは別に配慮というものがあります。この配慮の字を分解してみると「慮る」という言葉と「配る」という言葉でできています。似た言葉に気遣いという言葉がありますが、気を遣うのと心を慮るのもどちらも自分自身が相手に行うだけではなく、相手のことを自分が思いやるときに用います。

人は、自分の思い通りに自分勝手にやろうとすると思いやりが欠けていきます。自分都合の気遣いや配慮は、それは気遣いや配慮ではありません。相手が自分のことを心配してくださっていると感じたり、自分のことを気遣ってくれているというのは心を用いて感じます。

よく配慮に欠けるという言葉もありますが、これは思いやりが足りていなかったということです。ここでも思いやりは、どれだけ全体のことを気遣ったか、どこまで観通していたかということになります。

つまり配慮とは自分を中心に自分だけの小さな視野で物事を観るのではなく、全体を観て広い視野で物事を観るということです。

また前提に自分自身が周りのことを信じているからこそ相手を思いやれ、疑っていれば思いやりに欠けます。相手がもしも自分だったらと、自分を相手の立場になって慮る、つまりは相手の心を勝手に思い込んだり決めつけりするのではなく、相手の心になってみる、相手がもしも自分だったらと共感するときに人は配慮ができていきます。

共感というのは、自他が分かれていない境地だとも言えます。それは相手が自分、自分が相手という思いやりが一緒一体になっている状態です。そしてそれが全体の一部になっている自分があり、自分自身が全体そのものであることなるのです。

それを調和とも言いますが、調和はみんなの配慮が折り重なって発生していきます。自然界は、自分の分度を決め、分を弁えます。自分の分を超えてしまえばそれが周囲に影響があることを知り、それが巡り巡って自分に帰ってくることも本能で自覚しています。

人間の配慮なき行動は自然を揺るがせています。

そう考えると、配慮は人間が学び直すうえで大切な徳目です。引き続き、自分自身と全体を見つめ学び直していきたいと思います。