徳積の生き方

先日、ダスキンの社長を務めた駒井茂春さんの言葉を知る機会がありました。その中の「損の道」の話は、私の徳積財団の思想と非常に近いものを感じて新しい時代を感じました。本当の意味で、この損の道を理解している人はどらくらいいるのでしょうか。今は、得が全体を覆ってしまっていますから余計にこの損の本質を理解することが難しくなっているように思います。

改めて、駒井茂春さんのこの「損の道」の言葉から深めるきっかけになればと思います。

「世の中には損の道と得の道があるのですが、得の道を行こうと思ったら満員電車です。損の道を行ったら、ガラ空きなのです。損の道とは、自己を大いなるものに没入させながら損得勘定にとらわれず、他人のために努力する。そういう生き方です。」

真心の生き方は、まさに正直であり誠実です。その道はガラ空きですから周りに人はいませんがすれ違う時に深く心に残ります。まさに損得勘定ではなく、天を相手にした生き方がここから感じられます。

「人生というものは、『出しただけしか入ってこない』というのが私の結論です。何を出すのでしょうか。それは、モノを出すこともあるでしょう、お金を出すこともあるでしょう、知恵を出すこともあるでしょう、汗を出すこともあるでしょう。何でもいい、人さまのお役に立つために一生懸命に出したら、その出しただけのものは、ちゃんと神さまから入れていただけるということです。」

出し切るというのは、全身全霊で丹誠を籠めて取り組むということです。その時、無私は利他になり万物一体善、自他一体の境地に入ります。まさに自然体そのものでお役に立てるように私も思います。

「野越え、山越え、歩いただけが人生です。人生ははるかな旅路と言われますが、
どこへ行ったかということより、どんな旅行をしたかということが大切です。ゴールよりも、野越え、山越え歩んでゆく一日一日のプロセスこそ人生の旅です。今日こそは、新しく生まれ変わるチャンス。悔いのない一駒一駒を、大切に真剣に歩んでゆきたいものです。」

まさに生き方のことで、一期一会にご縁を活かしたか。そしてそれを内省し、自分が体験したことを真摯に深くじっくりと味わったか。人生の充実はまさにこの日々のいのちの使い方が決めているように思います。

最後に、父からかつて紹介していただいた駒井茂春さんのメッセージ「自分から」を紹介して終わります。

「あなたから先に話しかけましょう。あなたの方からにこやかに笑いましょう。あなたの方からいさぎよく赦しましょう。あなたの方から勇気をもって詫びましょう。

『自分が変われば相手が変わる』

あなたが相手にこうしてほしいと思うことをまずあなたが実行することで世の中きっと楽しくなると思うのです。」

徳積とは、この磨き続ける生き方のことです。1000年後の未来に向けて、この今を大切に過ごしていきたいと思います。

自然のリズム~時間を味わう~

今回の新型コロナウイルスの終息後の新しい戦略をどのようにするかを、改めて今を見直しそれぞれのリーダーたちが見つめています。そもそも理念があり、ブレずに取り組んできている方々は、今回の機会を好機と捉え時代に合わせて自分たちの大切なものを守るために変化成長の大切な時を過ごしていると思います。

私たちもまた、今までやりたかったことをさらに発展させ新しい事業と取り組みの準備をはじめています。

特に昨年スタートした「暮らしフルネス」は、私たちの今まで保育で学んできたことの集大成を整理したものです。

子どもたちは、生まれながらに社會を創ろうをしていきます。赤ちゃんで産まれてからすぐに周囲の家族とコミュニティを形成し、その後は集団の中で友達をつくり自立した環境を創造していきます。

安心安全な環境があれば、自由に伸び伸びと子どもたちは自分たちのやりたいことを仲間と一緒に実現していくための社會を学び創造します。その環境の中には、生活のリズムがあり彼らにしか捉えていない時間軸があり、まさに時を味わい時と共に歩みます。これは自然界のリズムと同じく、私たちの生命は自ずから自立と協力に向かって成長しようとしていきます。

それが歳を重ねて様々な教育を施され知識が増えて現代社会の影響を受けるうちに大人になり時間管理をするようになり、次第に時間を味わうことが少なくなり忙殺されていくようになります。自然のリズムよりも人間の管理するリズムになっていくことで、心がうまく調律することができません。

本来、暮らしというものは自然の中に存在するものです。それを充分に味わうことは、暮らしを楽しむことです。時間というものの認識がズレてしまれば、自ずから暮らしは遠ざかっていくものです。

改めて、私たちは立ち止まった時、そこに別の時間が流れていることに気づくはずです。それが自然のリズムであり、そのリズムに沿って時間を大切に過ごしていく仕組みを私たちは暮らしフルネスの智慧として取り込みました。

これは私が保育で学んだこと、古民家で学んだこそ、自然農で学んだこと、伝統保存食で学んだこと、伝統工芸で学んだこと、そしてブロックチェーンで学んだこと、それらの徳がすべて凝縮されたものです。

時代は私の思っていなかった方向に進み、まだまだ大きなお役目をいただけそうな予感がしています。丁寧に、初心を忘れずに取り組んでいこうと思います。

時代のうねり

世界ではロックダウン後の終息宣言をする国家が増えてきました。医療崩壊を防ぎ、緩やかに感染を収めるという目標が達せられたところからアフターコロナでの新しい戦略が生まれ始めています。

まずは中国がいつものように今回の災害を活用して強かに経済活動を5Gに懸けて世界を席巻しています。なんでも使えるものは使い、どんな機会でも利を求めていく生き方はまさに大陸の産んだ文化です。

私たち日本人は、島国で育ち、自然と共生しながら質を追求してきた民族ですから利よりも暮らしの充実を求めていくようにも思います。自然に恵まれ、豊かな四季が暮らしを支えますから私たちは自然に心を研ぎ澄ませていきます。

コロナで世界が一度、立ち止まり、このあとどのように生きるのかをみんな向き合う機会を得ました。立ち止まり振り返った人たちは、コロナの前の元の姿に戻ることを求めず、コロナ後の新しい時代を創ろうとします。まさに私たちはコロナの御蔭で時代が変わる瞬間に立ち会ったと言えるように思います。

コロナ後の生き方と新しい働き方は、私たち人類の運命を易えるように思います。その運命には、つながるということの意味、一緒に生きる意味、集まることの意味、生きることの意味、働くことの意味が重なります。

今まででできなかったことを、新しいステージでもう一度やり直す。そしてそれは、過去の反省を見つめ直し、これからをよりよく生きる挑戦がはじまるという時代のうねりです。

この時代のうねりを活用して、私も子どもたちが100年後から振り返ったときあの決断の御蔭で今があるというようなものにしたいと思います。積小為大、まさにこれから私たちが取り組むのはその最初の一歩です。

アフターコロナの面白く豊かな暮らしフルネスを、カグヤと共に歩んでいきたいと思います。

徳積循環社會の実現

私は、徳を磨くことの一環として人が捨てたものを拾うことを実践しているように思います。それは決してゴミ拾いが好きだという意味ではなく、まだまだその徳が活かせると思えるもの、磨き直せばきっと何か徳が出てくると思えるようなもの、また寿命が尽きる最後まで一緒にお役に立っていきたいと思っているものを拾っているように思います。

それはそこに「徳」が残っているからです。

徳を捨てて私利私欲の得を取るのが今の世の中ですが、本来は得(私利)と徳(利他)がセットになってはじめて全体の道徳経済は一致していくように私は思います。資本主義が偏ってしまったのは、徳ばかりが失われて得ばかりが優先されてきたからに他なりません。

私は決して資本主義を否定するものでもなく、現在の経済も決してダメだとも言いません。実際に私もその恩恵の中で暮らしを育まれており、お金の御蔭で多くの味わい深い幸福も得ています。

しかし否定していませんが、本来の資本主義を完成させるためにも徳循環経済をもっと大きくしてバランスを取る必要があると思っているのです。だからこそ徳積財団を設立し、徳積の仕組みを発明し先進技術によってそれを実現しようとしているのです。

同時にこの徳積は理解がなかなか難しいものでもあります。なぜなら利益中心の世の中においては、無私の発想で放たれる徳の経済の考えは照らし合わせるものがないからです。

長い目でみれば、徳は必ず経済には必要不可欠であることはわかります。しかし現代のようなスピード社會では、その価値はなかなか理解されません。着眼大局、着手小局と先達の人物たちは取り組みましたがなかなかそのような人物が現代では巡り合うことがありません。

世の中の価値観に振り回されてしまい、また組織が大きければ大きいほど、その時代の価値観の影響を受けてしまい取り組むことができないからです。

だからこそ今は、小さい組織で信念で価値観を醸成できるチームを分散させ、その人たちによって草莽崛起するように徳循環の社會を創造していく必要を感じています。

まずはここで自分でやり遂げ、その志を継いでくれる人、仲間を集めてみようと思っている次第です。

引き続き、徳積循環社會の実現に向けて挑戦していきたいと思います。

船頭の舵捌き

今回の新型コロナウイルスの感染症で、私たちは新しい常識と向き合うことになります。それは単にコロナと共に生きていくというだけではなく、人類のこれからの在り方の方を真に見つめることになるということです。

人類は、全世界で立ち止まる機会を得ました。こんなことは奇跡に近いことで、只管に自転車操業していたペダルを回すのを少しやめてみるという機会です。私たちの会社は、前回の東日本大震災のときからペダルを止めて、小舟に乗り換えてゆらゆらと大河に身を任せてここまで来ました。御蔭で、今回のことがあってもそんなに大きな意識の変化の影響はなく、来るべき時が来たかという具合でみんなで一緒に味わいながら歩んでいます。

しかし周囲の濁流もあり、流れる速度が速くなってきて小舟もまた風に吹かれて速度が上がってきています。これから小舟はどう対応していくのか、それが船頭さんの舵捌きにかかっています。

振り返ればうちの会社は創業以来スリル満点でしたから、またいつものようにこのスリルを味わいつつどのように小舟が子どもたちを渡していくか、日々に正対しています。

この舵というものは、船にはなくてはならないものです。そして舵の本来の役目は、方向を変更するためにあるのではなく「直進するためにこそある」といいます。つまり、曲がらないように保つためにあるのです。

目的地に向かって、船は進みます。しかしもしも曲がってしまったら、目的地にはいけません。曲がらないようにするには、舵を調整して曲がっりそうなものを直進するように元に戻す力です。

つまりは、ブレないように前進するために舵を捌くのが船頭の本当の役割ということです。会社も同様に、何かの有事において曲がりそうなとき、また直進するために調整する。そして最終目的地まで導くという大役です。

カグヤはこれからも子どもたちの100年後のために、私たちの働き方や生き方を譲り遺していきたいと思います。

ご縁の奥深さ

私は起きている出来事に従ってそれを深め、意味を紡ぎ次を計画をしていく傾向が強いように思います。シンクロニシティというか、その時々の点を結び、それに従って決断をして行動していきます。

時としてなんでこうしたのだろうかと感想を持ちつつも、初心や理念に照らしながらブレないように修正をかけていきます。しかし、時として先のことを予想して決断しなければならない時があります。

それが今のような感染症の拡大後のこれからの世の中への対応です。もしもに想定して、ありえないことにまで悲観的に現実を自分に突き付けて想定外を考え続けていきます。

その時々に、後悔しないか、そして10年後、100年後から今を観た時にこの決断は果たしてどうであるかと正対するのです。

短期的に対処していくことと、長期的に対応していくことがあります。短期的な対処は、今、コントロールできることに集中して取り組んでいくことです。余裕がなくならないように、視野が狭くならないように日々に決断していくしかありません。

長期的な対応においては、周りが理解できないようなことを判断していきます。逆算した時に、今の判断は果たして100年後にはどうなっているのかと自問自答して精査していく必要がります。それは不確定な未来と向き合うための心魂の試練です。

人間には頭ではなく心で観えていた世界があって、それが環境の変化で一時的に靄がかかり照合できなくなりますが霧が晴れれば元の世界のように次第に明瞭になっていきます。それまでの間、如何に心を信じて待ち耐えるか、そして目を閉じたままでも足元の実践を続けていくかがその後の結果を決めていきます。

ある意味で、ご縁には時空を超えたものがあります。そこに時はなく、空間もありません。ただご縁というものが存在するのみ。一期一会を座右にしていますが、ご縁の深さはさらに奥深いものを感じています。

引き続き、徳積に生き方の舵をきっていますからこの方向で新たな道を模索していきたいと思います。

充実したリズム

暮らしフルネスを提案するなかで、生活リズムはとても重要です。自然と共に生きていきつつも、自分の目的に合わせて暮らしを整えていくこと。人間は、食べることができるようになって自分の自由は時間が増えていきました。その増えた時間をどうよりよく生きるかは、現代の人類の課題であり、今後の時代を創る要諦にもなります。

私たちは文明を創造しましたが、文明の僕になっては人間らしい生き方ができなくなっていくものです。文化を創造するのは、自然の中にあって私たちは節度と自重、謙虚さを保ちながら如何に人間の業を磨いていくか、それを先人たちは民族伝承の智慧として多くを子孫へ遺しています。

現代の科学が進歩したとしても、先人が大切にしてきた生き方は私たちのお手本として残っています。限られた時間の中で、如何に食べていきながら目的を達していくか。

自分だけではなく、自分以外の大切なもののために人生をフルに活用したのです。

暮らしが充実するというのは、人生の目的を達しながらも日々の文化を尊重するということでもあります。

子どもたちのためにも、暮らしと文化とつなげつつ充実したリズムで生きていきたいと思います。

訓練の大切さ

新型コロナウイルスの感染が拡がり、日本国内も緊急事態宣言が出され自粛の生活が続いています。実際には、みんなこのような体験には慣れておらずどうしていいかわからずに世の中は混乱しているように思います。

東京都内においても、いつものように密集していて感染がひろがり、地方や田舎はまだまだ身近に感染者がいないためあまり危機感もありません。経済対策は後手にまわり、人々の怨嗟の声がマスコミの報道などで日々に流されます。

本来、どうあるべきだったのか。

それをこの時に考えることで、今後の感染対策に向けての準備ができるように私は思います。

そもそも思うに、こういうものが発生し混乱するのは日々の訓練を行っていないからなのは間違いありません。人類は体験したことを学び、それを予防するために訓練を続けていくから有事の際に速やかに連携して協力していくことができます。

しかし実際には、そんなことは起きないだろうと想像もせず自由気ままに平和ボケした生活を続けていると次第に訓練することを怠るようになります。東日本大震災でも釜石の奇跡といって訓練を続けていた小学校はみんな協力して避難して最小限に被害を抑えました。

これは起きるか起きないかわからない地震に対しても、常にその時に備えて訓練をしようと日々に努力し続けてきたからです。

今回の感染症もまた、結核が流行り悲劇の歴史がありましたがワクチンが開発され安心して訓練をやめたところにまた肺病が流行ったということになります。そもそもその時代を経て歴史に学び、どのように感染を防ぐか、そしてどのように拡大を抑えるかとみんな日ごろから訓練をしていれば有事に際して迅速に行動できるものです。

日本では学校をはじめ、日々の暮らしの中でも感染に対する意識は低くなっていて日常生活にあまり関係がなくなってきていました。ここで改めて私たちは、公衆衛生や公衆道徳の在り方を見つめ直し、今後どのように訓練を施していくかをみんなで知恵を出し合って取り組んでいく必要があるように思います。

気候変動が激しくなり、今まで以上に様々な病原菌や食糧難などが予想されています。その時に、どのようにみんなで助け合い生き延びるか、それを今から訓練しておかないとその時がきて今と同じように混乱を招いてしまいます。

禍転じて福にするという諺があるように、敢えてこの災禍を見つめ今後の子どもたちへの見守りに転じるために生き方や暮らし方を換えていくことです。

引き続き、あるべき姿を見据えながら着々と準備を進めていきたいと思います。

二つが一つ

物事は冷静に客観的に分析すると本質が観えてくるものです。しかし実際には主観が入り、じっくりと待つことができず物事が歪んでいくものです。心を澄ませること、そして心を整えること、心の状態を平常心に保つ工夫がある人は本質的な生き方を維持していくことができるように思います。

私も人間ですから、日々に様々な喧騒の中で心が揺さぶられて波立つことがあります。波立たないことなどはなく、風が吹けばすぐに波立ちます。また人間には感情がありますから、肉体や精神が味わい深い複雑な体験を通して人生を感じます。

大事なことは、元の澄んだ状態にどう戻るか、元の穏やかで整った心境に如何に回帰するかということだと思います。天気が日々に換わっても、空はいつも碧く、夜空には星が煌めきます。月がカタチが変化しても、いつも本体は変わらずに地球を見守り続けるように私たちは心に月を持っているのです。

これは科学的に言ったら荒唐無稽のように思われるかもしれませんが、私は地球と月は一体であると思っています。つまりは私たちが思っている地球の生命には月もセットになっている。言い換えれば二つで一つであるということです。

私たちがその中で生命をはぐくまれ、人間が、また動植物が存在するのはこの二つの存在が生命を見守る環境が存在しているからです。

私たちは見守られる環境の中で初めて育つことができるのは、親がいて子がいることからも真実であることは見知っていることです。同様に、地球と月にも真実があり私たちのいのちは二つが一体になって存在できているのです。

科学者は住める惑星を求めて地球と同じ大きさや形の星だけで探していますが、本来の実相が観えていないように思います。二つで一つのものを探すことが、いのちに近づく方法だと私は思います。

善悪、陰陽、寒暖、生死、すべては二つが一つではじめて成り立ちます。物事の実相を見極め、本質を見抜き、真実のままに心を育てていきたいと思います。

こだわりとは

私はこだわりが強いタイプと周りに言われます。いちいちこだわっているといわれ、嫌煙されるか尊敬されるかがどちらかに分かれます。自分自身では無意識にやっていることなので今さら周囲がどういおうが生き方が変わらないのですが、納得するまで本質を突き詰めたいと思いあれこれを深めていたら自然にこだわりが強くなっていくだけのように思います。

先日、稲盛和夫さんにこういう言葉に出会いました。

「ひとつのことを究めることは、すべてを理解することなのです。すべてのものの奥深くに、真理があるのです。」

確かに、一つのことを深めれば深めるほどにあらゆる総合的な知識や経験、そして智慧や直観が使われていきます。今まで見聞きしたものから真理を思い出し、その真理に照らして道理を悟ります。

私の場合は、どれも自然から学んだ智慧ものを用います。例えば、自然か不自然かがまず最初の篩であり、その後は、歴史の智慧に照らします。歴史の智慧とは、発酵とか、共生とか、体のことや気候、伝統などです。

いわれてみれば、自然農をやってきたり、人類を学んだり、伝統を学んだり、暮らしを学んでいる過程で私はすべてを理解していきました。そのすべてのものの奥深さに感動し、その感動したものを自分のものにする過程で新たな発見は発明に出会います。

現在、建造中の復古創新した日本伝統のサウナもまたすべてを理解するなかで創造する総合芸術であり、その中には私が経験して学び理解した本質のすべてを組み合わせていきます。

気が付くと、こだわりが強いといわれていますがこれはこだわりではなく真実に近づいているということでもあります。こだわりとは、決して嘘偽りない正直な真心で取り組んでいるということかもしれません。

執着というこだわりと、真理というこだわり、同じこだわりという意味でもその大前提が異なります。自然は無為であるように、真理もまた同様に無為というこだわりがあります。

自然も真理も道理ですから、そこから外れないで生きることこそ人類にとって必要なこだわりではないかとも私は感じます。時代が変わればこだわりもまた変わります。人類の道理を忘れないよう、初心を大切に取り組んでいきたいと思います。