生きた学問

昨日、久しぶりに臥竜塾に参加しドイツ報告も兼ねてお時間をいただき話をするお時間をいただくことができた。

ドイツ研修では、全員が発表する中でサポートに徹していたため自分の時間を持つことができなかったけれど先生からの粋な計らいでこのようなお時間をいただけたことに感謝しています。

私はどうも一番大事なことを優先するとすぐに自分を後回しにしてしまうため、なかなか本来の自分の考えを先に周知しようとはしない癖がある。ある意味で無邪気なところばかりを見せてはぐらかすのは恥ずかしがりやであるからではないかとも分析している。

相手を思いやることに国境はなく、自他の境目を超えた場所に真の心がある。

いつも見守られていると実感できるのは、そういう心の場所をいつも正していける学問の道が同じ天を戴いているからであることを知ると本当にご縁の有難さに感謝の日々です。

昨日は、自分がドイツ研修を通して知らなかったことを知ろうとしてはいなかったことを恥じたと総括したけれどこれはとても大きな気づきであった。

論語にこうある。

「学びて思わざれば則ち罔し」

これはいくら教えを受けても、自分で深く考えることをしなければ真の学問は身に付かないということ。

そしてこの後に「思いて学ばざれば則ち殆し」とある。

そしてせっかく教わったのにそれを実行しなければそれも真の学問ではないという。

他人の話を真実だとそのままに信じる事は間違っていることではない、しかしそこでの落とし穴はその話を「自分の頭で深めない」ことにある。さらに言えば、自分が知ったからとそこで終わってしまい「自分の実践で掴みとる」ことをしていなければそれではただ教わって知っただけで終わってしまうことを意味するのである。

ただ真理を知っていることが増えて、それを受身に鵜呑みにしていたら自分で考えるのをみんなやめてしまうのである。そんなことで掴めるようなものであればそれは最初から学んでいるわけではない。

だからこそ、他人の話は素直に聴くけれどそれを本当の意味で素直に聴くというのは「ちゃんとそれを咀嚼し自分のものにしていく」ことなのである。

聴いても聴かないというのは、自分で考えるということを言っているのである。つまり自分自身の持っているこの全ての五感や六感など自らの目と耳や頭でちゃんと考え抜くことで、それを自らのものにするために具体的な実践を通じて掴み取っていくことが正しい学び方なのである。

私はだいぶ一つの業界に留まり様々なことを知った気になり分かった気にもなったのである。

それは素晴らしい師に出会い続け、先達の道にもめぐり逢い、非常に有難い恩恵溢れる最良の環境の中で学んでいることができていることからもよく分かる。

しかしそれに甘んじ学んで学ばなければあまりにもくらいのである。

知っていたことが知らないことにある日突然に変わることは素晴らしいことでそれはもう一度初心に帰り最初から学び直せる楽しみを日々に実感できるということなのである。

初心とは何か、学問とは何か、それは常に自らの頭で考え抜くことをやめてはいけない、そしてそれを自分で掴みとっていくこともやめてはいけない、なぜならそれが真の生きた学問だからであろうと私は思います。

日々は知らないことばかりだからこそ素晴らしいとしあの子ども達に恥ずかしくないように今からもさらなる学びを深めていきたいと思います。

子ども第一主義の未来

夢を叶えるというのに大好きなことをやるというのがある。
そして仕事を選ぶのに何に一番自分が貢献できるかを決めるというものがある。

そもそも夢と仕事が一体になっていると幸せだと言われるけれどこれは自分自身を何処に活かせるかを知ったからである。人は自分に向いているところにいることが一番幸せなことであり、向いていないところにいることほど不幸なことはない。

自分に正直に生きていたら、自分が主体で自分で色々な心の命じるままに歩んでいたら自然に自分の向き不向きが分かってくるものである。

例えば、大好きなことをやろうとするとき人はそのやることに最大の愛情を籠めて取り組んでいくことができる。これは好きだから愛が出るのである。そして仕事が合致していれば、自分が貢献できていると実感することができる。それはお役に立ちたいと思っているから貢献できるのである。

何でもそうだけれど、全ての言葉には定義しているものがある。

大好きというのは、夢のことであり、仕事をするというのはお役に立つことである。

この両方が合致していくように、自分探しの旅を楽しみ、そして自分に最も合うものを見つけていくことが人生の命題でもあろうとも思います。

自分に向き不向きはシンプルであり、素直に生きていけば次第にその素直さに導かれて次の道が観えてくるものです。無理をして自分に合わないことを合わせようとしてもそれでは難しいのです。

それは好きではないことを好きになろうとしてもなれないように、また仕事だと割り切っても仕事にならないように自分に正直にしていることで結果がはっきりと出てくるからなのです。

生き方として憧れる生き方があったとして、その生き方通りにいかないのは自分が本当の意味で求めていないからというものがあります。自分が求めた分しか人生は手に入らないのは本当のことだと思います。

なぜなら、大好きであることもお役に立ちたいと思える事もすべて心の奥底から湧き上がってくる感情でありそれをやらせてあげているときにこそ不思議なパワーが無限に出てくるからです。

子ども達を見ていてもそうです、一生懸命に諦めない姿を視ていると諦めるということを知らない姿にとても心を打たれます。大人たちはすぐに理由をつけては、自分を説得して諦めてきたから今更素直と言われても思い出さないかもしれません。

しかし本来、私たちは子どものときから好きなことをして皆のお役に立ちたいと思っていたのです。そこが好きではないことをして、自分さえよければいいになってしまっていることが不幸であるのだと思います。

もっと正直に生きるとは、素直であるとは、自分の好きなことで皆の役に立っていける方を優先していくことだと思います。そしてそれを社会のためにとプロ意識を持って使っていくことだと思います。

子ども第一主義の生き方や働き方とは、以上のことです。

これからも子ども達の未来へ向けて在り方を表現していきたいと思います。

四季に従順

自宅の敷地で栽培しているさつまいもを収穫した。

農薬も肥料も一切用いず土も自然に任せてもう10年になるけれど毎年この収穫の時期はとても嬉しい瞬間になっている。自然のままに任せるのであまり多くとれず、それにあまり大きくないけれど、一つ一つにびっしりと詰まった自然の命の味は格別のものになる。

土の中奥深く入り込んださつまいもをとるのは一苦労で、なかなか抜けないのでいつも収穫の時は細心の注意を払いひとつひとつを丁寧に抜き取っていく。この作業も今までのかけた時間を実感でき、愛情を籠めながら引き抜いていくのである。

時間をかける幸せというのはこういう時にこそ感じるものである。

今の時代は何でも急いでやった方がいいような風潮がありすぐにやいつまでになど何でも忙しくしてしまっているけれど、実際は長い時間かけたからこそ格別な味わい深いものを感じるのである。

仕事でも日常でもなぜにこうも急ぐのかと思えば、情報化社会の中で知識ばかりが膨大に行き来し、何か人間にばかりに合わせているからのようにも思う。誰かの都合で何かが決まりどこかの都合で何かが動かされる。

自然を征服しようとする考え方が人を窮屈にしていくのである。

例えれば、この収穫というものを真に味わうにはまず種を蒔かなければならずその種から芽が出たらそれが自分で育ち始めるまで見守り、実りの姿が顕われるまでじっと待っていくそしてちょうど善い時期に実を頂戴する。

この自然との流れの中で生活を楽しむことが、私たちに自然を味あわせてくれる安堵感を与えてくれるのである。

これは単に野菜の栽培などだけで言えることではなく人の一生もそして何かのビジネスのプロジェクトであっても同じくじっくりと育てていくことを楽しむ余裕こそが大切なのである。

同じ野菜でも、何でも芽が出ない芽が出ないだのいつ収穫できるのかと種もまこうとはせず不平不満ばかりを言う人がいるけれどそんなことでは楽しいはずの生活がそうではなくなってしまうのである。

仕事も同じく、まずどのような種を蒔くかを決めることからはじめそれがどのように芽が出てそれを栽培し、さらにじっと四季に備えて従順に応じていく中でどのような実がなるのかを楽しむことで営んでいくことが活きる事である。

こういう時代だからこそ、自然から学び自然と楽しむ中で気づき学び自らを正していくことが大切になっていくのだと思います。

このさつまいもも少ないなりにも会社の皆や色々な方々と分け合い一緒に食べることになります。育てて甲斐があったという実感もまた、皆との歓びの中にあるのだと思います。

きっと収穫した実も、食べられることで喜んでもらうこともまた自然の一部である証拠であると思います。これからもまだまだ原点を忘れず、時間を懸けてじっくりと自然の生き方を学びながら楽しみたいと思います。

陶鋳力

吉田松陰に影響を与えた人物に山鹿素行がある。

山鹿素行は、朱子学を学びその後それを批判し実学をすべきだと本人の学を「聖学」としたことで幕府から赤穂へ流された。そこで赤穂浪士の大石内蔵助がその門弟だったことも有名である。その他、聖学の一環として神道や歌学なども修めていたとても古代に通じる実践的な方であったと資料には残っている。

山鹿流兵術というものを学んだ吉田松陰が、素行の聖学の本質でもある「常に勝敗は現在なり」の思想から生の実践主義を会得していたのであろうとも推察できる。

いつの時代も本当に学ぼうとする人というのは、架空の妄想の教科書を通して得ようとはしない。

常に今、生きている此処に真実があるとし、そこに徹底的に透徹するように心技体の全てを集中しているからこそ本来の叡智を活かすことができることを知っているである。

当代風の私なりの言い方をすれば、「今此処に自分の生命の全部をいつも出し切れ」である。

自分自身の身を毎日振り返っても常にこの実践現場にこそ答えがあるのだから妄想や妄言にいちいち迷っている暇があるのであればこの今感じたものに全力を尽くして取り組むことが何よりも生きている証を味わっていくことができている。

ありもしないことに妄執しても、実際現場は与えられた環境に文句を言わず何よりもそれを全体が善くなるために自分を尽くし切ることに限るのである。

話を戻せば、この山鹿素行の言葉にとても感銘を受けたものの中に「天縦の神聖」がある。

これは神代から受け継がれた日本的精神の基に全てのものを陶鋳(とうちゅう)していくという言い方を安岡正篤氏が遺している。私はこの日本的な陶鋳力というものが最も必要であると感じている。

私なりの解釈だけれど、日本人は全てのものを受け容れる感性を天から与えられている、自然の若さとも言うべき、日本の国土の新鮮さ初々しさからもそれを実感することができる。

全てにおいて若い、そして幼児のような子ども心を秘めている。
島国である前に、まだ新しいのである。

その感性が天から降り、その天からのものを受け容れる力が何よりも長けているのである。世界中の素晴らしい叡智を日本のものとしていく感性こそが、私たちの体内に宿っているのである。

このかんながらの道もまた聖学であろうとも思います。

道の中で陶鋳力を磨き、さらに世界中の新たなものを吸収していこうと思います。

人生の幸せ

目には観えないのものに流れというものや繫がりというものがある。

あまりにも大きすぎるものは肉眼では見通すことはできない、宇宙でもそうだし親の存在、その他、自分のことを本当に大切にしてくださっている人たちのことなども目先に囚われていたら感じることはできない。

この急ぎすぎる世の中の人間社会に住まえば、日々の生活で太陽や地球、その他の星々の偉大さを感じることができなってくるようにこの目先の五感に頼っていたら本当にことは分からない。

その分からないのものにまず「流れ」がある。

自分ではどうにもならない流れというものが時というものを通じて顕われていることに人は気づこうとはしない。何でも自分でどうにかなると思っている生活をしていたらそういう感性が乏しくなっていくのであろうとも思う。

流れというものは、偉大なものでありそういうものは心で感じて受け容れていくしかない。その流れを受け容れ、どう生きるか、自分を転じていくかということが大切なことになる。

そしてもう一つの分からないものに「繋がり」がある。

自分ではその繫がりがなぜ発生し、なぜ次の繋がりになっていくのかは自分の人生だけの尺度では気づけない。色々なものが複雑怪奇に組み合わさり、太古の昔から、また未来から時を超えて存在している。そういうものを感じて受け容れることではじめて目には観えないけれど大切な色々な出会いを味わっていくことができる。

そういう繫がりもまた偉大なものであり、それをどう辿っていきながら心で繋いでいくかということが大切になる。

この二つをとっても、人間はその心でしか偉大さを味わえない。

日々の営みの中で、如何に偉大な存在に心を向けるかが大切でありそういう心を鍛え修めていくのが心学でもあろうとも思う。徳や道などというものも、元々自然の中に在り私たちが生きていくための智慧であろうとも思います。

どんな出来事も確かな何かな意味がそこに存在する。

その秘境に心を置いて歩んでいくことが人生なのだと思います。人生は偉大であるからこそ、その偉大な存在があることに感謝して人生を噛み締めていけることこそが幸せなのです。

道は同根同源

モノゴトを判断するとき、その優先順位がどうなっているかでその判断結果は変わってくる。

何かの自分の感情や欲望が判断に入れば、それは正しい判断とはいえずどこか自他にとって都合が良いようにしてしまっていることもある。

特にその判断が全体へ大きな影響を与えるとしたら、より正しくブレナイ判断をしていく必要がある。誰しも、人間は皆自分都合で判断の枠の中に自分の立場などを入れるのだから余計に自分のエゴが入らないところで色々なところを決めていく必要がある。

それを正していくのに理念がある。

理念は、本来どうあるべきか、なぜそうするのかという根本的な問いに対して定めたものであり何かの組織や全体のことを考えて決めたものである。

何か悩んだ時や困ったときにこそ、どこから考えてどこに照らして行うかはすべてに理念を主軸にすることがもっとも正しい判断に近づくのである。

私たち国民もそうだし、社員もそう、何かの組織や大きな社会に属しているなら何を基準に自分が生きていくか、判断すればいいか、そういうものを自立して行うにはその本となる判断基準というものが必要になる。

そういうものを何処におけばいいか、それを目先の事象でいちいち判断していたら目標に向かって確固とした方針を理解し自分を活かし積み上げていくことができなくなるものである。

だからこそ理念を設け、理念から考えていけば次第に自分の行為行動は全体にとってもっとも最善に近づいていくのである。利己的な人や、自分の保身を潜在的に持っている人ほど、正論を並び立てたがるけれど本来の理念はどこにいたのだろうかと思える発言をする人が多い。

それがないのに議論しても積み上がることはなく、ただただ消えていく虚しいものになるのである。

今の日本には、古代から残っている本来の同源同根の思想が消えかかっている。それを復興し、神代から絶え間なく続いている道を探し出しそれを明らかにして永続していくことこそがかんながらの道でもある。

そのかんながらの理念の元、私たちは和合と和魂で日々を実践していくことではじめてこの世界の中での自分の本分を使い切ることができるのである。

理念を出していくのは、必ずその人その人の最も深い場所に同じ根があることを確信しているからです。忘れかけたものを取り戻すことが刷り込みを取り除くことでもあります。

たくさんついた垢を洗い清め、積もり積もった落ち葉を掃わくことで道は次第に明らかになるものです。

理念に対してどれだけ素直に純粋に取り組むか、これが理屈を超えた人の道であろうとも思います。これからも子どもたちのため、これから生を受け全うするであろう子々孫々のため今、やるべきことに専念しようと思います。

国のカタチ

今の日本の身の回りを観察すると、元々日本の根っこは何処にあるのかが分からなくなってきている感じもする。

西洋のものの新しい技術をそのままに取り入れ、便利を追及していく中で西洋の歪んだ歩みを踏襲し続けていけばアジアの未来や世界の将来について自分たち日本人がどんな役割を果たすかなども次第に考えることもしなくなっていくものだ。

急激な近代化にあわせて、様々なものを取り入れていく中でその土台に日本人としての魂が入っていなければそれは単に表面上のカタチを持ち込んだだけでしかない。カタチはすぐに人間の欲に負けて次第にそのものが分からなくなっていくものだ。

どんな道具も、その使い手の心が入ってくるのだから使い手が使いこなせないようなものを創ってしまえばその道具により滅びるには太古の昔から繰り返されている負の遺産である。

そういうカタチを外来のものをそのままに取り込まれてしまうのは危険であるのだ。簡単便利を追求し、大量生産大量消費を優先するために一斉画一に同じものを仕込まれていたらそういうものの原点や起点すらも考えることができなくなってしまうのであろうと私は思う。

元来、先に教え込まなければ人間は自分の根がどこにあるのかを自然に考えだすものである。例えば、自分がなぜ生まれてきたのかや、死んだらどうなるのかなども早い時期から考えるものと同じである。

その他にも日本人の独自性を重んじ、その自分たちの文化や誇りを優先する中で、外国の文化などに触れたりたくさんの事物の存在を学んだりすれば自分がどう生きるかという生き方にまで入り込んでくるものである。

日本語ができないのに英語を覚えるようなもので、そんな英語は世界では役に立たないのである。同じく、日本ということを知らずに世界に出てもそれでは自分は一体どこに根があるのか分からなくなるだけである。

そういう根本的な精神や魂との対話のようなものを戦後は極力避けられ奪われた古今からの大切な国のカタチというビジョンが今こそもう一度復興に際して必要ではないかとも私は思う。

震災後復興を思うとき、今までの生き方を考え直す人が増え、在り方について見直す人たちも増えた。その一方で、相変わらず何も変わらないで今まで通りに何も考えないでグローバリゼーションの波に呑まれて何も決めないでいる人たちもたくさんいる。

自分というものがない人たちが、他人のせいにして世の中をおかしていくのである。だからこそ、一人一人が教育や保育により生き方を学び自立することが必要なのである。

独自ということや、独学、独立という、本来の自分たち一人一人の自覚や意識が目覚めず、周りに合わせて、周りのせいにして依存していこうとする気持ちに流されてしまっている。

自分がどうありたいか、もっと自分を欺かず正直に生きられる社会を用意することこそが子どもたちの未来には必要であると心底実感する日々である。

何でも画一化していけば、もうそこは人間や命が住まうことのできない荒野や砂漠が広がるだけである。

違いを認め合い、異なることを許し合い、楽しく明るく清らかに生きてきた和の精神の礎に回帰し、もう一度、和魂によって新しく創造する国のビジョンを描き直していきたい。

まずは自分が描く国に形を体現できるよう、社業を通じて現実的に理想を追いながら意識改革を繰り返し学び直していこうと思います。

自然の智慧

自然体で生きていく中で私たちが学ぶものの中に生きる智慧というものがある。

様々な体験を通じて、自分なりに自然とはこうであったかと悟る時そこに自然の智慧があるのを発見していくことができる。

その法則とも言うべきものを学び、一つ一つを自分の中に修めていく中で自然と一体になった融通無碍の自分を楽しむことができるようになる。

色々な人がいる中で、その法則を学ぼうとする人と知識ばかりをいつまでも追っている人もいる。知ることは大切なことで、知ることで理解しそれを社会で活かすことができるのだろうけれど行うことはもっと大事なことで行うことではじめて知ることが活きるのである。

今の社会は知っている人が偉くなるかのような錯覚を持っていることが多い。

学校でも知ることばかりを先に教え込み、詰め込むから知るということを沢山持てばエリートにでもなるかのように思い違いをしてしまう恐れもある。行う方に力を入れていけば自然に知識を得ようとするものであり、その成果として智慧まで昇華していくこともできるのであると私は思う。

この行うということは、自然の営みなのである。
自然は行うことで営み、その中に安心した繋がりで自らを学んでいるのである。

わたしは小さな頃から、山野を駆け巡り、河川では泳ぎ廻り、鳥や虫を遊び仲間にして様々な自然の叡智に触れて学んだ記憶がたくさん残っています。

今でも故郷に帰れば、また空を見上げて光を感じればその時の記憶が自分の中から沸き起こってきて自然な姿が顕われてきます。

今ではそのころの体験や記憶から身近な体験で見失ってしまいそうな智慧を思いだし自然とはどういうことかを示すことで周囲の人たちの刷り込みを取り除くことに貢献していくことができています。

都会の中に住まいながら、自分自身の中に無邪気な自然を持つことはとても大切なことだと感じます。そういう歓喜の遊びの中に、知恵がたくさん詰まっているからです。

今はどんなに世の中が自然から離れて、おかしなことになたっとしても全体としては包容する自然の心はいつも身近に生きているものです。

これからも身近な自然を味わいながら日々を楽しみたいと思います。

世界市民

昔と違い、今の時代は世界の環境や関係であっという間に自分たちの状況が一変してしまうことがある。

じわじわとした変化ではなく、急激に変化するのは貨幣経済が生んだ流通や物流その他の流れが世界規模で動いている日々の中にいるからである。

その巨大な力によって、私たちは様々な利益を得、また損害も被るのである。

人は自分の国のことばかりを優先すればその他の国も同じように自分の国のことばかりを優先するようになる。例えば、資源の取り合いでもおかしな話で地球で取れる資源はみんなのものであるはずなのにそれを誰かが独占するから他の人たちも取られないようにと独占しようとする。

自分のことばかりを守ろうとするなら、周りも自分のことを守ろうとし結局は力だけで自分を守ることに躍起になり今のような軍拡をし軍事力や経済力で自分の国を守る事ばかりに囚われてしまうのである。

本来、資源もみんなのものであるように、国も周りの国が善くなるようにと世界全体のために自分たちの国はどうしようかといった他を思いやり全体を善くしようとすれば次第に協力が生まれ、みんなが助け合う和楽の世界になっていくのが道理である。

今はまだ世界の一員としての一人一人の意識が未熟で、いまだに自分だけのことを優先しようとする教育が続き、そのことから孤立してしまっている人たちがとても多いように思います。

自分の国が世界のために何ができるか。

そう考える事も世界市民である一人一人の自覚であろうとも思います。

生き方を転換するというのは、先ほどの自分の国だけを優先ではなく世界の国々を優先するという意識変革が必要になります。そしてそれを成し遂げるのが人間の深い信念や、祈りと行動、そこへ飛び込む勇気であるのだと思います。

まだ間に合うと思うのなら、一人一人が覚悟を持って諦めずに夢を定めそれを追っていくことだと思います。巨大な力は最初からあるのではなく、小さな一人一人が育てていくから巨大になるのです。

一見して焦って急ぐのではなく、その根を深く広げていくことだとも思います。

使命感に燃えている人を観ると、その使命感に共感し火がつきます。これからも脚下の社業を通して世界市民の自覚を育てていきたいと思います。

中途半端

何事も最後まで遣り遂げるということは大切なことである。

よく成功ストーリーやドラマや数々の偉業を成し遂げたシーンでも、目的を果たす、目標を遂げる、最期まで遣り切る、最後まで諦めない等々の言葉は常に飛び交っていることでもよくわかると思う。

何でも中途半端では感動のフィナーレを体験することはできない。

人はどの道でも最期まで遣り抜く中でしか真実を体験することはできない。
それはすべての物事は自分一人で起きているわけではないからである。

例えば、ある目標を立てて最初は一人で取り組んでいく中で自分の全身全霊を尽くしていたら沢山の仲間が集まってきてそして数々の困難という試練を与えられ様々な幸運に恵まれた中で竟にはその手に栄光を掴むことができる。

これは何をしているかと言えば、人間が人事を尽くして天地自然からの天命を待つことをしているからである。

自分ひとりではないというのは、自分が遣り切るからこそはじめて天が味方をしてくださるということで言い換えれば、自分が何よりも最後まで諦めずに全身全霊で遣り切るからこそはじめて天や運、周囲を活かすことになっているのである。

自分一人ではないと言いたいのは、何事も周囲の御力をお借りしてはじめて全体の御蔭で成り立っているということを意味するからである。人は自分一人だけでは何もできないからこそ、自分一人が全力を出し切ることで周囲の力を活かすことができるのである。

周囲を信じて天に任せて人事を尽くすからこそ、中途半端にならないのである。自分の力を出し切らない人には、周囲は力を貸せないのである、これはいつも他人のせいにして生きているから周囲の恩力を借りれないのである。

天を活かすのも人の力、そして周囲を活かすのも自分の力である。
中途半端というのは、何より自分を出し切っていないのである。

自分の本来の底力を全部出し切ることが人事を尽くすことである。

その人事を尽くすとは目の前のことに真剣に取り組んでいくことや、当たり前のことにも手を抜かずすべて自分の使命だと何より自分を信じて遣り切ることである。

自分に与えられた条件や内容が自分にとっては都合が悪いものであれ、それは自分に必要だから与えられたのである。自分が役割を果たしなさいという周囲の真心で下った命令なのである、だとしたらそれを本気で取り組むことこそが何よりも自分の天分を活かすことになるのであろうとも私は思う。

中途半端の弊害とは、天を活かせないのである、周囲を活かせないということである。その中途半端から使命達成の生き方へと転換し周囲を信じるためにも自分が遣り切るのだと信を決心することである。

今の自分が生きているのも何かをしているのもすべては周囲の御蔭である、その御蔭で自分があるのなら当然自分が周囲を活かすことで恩返しができるもの。そしてその恩返しとは、自分が周囲のためにも脚下の使命を遣り切ることであろうとも思います。

最後まで遣っているととても不思議なことが沢山起きます、そして感動の日々、充実した豊かな感謝に満ち、何より偉大な見守りを感じるものです。

その入口として、何でもやってみなければ分からないそして何事もやり遂げた後しかその真意は掴めない、だからこそやるならやるのだと語っていきたい。

子ども達にもそういう信じ続ける事、守り続ける事、自分が主体として生きる楽しさと面白さを見守る環境を通して継承していきたいと思います。