孝道 親子の道

保育の仕事をしているから孝道とは何かということをいつも常に心に置いている。まず子どもを考え抜けば次第に親のことになり、親のことを考え抜けば次第に子どものことになる。

親子というものは、その間にとても大切なものが隠れているのである。

今の世の中は、親はこうでないといけないという子ども側の偏見や、子どもはこうでないといけないという親の偏見で親子関係がおかしくなっている人たちがとても多い。

子どもも何か自分の都合でのみ親を語り、無情にも親を親とも思わず親のことを非難したり、親も子どもが都合通りにならないからと無情にも子を否定したりするシーンが増えている。

思いやりや親子の情が基盤になるはずのその親子間がおかしくなれば、その延長である他人を思いやることも難しくなってしまうものである。

論語の「一家仁なれば」にある通り、家庭円満で親子が思いやりで満ちていれば自分を存在させてくれているものの偉大存在を感じるままに周囲へもその思いやりの孝道を広げていこうと自然に思えるようになるものである。

親子はお互いの存在があることでそれを確かめ合うことができるのである。
そしてそれを「幸せ」とも言う。

もしそれが壊れ、自分がいて当たり前、自分がやって当たり前、自分は生きて当たり前、自分はあって当たり前という風に、その当たり前も自分という「私や自我欲」を優先させればその当たり前のそもそもの定義がズレてしまうはずである。

この「当たり前」の定義が、もし以上のように自分にとって当たり前になってしまえばもう本来の正しい当たり前のことなどは理解することは一生涯できはしないのである。

では本来の当たり前の定義とは一体何か?

それは、自分が生まれてきただけでも当たり前ではない、自分が生きていられるだけでも当たり前ではない、自分が在るだけでも当たり前ではない、自分を大切にしてくれる人がいるだけでも当たり前ではないという全てにおいて「当たり前はない」ようなものである。

つまり本来の定義は、「当たり前はない」ということなのである。

この奇跡のような縁の繋がり、自分としてこの世に置いてくださっている周囲、そしてそれを最初にこの世に創造して送り出してくださった父母、そうやってそれを辿れば先祖の方々、さらに辿れば始祖の生命、さらに辿れば地球、さらにさらにと辿ればその根源に至るまでずっと「当たり前ではない」ということに遡ることができる。

こういう根源的なものに触れるとき、はじめて人間は当たり前などないことに気づき覚るのではないかとも私は思います。

そしてその入口にあるのが、この親子の道、「孝道」であるのだとも思います。

私たちの会社では、もう長いことクルーの誕生日には親への感謝の手紙を本人が書き、会社から心を籠めてお祝いの花束を送ることにしています。

これは以上のような「当たり前ではない」ことへの深い感謝、根源的なものを大切にしたいという私たちの会社の理念から発するものでもあります。

子ども第一主義とは、そういう当たり前ではないものを大切にしていこうとする実践主義のことでもあるのです。

常に自分を存在させてくれていることを当たり前だとはせず、生み育てて下さっている偉大な根源に心からの敬意と感謝を生死を通して感じていきたいと思います。