自分に正直

自然の中で自然を感じる心に、自分の我執がこびりついていたら自然と一体になっていくことは難しい。

心についた日常の曇った思考を捨て去り、清らかに澄んだ真心でいることが自然と一体になる鍵でもある。

山に入るということは、その山の心と一体となっていなければ山に入ってもその山の中の自然と一体になっているのではない。山という調和した自然界の一部を体験することは、私たちが人里へと離れる前の心になっていることである。

人間社会だけで通用させる隔絶されたルールの中にいると、どうしても本来の自然界のルールを忘れてしまい自分がどの位置に立っているのか、自分がどうあるべきかということも分からなくなり次第に心が疲弊してしまうものである。

そうやって心が疲弊するときこそ、その疲弊することになった様々な刷り込みや思い込み、先入観を捨て去って素直で正直な心になってやり直すことが新たなスタートを切ることであり、「生まれ変わる」ということでもある。

つまり新しく生まれ変わりというのは、すべてにおいてまずその穢れを祓うことからが本当のはじまりなのである。

そしてこの今までの執着をどう捨て去って洗い清め真の心の状態に戻るのかを示しているのが禊でもある。

澄んだ清らかな水に触れることで、本当の心を思い出し、自分の中に沁み付いた様々な曇りを取り除くと、清き明るい素直な真心が顕われてくる。そういう状態をいつも生活の中で見失わないようにしていくことこそ、自然から離れてしまった私たち人間の必要不可欠な絶対業であろうとも思います。

生活の中に自然を入れるのは、そういう矛盾との正しい付き合いでもあります。

そしてこの人間の苦しみというものを思うとき、人は心清らかに道を歩むことで多くの人たちを迷いから救っていくような世直し行も生まれるのだとも思います。

人間中心にどちらかに偏って救う救わないという己を中心に据えての救世ではなく、自然中心に心清らかにしていくことであるがままに救われていくというような自然と一体になった浄化がこれからは真の世直しなっていくのだとも思います。

素直な実践、正直な実践、真心の実践、その全てにおいて自然の心が顕われてくるような関わりが今からはとくに大切になっていくのだろうと思います。

そういうものでなければ、今までの執着は拭い去ることはできません。

如何にその穢れを払うかは、何よりも自然でいること自然のままで在る事だとも思います。この自然のままをも忘れてしまっている現代は、その自然でいるということをできる社会を新しく創造しないといけません。

そして個々はもっと自分に素直にならなければなりません。

自然に帰ると子ども達の目が輝きだすように、そのままの自然でいることは子ども第一主義の理念にも沿っています。一度しかない人生なのだから、自分を大切にすることで自分に正直に生きていくことをこれからも自然から学んでいきたいと思います。

自らを浄化する人たちが増えていくことが何よりも道の入り口。

この先もずっと子ども心のままに、見守って生きたいと思います。