種のめぐり

地球史では何度も氷河期を迎えては、地上に生きる生き物たちは絶滅の危機にさらされました。樹木を調べてみると、かつての氷河期にほとんどが消失しているのが分かります。

なぜ今もう一度復活しているのかといえば種として厳しい時代に眠り続けてきたからです。遺跡の中で見つかった種が発芽したという話はあちこちに残っています。日本でも弥生時代の遺跡から種を見つけて育ててみたら11年後にコブシの花が咲いたというのがあります。約2000年の時を経て、彼らは芽吹くのです。エジプトの遺跡の種は4000年の時を経て芽吹いたものもあるようです。

私たちはまだこの文明では知っていると言っても2000年ほどです。地球史の中では火山が噴火したり、大津波大洪水があったり、隕石が落ちたり、様々な天変地異があって今に至ります。

今の私たちの多様性も、一つの歴史が終わって新しい歴史としてそこからはじまった種たちが繁栄と発展によって今、ここまで来ているということです。

この種のことを思うと、植物たちは私たちよりもずっと長くこの世に存在しているのが分かります。何度も絶滅の危機に瀕し、それでもどうすればこの地球に種を残せるのかを考えたのでしょう。

それが今の形になったということです。

土の中に生きている生き物たちも同じです。私たちは地上を動き回る生き物ですからあまり地下に興味を持とうとしません。しかしこの地下には、何千年も前から生き残ってきた生き物たちの戦略があるのです。

例えばそれは微生物たちやミミズたちです。土の中で冬眠するという考え方も同じく、仮死状態のままで何十年、何百年もやり過ごしています。寒暖の差の中で増減しつつ基本の形を崩さないのは、地球が変化してきた歴史を生き抜いてきているからです。

私たちがいくら科学を発展させてみたとしても、地球規模の大きな変化を乗り越える科学力を持つことはできません。それは私たちが病を完全に克服できないことと同じです。生老病死は、地球の一部である私たちの宿命だからです。

種を残すことにしか興味がない自然界の生き物たちは、私たちが築いている歴史よりもずっと長くこの世を生き抜いてきたために本能がそうさせるのです。

今の人間の暮らしをみていたらどうも歴史の篩にかけられた際に、生き抜くことをやめている種ではないかとも思えます。種を残すというのは自分の種を残すことではなく、人間としての種を残せるかどうかを考えていたはずだからです。

多様性が消失し、同じような生き方ばかりを皆がすれば他の自然界の生き物たちと同じような生き抜いた智慧が減退していきます。今こそ、生き残りの戦略を自然界の生き物たちに見習い、危機感を高めていく必要があるように思えます。

子どもたちを大切にするのは、未来を守るからです。子どもたちよりも自分たち大人の都合を優先する世の中とはすでに種を残すという本質から外れてしまっているのでしょう。自然界に教えられたことを、子どもの近くに運びたいと思います。

樹木の生き方~5本の樹~

今年は樹木のことに興味があり、樹木から生き方を学び直しています。

もともと私たちは地球に住んでいます。植物の混植をしてみたらすぐにわかりますが同じ土に沢山の植栽があると植物は元気になります。それが多様であればあるほどに、元気さは増し美しい花を咲かせます。ここから私は同根であるということを学びました。

そして同根であるということは、私たちは同じ葉を持つということでもあります。ゆずり葉という葉もありますが、同根なのだから自分がしてほしいことは相手にもしてあげる、自他は一体になっているのだから皆兄弟ということです。だからこそ光も葉も水も土も分け合い与え合い譲り合いながら存在しているのです。

樹木の生き方を通して私が一番感じるのは、地球の一部としての姿を実感することです。特に今年は巨樹とご縁が沢山ありますが、巨樹には樹霊があり、その生き方を直感すると何よりも与え続けて譲り続けて杜になる姿が観えます。

未来のために今、何をすべきかは巨樹は言葉にはしませんが多くを語ってきます。昔は巨樹の精霊の下に長老たちが集まりどう生きるべきかを語り合い永続して暮らしを維持してきました。自然の中に生きていくものがもっとも長く生きられることを知っていたからです、人工的な中に住めばもうもとの野生には戻れません。それは動物園の飼育された生き物たちが二度と野生に戻れないのと同じです。

私たちは野生を取り戻さなければこの先の大異変に生き残ることができないかもしれません。何が野生か、何が本能か、何が自然か、周りにまだ遺っているものから学び直す必要を感じます。

今の時代は、資源を貪り自分たちの世代で使い切ろうとします。子孫へ譲るのではなく、自分が全部消費しようとします。これでは国は亡び、世界もまた消失するのは火を見るよりも明らかです。

昔、仏教をインドで広めた王にアショーカ王がいます。この王は、全国各地に石碑を立てて全国民に「五本の樹」を植えることを記します。そこには、こう書かれています。

「薬効のある樹。果実のなる樹。燃料になる樹。家を建てる樹。花を咲かせる樹。国民ひとりひとりが5本の樹を植えそれを森として見守りなさい。そしてそれを決して自分の代で切ってはならぬ。」と。

もともとは暴君だったそうですが悲惨な戦争を体験し、改心して平和の維持につとめた王だそうです。子子孫孫のために陰徳を積み、譲ることで平和を創造する。国民たちとともに平和を願う王の気持ちが5本の樹の話から観えてきます。

理念というのはこうやってわかりやすく伝えるものであることを実感するとともに、物言わぬ樹木から学んだアショーカ王の観察眼に頭が下がります。私自身も今は、郷土樹のタブノキ、薬効の銀杏、楠を育てています。

いつの日か5本の樹を植えて子どもたちのために譲れる自分を育てていきたいと思います。

関心という絆を結ぶ

自然界には絆というものが存在します。

それはつながりとも言い、何かと何かが常につながっているという関係のことです。物理的に一緒にいるだけではなく、意識的に一緒にいるというのもつながりです。集団でいることや家族でいることもそうですが、つながりを大事にしていくことで種を守っています。

そしてそのつながりとは関心とも言えます。如何に関心を維持しているかということです。関心とは日々に気にかけ日々に心配し、日々に思いやり、日々に祈るということです。

人は自分の関心にのみ関心がある人と、他人への関心を持つ自分に関心がある人がいます。前者は自己中心的で雑であり、後者は自他中心でありきめ細かいものです。自分中心であるということが雑なのは、つながりを感じる気持ちが欠けてしまっているからです。自他中心の人は常につながりを感じながら事物の関心を忘れないので真心が入り丁寧なのです。

関心の持ちようを絆に換えていく人たちが日々に結び合う人たちです。相手への思いやりは常に関心を持つ心を育て、絆を結ぶ実践を積み重ねることになります。

かつてマザーテレサが「愛の反対は憎しみではなく無関心」と言いましたが、これは自分中心になることで愛が消失するということを言っています。他人の気持ちが分からなくなるのはそれだけ自分の関心にしか興味がないからです。自我を優先し続けていると孤独になるのは、絆や関心の中にある愛に気づけなくなっていくからです。

そんな時には、感謝の心や素直な心に立ち返ることで他人への大きな関心という愛に目覚め直すことが善いように思います。つながりがあるから人は救われ、つながりが消えるから人は救われないのです。一人ではないという実感の中にある豊かさは決してお金では補えないのです。

そして日々に人の心配をするのは関心を高めていくことです。

畢竟、関心とは自他一体の関心であり法則では鏡の法則とも言いますが自分のことを知ることがもっとも大切であり、その上で自分を高めて活かすことが何よりだからです。自他への関心、全体への関心を育めば自ずから自分のことを知り、自分の意志を強くしていけるからです。

これは老子の「人を知る者は智なり、自ら知る者は明なり」につながります。つまり他人を知ることで自分の鏡にし、自分を知ることではじめて自分を他人の役に立てていけるということです。

常に自分の心を見つめて絆を結び、いつも謙虚さに気づいていきたいと思います。

昔ながら

先日、昔ながらの焼酎の蔵元を見学する機会がありました。以前、千葉の自然酒の蔵元を拝見したことがあったので、どのようなところだろうと思いましたがそこは機械によってほとんどが出来上がっていました。

本当に昔ながらというものは、今の時代にはほとんどが遺っていません。それは機械を導入し合理化され大量につくられるようになる時期から大きく変わってきたように思います。

西洋から入ってきた文明というものは、大量生産大量消費の価値観です。手間暇かけて丹精を籠めて丁寧にものづくりをする職人文化よりも、限りなく科学力で近づけて似せてくるという文明です。

時間がかかるものをすっ飛ばして似たような結果と成果を出す仕組みです。自然の都合は省みず人間の都合で進めていくということでもあります。

この世がもしも人間だけしかいないのならば人間の都合でもいいのですが、人間以外がありますから当然に自然の都合というものも慮る必要があるものです。しかし人間の都合に合わなくなるとさらに人間の都合に合わせようとするのが今の時代です。

それに歯止めをきかさなければ、最終的には自然の都合で人間都合が終わってしまうのでしょう。昔の人たちは少しだけ自分たちの慾を自制し、全体のためにどうやるのがもっとも最善かを考えて行動していたようです。

しかし今はほとんど昔ながらの作り方をするところはありません。本物が何かが分からなくなった今、私たちは判断基準を見失っているのかもしれません。

酒造りは、麹と酵母と酵素が活かしあって発酵によりできてきます。味噌も醤油も全部、発酵するものはそのハタラキによりできてきます。毎回、その生き物たちのハタラキを見守ることでとても美味しいものができあがります。

私たちが本当に美味しいと感じるものは、舌先三寸のものではなく微生物たちが活動したハタラキを味わっているのかもしれません。古酒であればあるほどに丸みがでるのも、年老いて丸みが出てくるのと同じように思います。

何が本物かを身体で覚えられるならば、私たちにもその本物の真価を見極めることもできたでしょうが今はそういうものも身近にありません。過去の文献から探してきて自分でやってみるしかないのかもしれません。

発酵を学んで3年目ですが、その深さ味わいは年々増していきます。かつて冷蔵庫がなく保存がきかなかった時代、身近な自然からどれだけ腐敗と発酵の真理を学んでいたか、先祖たちはいつも自然から技術を学びどうやったら地球の中で全体のお役に立つかを学んでいたのです。

物がなくても仕合せだったのは、自分の存在が地球の一部として貢献できる喜びに包まれていたからかもしれません。生き活かされる関係の中にある思いやりや愛に満たされていたのかもしれません。

昔ながらというのは、何をもって昔ながらというのかもう一度見直す必要を感じます。時代が移り変わるのも必然ですから大事なのは温故知新です。本物を見極めその本物の技術を磨きあげつつもより自然や全体が仕合せになるように手配することを学び直すことが子孫のために大切な本質を継承することにつながります。

昔ながらを心に大事に抱いて往きたいと思います。

タブノキの祈り~古代の真心~

昨日、大隅半島にある樹齢400年のタブノキの巨樹を見に行きました。一本だけで一つを杜を形成し、そこに沢山の生き物たちを見守り活かす姿に心癒される思いがします。

もともとタブノキというのは、古代では信仰の対象となった樹ともいわれ祖先はその樹霊を尊び大切にしてきました。それが霊(タマ)の木であり、それが  タモ、タブ、タブノキと変化したとも考えられているそうです。
万葉集の大伴家持の歌、「磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり」の都万麻もタブノキだと言われています。これは意訳すると、(磯の上にそびえ立つタブノキは根を深く広げて年数が経ちなんと神々しいものだ)というものです。昨日のタブノキにも神々しさを感じました。

もともと神社の由来もそうですが、お社があるところが神社ではなく神々しさがあったところに後から神社ができたのです。社殿は後付であり、元来そこに神が宿る自然崇拝、自然信仰があったというのが私たちの祖先たちの生き方です。

タブノキは古代の私たちが神様が宿っていると信仰し、大切に尊びその樹に祈ってきた思いと願いがあります。どうしてもタブノキを観ていたら、その昔の私たちの生き方に触れている気がします。

かつて今のように人間の都合だけで生活していなかった時代、自然の時の流れと自然の音と自然のめぐりと自然のひびきに生きていたころ、私たちは生き方のお手本として悠久の哲学者ともいえる巨樹に沢山のことを見習い教わり心を磨いていたのかもしれません。

ご縁をいただいたその巨樹から新しいいのちをお預かりしました。大切に見守り次世代へと譲っていきたいと思います。

 

謙虚な姿勢~真似ぶ~

昨日、「真似」について書きましたがその真似の姿勢について深めてみます。

学びというのは頭が良い悪いや器用や不器用かという前に、謙虚であるかどうかがあります。若い人から年配まで、学ぶ力がある人はとても謙虚に学びます。つまりは学び力がある人は学び方が身についているのです。

では傲慢な学び方とは何かといえば、自分流だとか、自分に合わないとかすぐに自分自分といったプライドを持ち出し、師や先輩、尊敬する人の言うことにいちいち「自分」(自我)を持ち出してきます。それを自分がなくなるからと思い込んでいる人もいますが、それは自分の意味が間違っているのです。学ぶ際に自分を挟んでいたら、結局は自分の都合で学ぶので真似をしているわけではありません。そうすると昨日のように分かった気にはなってもいつになってもできるようにならないのです。

できるようにならないから余計に自分のプライドが傷つきますからあの手この手で自分の都合を入れ込んできて傷つかないように言い訳ばかりか他人に矢印を向けてばかりいるのです。

しかし学び方を持っている人は、自分のプライドを挟まず志のために自分を無にしそのものと一体に学ぼうとします。つまりは「真似」ができるのです。昨日もある園で、周りの園に教えていただいことを真似をしていつつも「これも真似です」「あれも真似させていただきました」と謙虚に真似をすることで学んでいる姿を拝見し、学ぶのに自園や自分のこととか言う前に、学び方ができている人たちであることを実感するのです。

自分なりに解釈をして学んだ気になることほど自分の成長を歪めることはありません。自分なりに解釈をする前に、教えてくださっている真心や指導してくださっている感謝の心を大切にする謙虚な姿勢こそが真の学力であることを実感します。

真の学力は真似ぶ姿勢ということです。

自分ができるとかできないとかを意識する前に、謙虚であるかが大事なのです。謙虚でなければ法則法理からも離れますから何をやっても実につかなくなるということなのでしょう。もっとも危険なのは、性格が違うだのタイプが異なるだの自分には合わないなど「自分自分」をいつも持ち出してくることです。ここに常に傲慢さが潜んでいることを忘れはいけません。丁稚奉公のようになんでもさせていただきますの姿勢の人こそもっとも将来伸びるというのは古今東西の学力の真理、学ぶ姿勢なのです。

知ったかぶりの知識と自分のプライドが邪魔しないように、常に学ばせていただいているという御蔭様の心をもって丸ごと信じて真似させていただけるご縁に感謝して学力を高めていきたいと思います。

真似

弟子が師を追いかけるのに真似をするというのがあります。自分が分からないうちは、一生懸命に真似をして追い付くのです。ここには大切な教えがあるように思います。

昨今、良いところどりだけをするという人たちがたくさんいます。自分にとってここが良いとそこだけを取り上げるのですが、それではその人の狭い価値観の中で単に良いと思っているところしか見得ていないことがほとんどです。

本来、尊敬するところや達人の人は表面上に現れている良いところとは別にその深層には膨大な背景や思想や実践が積み上がったものを持っています。つまり簡単にはわからない深みに到達しているのです。それをもし自分が習得するには、それを単に取り入れるのではなくその人の実践を丸ごと信じて真似をしていく中で気づいていくしかありません。

単に良いところだけを見てそれを取り入れるというのは、分かった気になっているだけでそこに良い悪いを判断しかえって疑ってしまうから「良いところだけ」になってしまうのかもしれません。

疑ってしまっていてはその良し悪しも決して観えることはありません。師のことや尊敬する人のやっていることややってきたことを丸ごと信じているから丸ごと真似をしようと志すのです。つまりは丸ごと信じているから真似ができるのです。

プライドというものは、自分にできてあの人にはできないから持つのではなく、真のプライドはその人の中に真似をしたいといった心に憧れを持ちそのご縁に感謝しつつ素直に学ぶことができてはじめて持てるのでしょう。

そしてその師弟の絆の中に師資相承や卒啄同時のように昔からある日本の職人文化があるということです。誠に学ぶというのは、単に知識だけを取捨選択するのではなく生き方を真似び「絆を結ぶ」ことと同じことなのです。

その絆の中にこそ、「真似」ができたという真実がありますから学ぶ人は真摯に師のことを丸ごと信じて取り組むことが大切だと思います。現在、見守る保育を広げていく中ですぐに話をするとちょっと見ただけで良いところどりだけをしてコピーをしてはその後は評論する人たちがいますがそれでは本質までは伝えることができません。

真似とは、真になるまで似せるほどにそのものと自他一体、自他同一に学ぶことではじめてできる境地なのです。

自分自身が真似をしてきて掴んだ智慧を分かりやすくし、同じように師からいただいたものを還元していけるように真心で実力を磨いていきたいと思います。

本物とは

今の時代は如何によく見せるかで価値が決まってきます。たとえば、新しいのではなく新しそうならば新しいと思いますし、見た目がきれいであれば中身もきれいだと思い込みます。

しかし実際は、中身とは異なっていても見た目をコーティングさえすればさも良いもののように価格を決めては提供していることがほとんどです。

かつては、本物を見極める目を持っていました。何が本物であるのかを昔の人たちは知っていました。自然に精通していた人が多かったのもあるのかもしれませんが、本物の見分ける力があったように思います。

食べ物一つをとっても、本当に発酵によってつくられた味と、合成甘味料と香料により醸造加工しつくられた味もすぐに味分けができていたのです。今では、本当に発酵したものがほとんど流通しなくなり、幼いころからそれを本物だと刷り込まれ、思い込まされてきていればもはや偽物の方を本物だと思い込んでしまいます。

今の時代は、本物が偽物にとって代わられている時代です。それくらい昔からの本物は消失し、人間が見た目を誤魔化し本物そっくりにコーティングしたものを信じ込んでいます。

このような時代で、本物だといくら言い張ってみても他と見た目が変わらないのだから本物であるかどうかなどを考えることもありません。むしろ古臭いと毛嫌いする人たちもいます。

私たちが本物を見極める力とうのは、本来の持っている本能の力です。その力が減退してしまえば、自ずから社會に本物が減り続けます。

本来、本物とは自然体です。自然の時間と自然の手間暇、自然のプロセスでできたものが自然ですが人が時間も手間もプロセスも省けば不自然なものばかりをつくるのでしょう。

本物に触れるのは、自分がいつまでも本物であるためです。

何か本質か、何が本物か、自然を使ってかんながらの道で表現していきたいと思います。

自分らしさ~挑戦し続けること~

世間では自分らしさとは何かと悩む人たちがいます。周りの中の自分がどのような存在で何に役に立っているのか、一斉画一化された社會の中でわからなくなってしまうのかもしれません。

しかし本来の「自分らしさ」はどのように発見できるのか、そこには主体的な「挑戦」があってはじめて気づけるものです。

つまり挑戦こそが自分らしさといえるのでしょう。

どんなことでも挑戦すれば自分が何をしたがっているのかに気づく機会を得られます。小さな勇気を絞り出して挑戦するたびに、その挑戦のさなかに自分の本心や「やりたい」と思っている自分自身の心の一端に触れることができるのです。

今の時代は失敗を恐れて無難に生きようとする周りの大人が多い時代だといわれています。損得だけの判断基準でいえば、挑戦することの方が損だということにもなるのでしょう。それに日本は島国特有の柵や保守が強いですから余計に挑戦することを嫌う風潮があります。さらにテレビであげあしをとるようなニュースをマスコミが煽るのもまたその恐怖感を倍増させているのかもしれません。

しかしそれでは次第に誰も挑戦をしなくなっていき、挑戦をしないから自分らしさが消失してくるのです。人は自分に出会い続けるためにも自分探しとか言う前に、自分らしさが必要です。自分らしさというのは挑戦した数だけ自分らしいということですから自分を探す暇があるなら一つでも小さなことでも挑戦し続ける方がいいのです。

自立している人や自由な人、自信がある人はその背景に挑戦し続けている実績を持っています。実績があるから自由であり自立であり自信になっているのです。

「挑戦なくして自分らしさはない」という理由はそういう意味です。

見た目だけコーティングしても、中身がないのではそれでは自信など持てません。見せかけばかりを整えるのではなく、ちゃんと向き合って自分を磨き、中身を創っていくのも自分自身ですから日々に挑戦を続けていくことがもっとも自分と人格を高めていく方法なのでしょう。

自分らしさが発揮されるよう挑戦を已まないで学び続けて実績を積み上げていきたいと思います。

自他地球一体~自他免疫~

私たちの体は自然の一部として存在しているものです。つい人間は考える頭がありますから自分がもっとも特別な存在だと認識してしまいます。これは体についてもいえることですが、体に変調があっても脳がそれを受け容れずに自分勝手な解釈をするように全体と一部が逆転してしまいます。理性と本能も同じです、本能の一部に理性があるとは思わないのです。

しかし本来、地球の一部として存在しているのが自分ですからありとあらゆる調和の中でバランスを維持しようとする全体の一端として存在しているのです。

天候や気候の影響を受けますし、周りの生き物たちとの循環の影響も受けています。それをいくら無視して脳の中の自分の世界だけに自分が存在していると思い込んでも現実はそんなことはできるはずがありません。

そして人間が自然治癒する仕組みもまた地球が調和を維持する仕組みと同じです。

それを身体の免疫で例えれば日頃守っているNK細胞がある程度は自力免疫で自分を守りますが、それでも守れない場合はT細胞といった他力免疫が現れて外部からその病原菌を取り除きます。

これは自然農を実践する中で気づいた智慧ですが、自然界の植物たちも同じく自らで守る自力免疫をそれを超えてやってくる虫たちなどの外敵には天敵が現れて助けてくださるのです。

つまり人間の体も自然と同じく、自分の免疫とそれを超えてバランスを崩すと天敵が訪れて調和を保つのです。ここからも自然界で起きている病気を調和する法と人間の体を調和する法が同じであることが分かります。

そもそも人間中心に考えていれば、自力免疫とか他力免疫とかではなく全部薬などの人間の創りだしたものしか信じなくなりますが自然の一部であるというように認識しているのならば自然の治癒を信じることができるはずです。

如何に自分が人間を優先しているか自然を優先しているかが、対処法に出てくるのです。根源的に治癒するというのは、人間の対処療法ではなく自然の根源治癒にしていく必要があるのです。

根源になるというのは、自他免疫を使うこと、人事を盡して天命を待つこと、自然治癒を信じて治癒を邪魔しないように健康健全を実践するということです。それは身体だけに限らず、心身を健康に保つということです。心を清らかに澄まし、明るく前向きに周囲を慮り、御蔭様や感謝を実感し、今此処に自分のいのちを役立てて働く喜びを味わって活かしていくように元気な生き方をしていくことのように思います。

ちょっと抽象的ですが、自然をお手本に自分の生き方を見直していくということです。地球の一部なのだから地球と一体になれるよう、自然体に近づいていきたいと思います。