今甦生

大晦日になり、改めてこの一年を振り返るとあっという間だったように思う中でも貴重な出会いやご縁をいただいた充実した一年になったように思います。

節目というものは、その時々の心境で何度でも感じるものですがその機会が一年ごとに繰り返されるということはとても豊かなことであろうと思います。

人生の中で、節目というのは私にとってはいつもはじまりとおわりを示します。一つの生が終え、一つの死を迎え、そして甦生する。この甦生こそ節目であろうと思います。そうやって何度でも節目に甦生しながらも変化と生長を已まないというのが循環の中にいる今というものに生き切る覚悟なのかもしれません。

以前、私は「メメント・モリ」という言葉に出会いました。「死を想へ」というようなラテン語の意味だったように思います。具体的には、人はいつか死ぬのだから死を忘れてはならないという意味だったように思いますがその言葉をより詩的に田坂広志氏が書いたものを、手帳に書きだし20代の駆け出しの頃は何度も省みて観直していたのを思い出しました。

そこにはこう書いています。

「この地上に束の間の生を受け、駆け抜けるように去っていく無数の人々のなかで、
我々が、その短い生涯において「縁」を得るのは、わずか一握りの人々に過ぎない。」

死を忘れるなということを毎日のように思い返し、自分の今の一瞬一瞬が掛け替えのないご縁の日々を送っていることを当たり前とは思わないようにと自戒をしていました。今になってみると、その御蔭で素晴らしい日々に出会い、素晴らしいご縁をいただき、有難い邂逅と勿体ない御蔭様に恵まれ学び続ける日々を歩ませていただいています。

この生を遣り切った先に、充実した死ががあり、その先にまた新しい生死がある。

この生死の縁とも呼べる今というものの連続の中にある、生死がいのちの甦生を続けていくのかもしれません。万物一切は永遠の今を持ち、この宇宙と共に生き続けるということが今というものの中に存在しているのかもしれません。

私たちは思い出というものを忘れてしまいますが、思い出があるということは永遠の今があったということを思い出したということかもしれません。

今を生き切るというのは、何度でも生まれ変わるということです。

何度も何度も気づいて発見したならばもうそれは昔のことです。それにご縁を大切に、新しい自分と出会ったならばもう昔の自分はいないのです。新しいことを学ぶということは、それだけ古い自分との邂逅になります。つまりは生も死も同等に今の中にあるということでしょう。

姿かたちは同じであろうが亡くなろうが、信じたものは永遠です。

来年も信じて行じていく日々を積み重ねて、自らの実践により子どもたちのいのちの今を切り開いていきたいと思います。御縁に感謝しつつ、今甦生している日々を味わって豊かに生き切って参りたいと思います。

有難うございました。

 

道草日記~あるがままに~

先日、「ファン・デグォンのLfe is peace with 辻信一」のDVDを拝見する機会がありました。以前、自然農の川口由一さんのDVDと同じシリーズだったので、自然をテーマに本質的なお話が拝聴でき、新たなインスピレーションをいただくことができました。

このファン・デグォン(黄大権)氏は、米国留学後、帰国した際にスパイと間違われ激しい拷問とそのまま13年と2ケ月という月日を独房で牢生活を送っています。その中で、様々なことを生き直し野草という身近な存在に気づいてそこから自然というものに入り込み「野草手紙」という獄中から妹に宛てた手紙が出版されると100万部を超えるミリオンセラーになったとのことです。

この物語だけを聴いても、吉田松陰のことを思い出します。吉田松陰も妹がいて、獄中から様々なことを妹に手紙を送っています。それに獄中で囚人たちと共に学びその講話を記述した「講孟箚記」は100年を超え今でも読み継がれるミリオンブックです。

その人が艱難辛苦を耐え忍び、その志を堅古にし内省により掴んだ智慧はいつの時代も人種の違いもなく真理として心に深く響くものがあるように思います。

この話の中で特に印象に残るのがカササギの観察の話です。私も動植物の観察はライフワークなので巣をつくるところと自分の居場所を組み合わせで直観した話はとても参考になりました。

これはカササギが、巣をつくるために何回も何回も試行錯誤し最初の枝が木の隙間にストンと入るまで諦めずに新し枝を探し求めて旅を続けるというところです。そして「平和や幸せというものは、それと同じく自分のいるべき場所にいることだ」と言い切ります。

「そこには一寸の狂いもなく、本来の場所に収まっている。それは人智を超えた神の精妙なるデザインである」と続きます。ここにも自然の仕組みをこの方が発見していることを悟ります。

私達人間というものは、自然から離れ人工的な欲を満たす世界の中で謙虚さというものを忘れてしまっていくものです。本来は、自分の思い通りになどいかず、その方が思い通り以上の素晴らしいことが起きていることも分からなくなっていくものです。

そうしてみては不平や不満を言い、自分の居場所ではない所の方を羨ましがり本来感謝していたはずの存在そのものの有難さよりも、自分にとって都合のよいことのみを嬉しがるといった道から外れた幸せを追ってしまうものです。

しかし本来、自分の与えられた天分というものは自分が決めたものではなく生まれ落ちたところから今にいたるまで全ては全体の中の一部として存在させていただいているものです。自分がそうさせていただいているという実感は、自分があるのは様々な御蔭様の上に成り立っているという謙虚な気持ちを持っているということであろうと思うのです。

本来ならば、自分が地球上でこれだけの自由にさせてもらいながらそこへの感謝を忘れては地球や宇宙への貢献ということも何の事だか歪んで解釈されていくのかもしれません。私たちが活かされているということも自然の動植物は当然に自覚しているからこそ、先ほどのカササギの枝のようなものまであるがままに観えるのでしょう。

あるがままの心で生きるというのは、素直に活かされていることを実感するということだと私は思います。そして今、居るこの場所を深く厚く掘り下げていくことだと思います。生きている以上は活かされているはずです、それは空気も水も光も風もみんな自分を活かしてくださっています。

だからこそ自然の有難い御恩にどれだけの感謝を盡すか、共に天命に活きようという声掛けなのかもしれません。道ということは、目で追わなくなり心が定まった時に顕現するものかもしれません。暗闇の中に一筋の光が差し込むようなものなのかもしれません、私も絶望の度にいつも助けて下さる方々に出会い人生がさらに歩みだしていきます。

ファン・デグォン氏は野草でしたが、私の場合は道草なのかもしれません。このかんながらの道のブログも私という草を活きる「道草日記」のようなものだからです。これからも自然に活かされる有難さを感じつつどんな機縁も勿体ない心で、自然と共に強く優しくあるがままに歩んでいきたいと思います。

盡心

人は何かに打ち込む時に、盡力を尽くすという言い方をします。

この盡力というものは、盡心から出てくるものですがこれは力を出すという意味ではなく持てるだけのすべてのありったけの力を尽くしますという意味です。これも簡単には文字にはできますが、これを実行するというのは本当に難しいことなのです。

孟子にこういう言葉があります。

「その心を盡すものはその性を知る。その性を知れば則ち天を知る。その心を存し、その性を養うは、天に事うる所以なり。妖寿たがわず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり」

孟子にとっての盡すというものは、その天命を盡すことであり、そのために存心のままに修養し、全身全霊のいのちを懸けて修身することであると述べているように私には思えます。

日々というのも時事というものも、どれも過ぎ去っていくものです。その中でどれだけ、自らを盡して生き切るかというのは、自然である姿としてのいのちそのもののように生き切っていかなければなりません。

あの鳥や虫たち、植物たちと同じように春夏秋冬様々な四季の中でそのものの天命を遣り切っていくのです。そこには、心だけが活きているのです。

私たちは心を遣うということよりも、頭を使うことを優先してから大切なことを忘れているのかもしれません。その大切な事とはあまりも当たり前すぎて見向きもされなくなった「心」のことです。

心というものは、その全ての根源であり、私たちは心を通じ合って存在し合っているものです。その心をおざなりにして心を高めていくことをやめたなら、本来の人生そのものの価値を見失ってしまうのかもしれません。

心があるからこそ、その心に応じて観える世界は顕現していきます。もしも心が亡くなれば、それに応じて無機質な世界が顕現するのです。

身を修めるというのは、理性で感情をコントロールすることを言うのではありません。身を修めるというのは、その心を高めるということです。心を高めていけば身は次第に修まっていくものです。

修身というのは、つまりはその真心を盡すことの大切さを実践と学問により高めていくということであろうと私は思います。そして真心盡すとかいて、「盡心」です。

大義に活きるのなら、日々の全てに手を抜かず丹誠を籠めて取り組んでいかなければなりません。あの自然界に倣って本来のあるべき姿を学び直していきたいと思います。

現場実践

先日、ミッションパートナーとのふり返りの中で心身についての話をしました。最近は、唯物的な社会思想の中で心というものがどれほど大事かということを忘れてしまっている若い人が多いといいます。

そもそも人間には、「考える」ということと「思う」ということがあります。考えるというのは、頭で考えるということであり、思うというのは心で思うということです。

これはまったく住んでいる世界観が異なるほどの違いがあります。

考えている世界というものは、形式知と言われるもので客観的に分析したり冷静に対応したりと起きている出来事や事物をそのままの形にして判断していくことができます。私も考えますが、それは説明するために理論化したり論理的に何かを表現するときなども用いいます。

しかし心の世界というものは、暗黙知とも言われ自他を思いやり、心を通じ合い、寄り添い共感したり、互いに感じ合ったりといったそのものの事物や出来事の背景までを感覚的に直観したりすることができます。私はいつもこれを何よりも優先にし、心が常に働いているかどうかと自分の状態に気を遣っています。

これらの考えると思うということは何よりも大切なことがらで、どちらを優先しているかで貢献していく形が異なっていくのです。まず考えるだけになったなら、どこか冷めていて何か事が起きても大変だと考えればすぐにやりたくないという考えが頭をもたげるはずです。そんな考えることを優先していたら、もし行動できても何かが起きたらすぐに避けたい楽になりたい方を選択してしまうように思います。

しかし、思うということを大事にしたなら、強い思いをもっているので情熱的に果敢に挑戦していき大変だと思っていても心が折れずに最期まで遣り遂げることができるように思います。そして日々に思い続けて思いをカタチにしていくのなら、避けたいや楽になりたいというよりも、向き合いたい、味わいたいという方を選択していけるように思うのです。

この「思い」というものの力は、誰かの役に立ちたいという願いであったり、何かの目標や志を持つことでより強くなります。

しかしこれらの目標や志であっても考えただけのものであれば、それは目標風、志風というような心で本物にしたわけではなく単に知識だけで象られたものになっている場合が多いのです。

だからこそ、常に「思う」、「思い続ける」という実践があってはじめて思いは醸成されるとも言えます。思いは、心で行うものですから辛く苦しいことばかりです。時には心が痛み、心が疼き、心が傷つき、心が張り裂けそうな思いを沢山します。

そういう思いを沢山して、その体験を通じて思いを固めて思いを決めて思いを本物にしていくことができるのです。そしてそのあと、はじめて考えてみればより思いをカタチにしていくために具体的な方法を活かしていくこともできるのでしょう。

狭い学校や知識の中で生きているのなら考えているだけでもいいのかもしれませんが、実際の社會では人々は沢山の苦しみを持ち、人々は多くの悲しみを背負って生きているのです。

そういう人たちの力になるというのは、心からの自分、「思い」を持った人になり、共に道を歩み手と手を取り合って助け合っていくことなのです。そして心から思うことに生き切る日々を積み立てて立志と言うのでしょう。

だからこそ考えてみてたとえ辛そうでも、そこで心を閉ざそうとせず我慢し、思いを引き出し思いを育てるために心を開き続けていくことを恐れてはいけません、心が傷つくことも避けてはいけません、人生は一度きりなのだからそういう苦労体験を若い時は買ってでもして、本物の努力をして成長していくことが大切なのでしょう。

知識偏重型というのは、物の世界です。ここでは共感中庸型ともいってみますが、心の世界も常に存在し同時にあることを気づいてほしいと願います。

現+実(現場実践)とはその両輪があってのものですから、「思いの醸成」になる実践をしっかりと積み重ねていきたいと思います。

立志こそ全て

2年前にオルタナという情報誌の主催で、学生たちが自ら志のある会社を集めた就職ガイドをつくろうとという企画があり参加したことがありました。

それは私たちが作成している理念ブックから抜粋して紹介したものです。そこで掲載させていただいた元になる文章は、理念ブックあるミッションというところから抜粋されたものです。

外部に出しているものではないのですが、ここで初公開してみます。

(大ミッション)

『世界ではまだ貧しい国がたくさんあります。そしてその戦争などでもまず犠牲になるのは子どもたちです。私たちは、このモノに溢れた裕福な国に生まれて掴んだものは物質的豊かさかもしれませんが、その反対にとてもココロは貧しく辛い世の中にしてしまいました。そして戦争のない平和に観えるこの国も、まず犠牲になっているのは私たちの未来そのものである愛する子どもたちです。私たちは、物質経済を追い求める大人が生み出した身勝手な競争優先の社会から子どもの人権を守るために幼児期の保育環境を創造する援助を行い、子どもたちが安心して過ごせる未来を遺すための仕事をしている会社です。私たちのこだわりは「子ども第一主義」です。そしてこれは私たちカグヤのクルーが共有している根本理念でもあります。子どもが単に好きだから子ども第一主義ではありません。子どもたちが創りだす未来そのものを見守り、そして彼らの生きる力を信じるということを第一義とすることで教育施設にある様々な隠れた問題を見抜き改善しコンサルティングすることでそれを実現する方向へ導きだすことです。子どもたちを見てみてください、彼らに余計な大人の刷り込みを与えずに子どもたちを信じて自治を任せていけば子ども集団は必ず道徳倫理に叶った平和で助け合いみんなが共生する民主主義を実現するのです。余計な大人の与える刷り込みは百害あって一利なしです。私たちは、子ども第一主義を目指すカグヤのクルーとして自らが独立自尊する自立した立派な刷り込みのない素直で純粋なままの大人(たいじん)としてのモデルを日々の仕事を通して実践で示し、平和で真に豊かな社会と世界を本気で創造しようとしている会社なのです。「3つ子の魂100まで」の言葉に象徴される、今最も大切な幼児期の子ども達に1000年後の真実を遺したい。未来をより素晴らしいものに変えるには教育を変えるしかない、子どもが自分達で創ろうとする世界を私たち大人がいかに信じて見守っていくか。そのために私たちはここに集まっています。カグヤの真の大ミッションはここにあります。』

これは社業の目的とも言える根幹の理念です。

会社というものは、別に商品を売っているだけではなく、サービスをしているだけではありません。会社会社にその目的が存在していて、その本質はその目的に対して何をしているのかということなのです。

私たちが信念を持ち、何を拡げているのか、何を実現したいのかは理念に由るのです。

その理由を明確にして、信じたものを行じていくとき、それを共に実現する方々が顕現してくるように思います。自分が大切な岐路に立つとき、覚悟を決める時、それは理念に立ちかえる時であろうと私は思います。

自分が何にいのちを懸けているのか、全身全霊を尽くすのかは、その使命の用いどころ、また心構え、その覚悟にあるように思います。文章に書くのは簡単ではありますが、読んで理解するのも容易ですが、事実、これを実践するということはとても難しいことです。しかしそれが志を立てるということなのです。

「立志万事の源となす」

これは吉田松陰先生の士規七則の言葉です。

使命感とは、志如何によるものですから仮初のものでも借り物でもなく、その志を自ら立てることが全てのはじまりであることを忘れてはいけません。

 

役割交代という尊義

先日、クルーの内省から他人事について考える機会がありました。

人は一般的には自分のことと他人のことを分けていて、これは自分と関係するものか、それとも関係しないかで自ら一線を引いているようにも思います。危機感というものもまたここから薄れていくのかもしれません。

これらの心理には何が働いているのかというのを深めてみました。

そもそも他人事というものは、相手は相手で自分は自分というようにまさか相手が自分と同じなどとは思わないというところから考えることがはじまっているように思います。逆を言えば、もしかしたらこの人は自分だったのではないか、もしくは相手は自分の代わりにしてくださったのではないかなどは考えないように思います。

例えば、動物の世界では集団という群れで生きていますがあるものは食べられ、あるものは生き残ります。名前もない世界ですが、同じ仲間、家族として生きていけば自然の法理に従って生き死にを瞬間に分かち合っているのです。その世界では、ひょっとしたら明日は我が身かもしれないという危機感の中で共に自分の出来事として共感するのです。

しかし人間は自他を分けて個人主義になり、画一化された自我の中で線引きし自分のことしか考えなくなると次第に周囲への思いやりよりも自分を守ることを優先することになっていきます。ここに矛盾が発生するのも、周囲がなければ自分が立たず、自分が立つのは周囲の御蔭であるということ、自他とは御互いにつながりお世話し合う中で存在していることを忘れるということです。

またこのようになるには、幼少期からの教育もあり、本来は自分でそういうことを考えないといけないことを考えないという弊害から発生しているようにも思います。もしも自分のことだと思えば、世界への関心というものは開けていきます。他国の戦争は他人事ではなく、もしかしたら自国のことになるかもしれません。さらに極端かもしれませんが、相手は生まれ変わったら自分が同じ境遇になるかもしれません。

それくらい御互いに体験をシェアしつつ、御互いの人生を生き切ることで互いに生き残るために助け合っているのが人間社会であるようにも思います。

社會というものを考える時、本来は自他一体、もしも相手が自分だったら、もしもお客様が自分だったら、もしも会社が自分の会社だったら、もしも自分が・・だったらと共感していくことが共生しているということになるのです。

自分の立場の責任だけを果たせばいいとか、自分はここまでやればいいとか、自分というものを線引きして自分の都合で割り切ることは実は本来の全体の中での自分という考えではなく、自分が中心で周りは自分に合わせている付属的要素のような考えになってしまうのです。

自分があるのは、先祖代々より親が子を養い、そしてまたその子が親になり子を養うように、世話をしてくださった人があって自分が今度は世話をする番になるというように役割交代をしながら自他一体共に支え合って生きているのを忘れてはいけません。その生きざまには自他一体で御互いに大切な大義のためにいのちを支え合っていきている尊い絆があるのです。

例えば死にゆくものの気持ちが分かるのがそれは死ぬときでは、あまりにも生き残った自分の役割を考えなていないのではないかとも思うのです。共感力が落ちるということは、それだけ自分自身であることの意味が喪失しているということなのかもしれません。

だからこそ他人事というものは、もっとも御縁御恩を忘れる行為として戒めなければなりません。全部のことを身近なところから自分事にして「もしも自分だったら」とそこから考えるということが、人間社會に活かされ所属させていただいているという自覚になっていくのでしょう。

この自分くらいという考えが、多くの人達の足をひっぱっていくのを忘れてはいけないと思います。もしも自分がやったことが廻り巡っていつか自分の家族や子どもたちにツケが周るとしたらと思えば、、、きっと誰もがとても他人事には思えないと思います。

その前には必ず自分に返ってきますから、全てを自分事として役割交代なのだと真摯に相手のために自他一体で全身全霊を尽くすのが礼義になるように私は思います。

私達人類皆兄弟、一家であるということがもう一度これから思い出される必要を感じます。慈悲という気持ちも、またその苦しみや悲しみから産まれてくるように思いますから真心の実践を積み深めていきたいと思います。

回訓

先日から、家訓や遺訓というものを深めていますがその中にはその人そのものの人生で得た大切な戒めが回訓となって記されています。

人生の中で、何をしているときが最も危険な時か、またどういう状態の時が自分が偏るのかを自覚しそれを自らが忘れないように繰り返し見直し心を見つめているように思います。

人生の中で、得られる教訓とはほとんどが失敗を通じて得られます。大きな悔いを転じては、それを情熱に変えて次の実践を深めていくということ。思い返せば、私の今も苦い体験や辛かった体験があってその御蔭で強くしていただいたように思います。

定期的に驕りや慢心というものが自分の我によって現れそのことから失敗をし、その失敗から学びまた我を修めていくという中で道を歩んでいくようにも思います。素直でなればその我も観えないのでしょうが、失敗の御蔭でその我と向き合うことができ、それを戒める自分の言霊とも出会うように思います。

人生の中で、失敗のない人生などありませんし失敗がないということそのものが失敗であろうとも思います。失敗から学んだことが自他の人生の御役に立つのだから、思い切って勇気を出して挑戦し努力することの価値を自らで示していくのが子どものモデルになることなのでしょう。

現在は、園訓や家訓、遺訓などの仕事に携わることで新しいことを学び直しています。その中で共通するものが観えてきましたが、その全ては我と真我に関係することです。真我を目覚めさせるために、日頃の信念を醸成する回訓を持つことはとても大切なことのように感じました。

徳川家康の遺訓と言われるものを紹介します。

「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず 不自由を 常と思えば 不足なし
心に望みおこらば 困窮し足る時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りを敵と思え
勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る
己を責めて 人を責むるな
及ばざるは 過ぎたるに 勝れり」

意訳すれば、(人間の一生は重い荷を背負って遠い道を往くようなものである、だからこそ決して急いではならない。そもそも自分の思い通りにはいかないのだと思えば、不満もないだろう。心に欲が呑まれそうなときには、苦しく辛かったころのことを思せばいい。耐え忍ぶことは安らかに長くすごしていく基礎になる、怒りこそ本当の敵だと思いなさい。勝つことばかりを求めては負けを避けるようでは、必ずその弊害は自分自身に出てくる。自分に矢印を向けても人に矢印は向けるな。少し足りないと思える方が、遣り過ぎていることよりも勝っているのだから。)となります。

謙虚に生きていくことの大切さを述べていますが、矛盾を耐え忍び歩んできた背景を感じてその生き方から学べることは沢山あります。

その人その人の我というものは等しく同じですが、対処となると異なっていますからそれぞれに自らを修める言葉に出会うことが大切なのかもしれません。

私の場合はかんながらや真心、自然になるかもしれませんが有難いお仕事をさせていただいていることに感謝しつつ、日々に回訓を歩んでいきたいと思います。

知識を活かす力

物事には本質というものがあります。

これをそもそもとかゼロベースとかの言い方で論じ合うことがありますが、これも学校で教えられたままの知識で論じると本質からズレテしまうということがあるように思います。

本質とは、それが一体何かということを考える力が必用で誰かから言われたことを考えるのではなく、その元から自分で考えるということが優先されているのです。

社會で知識を役立てていこうとするならば、単に知っているだけでは使えません。その知識をつなげて如何に貢献するかということができなければ知識は活きないからです。

学校では暗記というものを中心に、誰かが教えたことを覚えればテストでの成績は上がっていきます。受験を目標にしていると、如何に教えられたことをちゃんとやるか、如何に教えられたことを忘れないかということが重要視されます。

しかし社会人になると、如何に教えられていないことを考えられるか、如何に教える前に学問をしているかということが大切になります。そもそもの目標や理念を優先していますから、自分で今、一瞬一瞬の本質を考え続けなければならないのです。

いちいち何のためかということを考えるというのは、楽ではありません。本来は、誰かが言ったことをルーティンでやるだって十分に大変ですからそれでいいと思いたくなるのかもしれません。しかし、本質から外れたならば頭でっかちに考えただけで効果が低いということが発生し、いつまでも受身になってしまうのです。

もし本質通りであれば、目標から外れずに本懐を達しますから主体的に仕事を創造していくことができるのです。これらの本質の力というものは、何が本当のことか、何が本物か、何が真実か、何が本質かということに徹底的に考えている内省が必要なのかもしれません。

右か左かではなく真ん中、良いか悪いかではなく最善、合っている合っていないではなく実践というように、本質が捉えられる人は全体の知識を融合し、理念や目標から外れずに日々を取り組み積み重ねられるように思います。

それは頭だけで考えるのではなく、心で考えた後に頭で考えるのがいいのかもしれません。まず行動し体験し、検証し、改善し、実践するという先に考えて失敗しないようにするのではなく、失敗してもいいから連帯で行う、言い換えれば失敗してもいいからみんなと協力するということを学ぶのが本質的なことを呼び込んでいくのかもしれません。

個々が教えられた知識では自分は活かせないということでしょう。知識を活かす力というものは、独りよがりの知識で勝負するのではなく、ありとあらゆる知識の中から本質を見つけ出し、その本質のままに行動することで本来の知識を活かすことができるということです。

そうやって自ら社會を通して日々に学問をし研鑽を積んでいくというのは、実行実践実証の場数を徹底的に増やしていくということなのでしょう。極端かもしれませんが頭で考えずに行動できるというのは、目標や目的が心で観えているということかもしれません。

「何のために」というのは自分と正対し向き合う言葉です。それを日々に積んで目的のままの自分でいることが貢献していくということなのでしょう。日々を学び直していこうと思います。

慈安一体の自然

先日、慈悲や慈愛について直観する機会がありました。

人は、身近にある当たり前に気づくことができるかどうかで色々な新しい教えを学びます。それができないのは、その私心や先入観が邪魔をして本来の自然であることが分からなくなるからです。

そういうひとつひとつの私心を転じて、全体の働きの中に入るという体験を通して様々な自然の有難さや勿体なさ、尊さ、偉大さに気づいていくのが教えというものに気づくということなのかもしれません。

教科書などには書いてはいない自然の経書を読み解くというのは、心が揺さぶられるような体験をどれくらいしているかによるのかもしれません。

人間は生まれながらに様々な苦しみを持っているともいえます。

その苦しみは、一人一人に異なり、その人なりの苦しみというものを持っています。それは単なる楽か苦かの苦しみではなく、心が唸るような感動、心が痛み割けるような感激を持つのです。

その一つ一つは、あまりにも自然で頭では理解できない程に自然なことなのでしょうがこの世に活きている以上は共にいのちのある存在として分かち合って存在しているのが現実なのです。

そのいのちに対して、受け容れ難いことを受け容れるのは時間があるという慈悲、それでも変わらぬ自然という慈愛、いつも私たちを真心で包んでくださる当たり前すぎて気づけないような水に帰するものなのかもしれません。

水の流れのように、時が流れ、汚れを洗い流していく様に、そこに映し出される悠久のいのちの流れを味わってみるといいのかもしれません。龍の如く生きる私たちが、その水に癒され、その水に揺さぶられ、そしてまたその唸りに一体に溶け込んでいく。

言葉にするにはここが限界ですが、慈しみ愛する心が自然と同じように私たちの中にあるということが何よりの安らぎになっているように思います。

時代は変われども、その苦しみに寄り添いそれを転じて愛する心は永遠の煌めきを放ちつづけます。その安堵に、自らの使命を果たすことに専念するという自然の活動に心から感謝の念も湧き出てきます。

子ども達のためにと生きる日々ですが、慈安一体の自然に活かされる日々を味わっていきたいと思います。

一生一省~ライフワーク~

先日、ある園長先生とのふり返りの中で生き方と働き方について話をしました。その中で、ライフかワークかではなく、ライフライフライフだということや、ライフワークそのものという話をして盛り上がりました。

私はこれらのライフもワークも分けない人、いつも遣り切っている人だとよく身近な人たちから評価されていますが、これが何かということを一度深めてみることにします。

よく世間では、仕事とプライベートという言い方で人生を分けています。働いているときと休日も分けていて、週末はぐっすり寝て休み、平日は一生懸命に仕事をするといような感じになっています。他にも、私的なものと公的なものという分け方や自分事と他人事という分け方などこれは自分の人生で、あれはみんなと合せた人生という分け方をしたりもします。

言い換えれば、自分の都合で何かを分けているという感覚で仕分けるのでしょう。

これを生き方の働き方の一致、つまりはライフワークになっているとどうなのかといえば平日も休日もまずありませんし、私的も公的もなく、自他も一体になっているし、全て丸ごと自分の人生という生きざまになっているということになります。

つまりは、ライフライフライフであり人生というものそのものに真剣になっているという状態なのでしょう。真摯に生きるということは、自分の中の分別知を持たないということによるのだろうと思います。

自分の人生の目的に対してどれだけ真摯に今を生き切るか、真理を探究するか、自らを修養するか、自学自習を研磨していくかということを実践していくのです。

実践と実験と実証を繰り返す人生においては、ライフもワークもないということでしょう。

自らが取り組んでいる人生の課題、言い換えれば目的に対してどれだけ真剣に生き切るか、全てのご縁を活かそうとする人生の姿勢がブレナイということがライフワークになっているということかもしれません。

時間というものは、あの川の瀬音に聴こえるように猛スピードで流れていくものです。二度と戻ってこない今だからこそ、少しも無駄にしたくないという心が全てを遣り切るという行動につながっているのかもしれません。

死を想い、生を活き、時を信じ、人を愛し、自然一体の道にいることが一生一省なのかもしれません。

この今もいのちの躍動を感じつつ、かんながらの道を楽しんで往きたいと思います。