仲間との邂逅~尊い学び~

先日、社内木鶏会を行う中でクルーの一人の生き方からとても大切なことを教わりました。

それは「自分の行動が誰かの勇気になる」という言葉です。

これはかつて自分を鼓舞するとき、努力すれば必ず夢は叶うと信じて努力を優先するときにいつも自分に投掛けていた言葉のひとつでした。それを改めてそのクルーが努力と挑戦をする中で同じ言葉を用いていることに新ためて教えられたのです。

久しぶりにこの言葉に出会ったとき、「そうか、あれはそうだったのか」と新たに学び直しができたのです。

それは私が若い時、営業先のある方に「天知る、地知る、我知る、人知る」ということを教えていただきそれを紙に書いて机に貼っていたものと対語になっているようにも思えたのです。そのある方は御取引先の方でかなりの高齢の方でしたが、ご縁を戴く中で「誰も観ていなくても天は観ている、神様は御見通しなのだから一人の時でも慎み努力精進をし続けなさい、あなたは一生懸命だからきっと大丈夫だ」と鼓舞された思い出があります。

今になってみると、蔭ながら本気で努力をすることの大切さ、常に裏表なく陰ひなたなく誠実に自分の人生を遣り切っていくことの原点が此処に在る気がして懐古し再び感動しました。

人は同じ体験をしてくれている人を観ると、まるで自分のことのように思えます。その中で、かつて自分が出会った素晴らしい言葉にその人が出会うことに何よりも感動し、自他一体に甦るのです。また生まれ変わるのです。

この「同体験の学び」ということの素晴らしさというのは、同じ体験をしてみたいという憧れから来るものかもしれませんが机上で空論を振りかざすのではなく子ども心に無垢に素直に純粋に憧れ実践するということの歓び、その今の自分の体験の有難さに感謝できているときにそれを実感するのだと思います。

「誰が見ていなくても天が観ている」、だからこそ自分の行動が誰かの勇気になっていくのだと自分を信じて、誰が認めてくれようがくれまいが自分が信じたのだから必ず善くなると、信念を心に抱き挑戦し続けるという姿勢に、「天の見守り、御蔭様への感謝、そして有難いご縁への報恩」の新しい自分の境地を発見し続けて人生の道楽に回り逢い続けるように思います。

この世の楽園というものがあるとするならば、自分の生き方が誰かのためになっていることの素晴らしさに気づき、だからこそと自分の生を怠らず精進しようと努力するときに顕現するのではないかと私は思います。体験できる、尊い学びをいただけるとき、つながりの中で自分として生まれた価値を味わっているのです。

今の時代はすぐに近道を探したり、効果があることばかりを優先したり、結果が出そうなことばかりを選んだりしがちですが、本来は何のために人生を遣わせていただけるのかをよく内省し、健やかに実践することで目覚め、飽かずに地道に丹誠を籠めて一歩ずつ努力していこうとする姿勢に本物の自分との邂逅があるのでしょう。

いつも仲間の努力している姿に清らかな学びを得て、自分の人生の意味を再認識します。仲間の存在とは、何よりも有難いことで師友があるということは其処に尊い学びがあるということなのです。

「自分の体験は必ず誰かの御役に立つ」そして「自分の真摯な真心は必ず天に通じている」と日々の過ごし方を愛おしむように努力させていただけることに感謝していこうと思います。

尊い学びをいつもいただけるのは私の方です、有難うございます。
体験させていただける天に地に我に人に、誠を尽くしていきたいと思います。