道導~みちしるべ~

人は道を通して学問を深めていくもののように思います。道があっても道に入らぬではないですが、同じ道を歩くのならやはり道なのだと決心して歩く方が楽しいのです。

少し考えてみると、自ら歩み出したものと誰かによっていつも歩かされたのでは同じ道であっても大変勿体ないことをしているように感じるものです。

人は何かの判断をするとき、辞めればいい、避ければいいという発想が元にあるとします。すると、そこから道から外れようとするのでしょうが結局はどこにいっても道はあり、”どの道やらないといけない”のです。それが自分のたった一度の人生、「生きている」という自然の摂理だからです。道に気づけなければ一生なんとなく終わることもできるのでしょうがやはりそれではもったいないのです。

この「どの道遣る」というのはとても大切なことのように思います。遣ると決めれば道が顕われ、遣ると決めないから道が観えないとしたら、まず今立っているこの道を、とことん遣り尽くそうと覚悟を決めることでどの道もまた開いていけるようにも思います。

そもそも学問というものは、理屈や名誉のためにしているとおかしくなるように思います。どのような学問を見てきたか、どのような学問をしてきたかというのは自らの人生の判断基準になるように思います。目的があって学ぶのですが、その目的を見失うから道が観えなくなるものになるのかもしれません。

中江藤樹にこういう言葉が残っています。

「人間、学問に志すというのは、道に志すものでなければならぬ。ところが今の学問は、己の知恵を磨くより、人に誉められたいという名誉心、はなはだしきは、金銭のために学問をするということで、その志たるや実に卑しい」

道に志すというのは、正直に学問をすることのように思います。正直であるというのは、日々に真心を持って体験したことを内省し改善しまた新たな実践を積み重ねて精進していくということであろうと思います。

しかしそういう体験を避けて思い通りにしようとし、反省ばかりをしては実践を怠り後悔ばかりというのでは自らの道を歩もうとしていないのではないかとも思えるのです。

道は、決心するところに顕われ、正直に行うときに歩んでいるように思います。そして志すにはそこに大義や正義があり、目的や理念に立ちかえって初心のままでいることのようにも思います。

昨日は、リーダー研修がありましたがリーダーの心得とは何か、愛敬するということや人格を磨いていくことの大切さを改めて感じ得ました。善い先生の道導があってこそ、はじめてその道は伸び拡がっていくのかもしれません。善い師善い友とのご縁は掛け替えのないものです。

「それ学問は心の汚れを清め、身の行いを良くするを以て本実とす」(中江藤樹)

真心を尽くして一日一日、またそのご縁を活かしていきたいと思います。