慈安一体の自然

先日、慈悲や慈愛について直観する機会がありました。

人は、身近にある当たり前に気づくことができるかどうかで色々な新しい教えを学びます。それができないのは、その私心や先入観が邪魔をして本来の自然であることが分からなくなるからです。

そういうひとつひとつの私心を転じて、全体の働きの中に入るという体験を通して様々な自然の有難さや勿体なさ、尊さ、偉大さに気づいていくのが教えというものに気づくということなのかもしれません。

教科書などには書いてはいない自然の経書を読み解くというのは、心が揺さぶられるような体験をどれくらいしているかによるのかもしれません。

人間は生まれながらに様々な苦しみを持っているともいえます。

その苦しみは、一人一人に異なり、その人なりの苦しみというものを持っています。それは単なる楽か苦かの苦しみではなく、心が唸るような感動、心が痛み割けるような感激を持つのです。

その一つ一つは、あまりにも自然で頭では理解できない程に自然なことなのでしょうがこの世に活きている以上は共にいのちのある存在として分かち合って存在しているのが現実なのです。

そのいのちに対して、受け容れ難いことを受け容れるのは時間があるという慈悲、それでも変わらぬ自然という慈愛、いつも私たちを真心で包んでくださる当たり前すぎて気づけないような水に帰するものなのかもしれません。

水の流れのように、時が流れ、汚れを洗い流していく様に、そこに映し出される悠久のいのちの流れを味わってみるといいのかもしれません。龍の如く生きる私たちが、その水に癒され、その水に揺さぶられ、そしてまたその唸りに一体に溶け込んでいく。

言葉にするにはここが限界ですが、慈しみ愛する心が自然と同じように私たちの中にあるということが何よりの安らぎになっているように思います。

時代は変われども、その苦しみに寄り添いそれを転じて愛する心は永遠の煌めきを放ちつづけます。その安堵に、自らの使命を果たすことに専念するという自然の活動に心から感謝の念も湧き出てきます。

子ども達のためにと生きる日々ですが、慈安一体の自然に活かされる日々を味わっていきたいと思います。