意味のある習慣

かつて意味があったものが意味がなくなっていくことがあります。これは意味を伝承することがなくなり、その習慣だけが残るような感じのものです。人間は習慣を持つことで自動で同じことができるようになります。例えば、今やっているような歯みがきやシャンプー、トイレなども考えずにいつも通りに行います。習慣というのはとても便利で、身に付けばそれができようになるものです。この自動化というものに目をつけて色々な道具や機械も発明してきました。

しかし本当は意味があったものを自動化することでその意味だけが喪失していくようにもなりました。目的があったものが目的がなくなってくるのです。それは人間には同時に忘れるという性質があるからです。習慣化していくことで、忘れてもいい状態をつくりますがそれによって習慣だけが残るからです。

毎回同じことを同じ意味をもって取り組んでいけば習慣と意味は離れません。私たちが空気の存在をあまり気にしないように、あるいは地球にいることを気にしないように意識しなくても生活はできていきます。ある時、空気や地球が失われるようなことがあればその時にはじめて強く存在の価値に気づくことに似ています。

習慣も同じく、意味があってやっていますが時折止めてみるとその意味や価値がわかります。忘れていたということに気づくのです。そう考えてみると、忘れないということがもっとも意味に近いということでしょう。

忘れたくないと思っても、自然の摂理として忘れます。これは宿命的に忘れるようになっているからです。だからこそ忘れないためには毎日、記憶するという新しくしていく行為を続ける必要があります。つまり習慣とは、日々に新しくしていくということと同じであるということになります。

同じことはないのが私たちの今ですから、その今が同じだと思わないようにすることで私たちの意味と習慣は和合して今に帰ります。常に初心や理念に立ち返ることで習慣も本質的なものとなり磨き上げていくことができます。

引き続き、同じことはないことを肝に銘じ意味のある習慣を積み重ねていきたいと思います。

浮羽の水神伝承1

昨日は浮羽の古民家で井戸掘りを行いました。大勢の方々が雨で寒い中でも駆けつけてご加勢いただき豊かで笑いの多い懐かしいお時間を味わうことができました。

まず金蘭の禅僧によるご供養と祈祷からはじまりみんなでお水や神様にお祈りをしました。そして人生で100本以上の井戸を掘り上げてこられた方からお手本を見せていただき、それを見守りました。お昼にはみんなで弁当を食べて歓談し、龍の音を奏でる奏者より即興演奏の奉納とひふみ祝詞を奏上していただきました。

そのあとは、みんなで交代で井戸掘りを行い歓声や応援をし見守りながら掘り進めていきました。子どもたちも来ていて、現場は心地よい空気が流れていました。

この浮羽の場所は本来はみんな浅い井戸を掘っていたといいます。それが果樹園ができ農薬を大量に散布するようになり浅い井戸に農薬が入り込むため深井戸を掘るようになったといいます。そのうち市が提供する水道を使い現在では各家家に水をひいているそうです。

この場所のほんの近くには石垣山観音寺という禅寺がありその境内には清水湧水という名水100選の素晴らしい水源があります。そこにはこういう物語が残っています。

【1062年(康平5年)晩秋のお話です。真夜中に「ゴーン、ゴーン」と鳴る鐘の音に住職は驚いて目が覚めました。この不思議な出来事は来る夜も来る夜も起こりました。そして、鐘の音の後、牛や馬が煙のように消えて、やがて村の娘や子供までいなくなり、村人の不安は募るばかりでした。そこで村人たちは相談して、当時、観音寺の住職だった金光坊然廓上人の法力にすがることにしました。上人は、宝剣を持ち、意を決して鐘つき堂に隠れ、夜中に鐘をつくものの正体をつきとめることにしました。

夜がふけると、雷雨と暗闇がすべて覆い尽くすと一陣の風と共に現れたのは、頭は牛、体つきは鬼という、体長は優に5mを超える、ものすごい怪物でした。上人は修行を積んだ高僧でしたが、この時ばかりは全身に鳥肌が立ち足の震えをどうすることもできませんでした。この怪物「牛鬼(うしおに)」も上人に気づき、真っ赤な口を開けて今にも飛び掛からんばかりでした。思わず、上人はお経を唱え始めました。すると、牛鬼は急に苦しみだし、読経と宝剣により神通力も失い、立ち上がった上人は、宝剣の鞘を払うと牛鬼の手首と耳たぶを切り落しました

その時、牛鬼はその場にしゃがみこんで泣きだしてしまいました。「私ら山に棲む鬼は、人さまとの共存を心がけてまいりました。ところが、山を荒らすよからぬ者が谷川に毒を流し、その毒を飲んだ私奴はかくの如く頭が牛の姿に成り果てたのでございます。生きる甲斐もなく、ならばせめて人間社会に仕返しをと考えたのでございます」と言い残すと、牛鬼は、とうとう鐘つき堂で死に絶えてしまいました。

事情を聞いて同情した上人は、その日から三日三晩、牛鬼の安泰を願って祈り続けました。そして上人は、谷間に毒を流して、鬼を化け物にした奴が許せませんでした。
そこで上人は決断します。切り取った手首は寺の宝として永久保存することにして、牛鬼の手首を切った我が罪が許されるかもとの思いを込めて、朝な夕な供養の経を唱えれることにしました。そしてもう一方の耳たぶは、切り落した足代(むかしの耳納山の呼び名)の山中に埋めることにしました。

この時、牛鬼の耳をとって山頂に埋めたので、それからこの山を耳納山と呼ぶようになったとも言われています。また、観音寺に伝わる「牛鬼の手」は、このとき切断されたものであるとされています。】

この話はとても心が痛みます。山で共存していたが、自然を荒らすものが川に毒を流して自分たちは病気になってしまい仕返しをしようとしたと。もっとも美しい水が流れる場所に農薬を散布するというのは残念ながら似た話ではないかとも。どれくらい先を見越してこの物語があったのか、今ではどうにもわかりません。

しかしこの場所は、水に関する話、観音様に纏わる伝説の大切な場所でもあります。今回の井戸掘りで色々と考えさせられることがありました。いのちのお水に対して、またお山での暮らしに対して子孫へ向けてどうあればいいのか。伝承や実践から学び直していきたいと思います。

サクラ目覚める

英彦山の守静坊でサクラ祭りの準備をしています。このようなお祭りを主催する機会はほとんどなく、遠い山奥まで人は来るのは大変だろうなと感じつつ、皆さんが清浄な場を味わっていただけるようにと掃除を含め色々と調えています。

もともとこの場所は標高が高く、お山の清々しい風が吹いています。お水の音もせせらぎも、鳥の声も周囲の木々も和合して仙人の棲むような幻想的な環境があります。

お山の宿坊周辺のお手入れは2年目に入っても膨大な作務があります。この時期は特に冬の枯木や落ち葉が大量にあり、それを運び燃やしたり一部は薪にとっていたりするだけで一日の作務が終わります。また水路を調えたり、池のまわりを片付けるだけでも一日の作務が終わります。こうやって作務三昧の日々が山の暮らしです。

落ちても落ちても片づけ拾う落ち葉や枯れ木を眺めていると不思議と心が穏やかになってきます。何か忘れていた日々を思い出すようで、この懐かしい時間に心癒されます。

お山というのはとても力がある存在です。

そのお山の中に棲むというのは、いつも以上に自然を感じ、その吹いてくる風にも意識が外れません。法螺貝を吹けばその音は山全体に響き、そのお山の音を感じるとお山全体の気を意識します。

そのお山の中にあり、静かに力を蓄えていた桜が一斉に花を咲かせていきますがお山が目覚めるかのような覚醒の感覚を覚えます。

この「覚」という字は、代々この守静坊のご当主が継いできた名前です。

「覚」という字はむかしの「學」という漢字の省略された学に「見」が組み合わさった会意形成文字です。「 大きな目と人 」の象形から、学んではっきり見える 、「 おぼえる・さとる 」を意味します。漢字の成り立ちは学び舎で教え子たちに指導する、教え子を導く教師の両手を意味しているといいます。子どもたちが目覚めてそしてさとるといった導く人の名前が覚なのです。

どのように目覚めるのか、それはこの守静坊のしだれ桜が導いてくれるように私は感じます。一つ一つの意味を味わいながら、お導きに従っていきたいと思います。

不老長寿の薬菓子

昨年から英彦山の不老園を甦生して本草学を深めていますが、その不老長寿を今の時代に復古起新するために色々と試みています。今回はご縁あってカカオに注目してその効能などを組み合わせています。

今では薬ではなくお菓子として定着したチョコレートですがこれはもともと紀元前2000年前のメキシコでは「神様のたべもの」として非常に大切にされてきました。

もともと「カカオ」という言葉の語源はマヤ語の「カカウアトル」が変化したものです。

このカカオ豆は貴重で 赤道を挟んだ南北緯20度以内のアフリカや中南米、東南アジアなどで栽培されていますが実になる花の割合は200から300に1つしかとれません。とても効率が悪く高価になるのもそのためです。

このカカオは種子の果肉を食べるのですが、とても苦いものを苦いままにこのまま食べたり、焼いて煎ったりすりつぶしたり、水に溶かしたりして飲んだりしていたそうです。それがヨーロッパに伝来したときに砂糖を入れて飲むようになりました。いわゆるカカオドリンクです。その当時も大変貴重で裕福な人や王侯貴族しか飲むことができなかったそうです。

効能は、不老長寿、疲労回復、滋養強壮など多岐に及ぶといわれます。最近でもカカオの種子には多量のポリフェノールがあり強い抗酸化作用をもつ食品として注目されています。

新しい不老園に参考にしたのは、16世紀のアステカ文明のときにこのカカオ豆をドロドロになるまで溶かしさまざまなスパイスや香料と混ぜて「不老長寿の薬」として飲んでいたという伝説です。英彦山の不老園と共通するのは、あらゆる効能を含む薬草や種子を飲むという伝承があったからです。

現代では薬ではないカカオですが、先ほどのポリフェノールの他にもテオプロミンといった脳を調える効果があったり、食物繊維で肌荒れがなくなったり、ビタミンやミネラルも豊富でのどの炎症、胃潰瘍、食欲不振、解熱、デトックス、また恋愛ホルモンと呼ばれるフェニルエチアミンも含まれているのでまさに薬として観た方が効果があるように思います。

今の時代は、薬とお菓子の違いもちぐはぐになっていてむかしの人たちが本来どのようにそれらの食べ物を暮らしに取り入れていたのかも忘れ去られています。暮らしフルネスを実践するなかで、今の時代でも普遍的な意味が変わらないように変えるところは変化して今の時代の価値観でも本質が実感できるように宿坊とともに甦生させていこうと思います。

今度の英彦山守静坊でのサクラ祭りに初お披露目の予定です。

子孫たちへの誇りと先人たちへの配慮を忘れない温故知新の甦生を実践していきたいと思います。

英彦山での暮らし

英彦山では冬の厳しい寒さを超えて、井戸水を復旧しました。2月は室内も零下になっているためあらゆる水場の蛇口が凍ってしまいます。特に今は水洗便所になったこともあり、トイレタンクが破損したりします。トイレの周囲には暖房を入れて凍らないように温めておきます。北海道やアラスカなど、日頃から極寒の地域ならわかりますが福岡県でここまで寒いところはなかなかないように思います。

氷点下8度くらいまでは下がることもあり、家も全体が凍ったようになります。むかしの人はどう過ごしていたのかと思いを馳せると色々と想像できないものがあります。

特に雪の山は食料も少なかったと思いますから、秋のころに備蓄したもので冬を乗り切ったはずです。また雪が多かったから移動も大変です。今では公道ができ車が入ってこれますがむかしの英彦山にはそれもなかったことが旧道を通るとわかります。グネグネとしたカーヴを曲がりながら下山するのも歩けば一時間以上はかかります。

この宿坊の前の坊主は、小さい頃は歩いて町の学校まで通っていたと仰っていました。片道、2時間から3時間ほど。帰宅する頃には真っ暗になっていて怖い思いをしたとお聴きしていました。

人はなければないものが当たり前になりますが、いざあるとなってみるとあるものが当たり前になります。宿坊も進化して、電気が通り今ではだいぶ快適な暮らしをしていくことができるようになりました。それでもまだまだ不便なところがたくさんあります。

山の暮らしの楽しみの一つは不便さです。敢えて便利を知っていながら不便を楽しむという喜びがあります。あるものを色々な形で活かすのです。そうすると前よりもその行為や遊びが楽しく感じられます。

よく考えてみるとどの時代もそうやってあるものを活かし、ないものを遊びながら暮らしを調えてきました。人は、心の持ち方次第にどうにでも日常を変化させていくことができるからです。

英彦山での暮らしも2年目に入りこれからますます暮らしフルネスの実践が増えていきます。子孫たちに英彦山というお山の魅力やそこで暮らしてきた山伏の生き方を伝承していきたいと思います。

龍の徳

本来の人間らしさについて考える機会がありました。今年は辰年ということもあり、なぜ龍が水に棲むのかなど龍に関することに触れる機会が多いからかもしれません。

そもそも龍というものは水にいるものです。魚も同様に水の中で自由に動きます。鳥も空で自由に飛びまわります。たまに水も空も大丈夫なものもありますが、それはまたそれとしてそのものの徳性です。

この徳性というものは、そのものの本来の徳のことを指しています。徳性を養うという言い方もします。人間であれば、人間らしさを涵養するということでしょう。この涵養は水が沁みこむように育っていくということです。

よく考えてみると、私たちのいのちは水が必要です。水がなければ生きていくことはできません。水というものから離れたらそこでいのちはお仕舞です。だから水は私たちの本体でもあり、水があることで存在しているともいえます。

先ほどの龍や魚も水がなければ自由になりません。人間も同様に水がないところでは活動できません。宇宙空間にいけば水がなければそこまでです。水は私たちにとっての徳そのものともいえます。

その水の徳を顕す言葉はあちこちの故事や禅語、中国の書物などに出てきます。そしてそれを龍とも呼びました。水の徳が龍であり、龍が徳の本体のような表現です。

そのものがそのままに力やいのちを発揮できるというのは徳が顕現したともいえます。徳を磨いていくのは、本来の人間らしさを取り戻すということでもあります。

では本来の人間らしさとは何かということです。

現代ではAIやロボットが急速に発展してきて、人間の代わりを務めるようになってきました。クローンなどもでき、ますます人間らしさとはという問いが増えてきています。

一般的な人間らしさは見た目のことです。見た目が人間風に近づけば人間らしいとし、人間のような感情を示せば人間くさいとも言われます。しかし真の人間とは何かということをあまり語られることはありません。

それは魚とは何か、龍とは何か、鳥とは何かということと同じレベルでの議論です。しかし、それを語る前、その大前提に私たちのいのちとは何かということを考えなければなりません。私たちのいのちは水です。水は自然です。自然は宇宙です。宇宙は全体と一体です。それはあるがままであり、古語ではかんながらともいいます。

色々とこれから何が自然で何が不自然かということを篩にかけられる時代が到来している予感もします。普遍的な生き方や徳を遺してくださったご先祖様には本当に頭が下がります。丁寧に伝承を紡いで、子孫へと徳を譲り渡していきたいと思います。

和と和風

私たちの食べる和食というものはどういうものであったか、色々と歴史を辿ると面白いことがわかってきます。現在、和食は2013年12月、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録されています。これの特徴は農林水産省によると1.多様で新鮮な食材とその持ち味の尊重。2.健康的な食生活を支える栄養バランス。3.自然の美しさや季節の移ろいの表現。4.正月などの年中行事との密接な関わり。とあります。

もともと和食の始まりは何か、ざっくりと現存してわかっているのは縄文時代からとなります。縄文時代は縄文土器を使って、煮る、茹でるなどからはじまります。弥生時代に入り、稲作がはじまりお米が主食になっていきます。そして平安時代のころには中国からの食文化が流入してきます。そこから大饗料理という種類の多いおもてなしの食材が増え、今度は禅僧から精進料理、茶道に入り懐石料理などと発展します。戦国時代には、昆布やカツオの出汁が主流になる料理が増えます。江戸時代には、1日3食食べるようになり天ぷらや寿司、うなぎ、蕎麦、うどんなど人気がでます。そのあとは、現代の原型にもなっている西洋の食文化が流入してまた混ざり合っていきます。最近では、世界各国の料理が流入し、食材も海外から当たり前に大量に入ってきます。ファーストフードや急速冷凍技術も高まり簡単便利に何でも食べられる世の中です。

和食というものは、結局は日本人の好みに合うように和合された食文化ということでしょう。なので日本人が変われば和食も変わるということです。平安時代の和食と、現代の和食が違うのは当たり前ですがでは何が和食とするのかということです。

それはかつてから変わらない日本的な生き方であったり、食べ方であったり、風土に適った育て方であったりと、本来の味を変えないものであることに気づきます。これは今ではとても難しいことです。

日本人の暮らし自体も変わってしまい、価値観も変わりました。溢れるばかりの食材と世界から入ってくる流通の材料、それに環境も変わってしまいました。東京の都心などに住んでみるとわかるのですが、毎日、別のものを食べてもお店も材料も尽きることはありません。私たちが和食が恋しいとなると、ご飯、みそ汁、お漬物という具合になります。

しかしこのご飯なども、現在はむかしのような育て方でもなく力もありません。お味噌も発酵を簡素化したものやお漬物にいたっては化学調味料で味を似せているだけです。これを和食と思うかというと、見た目が和風食ということになります。

この和風食と和食だけでもはっきりと違いを定義してほしいと感じるものです。

私は有難いことに、むかしながらのお米作りやお漬物、そして味噌も発酵させて自給自足できています。その御蔭さまで和食の原点というか、味に気付くことができています。手間暇をかけて、大切に日本の風土で育てたものを自分たちの身体にもっとも合うようにして食をいただく。

和というものは、決してその部分最適だけをいうのではなく日本の歴史全体を含む全体最適であるときにはじめて五感で味わえるものだと私は思います。

私が暮らしフルネスのなかで食を通して人が感動してくださるのはきっと、そういう生き方や働き方、暮らし方や食べ方に懐かしい何かを感じていただいているからかもしれません。

引き続き、本物か偽物かではなくむかしからある懐かしい徳を現在に甦生してそれを子孫へと伝承していきたいと思います。

暮らしフルネスの定義

日本人の祈祷の根源は何か、それを深めていくとお祭りやお祝いによることがわかります。つまり導かれたご縁をどのような心持で待つのか。その生き方の中に、真の喜びも仕合せもあるという考え方です。

お祭りという言葉の語源は、「まつ」から来ているといわれます。このまつは、守つとも書きます。その対の言葉に「またせる」もあります。これらの中間に「まつる」があります。何を待つのか、それはカミを待つ心境のことです。そしてお祝いは「いわう」から来ています。これは「いはふ」であり、「い」は「いのる(祈る)」などの「い」と同じ意味で神聖なものを意味する「斎(い)」です。

シンプルに合わせると、「いのりまつ」ということです。

私たちの日々の暮らしというものは何か、私は暮らしフルネスの中でよく「暮らし」の定義を話すことがあります。人生というものの意味や一生ということの本質は、生きている今を連続して死に至ります。つまりこの今の暮らしの連続の中に、祝福という仕合せがあります。その仕合せはご縁に由ります。そのご縁は「いのりまつ」ことで結ばれていきます。

毎日の暮らしは、いわば待ち続けている間の出来事です。これを祭りともいいます。そして祭りと合わせて、予祝というものがあります。これは予め祝うという意味で、すでに叶っていると信じて真心を穢さないように日々を洗い清めて過ごしていきます。そしてこの予祝が待つという実践になっているのがわかります。

私たちの日々の暮らしは、いのりまつ連続によって成就し、その日々のいのりまつが満ち足りている喜びが仕合せになるのです。

人の仕合せというのは、色々と定義がありますが畢竟、暮らしを超えることはありません。何気ない日々の暮らしの中にこそ、すべてがあるという思想。それが暮らしフルネスの本懐です。

今の時代は、経済効率や時間管理などの刷り込みの中で当たり前の日本の生き方や伝承は忘れられて価値も失われています。

しかし人類はふと、立ち止まることができればこの「いのりまつ」境地に入ります。その時、具体的な先人たちの紡いできた知恵や伝承が如何に宝であったかに気づくのです。

気づくためには、その感覚を子孫へと伝承する場が必要です。何百年も何千年もかけて培われてきた私たちのいのちの本質は、水や空気、太陽や宇宙のように当たり前すぎるものの中にこそあります。

子どもたちのためにも、暮らしフルネスの実践を磨いていきたいと思います。

お花見の文化

お花見の季節が近づいてきました。もともとこのお花見の起源は諸説ありますが奈良時代の貴族が始めた行事だといわれています。最初は中国より伝来した梅の花を観賞するものからはじまったそうです。

それが平安時代に入るころには、梅の花から桜の花に変わっていきました。「日本後紀」には嵯峨天皇が812年(弘仁3年)に京都の庭園・神泉苑にて「花宴之節(かえんのせち)」を催したと記録があります。最古の記録の「桜の花見」です。また日本最古の庭園書「作庭書」にも、「庭には花(桜)の木を植えるべし」と書かれいるといいます。

梅が桜になった理由は、嵯峨天皇が神社に植えられていた桜の美しさに心を惹かれそこから毎年神社より桜を献上させ花見をすることが貴族の間で広まり文化になったともいわれます。遣唐使が廃止され、天平文化が花咲くころに梅から桜の方へと日本の独自性が磨かれていきます。

もともと梅の花が日本人が古来から深く信仰してきた花だといわれますが、同時に桜もまた日本人の信仰する花でした。それが桜が元々、山の神、田の神であったからです。

梅も桜も先に花が咲き、可憐に清廉で美しく幻想的です。冬枯れした景色のなかで、花が咲く姿は予祝を味わう日本人にはぴったりの花です。また散り方も美しく、春の温かい日に一気に散っていきます。そして新緑の葉が出てきて生命力を魅せてくれます。

どの花からも私たちは元氣をいただきますが、桜は特別にその元氣が満ちているような気がします。厳しい季節を耐え、清らかに咲き、新しい季節の到来を知らせる。

お花見は季節のなかの大切な年中行事として定着したのもよくわかります。忙しい現代だからこそ、この一年に一度しかない一期一会のお花見を味わって暮らしていきたいものです。

子どもたちにお花見のルーツとその素晴らしさを伝承していきたいと思います。

仙人への道

神仙思想というものがあります。これは古代からある信仰の思想です。シンプルに言えば、宇宙と一体になる道の生き方という感じでしょうか。諸説はありますが、この生きる道を道教としてあらゆる宗教と和合して現代にいたります。日本では神道と和合し、土着の信仰になりました。もともとは、神も仙人も和合するつまり多神教であり日本の神道の八百万の神々とも似ています。

古代の宗教は、生きる道でしたからあらゆる生き方が尊重され多様化していました。それが国家や組織に用いられるようになり変容を遂げていきました。しかし、英彦山をはじめお山に棲みお山を深めて幽かに残るその薫りのなかにこの神仙思想が宿っていることを感じるものです。

道教の信仰する神仙は大きく分けて「神」と「仙」の2種類があるといいます。つまり「神」には天神、地祇、物霊、地府神霊、人体の神、人鬼の神などがあります。その中の天神、地祇、陰府神霊、人体の神のような「神」は、先天的に存在する真聖であるといいます。そして「仙」は仙真を指して、仙人と真人を含んで、後天的に修練を経て道を得て神通力を持ち、また不死の人であるといいます。

仙人は白い髭の老人のようなイメージがありますが実際には、仙女といった女神、そして若い子どもなどもいます。仙人には以下の特徴があったといわれます。

身が軽くなって天を飛ぶ。水上を歩いたり、水中に潜ったりする。座ったままで千里の向こうまで見通せる。火中に飛び込んでも焼けない。姿を隠したり、一身を数十人分に分身したりして自由自在に変身する忍術を使う。暗夜においても光を得て物体を察知する。猛獣や毒蛇などを平伏させる。

日本でいえば、天狗のような存在でしょう。山伏や修験者たちも同様に似たような修行をしては次第に仙人のような境涯に入るのかもしれません。

また、神仙思想に憧れた人々は、仙境を目指しました。仙境とは「仙人の棲む土地のことで俗世間を離れた清浄な地」を指します。中国では桃源郷とも呼びましたが清浄で澄み切った高山や島を目指したといいます。修験道には山だけではなく海での修行もあります。かの空海も海の絶島で自然修行を積んだといいます。遍路のルーツです。

そして中国では神通力を持つ人たちのことを自然の化身と考えていました。自然の持っている力を人間が使えるようになっていたということです。雨や風を呼んだり、自然現象を呼び覚ましたともあります。かの三国志の名軍師、諸葛亮孔明もその仙術を使えたという言い伝えも残っています。

時代の変遷を経て、本草学や巫術、呼吸法、按摩、祈祷法など複雑に発展をして今もあります。今ではこの神仙思想や道教はあらゆる宗教と融和して内面に取り入れられています。

英彦山の守静坊には、仙女の絵があり仙人が建具に描かれています。不老不死の妙薬、不老園をつくり、呼吸法や歩行法などを伝道していたことが思いおこされます。修験道というものの根源は何か、形式的な宗教のかたちにこだわらず、ちょうど半僧半俗も百姓も堂々と合法的にできる今だからこそ古から流れ続けている道を探求しているところです。

どんな道にもはじまりがあります、しかし終わりはありません。道は無窮、老子はどうやって仙人になったのか。英彦山の御蔭さまで興味や好奇心は尽きません。不老不死というものも、本来の養生観とは切り離された現代の私たちではだいぶその意味も異なっているのかもしれません。

この時代の不老不死を味わい、道を辿ってみたいと思います。

この記事に感心がある方は英彦山の守静坊に来坊ください。不老の仙薬、今ではお茶ですが共に一服して語り合いたいと思います。