パンデミックの正体

2020年頃にコロナウイルスが入ってきてから、色々なことが起きました。思い返せば、あれだけ未知のものへの対応で人間のもつ様々な心境や行動がはっきりと感じられたことはなかったように思います。

たとえば、感染者に対する差別をはじめマスコミなどの情報操作、デマや陰謀論、あらゆるものがありました。

思えば、不思議だったのがあの過剰な消毒や透明なプラスチックの防壁、マスクなどは印象的でした。異常な隔離に都市封鎖、移動制限などもはじめての体験でした。また予防薬やワクチンなど、その後もよく検証されていないものをたくさん投与しました。高齢者や病気の人たち、また病院や福祉施設は過敏になり対応に追われました。保育園などでも、1歳くらいからマスクをしたり過剰な消毒をして別の問題も発生しました。

よく分からないものに対して、人間というのは過剰に反応するものです。

私たちは感染症は歴史の中で何度も体験しています。特にたくさんの人たちがなくなった結核やインフルエンザ、ペストなどはその歴史に学んでいるものです。今回のコロナウイルスは、最初から正体が中国の研究所から出たや、人工ウイルスであるなどと、今までとは少し変わっていました。

そのことから人災として扱われ、世界中が疑心暗鬼になりました。それまでの自由な往来も制限され、次第に自国を守ることばかりに躍起になりました。気が付けば、分断が進み、戦争が各地で発生しはじめています。

そもそも感染症の歴史は、世界大戦の歴史と似ています。感染症があり、関税合戦があり、戦争へとつながっていく。人々の分断が進むところに、差別があり敵対がある。自分を守ろうとするあまりに他を排斥していくのです。毎日、報道では今日のコロナ患者の数が発信され、自宅待機や自粛、外出禁止や接触禁止などが行われました。

実際には、それができない職種もありそういう人たちが差別の対象になったりもしました。初期は感染していることを隠し、そのうちワクチンを打ったので関係ないと開き直った人たちもいました。マスクを着けていない人を徹底的に攻撃する自粛警察のような人たちもいました。戦争の時に、死ななければ非国民とののしり攻撃したり、排斥した人たちがいたことは本で読んだことがありましたが実際に似たことを体験したのはこのコロナの体験でした。

そこからパンデミックの正体とは何か、改めて今回のコロナの体験で気づいた人たちが多いように思います。人間の正体というのは、環境によっていくらでも変化することを垣間見る時、色々と考えさせられます。人間の心の汚染こそが世の中の荒廃を進めていくのです。だからこそ、いにしえから日々の浄化や穢れを祓う実践が病魔を遠ざける智慧だったのでしょう。

コロナが沈静化してきた今こそ、子どもたちのためにも歴史に学び、よくよく今回の出来事を検証して振り返っていきたいと思います。

変遷

気が付くとこの世のほとんどが防腐剤や化学調味料などの添加物いっぱいのものになっています。最近では、水道水も有機フッ素化合物(PFAS)であるPFOS及びPFOAなどが混入しているところが増えているといいます。これらは自然界の生き物に悪影響を及ぼすだけでなく人体にも多大な悪影響を与えます。永遠に分解されない化学物質とも呼ばれ、それが自然界のあらゆる場所に蔓延しています。

人間が造り出した物質が、地球全体を覆い、その悪影響は人間に戻ってきています。因果応報の道理の一つです。

私たちが子どものときは、まだましで加工する食品も少なくそのまま自然物を食べる機会もたくさんありました。祖父が育てていたトマトをお菓子のようにいただき、庭や山で採れた果物を喜んでいただいていました。お水も綺麗で川遊びをすると、そこには野生の魚たちがいっぱいでした。

田舎は車もほとんど走っていないので空気も美味しく、田んぼも素足で入り手植えをしていました。公害や悪影響はほとんどなく、健康的な暮らしをしていました。医療も今のように薬局などはほとんどなく、病院も少なく、民間療法で薬草などが使われていました。

栄養豊富な食べ物に、健康に暮らしやすい自然環境、周囲の人たちとも適度な距離感でゆるく結びつき生活を維持していました。

高度経済成長期くらいからでしょうか、お金を稼ぐことを第一優先にしてからすべての環境が乱れていきました。現代では、環境改善や環境保存も経済効果やお金にするための大きなネタの一つになっています。莫大な費用をかけているわりには、かえってさらに莫大な費用がかかり自然を破壊するという仕組みが蔓延しています。

食べ物も飲み物も汚染されていますから病気が増えて薬も増えました。薬は副作用もあり、毒でもありますからさらに別の病気が増えます。健康を維持するのが難しくなっているのが現代です。

私はたまたま人生の中で時代の変遷を経験することができました。しかし子どもたちは最初から今の状態からこの世に生を受けてはじまります。自然のままがどういうことか、健康とはどういうものか、そういうこともわからないままに生きていきます。

教育もそういうことをよりも、現代の世の中に適応するようなことを教え込みますからますます国益中心でお金に関することに人生が巻き込まれていくものばかりです。家畜や動物たちの扱いもよくないですが因果応報で今度は人間も同じような扱いになっている世の中です。

暗い話になっているようですが現実の話で、ここから現実を変えていくためにむかしを知っている人たちが経験を通して学んだことでこれからどうあるべきかをその背中や生き方で示していく時季ではないかと思うのです。

暮らしフルネスという実践は、ただむかしの暮らしをするのがいいというわけではなく人間はどうバランスを調えていくといいのかという提案でもあります。今の時代の文明がすべて悪というわけではなく、「過剰」であると、ほどほどでいい。足るを知るとどうかという調和調整の在り方を一緒に考えようとするものです。

子どもたちや子孫を思えば思うほど、今こそやるべきことは何かを感じない日はありません。丁寧に内省して、一歩ずつ改革していきたいと思います。

老いと成熟

どんな生き物も老化していくものです。それが早いものもあれば遅いものもあります。個体差によってその老化は異なります。老化というと、一般的には細胞が衰えていき再生しなくなっていくイメージを持つものです。劣化という言い方もする人もいます。実際には、成熟していくということに近いように私は思います。

例えば、植物なども新芽で瑞々しい状態から成長して花を咲かせ実をつけて成熟して最後は種になります。その繰り返しを続けて生き続けていくものです。この成熟していくというのは、もちろん身体的も次第に成長してもっとも善い状態になっていきます。同時に精神や魂のようなものも共に成熟していきます。

若い時は、活発に動いていた細胞も年老いてはゆっくりと静かに動きます。また様々な経験や体験を通して心身も成熟し智慧が増え余計なことや余分なことはしなくてもちょうどいい具合に対応できるようになります。

つまりは成長し続けているということです。別の言い方では、成熟しているということです。老化というのは、若いに対する老いではなく最初からずっと成長して已まないということでしょう。

この世の変化というものは、そうやって成長や成熟を続けています。それをもし阻害するとどうなるか、変化を止めてしまうとどうなるか。それは歪な成長がはじまります。

現代、遺伝子組み換えをはじめ様々なアンチエイジングの技術が開発されていきます。成熟するのを止めようとし、成長をさせないような技術です。本来、自然なことで善いことであることを止めようとする。そこには大量のお金が動きますし、欲望が促進されていきます。

成長や変化というもの、そして成熟というものの根本をどれだけあるがままに認識しているか。一見、何も変化がないような鳥であっても植物であっても変化成長は太古のむかしからずっと続いていて今もその成熟過程の真っただ中です。成熟とは、質の高い状態になっていくということでもあります。

人間は、この自然の仕組みを壊すことを成長というように思いこみました。この宇宙や自然の成長と離れてゲームや仮想空間にいることで成長を止めて永遠を得たと思いたいのかもしれません。

成長を止めた存在というのは、時間を止めてしまおうということでしょうか。大きな目で観たら、私たち存在も未熟から成熟へと変化の真っただ中です。人類は、今成長を止めてしまおうと努力し、それができないと悟り、成熟する素晴らしさに悟るという具合でしょうか。そのための科学技術であり環境汚染でもあります。

道は太古から変わらず、人間性も成熟したまま存在するものです。それを道ともいいます。道を歩み、成熟を楽しみいつの日か子孫のためにまたよい種になれるよう精進していきたいと思います。

客観的事実

陰謀論という言葉があります。これは一部の人々や組織が裏で密かに計画を立て、世界の出来事を操っているという考え方だと定義されています。情報化社会の中で、誰かが陰謀だといえばそこから陰謀論がはじまります。結局、陰謀であろうがなかろうが陰謀論と認知するとき人は陰謀論者になっているということです。

言葉というのはもともとお互いに反対の側面をもっています。正論という言葉には、曲論という言葉があったり、暴論や詭弁などという言い方をします。誰かが正しいといえば、誰かが間違っていると言います。そうやってディベートを楽しんでいればいいですが、権威や権力が乗っかっているとそれが戦争に発展していきます。

最近では、イスラエルとイランがミサイル攻撃をしあっているときにアメリカが突然参戦してバンカーバスターという地下深くを攻撃するミサイルをイランに打ち込みました。それも2週間停戦して交渉している最中にです。アメリカの正論としてはイランに核を使わせないといいましたが実際には核施設をミサイルで壊してしまえば核が流れ出てきてもっと悪い状況になります。自国はたくさん核を持っているのに、これはまた本末転倒な話です。同時に、ウクライナの時はロシアが一方的に攻撃したら西側諸国は国際法違反だと反対したのにイスラエルやアメリカが一方的に攻撃したときは国際法違反していても賛同していました。

自分の都合のよいことを正論といい、都合が悪いことを陰謀論とする。本来は、客観的な事実をよく観察して、実際の事実を確認することで正論も陰暴論もなくなっていきます。つまり、道理に適っていたか、事実かどうかはその後の経過を観察していればわかってくるものです。

例えば、コロナワクチンであれば最近のことなので覚えがあると思います。突然、自宅待機で都市封鎖し、コロナウイルスという凶悪なウイルスが蔓延すると世界で人々を恐れさせました。マスクを強要し、うちの地元ではコロナに感染した人のお店に卵が投げつけられ自殺してしまいました。差別が横行して、コロナに感染したのではないかと疑心暗鬼に見張る人たちが町中に増えました。ワクチンを打とうとしない、打っていない人は陰謀論者だとののしり、非国民であるかのようにワクチンを推奨していきました。学校でも小さな子どもにまで特段コロナで死んでいないし重篤でもないのに全員に一斉に打ちました。

しかしその後、3年、4年と経過を観察していると気が付けばコロナは収束したとマスコミが報道をやめ、たいしたウイルスではなくただの風邪だという扱いにしました。ワクチンも世界のほとんどが効果がなかった、むしろ感染しやすくなるとわかり、今ではコロナに感染したといってもほとんどたいした反応しません。

結局、陰謀論者とののしっていた人たちや正論を押し付けていた人たちは客観的事実が明確になってきたらどうなっているのでしょうか。最初に卵を投げつけた人、非国民だとののしった人たちは何処にいって今、何を思っているのでしょうか。本当なら、その人たちを追いかけてもらいなぜそういったのか、そして今はどう思っているのかを聞いてみてもらいたいと思います。

もちろんコロナワクチンがダメだというわけではありません。このブログの内容を読んですぐに反ワクチンの人と括られてしまうこともあるかもしれません。しかしこれはワクチン、反ワクチンの話をしているのではなく、経過をよく観察して内省し、そこから真実や事実を検証しようとすることの大事さを伝えているだけでもあります。

歴史というのは、決めつけるものではなく本来はどうなんだろうかとみんなでいつまでも考え続けることが大切だと私は思うからです。お互いを尊重しあうというのは、みんなでこんな考えもあるとわかり合おうとすることです。それは対話であり、正論の押し付け合いや議論ではありません。最近は、ディベートというものもありますがこれは客観的な視点を磨くのには効果があります。客観的なものをお互いに出し合う中に、活きた歴史もまたあります。

誰かが正しいのではなく、本当はどうなのかとそれぞれが共に検証することに人類の真の成長や発展もあるように私は感じます。

しかしドラマや映画やゲームでも陰謀が暴かれるシーンはワクワクするものです。陰謀好きが問題というわけでもありませんが、事実や経過の検証の方が本来はもっとワクワクするものかもしれません。

引き続き、世の中の客観的な事実をよく観察検証して子どもたちに必要な情報を遺していきたいと思います。

ゴミ問題

ゴミ問題というものがあります。人が一人でも生活すれば大量のごみが出ます。遺品整理の片付けなどをすると、その人がその時点まで生きて蓄えたものが出てきます。主には、寝具関係、食品関係、家具類、家電製品、洋服、仕事関係や趣味のものや思い出の品々などがあります。その量はいくら整理しても一人の人間が生活する中で必要なものは最低限のものでも相当な量です。

これをゴミにして廃棄しますが、これを全人口で考えてみたら想像を絶する量のゴミを日々に焼却していることがわかります。焼却できないものは、土の中に埋めています。少なくても明治頃から石油製品を使うようになり、ゴミの量は凄まじい勢いだったと思います。

いくらゴミを分別しても、生産している量があまりにも多いととてもバランスが保てません。環境問題というのは、人間の問題ともいいますが実際にはこの社会システムをはじめ今の文明の仕組みそのものを見直すところから考えないといけません。

本来、テクノロジーは自然物を使いゴミを出さないように生産することはできるはずでした。それがいいものをつくる事よりも、お金を使うことに集中するために「いいもの」が消費するためのものになっていきました。消費する生活は、それまでの生産する暮らしを破壊していきました。この時の生産とは、消費のための生産ではなく消費することの生産のことです。

例えば、自然界は生産はして已みませんが消費はしていません。それぞれが循環のなかで生産をしては他の生産を助けています。自然農などはまさにその循環の仕組みの中に人間が入ったものです。

しかし現代は、生産よりも消費することに力を注ぎ循環を途絶えさせていくことでお金を産み出しそのためにお金を使います。お金というのは、それだけ消費のために必要不可欠な存在になり消費するための最大の道具として活用されます。

みんながお金を消費するのは何のためか誰のためか、それはゴミをよく見つめていると思うことがあります。ゴミにはその時代の人間の扱われ方、扱い方が洞察できます。今の時代の人間は社会でどのような扱いになっているか。そもそもゴミを消費する側ばかりに目を向けますが、ゴミを生産する方のことも考えなければなりません。ゴミ箱に蓋をしてあとは埋めてはみなかったことにするという考えではこの先の子孫の世の中はゴミだらけになってしまいます。

結局、ゴミを見つめるとそこに生き方が存在していることに気づきます。

ゴミを出さないというのは、ゴミを産み出さない、ゴミをつくらないという生き方を実践するということです。先祖代々のものをなるべく末永くまで大切に活かすようなものを伝承したり、日本人の精神性としてもったいないやよみがえりなどを日々の暮らしの中で取り入れていくことなど、色々とできることはあるものです。

そういう自分も毎日、何かを買えばそこにゴミが出てきます。お金を使うところにゴミがあるのです。ゴミが発生しないお金を使うこと、それもまた私の徳積の使命の一つです。

丁寧な暮らしの中で、色々とあり方、生き方を磨いていきたいと思います。

熱に中る病

地球の温度が年々、上昇を続けています。15年くらいまでまでは、夏に35度を超える日はそんなに多くはありませんでした。たまたま1日から3日くらいは猛暑日があっても10日や15日以上続くということはありませんでした。

最近は、連続して猛暑日が続き植物をはじめ動物たちもそして私たち人間も悲鳴をあげています。そして熱中症という病気も増えてきました。この熱中症ですが、亡くなることもある病気でとくに高齢者をはじめ体調がよくないときなど気を付けないといけません。

もともと人間の身体は、産熱といってじっとしていても熱を産みます。心臓や脳が動けば熱がでますし、ご飯を食べても胃腸が活発に動けば熱を出します。簡単に言えば、常にエネルギーを燃焼する熱を持っているのです。

それが絶妙な自律神経の働きで調整され、体温があがれば末梢神経を広げて皮膚に血液を流し、体外へと熱を放出して放熱しようとします。汗も放熱のために発生します。

しかし、如何にすぐれた調整機能があっても周囲があまりにも高温になり、それが長時間続くとこの機能が働かなくなります。すると、放熱ができずに今度は体内に熱が溜まっていきます。

熱中症は一つではなく、4つの症状があるといいます。具体的には、熱失神・熱けいれん・熱疲労・熱射病です。これらをまとめて熱中症です。熱失神は、脳に送られる血流が減るためにおこります。よく真夏に運動しているときに頭がふらっとするのはこの湿疹傾向が出ているともいえます。熱けいれんは、塩分が足りなくなると発生します。水分の蒸発とともに塩分も放出していますから電解質のバランスが崩れてけいれんします。熱疲労は、塩分水分がなく脱水症状です。これもかなり危険な状態です。そして最後の熱射病は、脱水症状が悪化して高熱になり体温調節が破壊されます。汗もかかなくなり、中枢神経や心臓、肝臓、腎臓などの臓器に致命的な影響を与えて死亡します。意識も混濁するため、誰かが周囲にいないと手の打ちようがありません。

つまり熱中症は、重度になればなるほどに危険度は増します。だからこそ予防は、早めに意識して対応するということです。熱は身体に籠ります。放熱できない場合は大変危険ということです。

結局、短い時間だけの熱なら対応できますが長期間になると身体は大きな打撃を受けるということです。こまめな水分補給や、塩分補給、あとは熱が放熱できない場合は暑いところを避けるか、早めに冷やすということです。熱が長時間籠ることがないようにするためには、長時間体内が高音になっていないのかをチェックが必要です。

熱中症のチェックの一つに、爪をつまんで三秒以内にまた皮膚が元のピンク色にもどらなければ危険というものもあります。あとは尿の色で赤や茶など濃くなっていると脱水症状になっているというものです。眩暈なども症状が出ているともいえます。

この熱中症は、軽く見る人がいますが大変危険な病気です。この猛暑日が長時間続くときこそ、みんなで声掛けして気を付けていきたいと思います。子どもたちにも関係なく人間は誰でもこの病気にかかりますので子孫のためにもこれからの環境変化に合わせて情報を発信していきたいと思います。

葬儀の変遷

時代の変遷と共に葬儀などの作法も変化していくものです。特に明治時代に入り、西洋化していくなかで喪服も白から黒になり、火葬が中心になり自宅ではなく葬儀場などで行われるようになっていきました。

日本では、縄文時代は屈葬で土に埋葬していました。それが古墳時代に入り、権威の象徴になり大きな墳墓がつくられます。これは中国から文化が入ってきたからです。そう考えてみると、葬儀というのは他国の文化が影響を与えていることがわかります。

今では火葬が当たり前でしたが、火葬というのはむかしはかなりの燃料や時間が必要でなかなかできることではありませんでした。現代の火葬は、液化ガスや液化石油ガスが用いられ特殊な火葬炉を使います。温度は900度から1200度でむかしは火葬技師という職人が遺体の状態を炉を確認しながら骨だけ残るように焼きました。骨といっても、病気や年齢、先天的な骨密度の関係などで全部同じ温度で焼けばいいのではありません。絶妙な火加減を確認しながら、骨を残すように調整していました。

今ではコンピューター制御ができるようになり、火葬技師でなくても機械で調整できるようになっているともいいます。あまりにも便利になると、配慮や寄り添いが失われそうで少し残念に感じますが火葬時間が短縮されることによるストレスの軽減があるともいわれます。

私は自然農を実践しているから土葬の方が安心しますが、現代は法律の関係などもありなかなか難しい部分もあります。樹木葬などもよく聞こえるようになってきましたが、寺院などの墓地で許可があるところのみで勝手にやると法律違反になります。散骨などは、特定の場所などでは認められています。

私は英彦山の宿坊を甦生して、住んでいますが近くにはたくさんの墓地があります。そのまま山に土葬したのだろうと思うような場所にたくさんあります。山伏たちが修行中に亡くなった時もその場に埋めるそうです。

目には観えなくても、生者の痕跡はあちこちに存在しています。

人は誰でも必ず亡くなります。そう遠くない未来、自分もその一人になります。その時のために、どう生きるか、どう生きたか、最期はどのように片づけるのかを考えて準備していきたいと思います。

見守り合う社会

便利な世の中になって都市化が進むと核家族化も進みます。まだ私の幼い頃は、携帯電話などもなく回覧板で地域の連絡を取り合っていました。隣人とは毎日のように顔を合わせてご挨拶をして、家には訪問する人たちがたくさんいました。

現代は、防犯の関係もあったり、個人主義も広がりご近所付き合いも減りマンションなどにおいてはほとんど知らない人たちで同じフロアーでも名前を知らない人たちばかりです。むかしは、隣近所を含め相互扶助する関係が社會の中にありました。今でも、離島の小さな村にいくと、高齢者などは毎朝毎夕周囲が上手に見守り合っています。

少しでも異変があれば気づき、家を訪ねます。小さな村で離島であれば防犯の心配もないのか、カギは開けてますし窓も開いたままのところが多いです。知っている人が中心で、知らない人はみんなで観察しています。

見守り合う社会というのは、つながりを絶やさない社会です。もちろん、今の個人が尊重される時代にあまりにも距離感が近すぎてトラブルになるケースもあります。しかし、何かあれば必ず隣近所にはご迷惑をかけるのだからその状態や状況を知ってゆるやかなお付き合いはしているものです。

無縁社会や、孤立社会はなぜ発生するのか。そこには、人々の心の余裕のなさやゆとりのなさも影響しているように思います。人間はお金さえあれば生きていけると錯覚するようになってから、自然界の中でみんなで助け合い生き延びてきたことを手放していきました。そのことで、かえって見守り合う社会が失われました。

本来、本能では人間は集団を形成し社会的な生活を営む動物たちです。お互いさまやおかげ様という生き方は、私たちが生き延びてきた智慧です。孤独死や孤立する人たちをみると、社会が今どうなっているのを鑑みて心が痛みます。みんなが安心して仕合せに暮らしていける世の中にするには、もっとみんなで自由に結び合える環境や感謝を循環しあえるような徳の世にしていく必要を感じます。

いつまでも相互扶助であることの有難さを忘れないで丁寧に暮らしていきたいと思います。

光と歩む

人生は色々なご縁に彩られているものです。日々に、新しい光や風、そして音に巡り会います。これは自然の風景ともいえます。そして人に出会います。私たちは人の間で生きて、人間生活の中の社会というもののイメージの中に生きています。

もしも今がどのようなイメージを持っているかで、そのイメージの社会が変わります。これはある意味、バーチャルな世界です。しかしそのバーチャルな世界の中で様々な物語を生きています。しかしそのバーチャルがあまりにも不自然な時、私たちは身体と心が引き裂かれて病気になることがあります。精神が病むときなども同様に、イメージしているバーチャルの調和がうまくとれないのです。

そんな時は、自然の中に入り、自然の中に一体になることでそのバーチャルなイメージを手放していくと現実や事実に巡り会います。その事実をよく観察するとき、私たちは縁起の中で生かされていることに氣づくものです。

縁起の中でただ生きている自分を思い出すこと。

そうすることで、バーチャルの中で仮想空間を漂っていた意識が手放され魂が甦生していきます。そもそも魂の甦生とは、いのちの本体に回帰するということです。もっとわかりやすくシンプルに言うと、無になり全体になり、自然の一部として感受する感性に身をゆだねるということです。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。

人間が産み出した幻想社会に溺れそうなとき、ただ現実に身を置いてみるともうどうにでもしてくださいと存在そのものにお任せするのです。

私のメンターは、生き方を通して私に「すべてお任せ」ということを伝承してくれました。氣がつくと、すべてお任せするというのは縁起に任せて歩みなさいということでした。

形式に囚われず、社長でも理事長でも修行者でも博士でも専門家でも職人でもなんでもいい。お金があろうが、権威があろうが関係がない、その時々の今にお任せしながら自分の道を歩んでいきなさいという具合に。

御蔭様で御蔭様の偉大な存在に氣づき歩む大切さを生きています。

自然というのは、私たちのいのちを支え、助け、伸ばします。便利な世の中になっていますが、便利か不便か、田舎か都会かなどではなく、何が大切か、このご縁をどう噛み締めるかということが重要ではないかと思います。

丁寧に暮らし、一つ一つの呼吸を正していくように今日も光と共に歩んでいきます。

徳を調える

色々な生き物は毒を持っているものがあります。この毒を持てるのは、その生き物がその毒を上手に使う熟すからです。毒はもともと薬であり、薬は毒です。重要なのは、その匙加減であり、塩梅、適量であるということです。

生き物の中では、自分の毒で自滅するものもあります。また毒によって元氣になるものもあります。この毒と薬というものの正体は一体何かということです。これを少しだけ深めてみようと思います。

そもそも私たちの空気の酸素も生きていく上で必要ですが大量に濃度を上げて摂取すると猛毒になります。酸素があることで私たちは身体の薬になるようにリフレッシュをしたり、治癒を促進しますが過剰であると死んでしまうのです。また酸素によって呼吸し身体は活動しますが活性酸素というものがそのうち2パーセント毒になって身体をむしばみ続けます。

つまりこの宇宙の法則として、必ずすべての存在は薬であり毒であるということです。言い換えれば、生と死は一体であるということです。別の言い方では、病と老も一体なのです。

そもそも一体だからこそ、私たちはその加減を絶妙にして寿命を伸ばし健康を保ちます。この加減の妙を知るからこそ、調和して元氣を保つことができているのです。

この世の中は、そう考えてみるとすべては加減と調和によって運ばれています。自然環境にしても、あるいは人間の幸不幸にしてもすべてはこの加減と調和です。

現在、薬草やデトックスを深めていますが結局はいのちそのものの真理の妙を調律したり調整することをやっています。法螺貝の波動も同様に、この世は振動数の加減も含めて手入れと手加減でどう調えるかということです。

調えるには、調えるということが分かっていないと調えることができません。場を磨き、徳を調えていきたいと思います。