変化を愛する

定期的に振り返りをしていると、時系列で物事を観ていく喜びを感じるものです。よく観ていないだけで物事はちゃんと育っていきます。小さな芽が、時間を経て育ち実をつけるようにすべての出来事は育つのです。

急に育ったように感じるのは、それを観ていなかっただけで観ればちゃんとどうなっていくのかを察知できます。ご縁を研ぎ澄まして生きている人は、どんな微細な変化も見逃すことはありません。

あの場所に置いていたものが、のちにこうなる。

そんな微細な変化一つに運命や未来は密接に関わっているともいえます。さらには、あの小さなミツバチの飛来がや、鳥の鳴き声が、あるいは風が吹いたからなどいくらでも変化は充ちていくのです。

小さな変化を知る人は、大きな変化も知ります。変化は突然にやってくるものではなく、ちゃんと時間をかけて丁寧に育っていくのです。

だからこそ、どの時間も一期一会に誠心誠意真心で丁寧に正対して実践していくことが大切になっていくように思います。

どのような日々を刻んでいくのは、その人の生き方が決めていきます。

此の世にゆるされて存在している自分だからこそ、偉大な循環の旅を共に生きいています。いつまでも変化を愛し、変化のままに歩んでいきたいと思います。

 

ブレーキを學ぶ

ブレーキというものが不思議なものです。使い方次第でいくらでも方法があります。例えば、心のブレーキなら外せともいいます。しかしスピードを出しすぎていたらブレーキを踏めともいいます。このブレーキもハンドルと同じように、調整や調和の大切な装置です。

例えば、ハンドルには遊びというものがあります。このハンドルの遊びは、車の安定性を確保し、スムーズな走行を実現するために非常に重要な役割を果たしています。この適切な遊びがあることで運転が快適になり反応が過敏すぎることなく安心して車の直進安定性が保たれるといいます。

もしも遊びが適切な範囲でない場合どうなるのかというと車の反応が鈍くな特に急な方向転換が求められるシーンで遅れてしまったり、逆に遊びが少なすぎると非常に過敏に反応して向きが急激に変わってしまいます。

極端に遊びがあったりなかったりすると、危険な事故につながるのです。つまり適度な遊びというものが、このハンドル操作をするときの最適な状態ともいえます。そしてブレーキにもまた同様の遊びがあります。急にかかると滑ってしまい、緩やかすぎると止まれなかったりします。適度なブレーキがあるから、走行が安心して行われます。

つまり、ブレーキというものには常にバランスや余白や余裕といった調整というものが働くのです。ブレーキを學ぶというのは、この調整を學ぶということに似ています。

力の加減をはじめ、タイミング、回数など適切に対応できるようになること。

登坂もあれば、下り坂もあり、あるいは急カーブもあれば高速道路などもある。その時々のブレーキの踏み方をしっていれば、安全に長く安心して運転が行えるようになります。

忙しい現代、スピードを上げることばかりにみんなが躍起になっています。しかし、そういう時こそ、ブレーキを学び直し、ブレーキのかけ方を丁寧にすることが大切ではないかと思います。

ブレーキがあることに感謝して、人生も現実も両輪に安全運転を心がけていきたいと思います。

情報共有の本質

情報共有というのは、信頼を高めていくものです。自分の心を開き、心で語り合う場は風通しも善く爽やかです。その逆に、疑心暗鬼に心を閉ざし、寡黙で誰も語らない場はどんよりして濁ります。

つまり私たちが日ごろに行う情報共有とは、心の通じ合いの話です。

例えば、現在世界情勢をみていると一方的に情報を押し付けたり、あるいはマスコミなどでも不安を煽るような情報、あるいは敵視したり嫌悪感情が増えるような情報を発信しています。

すると世界はどうなっていくか、その情報によって心が変わっていくものです。私たちは日々の情報共有の状態がどうなっているのかで、常に心を変化させている生き物です。

苦しい時、つらい時に、一人で抱え込まないように仲間がいて語り合うことや、不安や恐怖があっても助け合うための場があることは情報共有によって絆を強くするものです。

今は、情報化社会でありとあらゆる情報が洪水や津波のように押し寄せてきます。心がそのたびに揺さぶられ、意識の変容も起きやすくなっています。

同じ意識でも、静かで立ち止まり、穏やかで和やかでいる意識と、常に不安や恐怖や利権で追い詰められているような意識では、状態は変わってしまうものです。

大切なのは、どのような情報共有を日々に心がけているのか。もっと平たくいえば、どのような言葉がけや声掛けをしているかの方が重要なのでしょう。

笑顔でいることや自分の機嫌をとること、よい言葉をかけることはそれだけで意識を癒し、世界を変えていきます。

このような時代だからこそ、丁寧に日々の言動をよく省みて慎み深く歩んでいきたいと思います。

初心を守る

「守る」という言葉には色々な意味があります。例えば、大切にすことや、目を離さないこと、あるいは決めたことに従うや防御することなどもいいます。

私たちは「守る」という言葉を用いる時、そこには確かな無二の存在があることを感じます。それははじまりの心、初心のことです。

この初心という言葉を守ると結べば、初心を大切にする、初心から目を離さない、初心に従う、初心を防御するとなどとも言い換えられます。この初心とは、はじまりにどのような心が動いてどうなったのかという、なぜや何のためにという思いと結ばれます。

人は忙しくなってきたり、色々な知識や経験が増えていくと当初の目的や最初の心を忘れてしまうものです。心は純粋で純心だからこそ最初に思ったことがいつまでも心あるがままの姿でいるものです。

自分の最初の心を守ることが何よりも守るの本質に近いように私は思います。

中村天風さんの言葉に「持たなくてもいい重い荷物を、誰に頼まれもしないのに一生懸命ぶらさげていないか」というものがあります。

心を守ることの一つは、余計な荷物を一旦横に置いてみる工夫かもしれません。守ることは、休むことや止まること、静かであることもまた守ることです。

心の弱さや強さを味わいながら、初心を生きていきたいと思います。

場を守ること

歴史の偉人たちのことを深めていると、そこには一つの共通の実践があることに氣づくものです。それは自分の与えられた運命から逃げないということです。ある人は、飢饉や飢餓、そしてある人は、暴力や尊厳、またある人は汚職や腐敗、あらゆるものに遭遇して迎合せず、正面から素直に向き合ってそれを乗り越えるために最期まで諦めずに努力したその結果として名が残り、思想が語り継がれているということです。

つまり逆境に打ち克ち、自分の天命を生きたということでしょう。

これは誰にでもできることですが、誰にでもできないことでもあります。なぜなら、その人にしか与えられていない役割というものが存在するからです。つまりその人にしかできないことだからでもあります。他の人にはできず、その場、その刻、その組み合わせが一期一会だからです。

そしてその境地から逃げなかったその一つの答えとして、生き方があり志が場に遺ります。

場というものは、志を生きた証であり、その余韻がいつまでも生き続ける記憶装置のようなものです。

私は場の道場を実践し、場づくりを天命にして暮らしを調えています。これは何かの利益を生むためにするのでもなく、誰かにわかってほしいわけでもなく、特段、意味もなく価値もなく、無目的ともいえます。

しかし場が発する声をよく耳を澄まして聴き、その場に応じて素直に従い自分の全身全霊を盡していくとそこには確かに「いのち」というものが連綿と流れていることに氣づきます。

私たちは本来は水そのものです。流れるように生き、そして変化しながら道を歩み続けていきます。それがいのちの真理と結ばれ、徳が積まれ続けていくのです。

だからこそ大切なのは、自分の場を守ることです。

引き続き、自分の場を守りながら子孫のために流れを清め続けます。

立ち止まること

立ち止まるというものがあります。これは動いているのを一度静止してみるということです。静かに止まる、これを座禅では止静とも言うといいます。止静鐘がなり、立ち止まるのです。

では何が立ち止まるかということです。一つには、身体的に動かなくなるということ。止まるというのが動く止まるの総体的な状態です。動いているから止まるがわかり、止まっているから動くがわかります。お互いに何が止まり、 何が動いているのかを知るのです。

以前、私は足を骨折して(今もでずが)止まる機会を得ました。じっとして動かない日々を静かに暮らしていると、周りが動いていることがよくわかります。余計な周囲の動きに惑うこともなく、迷いもない。じっとするというのは、実は他力を活かすための方法にもなり、船の舵取りをするためにも大切であったことがわかります。その時は、今の自分のできることややりたいことを深く見つめ、冷静に判断基準を研ぎ澄ます機会を得たように思います。

そしてまた深めていくと、もう一つの境地もあることに氣づきます。

それが止まるというのは、原点というものもあるということです。別の言い方では初心とも言うべきものでしょう。立ち止まることは、初心に帰るということ、原点に立ち返るということでもあります。

心を静かに調えるためには、立ち止まる必要があります。先ほどの座禅の止静と同じです。そのうえで、これまでの人生を振り返り生き方を見つめ直し、これからどうするのかというものを定めていく大切な時間。

つまり立ち止まるというのは、心と体、精神をはじめ温故知新して甦生する大切な期間ということになります。もっと言えば、生まれ変わるために立ち止まるのです。

生まれ変わりというのは、立ち止まることではじまります。五十にして天命を知った孔子は、それからどう変わったのか。きっと、何か今までに聴こえないものが聴こえるようになったのでしょう。そして耳順うとなったのではないかと。

人生というのは、真心や至誠で歩むと天恵といわれるようなご縁に巡り会います。感謝を忘れずに丁寧にかんながらの道を味わっていきたいと思います。

福徳円満の実践

円満という言葉があります。これは最も調和している状態のことをいいます。福徳円満という言葉もあります。もともとこの円満はどのようにして起こるのか。それを少し深めてみようと思います。

そもそも調和というものは、誰がするのか。

それは自然がするものです。言い換えるのなら、自然に調和するようにこの宇宙はできているということです。ではなぜ不調和が産まれるのか。それは宇宙の調和に対して抵抗したり邪魔をするから発生します。人間であれば、我を通したり、部分最適ばかりをしていると調和が離れていくものです。

かつて浄土真宗の親鸞上人は、「浄土に生まれん事、自然おのずからえんまんしなん」という言葉を遺しました。そこにはこう続きます。

「自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず然といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり」

意訳ですが、自然あるがままにお任せするとき不思議な力が働く、それが法爾という。この法爾は宇宙の力でもありの徳に委ねてお任せすると本来のあるがままになっていく、いのちはすべてこの真理にすべてお任せすることだと。

つまり本来のあるがままがわかるかどうか、真理そのものに委ねることができているかどうかは、偉大な存在にあるがままにお任せするという生き方を実践することだと説いています。

それは努力をしないわけでも自分の力を一切使わないのではなく、「すべてお任せ」して身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、偉大な流れに自分をまかせていくという自然でいる努力精進を怠らないということです。

自然であるためには、自我に打ち克ち、欲を鎮め、心を調えて日々に自己を浄化して静かに止まる暮らしを実践していくことも必要です。

改めて、いただいている存在やご指導に深く感謝して「おのずからえんまんしなん」と生きていきたいと思います。

大切な節目

本質的というものがあります。これは本当のこと、真実、真理ともいいます。しかしこの本質的というものは、言語や言葉では伝わりにくいものです。なぜならそこに実態が必要だからです。つまり言葉だけでは伝わらないというものが本質ということになります。

ではどのようにすれば本質が伝わるか、それは体験や経験や気づきを一緒にする中で次第に観えてくるものです。例えば、生き方などは人生の中でどのような判断をしてきたかの集積で磨かれていきます。本質的な生き方をしようとしたら、自己の天命に素直で正直、謙虚でなければ本質的にはなりません。本質というのは、現実や事実の真っただ中にこそ存在するものです。

例えば、教育者の森信三という方がいます。有名な言葉の一つに「人生二度なし」というものがあります。具体的な実践は、時を守り、場を清め、礼を正すことを通してその本質を伝承していきます。その教えは実践こそ全てともいいます。

この「実践」というもの、これが本質を理解する唯一の方法ではないかと私は実感しています。現実、事実の「実」というもの。これは、本質と対を為すものです。

「実践」というのは、ただやればいいのではなく初心を忘れずに取り組むということです。そして誰からやらせるものではなく、主体的に自分が主人公としての自覚をもって取り組んでいくものです。

二宮尊徳は、自らの道の神髄を「わが道はもっぱら至誠と実行にある」といいました。つまり至誠であることをいつも実行すること、それが実践であると。

初心を常に忘れずに行動すること、それが私の思う実践のことです。

そのために、カグヤでは初心を忘れない環境づくりや文化づくりをしてきました。一人ではすぐに忘れるからみんなで忘れないようにあらゆる工夫や智慧を使い仕組みにしてきました。

私たちの企業文化の真髄はまさにこの子どもたちが安心して自立していけるように「生き方と働き方の一致」を通してその子どもたちの道しるべになろうとしたことであったようにも思います。

思想は実践によってはじめて実を結びます。

そしてその実践をする仲間が増えていくことで事業もまた大きくもなります。大切な節目に、色々と整理していきたいと思います。

鏡開きと農

今日は、午前中に正月に杵と臼とでお餅つきをして拵えた鏡餅の鏡開きをします。いつもこの時季になると、鏡餅を開いて御汁粉やおかきにして振舞います。正月の間、ずっと歳神さまの依り代として存在していた御餅の力をいただき、ご縁に肖ります。まさに、感謝を忘れずに思い出す大切な行事です。

私たちが主食で食べているお米は、誰がつくったものか。もちろん百姓をはじめ、うちでは自分たちで育ててきたものです。しかし事実をよく観察すると、稲を育てるのは土や田んぼや太陽や風、そして地球であり月であり宇宙です。まさにいのちが育つというのは、非常に偉大な恩恵をうけてはじめて育ちます。

特に身近では、お山の存在というものが大きくお山がいのちの和合を与えてくれます。現在、自然破壊が著しく山も荒れ、ソーラー発電などではげ山になっているところも増えています。

本来、自然に寄り添い暮らしていたころはこの当たり前の感謝をいつも忘れずに謙虚にいのちを育んできたように思います。その証拠に、神社には数多くの年中行事がありいつもそれらのいのちの循環の恵みに感謝します。

またしめ縄や藁ぶき、また御餅など結びつきや和合などと組み合わせてお米づくりそのものを知恵として伝承してきました。

そもそも暮らしというものは、自然に寄り添うことであり自然から遠ざかったところには暮らしはありません。人工的なものは人工的暮らしという言葉があるわけでもなく、単に自然の法則から離れる生活をすれば人工的ということになります。本来、人と自然は一致していたものです。この体が証明するように、今も人間は自然物が象って形成しています。

体こそ、自然の姿でありその自然の調和のために毎日、お水をいただき食事をとっています。不自然な生活をすればすぐに体に支障がでるのは、私たちは自然の法則の中で活かされている事実が変わらないからです。

このお米づくりを中心にしたかつての日本の懐かしい暮らしは、自然と調和してきた先人たちの偉大な知恵があります。

今の時代、農業という人工的なものではなく農家百姓といった自然の叡智を活かし伝承する存在が必要になってきているように私は思います。

暮らしフルネスでこれからの農を甦生していきたいと思います。鏡開きができることに感謝します。

知恵と教訓~初心伝承~

温故知新というものがあります。これは孔子が「故きを温ねて新しきを知らば、以て師と為るべし」と諭したところから由来しています。歴史を学びそれをよく内省し観察すれば本質を悟る。まさにそれを師とせよとも言っていいかもしれません。

歴史というものは、実体験、経験の集積です。なぜそうなったのか、そして今はどうなっているのか、この先はどうなるのか。この3つを分けずに全体で洞察する、それが事実というものです。

もちろん主観もありますが、事実だけを並べて本質をよくよく見つめるとそこには知恵が宿っているのがわかります。

知恵とは仏教では正しく物事を判断する能力であるといわれます。経営判断をはじめ、大切なものを伝承するとき、このプロセスを思い出し学び合うことは初心を確かめ有意義な時間になるものです。

しかし、この温故知新をする時間というのはなかなか設けないものです。情報量が多く、そしてスピードを重視するあまりそのプロセスを忘れてしまいます。そのうち、目先の部分最適に囚われ全体最適=バランスが取れなくなっていくものです。

特に経営判断をする大切な場面においては、判断基準がどうなっているのか、そして過去のパターンや教訓から足元をよく観て慎重に果敢に取り組んでいかなければなりません。

この温故知新というのは、人であれば自己が師になり、会社であれば会社が師になります。会社を師として正しく判断ができるようなればそれが経営者ということでしょう。

畢竟、経営者というのは単に社長や肩書をもっているからなっているのではなく判断がいつも知恵や教訓によって磨かれ学び続ける人たちということなのかもしれません。

全員経営という言葉もありますが、人類は本来は全員経営者です。日本という国もまた世界もまた同じように知恵と教訓が必要です。温故知新、初心伝承の刻を大切に過ごしていきたいと思います。