休み方

人は無意識に疲労を蓄積しているものです。疲労は休むことによって回復していきますが、忙しい現代において休むことができない人が増えているように思います。そういう私もいつも全身全霊で生きていますからつい休むことを忘れてやりきってしまいます。

しかし運動と同じように、過剰に走れば休まなければ走り続けることができません。全力ばかりだと、長くは走れませんから時折上手に休憩が必要になります。走り方ばかりを学び、そして走らされることばかりを教え込まれてきていますから休み方を学ぶということがとても大切なように思います。

世の中には休み方改革といってGWやお盆や冬休みといったの長期休暇と重ならないよう、各社や地方自治体が定期的に休みを確保できるような施策を図り、有給休暇の取得を促す官民一体の取り組みがあります。そこには具体的には、有給休暇の取得率向上や、休暇と絡めた地域創生、休暇の分散化による交通機関の混雑緩和などがありますがこれは本来の生き方に対しての休み方かというと違うように思います。

生き方を質量ともに大切に磨かれている人は、休み方も同様に質量ともに充実するということ。質量ともにメリハリがあり、生き方も休み方も一致するような暮らし方ができているということだと思います。

私たちが取り組んでいる暮らしフルネスには、この休み方というものも大切だと色々と取り組んでいます。心の静養をはじめ、いのちが喜ぶような時間、身体が安らぐような感覚、あらゆる休み方を磨きます。

私自身も、まだまだこの辺はバランスがととのわずに過去の頑張りで無理をしたツケが出ていることが多くあります。子どもたちが一生涯、道を健康に歩んでいくように改善を進めていきたいと思います。

ご縁の節目

ドイツでご縁のあった方が昨日から来庵しています。人の成長はあっという間で、見違えるほどで顔も身長も変わっていてはじめてお会いしたような感じでした。その時は、私の息子も一緒にお伺いしたのですがお互いに成長していて驚いているようでした。

子どもの頃の5年や10年は、まるで見た目は別のように変わってしまいます。それが大人になって年齢を経ていくと、20年も合わなければ色々とまた変わっていきます。

例えば、30年ぶりなどの方にお会いするとお互いに何が変わって今どうなっているのかを確認しあうだけで話はつきません。

不思議なことですが、一緒に変わり続けていく家族や仲間もあれば遠く離れてしまった友人たちもあります。時には、最後の別れになったようなものもあります。人生のなかで、出会いというのは本当に一期一会を感じます。

昨日は、息子たちは一緒に近況を語り合っていましたが見た目は違っても興味や関心などはそんなに違いがありませんでした。学校の話や成績の話、または趣味やスポーツ、音楽、アニメのことなど盛り上がっていました。お互いの国の違いはあっても、共通する感覚は似たようなものです。

自分の留学のころを思い出すと、顔も目の色も肌の色も体系も文化も異なるのに同世代というのは同じようなものに興味を持っているものです。またそういう話では意気投合して盛り上がります。お国別の変なルールや仁義はありましたが、みんな社会で思いやり生きるためにそれぞれの配慮やマナー、また楽しみ方などを交換しました。

お互いの文化を尊重しあいながら、対話をしていくのは居心地もよく、有難いご縁であったなと過去のことを思い出しました。

みんな持ちつ持たれつ人は、お互いに支え合い暮らしているものです。

子どもたちの将来を楽しみにしながら、子どもたちが安心して暮らせる世の中になるように取り組んでいきたいと思います。

場の創造

現在、学校という場所の役割が多様化しています。単なる知識を習得する場所だけではなく、多様化した社会に適応するように国家全体からあらゆるニーズが求められています。しかし、専門分野に特化して分類分けしてきた専門家集団によって形成されている学校が専門外のことを突然要求されるというのは大変な柔軟性が必要になるものです。

事実、学校で働く教員の負担はあまりにも膨大で一般的な公務員の仕事と比べても激務です。特に責任のある立場になると、それが余計に顕著になります。精神疾患が増えたりするのもこれらの環境をもっと国家全体で見直す必要がありますがそれを見直す官僚が同じような激務で似たような働き方をしているので常識が変わることがありません。

そもそもキャリア教育というものがあります。これはむかしでいう進路指導などとも呼ばれていたものに近いものですが、一生涯の進路を子どもたちが決めるのに寄り添う大切な役割があります。

現在、学校はとにかく就職に向けてどれだけいい大学に入れるかと知識を詰め込み、また学生たちも成績を上げていい学校に入れることだけを目標に目先の課題に没頭しています。働き方をどうしたいかや、何のために働くのか、世界ではどのようなモデルがあるのかなどをほとんど事前に考えないで気が付いたら平均の枠から取り残されないような状態にいることで安心していたりもします。

実際に、キャリア教育というものの本質は「一生楽しく働くことができるか」という問いに対して、とのような働き方のモデルがあるのかを探求していくことだと私は思います。

私自身のことを振り返っても、就職や起業するなどのモチベーションはテレビでみた有名人や偉人伝、成功者と呼ばれる人や親や先生の感想などから培われていきました。子どもながらに必死で情報を集めましたがたいした情報があったわけではなく、私の場合は幸運にも交通事故に遭い、受験期間がリハビリに追われ留学することにしたことで世界を自分で見て感じたことで視野が変わりました。

どんなこともやっていいという感覚はその時に直観したものです。そして周囲に仕事を心から楽しんでいる人たちとの出会いによって私のキャリア教育は充実していったように思います。

周囲の大人の働き方というのは、子どもたちに大きな影響を与えます。特に、地域に遺りたいという子どもたちこそです。現在は、漠然と遠くにいってみたいや都会の大学にやテレビでよく聞く大手企業にと憧れます。しかし実際にいってみると、その憧れでは長くは続かず自分自身がなんのために働くのかということに向き合い始めていきます。

だからこそ、地域こそ子どもたちが将来、どういう働き方をしていきたいのかに寄り添い、それはどの場所でもできることを証明していく必要を感じます。私が今、取り組んでいることも同じで大切なのは生き方についての場の創造です。

私なりにこの場から発信していきたいと思います。

機械と人間

人間の進化というものは科学を追及することになってきました。かつての人間の進化は、感覚を追及していました。非科学的なものとして現代では受け入れられない状態になっていますが本来は大多数の人たちがこの非科学的な力を発揮していた時代もあります。

誰でもその非科学的なものを使えるようにしようと、科学を進歩させて感覚を機械で発揮させていくように発展させてきましたがその分、また人間の感覚が失われていきます。

そのうちあと数十年もすれば、人間の感覚に限りなく近い、あるいは或いは他の昆虫や動物の感覚をコピーした機械が誕生して人間は感覚を使う必要がなくなるかもしれません。

そうなってくると、人間は人間の主権を機械に譲り渡すのでしょうか。人間が人間たらしめるものは、この感覚ともいえます。私たちは感覚を使うことで、この体の知性や心の感性、魂の感覚などを味わいます。時には、つらいこと、苦しいこと、悲しいこともあれば、喜びや感動、驚きなどもあります。

ひょっとしたらそのうち、感覚を購入するというような機械も出てくるかもしれません。機械に感覚を教えてもらうという時代です。そうなってくると、人間が機械になり、機械が人間になっていくように交換していくのでしょう。

アバターや仮想空間などもまた、分身をいかにつくりだしてそれに体験させるかということに進歩しています。この世に体験しにきて、仮想の体験をするというのは何か本末転倒のような気がしますがこれも時代の一コマなのでしょう。

感覚というものを研ぎ澄ましていくことは、いのちと触れ合うことに似ています。花を活けても漬物を漬けても、野菜を育てても、人と対話していてもすべて感覚を用います。感覚を通すことで、私たちはありとあらえるものを直感的に結べます。

そういうものが結べなくなるというのは、ある意味で人間中心の人間だけしかいない世界にしていくということです。

子どもたちがどちらの世界を望んでいるのか、長い目でみて伝承していきたいと思います。

病気への対応

病は気からという言葉がります。これの由来を調べると、中国最古の医書「黄帝内経素問(こうていだいけいそもん)」紀元前四百五十年~二百二十一年頃に、百病は気に生ず(全ての病は気から生ずる)と記されていて、これが「病気」の語源となったとありました。

そもそもこの病気というのは、気に病むとも読みます。私の経験では、気にしすぎていると病気になるということがあります。思い込みの強さも病気と連携しているようにも思います。

また医者に診断されたり、自分がきっとこの病気だと思い込むとそういう病気を引き寄せていきます。不思議なことですが、人間の身体はこの思い込みというものに反応するということかもしれません。

以前、筋トレをする際もイメージしながらやるといいといわれたことがあります。その方が理想の筋肉がついてくるからだそうです。他にもスポーツでも、自分の思い込みを上手に使えばそれにあわせた身体能力が磨かれるといいます。また容姿なども、自信をもって自分の魅力がいいと思い込む人は周囲からそうみられるともいいます。

つまりは大半がこの思い込みによって反応するということになります。

身体はわかりやすく、痛みなどもより痛いところに意識は集中して他の小さな痛みは気にならなくなります。きつさなども、同様で一番きついところに意識がでてそれ以外のきついところは感じにくくなります。

私たちが痛みや辛さを感じるのは、この気の流れによるものかもしれません。よくストレスなども増えると免疫が下がることが証明されています。もともとの免疫がストレスによって疎外されるのです。ポジティブであったり、安心安定していると免疫が活性化するともいいます。

そう考えてみると、もっとも病気に対応できる方法は「気にしない」ことかもしれません。別の言い方をすると、気をそらすでもいいかもしれません。気がまぎれるや気持ちを切り替えるなどは、精神的なものだといわれますが実際にはそれが病気を減らす工夫だったのかもしれません。

とはいえ、治療が必要なものは避けては通れませんからお医者さんに頼り、未病や予防をいかに取り組むかということだとおもいます。

色々と学び直していきたいと思います。

石の魂

私はよく石を拾います。特に深く共感するものは、いつまでも持っていてあちこちに身に着けて旅をします。他にも旅の友はたくさんいて、貝であったり手帳であったり、お箸であったり、扇子、香りであったりもします。

私はもともとそこまで収集癖があるわけではありません。古民家甦生をしている関係で、古い道具たちなどを集めますから骨董屋のように思われますがむしろ集めるのは好きではありません。あまりに集めても、そのお手入れや配慮が必要なので持たないように気を付けて増やさないようにしているのです。

どうしても深いご縁があるものだけは、一生の責任を持つつもりでご縁を結びます。そうしているうちに、いくつかの大切なもの、そして仲間が増えていくのです。

もちろん、物も人もそれぞれのいのちがあり生き方もあります。最期まで一緒にいれるものもあれば、生きているうちに別の道へと歩んでいくものもあります。別れがきたとしても、大切にされた記憶とまた大切ないのちと結ばれてほしいといのります。

石の話に戻ります。

ネイティブインディアンに下記のような言葉が残っています。

『あなたはいつでも奇妙な形をした石のかたまりとか石ころとか化石とかを拾いあげながら、自分がこんなことをするのはそうするのが嬉しいからなどといっているが、実はそうではない。私にはよくわかる。あなたは、自分の中の奥深いところで石の力の存在に気がついているのだ。石の中に入っているスピリットの存在がわかっている。そうでなければ、そんなふうに石を拾い上げて、いとおしそうに触るようなまねなどしないだろう。』

これはとても共感します。奥深いところで存在をわかるというのは、岩や石、無機質のものは深いところに存在しています。表面上は、単なる固形物ですが深層には意志もあり個性もあり、そして魂もあります。

これはスピリチュアルな話ではなく、そのものに宿る力があるということです。お墓や石板、石碑などもですが深い願いや祈りや思いが宿ります。つまり魂の記憶装置こそが石なのです。

これは宇宙の隕石なども同様です。

だからこそ、その力を引き出すためにも自分の波動をととのえて、石と対話ができるような低周波を磨いていく必要があります。それは深夜の3時半ころの感性ともいってもいいし、禅僧の深い瞑想の時ともいってもいいかもしれません。

そのうち量子力学などで解明される日もくるかもしれませんが、私たちは表面を見すぎることでその奥深さを忘れてしまったのかもしれません。

子孫のためにも、私の感覚を可視化して体験できるように色々と工夫していこうと思います。宗教などではなく、暮らしの知恵として伝承していきたいと思います。

人類の行く末

世界の人口は現在は80億人に達したといわれています。西暦1年のころは3億人ほど、1500年頃は5億人、1800年頃は10億人、そして20世紀から人口爆発をして今は80億人です。

数字で見てもすぐにわかりますが、ここ200年で急速に人類は今までの発展や繁栄と仕組みががらりと変わっているのがわかります。世界では、貧困も飢餓も解決せず格差はますます拡がっています。

急速な発展のなかで食料を大量に生産するために技術革新が行われました。他にも、医療から情報化などまさに今も科学技術を進歩させて人口爆発に対応しています。しかし世界では、搾取している層と搾取される側の層にわかれて似たような構造で現代型の進歩へ突き進んでいきます。

狭い範囲で、搾取をしても搾取をしすぎると一般の人も生きてはいけません。江戸時代なども、藩主が農民から大量に年貢をとってしまえば農民は飢餓で死んでしまいます。よく時代劇で悪役の藩主が、農民は生かさず殺さずのように統治していた場面をみましたが結局は反乱や一揆、そのほかの怨嗟が集まり消滅していきました。

人間が人間をコントロールしていくというところに、はじまりの原因があります。人間が自然と共生していた時にはなかった、人間による自然のコントロールはうまくいきません。その証拠に、人間のコントロールもできません。如何に、共生していくかを考えて暮らした太古の方がまだ安心した暮らしがあったかもしれません。

確かに病気もなくなり、便利になり、経済も発展して宇宙にまで届きそうですがそれがあとどのくらい持つのか。過去の資源や、今まで積み上げてきたものを一気に搾取して消耗する発展が持つのはのこりどのくらいなのか。

想像すると、未来世代へ申し訳ない気持ちもでてきます。長期的な視点で、どのようにしていけばこの先の世代が仕合せになるのかを考えると本来の生き方をどうすべきかに向き合います。

子孫のためにも、今、できることを真摯に取り組んでいきたいと思います。

 

 

長老の木

昨日、古民家和楽の銀杏の対応のためにシートなどを設置しました。毎年、1万粒くらいの銀杏が実をつけてくれます。その銀杏を拾って、炭火で食べるのが仕合せで毎年仲間やご縁のある方々を招待して楽しんでいます。

短い期間に大量に拾えますから、とても数人では食べきれません。むかしもきっと、近隣の方々や家族親族で分け合って食べていたのでしょう。一気にとると、下処理が大変で辟易としますが毎日、落ちてくる分をその都度下処理をするのなら特に大変には感じません。

むかしの暮らしの時間では、この9月の1か月は銀杏祭りで毎日が美味しい食卓の一つの旬として楽しく味わえたように思います。

この銀杏の木は、あの氷河期を乗り越えてきた貴重な木だといいます。ほとんどの植物が枯れても生きているという、まさに生きる化石だといわれます。また同時に火にも強く、寺や神社、都市でも防火で植えられています。荘厳で長寿、まさに長老のような佇まいの木です。

私は、この銀杏の木が好きでもう20年くらい育てているものもあります。特に葉っぱの形や色が綺麗でうっとりします。銀杏の木陰もまた心地よく、木漏れ日が優しく穏やかな気持ちになります。

黄色に染まった姿に光が当たれば、輝きが反射してとても幻想的です。冬も間も、強い風から守ってくれていますし春の新芽もかわいらしくて瑞々しい水気を周囲に放ってくれます。鳥たちの休憩所にもなり、一年を通してあらゆる鳥たちがこの木に集まってきます。

この木の一生は、節目節目に私たち生き物のいのちを潤します。まさにご神木ともいってよい、長老の木です。

いつまでもこういう長老の見守りのなかで子孫たちが暮らしていけることは平和で幸せなことです。世間では、簡単に伐採したり自然から離れてさらに人間中心の世の中になっていきますがそこにこの銀杏の豊かさは失われて寂しさを感じます。

子孫たちのためにも、身近なところから自然と共生し、未来世代への責任を果たしていきたいと思います。

自分のままでいられる場所

自分のあるがままを受け容れるということは大切なことです。それができないと苦しでいる人が多いといいます。では、なぜその自分のあるがままを受け容れることができないのか。言い換えれば、自分のままではいけないという他者や周囲からの影響を受けるからです。

例えば、全部がまっすぐに同じ大きさと長さ、形で同じスピードでと求められる植物があったとします。他はみんなそう育っているのに、自分だけ他と異なる状態になればこのままではいけないと焦るものです。しかしどうやって演じてもそうならない場合は、自分を責めてなぜこんなことになど悲嘆にくれます。あるいは、開き直って諦めてしまうこともあるでしょう。しかし、周囲と比べて奇怪な目で見られたり差別や排除されると苦しくなるのです。

本能的に私たちは社会をつくりますし、周囲と調和したいと思うものです。生き残るためには、周囲のお役に立ちたい、自分の存在が認められたいと思うものです。だからこそ、頑張って自分もそうなろうと思うのです。

しかしその自分が周囲から求められる姿が、あまりにも自分とは異なる歪なものであれば本人はとても苦しみます。鳥にカエルになれと言われても無理ですし、蛇にライオンになれというのも無理です。しかし、人間の可能性は無限で特に小さな子どもならほとんどどんなものにもなれるような気もするものです。

人間は、誰がどのように育てるかで変わります。動物に育てられれば、動物のようにもなります。そうやって、どのようなものにするのかというのが教育というものです。

自分らしくいられなくなるはじまりは、みんな同じように金太郎飴のようになる社会設計に組み込まれるときにはじまっています。

お互いを尊重しあう社会というのは、持ち味を発揮する社会です。持ち味が発揮されるというのは、その人がその人らしくいることができてそれをみんなもわかっているという社会です。みんなもそれをわかっているから、それをそのままに活かそうとします。自分がこれを役にたちたいと思っても、もっとお役に立てるものがあるとみんなが気づいてその人を尊重できるのです。

その人らしくいられる環境というのは、みんなが持ち味を活かせる場があるということです。こうならねばならないという、無理や頑張りは心を痛めていきます。

居心地のよい場所は、自分のままでいられる場所ということです。

子どもたちにも無理をしないでいいように、場の大切さを感じてもらいそれぞれの個性や持ち味、自分らしさをみんなで活かしあう豊かで平和な社会になるようにその実践事例やモデルケースを場でととのえていきたいと思います。

洗脳からの解放

パソコンを扱うのにOSがあります。これは基本ソフトウェアです。それを最初にインストールされていると、その機能が中心になります。私たちの思考や脳も、最初に何がインストールされているかというものがあります。

その一つは本能というものがあります。生まれながらに身に着けていることであり、最初から持っているものです。それは昆虫にしても、そして植物、バクテリアに至るまで持っています。

その最初にインプットされたものを発揮していのちをもってこの世で役割を全うしていきます。地球や宇宙も同様に、それぞれの役割を全うします。

しかし人間は、これとは別のものをインストールしていきます。言い換えれば、刷り込みや洗脳というものです。思い込みや価値観、そして先入観や想像など脳にインプットしたものでこの世界を認識していきます。そこは自然にあったものと切り離され、人間だけでイメージする世界に住んでいるようなものです。

気が付けば、地球の資源を使いつくすようになり、本来の自然の役割を果たさなくなり、人間の思い通りに世界を書き換えて塗り替えていきました。その結果、本来の洗脳や刷り込まれていない自然からメッセージがたくさん訪れて目覚める人も増えました。

この自然災害をはじめ、あらゆる気候変動や日々の身近な生物たちの絶滅は私たちにその仮想の思い込みによってできた世界が本来のものとずれていることを証明していきます。

どんなにOSにインストールしてみても、電気がパソコンに届かなければその機械はどうしようもありません。私たちが地球のエネルギーを活用し、人間の好きなように世界をつくってきましたがエネルギーが枯渇すれば電気のない世界に急になってしまうように、本来の自然がどうだったかの元の状態に戻ります。その時、人はどのような光景を目にするのか。

廃墟となってただのガラクタになった建造物や道具などが散乱した姿を見ることになります。子どもたちは、なぜこんなになるまで先人たちは使いつくしたのかと思うかもしれません。

脳の発達だけを優先して、目に見える世界だけに突き進むとどうなるのかということはある程度はわかってきました。そしてこの先に待ち構えているどうにもならない制度設計が破壊されるまで今のOSの機能と新しい機能を探してギリギリまでいのちや資源を削り取っていくのでしょう。

だからこそ、人類は時として電気を切る勇気も必要だと感じます。明かりを消してみると、暗闇の中に星々も火もそしてぬくもりを感じるものです。

子どもたちに、そういう体験や知恵が残せるように色々と試行錯誤して伝承していきたいと思います。