お水と暮らしと文化

11月3日の巳の日に、古民家和樂の敷地内に井戸を掘ります。なぜ今、この時代に井戸を掘るのか。何のために井戸を掘るのかと質問もあります。

今の時代は水道設備が充実しており、簡単便利に蛇口をひねればどこでもいつでも水が出てきます。コンビニや自販機でも水は売られ、誰でも飲料水は手に入ります。

井戸がなぜ必要なのか、なぜ今、わざわざ井戸を新たに掘るのかということです。

井戸の前に、そもそも古代から続くお水の信仰のことを少しご紹介します。文章に書くと長いのですが、大変有難いことに天皇陛下が~人の心と水-信仰の中の水に触れる~というタイトルで第4回アジア・太平洋水サミットにおける天皇陛下記念講演 – 宮内庁にて記念講演いただいている内容が読めるようになっています。

とても共感するのは、お水は生命を育むだけでなく、人々の暮らし、信仰、文化、そして地域のつながりを育んできた存在であると。だからこそ、お水を守ることは、人間の暮らしと未来を守ることにつながるという真意です。

お水を理解するのに、便利さや治水工事などから入るのではなく悠久の中で育まれてきたお水と一緒に生きてきた人々の暮らしや文化から見直してみるとどう感じるか。お水は人類にとって本当は何の象徴であるか。

それが今回、新たにこの土地この場、この流域の甦生のキックオフとして「井戸掘祭」をする決心をした理由です。

お水の周りには、人々の暮らしが甦ります。そしてそこには文化が醸成されます。井戸は単なる生活用水を利用するための道具ではありません。ここには、連綿と繋がってきた暮らしの源流が湧き、井戸端では人々の助け合い思いやり地域を大切に守り続けてきたいのりがあります。

だからこそ、今こそ新しく井戸をみんなで掘るのです。

お水が結ぶのは、何か、それを一緒に体験して氣づきこの時代だからこそ改めて先人たちのいのりを伝承しきたいと思っているのです。

今年はずっと弁財天やお水をいのり暮らしてきました。その大切な節目の年、そして文化の日に新しいお水の文化を創造していけることに歓びと仕合せを感じます。

水脈を調えることや地下のお水を守り続けることはこれから訪れるであろう日照りや洪水、大雨や干ばつ、様々な自然災害と向き合うのにとても大切な場になります。私の先祖もみんな雨乞い神事をしてはお水の信仰を磨いてきました。暮らしを支えているのは、お水だからこそ地域をつなぎ、地域を守るのもまたお水なのです。

本日から井戸の場に結界をはり、丁寧に場を調えていきます。

子どもたちのためにも、一緒に参画していただけますと幸甚です。井戸掘りは一日で行います。ミズムスビを主宰する石井清輝さんのご協力のもと掘っていきます。

井戸掘り祭 | 徳積財団

めぐみとめぐり

日本の古来からある大和言葉に「めぐり」という言霊があります。現代では日本語の動詞「めぐる(巡る・回る)」が名詞になったものといわれます。「めぐる」は、あるものの周囲を回ること、一つの場所から別の場所へ移り、再び元へ戻ること、そして物事が順々に移り変わっていくこととあります。

また似た言霊に「めぐみ」があります。しかしこれは「めぐむ(恵む)」から生まれ、慈しみ、情けをかけること、恩恵を与えることといわれます。「めぐむ」は古語の「めぐし(愛し)」との関係が指摘され、相手をいとおしく思う心になるとあります。

私が好きな言葉に「めぐり逢い」という言葉もあります。

悠久の時間と無限の関係性が羅網のように結ばれ、道中で何度も再会する。あるいは生まれ変わっても一期一会に出逢う、これを「ご縁」と呼びます。

ご縁があり今になる、そして今がまた次のご縁になります。

目の前で風に揺られ、朝日に照らされている神々しい澄んだススキと私はめぐり逢います。この景色は心の中の記憶と生き続けていてまた来年もめぐり逢うかもしれません。

共に生きるということの真の豊かさは、循環の中で暮らしを営む喜びです。

続いていくこと、已まないこと、一緒にいること、この当たり前の暮らしこそ真の幸福です。そしてそれを「徳の循環」といいます。

徳が循環していくというのは、そのものの善さに光を当ててめぐみのめぐりを深く感じることです。また今度、逢えるだろうか、逢えたらどのような心でいるだろうか。御蔭様とお互い様と許し合える自然の感性でいられるだろうか。色々と心は遊びます。

めぐりをよく観察し、秋の甦生の妙を味わっていきたいと思います。

 

育つ場の甦生

お陰様で稲刈りは残すは古代米たちだけでほとんど収穫ができ稲架かけが終わりました。むかしの五穀田は、秋のお山の乾いた風が吹きおろしてきて藁の薫りや澄んだ太陽の光に揺られて心地よい音を奏でています。あと10日間ほど、天日干ししたら脱穀に入っていきます。

今年は大地の再生の矢野智徳先生とのご縁から大地のことを深く学び直しています。本日も午後からもBAでご一緒できますがいつも循環の徳を実感する実地に溢れています。

大地はお水や空気の流れが滞ると、土が締まり、植物や生き物が育ちにくくなっていきます。それと同じように、人が育つ場も、人と人、人と自然、人と地域の関係性が失われることで、本来の育つ力が弱まっていくように思います。

むかしの五穀田では結のみんなでお田植祭をし、草取りをし、稲刈りをし新嘗祭をします。効率化や合理化、機械化と消費化が進み人の手と手の関係性を結びご縁が登熟していくような場や暮らしの風景は確実に減っていきました。

かつての場や暮らしは、ともに働き、ともに食べ、道具を手入れし、自然と共に循環し、季節を迎える営みがありました。誰かが一方的に教えなくても、人が人から学び、自然から教わり、ともに育っていく働きがありました。

これを私は「育つ場」と呼びます。

風景というものは、不思議な存在です。風景とは、単に目に映る景色のことをいうだけではないように思います。風景とは心の風景であり、生きる人々の暮らしや、自然との関わり、積み重ねられてきた時間や記憶が顕現してくるものです。

心が風景を創っているのです。そして失われた風景も、心が記憶を思い出し懐かしいと感じる。懐かしい風景は、そのまま懐かしい未来に向かっていく。

だからこそ、私が古民家を甦生し、むかしの田んぼを甦生し、ご縁の関係性を甦生し、暮らしフルネスを通していのちが「育つ場」甦生しようとしているのだと。

育つ場の甦生には、まずこの懐かしい風景と失われた関係性を結び直すことです。

そこには今流行の有名な商品やメソッド、あるいは理論や考え方、著名人の講演や本で得られるようなものではありません。

特別なものは何もない、当たり前すぎること、そして世界の誰でもできることですし、今からでもやれること、つまり日々の暮らしをもう一度大切にすることです。

大地がお水や空気の流れを取り戻し生命が育つ環境を調えるように、育つ場も人と人、人と自然の関わりを取り戻し、互いの生命が育ち合う環境を調えていくのです。

暮らしの中にはあらゆる場があります。

その場こそ、人を真に育てるのです。専門的な教育や医療や宗教や科学でなくてもいいです。

まずは「暮らし」の中に入っていくこと、私たちが取り組んでいる暮らしフルネスは単なる体験イベントではなく暮らしを甦生しようとしている実践です。なかなか現代の忙しい生活、そして知識によって分断された効率や合理化された猛スピードで駆け抜けるような情報や物質的な金融社会ではその記憶や意識を保つことも困難です。

懐かしい記憶、失われた記憶、そして心豊かな仕合せな記憶を意識的に一緒に思い出していけるといいですね。

ここから十三夜祭、井戸掘祭、新嘗祭と続きます。

感謝しあう暮らしに秋の螺旋。

感謝の稲刈り

昨日は、無事にみんなで稲刈りができました。

ここまで見守ってくださっていた存在、そして太陽やお水や大地、虫たち風、あらゆるものへ感謝が湧きました。

身体はヘトヘトですが、この豊かな疲れと喜び。

稲架かけした稲が夜空や朝焼け、そして田んぼに刻まれ。

こんな美しく懐かしい風景があと何回、観れるだろうかと。

これはやっているからこそ、取り組んだからこそ観れる光景です。

心からご縁に深く感謝しています。

いつもありがとうございます。

まるで御礼メッセージのブログですが、こんな日もあっていいなぁと。

新たなご縁の深まりに感謝の連続です。

暮らしの源流

今日は、むかしの五穀田の稲刈りです。暮らしを通して仲間になってくださった結のみんなが集まって、一緒に手で一株ずつ稲刈りをしていきます。約2反ほどありますから結構な作業量です。お誘いするのは単に労働力が必要だからみんなに集まってもらおうとしたのではなく、農業イベントをしたいわけでもなく、お金儲けや承認欲求などでもありません。

新しく「暮らしを甦生」するためにみんなでやっている実践と試みです。

現代は労働力としてはほとんどが機械化されて簡単便利に短時間で収穫を終わってしまいます。別に機械を否定しているのではなく、私も機械を借りて一部は収穫しますしとても助かっています。しかしこの作業を単に労働力だけと割り切って働いていたら、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた伝統や知恵などの暮らしが失われていきます。

暮らしは労働力の方ではなく、関係性や場の中に存在しているからです。

もともとむかしの人たちは、常に自然に寄り添い自然と一体になって「暮らし」を営んできました。自然に和合するから季節に合わせて行動を決め、自然に与えられた短い旬の時季を失わないように大勢で助け合い田植えをして、稲刈りもしました。みんなで自然と共に生きて、みんなで助け合うのです。これを暮らしと呼び大切に結んできたのが「結」という共同体です。

「結」では三浦梅園の慈悲無尽講のように、病気や不慮の事故などの時の共同体の支援がありました。困ったらみんなで助け合い、お互い様おかげ様と関係を何世代も大切に結んでいきました。土地で自然と暮らしていくというのは、関係を常に甦生させ続ける工夫が要ります。現代は面倒だと、都会のように他人とはあまりプライベートには関わらないようにと何でも距離を置きますが田舎では何かあった時のためにと日頃から関係を結んでいきます。

何かあった時というのが、自然災害や天災、天候不順による水不足や洪水などに備えるためでもあります。むかしの暮らしは自然と一体ですから防災と常にセットで取り組んでいて、これは現代ではフェーズフリーとも言いますが日常から防災になるような暮らしを営みました。保存食をはじめ井戸端や結などもその典型です。つまり防災=暮らしでもあったのです。

現代では、お金や経済活動だけの共同体になっていますが防災で考えるとき今の日本はこれで人々の今後の暮らしが果たして無事に守られるのかと疑問に思います。

一つの田んぼを守ることは流域全体を守る事であり、場を調えることは人の関係性を調えることでもありました。

このような当たり前のことをしなくなり、教育も何か暮らしとかけ離れた労働力としてしか人を見なくなれば次第に労働力以外に大切にしてきた暮らしが消え、最後は人と自然の営みも失われていくのではないでしょうか?

だからこそ、今こそ新しい暮らしの関係性を結び直しが必要だと感じて人が「育つ場」をつくろうとお声掛けしているのです。

この育つ場には、現代で分かれた分断され分業された仕事が丸ごと全部存在してイキイキと学び合えます。食事も教育も介護もお祭りも信仰も伝統も文化も渾然一体です。

こういう場において人は育つ、そして人が育つだけではなく流域も育ち国家も育つのです。それが「暮らしの源流」なのです。それをフルネス(もっともっとではなく、足元の足るを知る喜び)にしていこうと提唱したのが「暮らしフルネス」なのです。

人生の真の幸福は徳を積むことです。当たり前のことを書いて何を最もだといわれるかもしれませんが、当たり前の初心をいつまでも忘れないようにしたいと思っているのです。

今日も、一日一生、一期一会の場。

徳が循環するようないのちが喜び合う暮らしを、感謝と共に今日も世界の子どもたちと人類の未来のために実践していきます。

好きとは何か

明日は、いよいよ待ちに待ったみんなでむかしの五穀田の稲刈りをします。英彦山弁財天の縁の深い日に合わせて種もみをお山のお水に寝かせ苗づくり、田植えと草取りとすべて「巳の日」に合わせて取り組んできました。巳の日というのは、十二支の「巳=蛇」が巡ってくる日のことです。むかしの人たちは、この縁日というものを大切にしてきました。お水の中で蛇は脱皮して新しく甦生する存在です。そのお力に肖ろうと意識を保ちながら渾然一体の自然の一部になっていきます。

御蔭様でみんなのいのりが通じ、稲は本当によくよく育ってくれました。

はじめての田んぼで心配していましたが、関の山からのいのち豊かな風とお水が棚田の上も中も通り場の力を育ててくださいました。古代米をはじめ在来種や福岡のお米などご縁あったものが全部みんな活き活きと育ちました。

心から場に感謝しています。

秋は今までの苦労をみんなで労う季節です。そして冬に入る準備をしていきます。

実際にすべて稲刈りを手刈りでするのは本当に大変なことです。周囲の関係者からも無理ではないか、やめて機械にした方がいいと薦められます。正直言うと、あらゆる兼業をしていますから纏まった時間がうまく取れなくて身体が悲鳴を上げることがあります。

でもたくさんの仲間が集まってあのみんなで竈のご飯を食べたり、子どもたちからお年寄りまでみんなで居心地のよい場にしていく古民家と田んぼと稲と人の絶妙な調和が好きなのです。

「好き」というのは美しいという古語ですが、論語には「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」とあります。つまり「知る」より「好き」が深く、「好き」よりさらに「楽しむ」境地があるといいます。

そして禅の道元禅師は、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」、人になる道は自分を識り自分になること、それは自分を忘れるほどに好きになっているという意味に近いように思います。

この好きというのは、周囲の評価など氣にしない現代でいう「オタク」になっている境地に似ています。(笑)自分が好きで誰よりも楽しんでいるのなら、それでいいと。それが自分らしさの源流ということでしょう。

どの方向に向かって暮らしをしているか、何が徳でそれを積み循環しているか。

不思議ですが私の田んぼの周りには、そういう人たちばかりが集まってきます。

ということで、明日は「労いの秋もやります」。

具体的には、稲架けをしたらライトアップして親戚の「丸目雅(まるめみやび)」さんによる労いの歌奉納をします。彼女は、私の息子たちと幼い頃から一緒に育ってきた音楽の申し子です。その歌唱力と声は、澄み切っていて一度そばで聴くと忘れないほど深く心に遺ります。

むかしの五穀田のと関係を結び稲刈りをしてくださった方々だけ参加できる秘密のライブをします。

心を癒し、好きの方向をみんなで確認しあい労い合う。

力をお借りしたいのが本音ですが、明日はじっくりと労いを意識して好きを楽しめたらいいですね。

参加のご連絡をよろしくお願いします。

https://www.tokutsumi.or.jp/info/2974.html

時務を識る者は俊傑に在り。

「時務を識る者は俊傑に在り。」という言葉があります。この言葉は『三国志』蜀書の諸葛亮伝の裴松之注に引用された『襄陽記』の中に記される言葉です。

具体的には、まだ弱小であった劉備玄徳が司馬徽(水鏡先生)に天下の情勢を尋ねたときの返答の言葉です。

正確には「劉備、世事を司馬徳操に訪う。徳操曰く、「儒生俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。この間、自ら伏龍・鳳雛あり。」劉備、問う、「誰となす」と。曰く、「諸葛孔明、龐士元なり。」と。

意訳ですが、劉備が水鏡先生に真摯に尋ねる。今まさに私はどのうようにしてこの天下に在ればいいか、どうか教えてくださいと。水鏡先生が言う。儒学者の私に聞かれても知識は答えられてもそれは教えることができません。もしそれができるとすれば「今を知る」ものです。そのような人物こそ俊傑と呼ばれるものです。この地に俊傑は二人います。それが諸葛孔明と龐士元ですと。

俊傑とは何か、これは時代の兆しを知り、今を識るもののことです。

この今を識るとは何か。

私の言葉では、日々を新たに生き切る人のことです。つまりゼロベースに物事を常に刷新して洞察し続けられる人。新しい自分を常に創り続けている人ともいえます。

人間は、過去によって今を概念で操作していきます。それを思い込みといいます。過去の思い込みによって今を観ています。しかし、本当は過去からの今は真の今ではありません。

真の今を識るには、今までを少し隣に置いて常に今の時の中に棲んでいなければなりません。だからこそそれができるのが「龍であり鳳」なのです。

この話は、人物の話に聴こえますが易経の話です。

龍や鳳は、時を識ります。

今がどのような今か、今の中に存在します。時とはそもそも今のことです。道元禅師はこれを而今ともいいました。つまり龍は今なのです。

文字や知識で今を知ると龍が観えなくなっていきます。だからこそ、知識ではなく壮大な循環に身を置き仙人のように悠久の流れに静かに心を委ねます。

時代は変化して已みません、そして時勢は今に顕現しています。

今を識るには新しい自己で居続けるという、まるで変化と一体になっている融通無碍な境地の体得があります。絶対的な主体性、自然の境地です。

果たして諸葛孔明がそうだったのか、それはわかりませんが自分も龍や鳳の如く刻の徳を磨いていきたいと思います。

精進

先日、ある会社で100年カレンダーというものを拝見しました。そこには100年の歳月が1枚の紙に全部書かれていて自分が残りの期間、もし長生きするとしてその生きていられる期間を感じられるものがありました。

人生はあっという間です。

伝統や歴史の中にいることを思えば、自分がいただいているものの役割に感謝して今度はそれを遠い未来までどう繋いでいくかと思索します。何代もかけて結んできたご縁が結実し、今があります。

結局は、この今をどうするかをゼロベースで取り組んでいく全身全霊の一日を生き切ることが最善であることに氣づくものです。一期一会に結ばれていく奇跡のようなご縁の瞬間を真心で結びその結んだものからまた新たなご縁と結ばれていく。

人生は羅網のように無限につながり、螺旋のように永遠に循環していきます。

だからこそ、今、来ているご縁にどれだけ真剣に取り組むかが大切です。

つまりご縁というものを感じる意識のままに、そのご縁を選ばずに主体的にお役目を全うしていくという無為自然にすべてお任せして真心のみを尽力する。

今を生き切ることで生き方と働き方も一致していきます。

どのような境遇に出逢ってもそのご縁に謙虚に感謝してどれも素直に心と向き合っていこうと努力する。

人体に免疫があるように、心にも免疫があるように私は感じます。

免疫は苦労するとき、成長するときによく働きます。

免疫は自然そのもので、厳しい環境の中でよく働きます。人体も同様でもしもあまりにも楽をさせすぎたり、怠けさせると免疫が働かなくなっていきます。つまり病気になります。病気になっても免疫があれば快復していきます。病気もまた成長の証ですから、氣付きを得ていのちは育つのです。

だからこそ謙虚に素直に今に向き合い精進していくことがよりよく生きるということになっていくのだろうと思います。

而今、時中、時務、今此処にすべての真心を籠める。

自然免疫が活き活きと発酵して、主体的に主人公で生きる姿をこの先の未来に結んでいけるように精進していきたいと思います。

 

ご縁の甦生

過去と今という考え方があります。私たちはつい過去のことを相手にして対応していると今から離れていくものです。既存の発想に囚われてしまうと新規の発想は出てきません。変化というものは、今を観続けるということですから今の自分に何がもっとも相応しいかと問い続けていくことで過去のものを手放していくものです。

情報というものはすぐに固定されていきます。

かつての自分を知っている人は、かつてのままで止まっているものです。今の自分を知る人は、いつも新しい自分に刷新されていきます。大事なことは、その人の今を知ることではないかと私は思います。

それは前と比べて今というものや、きっとこうではないかという思い込みの今ではなく、ゼロベースでありのままのあるがままの今を知ることを「今」といいます。

先日、法螺貝を選ばれる時に今のあなたに最も相応しいのは何かと聴くと過去に馴染んだものよりも今の自分に相応しいものを選んでおられました。

自分が思っているものではなく、その人の今を知ることでその人の抱えている問題や課題、そして希望や行動したいと思っている動機を確認できるのです。

振り返って見ると、ご縁を結ぶのは今を知ることに似ています。

今の自分に相応しいご縁がやってきては今の自分を形成していきます。そしてそれは古い友人や仲間との再会においても同様です。ご縁を結び直すことはゼロベースに今を知り合うことです。むかしはこうだったからきっとこうだろうと思い込み、既存の知識に囚われるのではなく今のその人はどうなっているだろうかとその人と自分の今を結びご縁を探します。

人のご縁は時機や時節で変化して強く濃くなっていくことがあります。

これを新たなご縁ともいえるし、ご縁が結び直されたともいえます、つまりご縁の甦生です。ご縁の甦生はお手入れや磨くことでもできますし、場づくりをしていくことで自然に調っていくものです。

前はこうだったという意識を手放すことは「本当の今を観ているか」という自分との対話です。

今を知る者こそ、本当に今何をすべきかを知ります。

つまり今を識るものこそ今を知る、知識の本質ということでしょう。

一期一会にご縁を甦生していくのを楽しんでいきたいと思います。

心と心

昨日は、無事に古民家和樂のご神木の銀杏拾いや綱分八幡宮の参道の竹林のお手入れと田んぼの稲架を設置することができました。

御蔭さまで地域の暮らしを甦生し、かつての里山のような地域の循環の場ができています。こんなことを数年続けていると、集まってくる結の人たちや地域の人たちも故郷の風物詩のように風景に馴染みます。これを文化といいます。文化は暮らしがあってはじめてできるものです。文化は決してお金で買えません。

今年の銀杏の実はとても大粒で全部まるごとみんなで拾いきることができました。昨年まではあまりにも銀杏の量が多く、拾いきれずに一部は土に還していました。銀杏の木に「いつもありがとう、いつか拾いきるほどになるのが夢ですね」と話していたからか、不思議なことにその冬に枝が風でだいぶ落ちスリムになりました。すると今年は小粒だった銀杏がすべて大粒になり、味もさらに美味しくなり全部、ご縁のある方々の来訪分でぴったりと拾いきりました。

現代では一般的には思い込みだとかスピリチュアルだとか言われそうな話ですが、きっと主人の話を聴いてくださってそうしたのではないかと不思議に思い、改めてご神木の存在を尊敬して大切に一緒に暮らしていきたいと思いました。これは英彦山の守静坊の枝垂れ桜も同じく、話しかけるとすぐに翌年にそれを聴き届けてくれます。これはむかしの五穀田の稲も同じです。

樹木や植物には、人間のような口もなければ耳もありません。

しかし心は通じるようで、尊重していのり話しかければ応えてくれます。重要なのは、「応じる」ということです。応じるというのは、相手の求めに心で受けこたえるという意味です。

心で聴く、心を通じ合わせる、心で接する、心を観守る、心と心。

何を伝えてくださっているのか、どうしたいと願っているのか、傾聴し共感し受容して感謝しあう。

二宮尊徳はこれを「一円観」と言いましたが、自然循環の妙であり真理です。

御蔭様で年々、ご縁や関係性が充ちてみのり、一期一会の場が醸成されていきます。

ご縁や関係性の中にこそ、真の暮らしがあります。

秋は、多様な生き物たちが心と心を和合します。

秋に心からありがとうございます。