反りて省みる

人は何かの出来事の原因を自分にも何か非があったかもしれないと思うと素直に反省していくものです。その反対に、自分はまったく悪くないと相手のせいにしたり、責任を押し付けたりすると反省することはありません。

この反省という言葉は、「反(そ)りて省(かえり)みる」といいます。語源は中国の古典『論語』にある「吾日に吾が身を三省す」に由来で自身の言行を振り返り検討することを意味しています。

人は反りて省みると智慧と改善が産まれます。

まだまだ成長できるところがある、まだまだ学び直すところがあると氣づくのです。もしも反省をできないとどうなるか、それは成長ができなくなり周囲から信頼関係を失い孤立していくともいいます。

反省しないことのデメリットは、いつまでも変わらないということです。人は素直に謙虚に学べば変わります。原因や問題、そして自分の蒔いた種が何かを学びます。すると次には何を氣をつければいいか、自分の何が原因だったかと改善をしていくことができます。それによって人格を磨いて高めていくことも可能です。

しかし反省しなければ、何も変わりません。また同じことを繰り返していきます。そのうち、同じことの繰り返しに周囲が氣づいて孤立していきます。より頑固になっていき、さらには誰も本当のことを言わなくなり信頼関係が失われるのです。

正直さというものは、本来はただ自分が思っている価値観の中での正しさだけを貫けばいいわけではありません。そこには「思いやり」や配慮があります。思いやりがあるなかで如何に正直でいるか、まずは優先するのは思いやりということでしょう。思いやりがある場は自己防衛する必要がありません。安心するからです。

しかし疑心暗鬼ばかりが横行し思いやりが失われみんなが自己防衛をするような環境になれば、すぐに相手を攻撃しては責任をなすりつけあうようになります。継続的な不安は無責任や責任転嫁の温床になります。

だからこそ、安心できるように自らがまず自らに責任を持ち、自分に何か原因があるのではないかと矢印を自分以外の全方向に向ける前に自己に反省してみるということが大事なのでしょう。

人間、何歳になっても、この反省というものは道を歩む中で羅針盤のように大切なものです。論語で語られるように、振り返りこそ学びの極意として丁寧に取り組んでいきたいと思います。

記憶の蓄積~種取り~

自然農の高菜が開花の時季を迎えています。背丈ほどある菜の花が一斉に畑を黄色に変えてとてもきれいです。種取りをする御蔭で私は花を楽しみ、種まで見守ることができます。

ほとんどの農家は種取りまでしていません。種は購入するものになっているからです。種は購入した方が、すぐに畑が耕せて別の季節の種を蒔けます。しかし種取りまですると、季節が被るので畑が全部使えません。効率と収量を優先していたら種まで取る時間と労力がもったいないと思うのでしょう。

しかし本来は、この種取りに大きな意味があります。

畑の中で過ごした一年の暮らしや体験が種に記憶として刻まれていきます。その記憶には、育つのを見守ってくれた場や人のことも刻まれます。同時に様々なその土地の環境、虫や周辺の植物や風の吹き方から光の差し方、あるいは土中環境まで記憶します。もっと言えば、地球全体の気候の変化にまで記録され順応するため翌年の準備をしていけます。

高菜は1200年前からこの土地に根付いていますが、1200年の記憶の中から最適な状態を探して翌年の変化になっていくのです。

そして多様な種を展開して、生き残るため生き延びるためにその場所で一年を実験してよく生きた種、よく順応したものが残っていくという仕組みになっています。

種取りまでしていると、最終的にどのような種がいいかがわかってきます。たとえば、高菜であれば在来種のため紫やトゲなどがあるものがあります。葉も肉厚のものとシャープなものがあります。

どのような高菜がもっとも強かったか、また一斉にではなく時間差で花も咲き、大きくもなりますからみんなそれぞれの個性で順応します。

在来種の種が豊かで価値があるのは、一つとして同じものがないということです。現代の購入する種は、DNAをいじり、無理に改良しては同じ種にします。一年で終わりだからかまた購入します。これは場所も気候変動も人も関係しませんが、記憶が蓄積していきません。

記憶が蓄積するというのは、それだけ子孫たちが生き残る可能性のために必要な大切な時間なのです。

人間も同じように扱われ始めていないか、改めて在来種や種取りからよくよく本質を学び直していきたいと思います。

花は桜木

今朝の雨で枝垂れ桜の満開のお花も散り始めています。花は儚く、風情があります。人は美しいものに儚さを思うものです。同時に、散り際の美しさはその輝きを増していきます。

この枝垂れ桜のある場所は、お水が豊富です。水分が多い谷だからこそ、花びらがよりキラキラと透明感を増しています。それがこの春分の時季の太陽に照らされひらひらと舞い落ちる様子に光が反射してより澄み切った雰囲気を醸し出します。

また散っていく花びらの後に、新芽が出ています。新芽が出るために花が落ち着ていくのか、花が落ちて新芽が出るのか、その一期一会の美しさもあります。

特に美しいのは、雨上がりの後の穏やかな気配に包まれた桜の存在です。

まるで刻が止まったかのように静寂に包まれ、重力が失われたように力が抜けて場が和らぎます。季節の移り変わりを眺めることは、いのちの循環を見つめることに似ています。

英彦山の深山幽谷にある孤高の一本桜というのは、そこに在るだけで時を超えた繋がりを感じるものです。

お花が散る最中の美しさに魅了されたご縁のある方々が何かを感じて静かに見つめています。

一休宗純の言葉が思い返されます。

「花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖はもみじ、花はみよしの」

桜木の徳を味わいながら残りのひと時を永遠に。

場とお水

場づくりというものは人もその場に関係するものです。人がどのような場にするかという心が場に投影されます。その人がいなくなれば当然、場は変わります。つまり場は関係性と意識によって保たれるということです。

場ができると何が起きるか、それは田んぼや畑であればすぐにわかります。

好循環する場は、すべてのいのちが活き活きと躍動します。それぞれが自分らしく生きて、周囲を活かします。それはその場をそのようにする意識とお手入れがあるからです。場をどのように調えるかは、そこでどのような意識でお手入れをするかにかかっています。

例えば、神聖な場には神聖な場に相応しい意識と手入れがあります。その場にどのように接しているか、そして祈っているのか、または振舞うか、その一挙手一投足に微細な意識が宿りそれが場の全体に影響を与えるのです。

その場が濁らないようにするのが場守の仕事です。

私の取り組む場の道場はそれを磨き學ぶ場所でもあります。私たちの意識というものはすべての存在と結ばれ繋がっています。人の関係性も心も、そしてご縁も時もすべて結ばれたままに活動しています。

だからこそ関係性があることを忘れずにそこに大切に守りたいものがあることをみんなで意識して取り組むことで場が醸成されまるで神が宿るようになります。神が宿る場は、居るだけで清浄で清々しく、あらゆるもののいのちを元氣にします。しかしもしもその神が去るようなら場は濁り澱み、厄神などが隙をみて入ってくるかのように様々なトラブルに見舞われます。

特に古民家においては、井戸というものがあります。井戸は水神、龍神の棲まう場所です。家はお水がなければ生きてはいけません。そのお水に感謝して、お水が喜ぶように祈りお手入れを怠らなければ家は繁栄していきます。その逆に、お水を粗末にしてしまえば家は衰退します。お水は家の人々の関係性を潤し、豊かにするものです。そのお水を如何に日々に大切にお祀りするか。

私はいつもお水に恵まれ、お水に包まれ、いつも龍神や水神の存在を身近に感じています。だからこそ、日々のいのりの中心はお水と共にあります。

お水が教えてくださっている真理、清らかで澄み切った真心を大切に生きること。穢れはお水によって流され赤心を甦生すること。

当たり前ではない存在、その場に感謝を巡らせお水の大切さを伝承していきたいと思います。

桜の徳

樹齢230年の桜を見守っていると、時の流れを感じるものです。最初は小さな苗木から老木と呼ばれるほどの風格を持っています。同じように四季を巡り春には花を咲かせ、今も花を咲かせます。

その花を眺める人は変わっていきますが、花は誰が来ようが来まいが咲かせます。

230年の歳月を考えてみると、人間であれば苗木の時が初代としても少なくても5代目以降の子孫が今の桜を観ることになります。そして同じように200年後にはまた10代目以降の子孫が観るのでしょう。

桜を守るということは、どの代がやってきたのと同じように桜と寄り添い生きていくということでしょう。

私はある意味天命として古民家を甦生しています。それまでの暮らしをお手入れしてそのまま今に温故知新して子孫へと伝承しています。

その中で代が継がれていくというのは、その暮らしや生き方を守っていくということです。代々がそれぞれに桜を見守ってきたように、自分も桜を見守るのです。

もしも自分の方が桜よりも長生きだとしたらどうするでしょうか。もしも自分の寿命が1000年あり、桜が500年だとしたらどうするでしょうか。

きっと、私なら桜の苗木を育て見守るでしょう。それが途絶えないように、また美しい姿で生き続けられるようにと場を調えます。今は桜の方が長生きですから次の人間が現れてくれるように美しい心を育て見守っているのでしょう。

人の心の中にこそ、桜の徳は存在するのです。

結局、関係性いうのはお互いが見守り合いバトンを渡していくように伝承されていきます。

伝える側と、承る側の一生の契りと一期一会です。

美意識というものは徳意識でもあります。

長い歳月の中でどちらかが先にこの世を去ったとしても美しい心の風景を見守り合っていこうとする譲り合い、救い合い、分かち合い、許しあう慈愛の真心です。

桜との出会いを大切に生きる日本人が多いこと、先人たちの真心にただただ感謝です。

吾以外皆我師也

人生の中で色々な人に出会います。その中には教師にしたいと思える人と、反面教師にしたいと思える人がいます。反面教師の人にあなたは反面教師ですとは言えませんが、ぐっと自分が体験した理不尽を受け容れ自分はこうありたいと誓い自戒をしていくのです。

そう考えてみると、反面教師の御蔭様で自戒ができ謙虚になるので反面教師もまた立派な教師ということになります。

吾以外皆我師也という言葉があります。人は誰もからも学ぶに相応しいものがある。肩書や権威、年齢や国籍の違いなど全く関係がなく、その人から學ぶものが必ずあるということ。

人間、氣がつくと自分に都合のいいように解釈をして學ぶことを怠ってしまいます。誰かの言うことは聴くけど、誰かのいうことは聴かない。その態度こそ、聴く耳がない心の態度だともいえます。

どのような人物、どのようなご縁からも学ぼう、聴こうとするのは自分が傲慢にならないようにする素直で謙虚な生き方です。

謙虚さを忘れるとき、傲慢に出会い足元をすくわれることがあります。人は学び続けていくことで人格を磨いていくこともできます。人格は最初から磨かれたのではなく、様々な出会いによって磨かれます。

その出会いには、感動するものもあれば反省するものもあります。大事なことは出会いを大切にして学び続けるという心の姿勢ということでしょう。そして先ほどの吾以外皆我師也のように生きる人は、より素直に謙虚に学んでいるように思います。

人生の節目に、改めてこの後の人生もそうありたいと願うものです。

道を歩むのに、一歩一歩、謙虚素直謙虚素直と足を丁寧に差し出しながら穏やかに静かに歩んでいきたいと思います。

節目に思う

本日、50歳の誕生日を迎えます。氣がつけばもう季節の巡りを50回も過ごしてきたのかと実感します。春夏秋冬、季節ごとの物語があり味わい深い記憶ばかりです。すでに亡くなってしまった師友も仲間も家族もいます。そして新しく産まれてくるいのちや今のご縁に恵まれます。

人生の一生というものは、今、何を感じているかの連続です。

結局、年齢は一つの基準でしかなくどう生きてどう死ぬか、つまりは生き方とあり方のようなことだけが一つの人生の姿であるということでしょう。

思い返してみると、私はいつも人に恵まれてきました。色々なご縁をいただき、節目節目には道に導いていただきました。そして場所にも恵まれ、時にも恵まれました。恩恵をいただいているのは誰の御蔭であろうかと想像するとき、これはご先祖様が蒔いてくださったよき種であることがわかります。

永い時間をかけて蒔いてきた種が、子孫の時に花開き実をつけます。私はその一部をいただいているだけですが、それが数々の恩恵をいただける理由になっています。

だからこそ、徳を積むことの大切さに氣づき少しでも今いる場、今の人々、今の時によい種を蒔きたいと願うようになりました。

あとどのくらい生きられるのか、自分にはわかりません。ひょっとしたらあっという間にこの世を去るかもしれませんし、長生きする運命を持っているかもしれません。

今の心境は、いつか英彦山で孤高に咲くあの守静坊の一本桜のようにいつまでも凛とありたいと願うのみです。

人生はどんなに偉い人でも、仙人のような人でも、一般の人でも誰でも平等に終わりが来ます。きっとその時が来たらあっけないものでしょう。しかし、甦生は続きますしいのちは永遠に巡り続けます。だからこそ、今何ができるのか、そしてどうあるのかは与えられた唯一の恩恵に報いる時間になるのです。

ここから先も、自分ができることはほんの小さなことだけかもしれません。しかしそのほんの小さなことも時間が経てば成長し、大きくなるかもしれません。そして多くの人々、子どもたちに徳を遺していけるかもしれません。

いただいている感謝を忘れず、丹精を籠めてこれからの残りの人生を使わせていただきたいと思います。

これまでの数々の恩恵に感謝します。これからもよろしくお願いします。いつもありがとうございます。

生き方の先生~サクラの智慧~

英彦山守静坊の枝垂れ桜がまもなく満開を迎えます。そして満開の後はいよいよ静かに散り始めます。

桜はどうしても満開ばかりを見る機会が多いと思いますが、桜守をしていると最初の咲き始めから終わりまでの散り際をずっと見守っていますからそのどの場面も一期一会を感じて学び直し、感動することばかりです。

特にこの枝垂れ桜の散り際の美しさは、信仰やいのりの場にある桜だからこそ偉大な智慧や教えを味わえます。

もともと日本人の美意識には散り際の美学のようなものがあるといいます。人生の終わりからどう生きるかという死生観のことです。

私たちの先祖たちは「生き方」というものを何よりも大切にしてきました。これは何を人生の初心にして何のために生きるのかという生きる姿勢のことでもあります。

一生懸命に真摯に生き切って、潔く静かに美しく散ってまた新たな甦生の循環となる。

古来から桜にはそのような雰囲気があるものです。

修験道発祥の地、山岳信仰の中心であった英彦山にひっそりと咲く守静坊のいのりの一本桜はまさに今の時代の人間が憧れる生き方の智慧の結晶のようです。

今週末にかけて散っていきますが、2日には満月を迎えます。夜桜の美にもまた智慧が隠れています。この枝垂れ桜は全方向、全時間、全受容、全存在で味わえます。

宿坊の甦生からますます元氣になっている奇跡の彼岸桜から季節の巡りと一緒に心の持ち方も学び直していけるといいですね。

 

 

守静坊の枝垂れ桜の徳

英彦山の守静坊の枝垂れ桜がまもなく満開を迎えます。

この桜の圧倒的な存在感で、場を一変させています。霊峰英彦山に在り、神様の依り代、先祖の霊の依り代として美しい純白のしなやかに垂れさがる一重の花が風に揺れこちらに話しかけてくるかのようです。

改めてこの英彦山にある守静坊の枝垂れ桜が他の枝垂れ桜と異なるのかを私なりに整理してみようと思います。

そもそも枝垂れ桜という桜は、野生種の突然変異で誕生したものです。1億回のDNAの甦生のコピーの中で1回、突然変異により誕生します。その個性は、明らかにそれまでの桜と異なります。重力に逆らわず、敢えて頑強ではなく柔弱の徳に溢れお水のような清々しさを持っています。

古代から日本には桜がありますが、枝垂れ桜に出会った先祖がこの株を大切に守り株分けしながら全国各地に広がっていった野生種です。つまり枝垂れ桜は、人々が深く愛した存在で人間との関係がなければ今私たちの目の前に存在しない桜ということです。

守静坊の枝垂れ桜の特徴は、一重白彼岸枝垂れ桜といい春のお彼岸の頃に開花するのが特徴です。桜は元々生死の境界を生きています。この境界(間)のことを古語では「あわひ」といいます。これは水の泡のようなものであるという意味です。

桜は花が咲き、同時に散ります。つまり生と死をお彼岸の合間に行います。この死生観が日本人の美意識や魂と結びついて、私たちは桜を先生にして生き方を磨いてきたのではないかと私は思います。

もしも桜がなかったとしたら、私たちは春というものをどう感じるでしょうか?昨夜は、写真家の方々のためにと守静坊の枝垂れ桜をライトアップしてみましたがその圧倒的な存在感にもはや別の空間に場が変化するのを実感します。他の樹木をライトアップしてもこうはなりません。全体の形状、そして見栄え、円を描くように咲くお花と光を反射して神々しく水霞を纏います。まるで、水面に浮かんでくる龍のようです。

そして守静坊の枝垂れ桜の個性で最も徳が溢れるのは「英彦山中の弁財天の水谷と宿坊の敷地内に存在する」ということだと私は思います。もともとこの枝垂れ桜の由来は今から230年前の現在の円山公園の祇園桜を株分けしたものです。そこはかつて修験者の宿坊(山科家)のあった場所です。

山岳信仰と深く結びつく桜は、近代のような景観観賞のためのものではなく「祈りの場」としての桜なのです。お花見で楽しくお酒を酌み交わすような場もいいですが、この場所はそうではなく「信仰の実践道場」としての桜の場なのです。

つまり桜を先生にして何を私たちは伝承して守るのか。その本質は、いのちを學ぶことではないかと私は思います。

この守静坊の枝垂れ桜の唯一無二の個性と徳は、「霊峰でいのちを學ぶ先生」ということです。

私がこの桜を守り、先祖供養の場を毎年実施するのはこの枝垂れ桜に宿る伝承を継承して次世代までずっとバトンを繋いでいきたいといのるからです。

この時季にしかお会いできない一期一会に心から感謝しています。

今週は満月のご祈祷と初心の振り返りと遊行があります。
ご縁の方々と平和をいのります。

桜の波動

英彦山の枝垂れ桜の場を調えていますが、桜の波動で魂や心が癒されます。

不思議なことですが、この一本桜は場の空気感を全て変えてしまいます。もともと存在感があるのですが、桜の開花の時季は特別な存在感が出てきます。樹木というものは、言葉を持ちません。しかし変化によって語ってくるものです。

例えば、朝夕の日差しを受けて反射してくる光。風に揺られて静かに揺れているゆらぎ。花や葉をひらひらと落としていくときの静けさ。また凛と生命を感じさせる場の力。

その瞬間瞬間に波動を直観するものです。

桜は常に変化をし、波動によって私たちに意志を語り掛けてきます。桜守をしてはや4年目ですが、桜が喜んでいたり、語り掛けてきたり、見守り合っていることを実感する日々です。

樹木は、お世話をする人のことを知っています。それはお野菜やお米を育ててみてもわかりますが、関係性を結びます。そこにはお互いにわかる周波数のようなものが存在し、共にその波動を結び合うことで語り合います。

私は法螺貝を吹きますが、法螺貝は波動を放ちます。

その波動で自分の心や、感性などを表現して樹木をはじめ場と語り合うことができます。むかしの人たちは今よりもずっと、波動で対話をしていたように思います。波動で対話をすることで、お互いの絆を感じ合い、新たな目覚めをして共に寿命を与えあってきました。

波動は関係性の中にありますが、桜はその波動を調える最幸の先生です。

これから一週間で満開になりますが、一期一会の波動の出会いを楽しみたいと思います。