普遍的な共通の真理

古いものを甦生していると、古いということの定義が人によって異なることがわかります。例えばある人は、懐かしいことを古いと定義し、またある人は飽きたことや時代に合わないことを古いと定義し、またある人は使われなくなった異物のことを古いと定義します。

同じ古いという言葉であっても、その認識や定義は人によって異なるから当然、古いものが甦生するといってもその意識が伝わるわけではありません。

実際に私は古いというものの定義は、幅広く深くもっています。その定義の一つには、普遍的であるというものがあります。

これは古いと私が直観するときは、普遍的な共通の真理があると実感するときです。そしてそれを今ならどうするかと甦生させていくということです。

この甦生という言葉も様々な定義があります。例えば、寿命を延ばすことを甦生と定義するものもあれば、止まったしまった時を動かすことを甦生と定義するもの、また生まれ変わるものを甦生と定義するものもあります。

私にとっての甦生も古いと同じくらい、定義に厚みがありますがやはり今も生き続けていること、永遠や永久などというようにそこに流れている普遍的な共通の真理を辿ります。

つまり古いものを甦生するというのは、普遍的な共通の真理を実現するということです。

人類をはじめ地球、宇宙などが連綿を結んでつなげてきたものの中で今も在るということでしょうか。

暮らしを甦生するのは、まさにそれを実践しているということです。

だからこそ、場を温故知新していくのです。

古いものを大切にするものこそ、もっとも新しいことができる。

普遍的な共通の真理の本質とは、道理を生きること。つまり道を歩み続け、道であることなのかもしれません。

復古創新こそ私の人生の醍醐味として、遊びながら挑戦していきたいと思います。

螺旋の意識

ここ数日、螺旋の意識のことを深めていると新たな発見がたくさんありました。

もともとこの世は全てのものを円く設定されています。その理由は、円くなるのは周りが回転しているからです。分子から宇宙の銀河に至るまですべての真理は円によって調和します。つまり一円になることで、力が調和して一つになるのです。

そしてその円に変化が出ると螺旋になります。

この時の変化とは、方向性のことです。人間の言い方では成長とも呼びます。

円に方向性が顕れ、成長する方向に向かって螺旋のように動き始めます。宇宙のはじまりから生命の誕生に至るまで、どの方向にいくかと決めたときに螺旋の中心に定まります。

キラリティ(chirality)という言葉があります。日本語では、掌性や鏡像性ともいいます。これは鏡に映すと左右が逆になり、どれだけ回転させても元の形とは完全に重ならない性質になることです。

例えば、法螺貝の右巻きと左巻きも同じ関係です。これは単に見る方向によって右・左が変わる「回転方向」とは違い、貝そのものが持つ構造的な左右性になることです。

法螺貝が誕生する時、右巻き・左巻きは、胚発生のごく初期に形成される左右非対称性で決まります。受精卵の初期卵割では、アクチンなどの細胞骨格によって細胞の配置に一定方向のねじれが生じ、その向きが左右軸の形成や遺伝子発現へ伝達されます。その結果、内臓や外套膜を含む身体の左右性が決まり、外套膜が殻口に新しい殻を付加し続けることで、その方向性が右巻きまたは左巻きの螺旋構造として成長・固定されていくという具合です。

この世はすべて円でできているからこそ、一部が全体に作用し、全体は部分に作用して調和します。調和しないものなど一切存在せず、現象のすべては螺旋によって解明できるということです。

だからこそ螺旋の意識を持つことは、この世の原理原則や法則を知るのに不可欠なものです。

今日もこの後、法螺貝を二柱ほどつくっていきますが神秘性を学び直しつつ暮らしの様々な場所の甦生に智慧を活かしていきたいと思います。

場の甦生の本質

自然から離れて暮らすようになって私たちは様々な苦しみや悩みが増えてきました。その中で自然と共生するために大切にしてきたものに掃除という知恵が産まれました。

この掃除というのは、単に物を綺麗に片づけるだけではありません。すべての関係性を調えていくことであり、自然の循環を巡らせていくことができる人類が自然の循環に参加していくための大切な仕組みです。

掃除の功徳を最も実践した二宮尊徳は、自然の循環こそ徳の巡りとして掃除(人道)から荒れた人々の心田を開発して人間性の甦生に取り組みました。

二宮翁夜話巻乃四、一八二にはこのように記録されています。

「翁曰、天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし、人為を忽にして、天道を恨る事勿れ、夫庭前の落葉は天道なり、無心にして日々夜々に積る、是を払はざるは人道に非ず、払へども又落る、之に心を煩し、之に心を労し、一葉落れば、箒を取て立が如き、是塵芥の為に、役せらるゝなり、愚と云べし、木の葉の落るは天道なり、人道を以て、毎朝一度は払ふべし、又落るとも捨置て、無心の落葉に役せらるゝ事勿れ、又人道を忽にして積り次第にする事勿れ、是人道なり、愚人といへども悪人といへども、能教ふべし、教て聞ざるも、是に心を労する事勿れ、聞ぬとて捨る事なく、幾度も教ふべし、教て用ひざるも憤る事勿れ、聞かずとて捨るは不仁なり、用ぬとて憤るは不智なり、不仁不智は徳者の恐るゝ処なり、仁智二つ心掛て、我が徳を全ふすべし。」

私の意訳ですが「自然は自然のままにしておけばいいわけではない。自然に対して人は人の道を実践することではじめて自然の循環と渾然一体になることができる。例えば永久的に木の葉は落ち、庭には積もっていくもの。だからといって、そのままにしておくのではなく、人は毎日、箒を持って調えることではじめて自然となる。これは人に対しても同じである。何度教えても分からないからと見捨てるのではなく、何度も淡々と押して導いていく。思いやりと知恵をもって心がけることが人の道であり徳を積むことになる」と。

つまり徳を積むというのは、自然の循環に対して自分もその循環の一部として和合し生きるというこ。その仕組みが「掃除」をするということを説きます。掃除をするときこそ、人間が最も自然と渾然一体になります。

私はこれを「お手入れ」とも呼び、心やいのちを触る行為だとし、丁寧に徳を巡らせ徳を磨くこと甦生すると場の道場で伝道しています。

だからこそだれかに掃除をさせるのではなく、自分自身が日々に掃除を実践すること。掃除をするときはじめて人間は自然と共生し、人間性を甦生していくことができるからです。

本来の掃除の本質は、天の働き、自然の循環に対して人間が暮らしやすいようにすべてのいのちを豊かに巡らせていくように調えることです。つまり捨てるのではなく磨くということ、分断するのではなく結ぶということです。

私の取り組む場の甦生は、自然の循環の一部になることを通してこの徳を積むことからはじめます。徳積財団も徳積循環も、お山の甦生もお水の甦生もすべて人類の経世済民、人々の心の荒廃を救い、「塵を払わん、垢を除かん」と一緒に掃除をして磨きましょうという目的のために実践するものです。

私の持ち場は今の世界や日本ではとても小さな場所かもしれませんが、歴史的に観ても地理的に観ても、風水脈を観ても日本の要であることがわかります。

今日も天道に倣い、人道を精進していきたいと思います。

大気圧と法螺貝

私たちは、知らず知らずに大気圧の中で暮らしています。地球には大気がありその大気の重さ圧力が全身にかかっているという具合です。これは海で考えてみてもわかります。海に潜れば水圧がかかるように、地上にいる私たちにも、頭上にある大気の重さによって「大気圧」がかかるのです。

その大気圧は海面付近であれば約1013hPa。これは手のひらほどの面積にも、およそ100kg重に相当する力がかかっているほどの圧力です。大人の私たちには約18000kg重ほどかかっているという計算になります。

想像したらすぐにわかると思いますが、瞬時につぶれてしまう重さです。

空気も水でできていますから、巨大な海の中にいる状態と同じです。

しかしなぜこの重さがかかっているのに人間の身体が押しつぶされないのか。それは身体の内側にも圧力があり、外側の大気圧と「釣り合う」からです。

この釣り合うという状態こそ、大気圧と調和する状態です。人間の身体では、外から圧力がかかりますが内側からも圧力がかかります。

大気圧はまず上から押しつぶすのではなく前後・左右・上下、あらゆる方向からほぼ均等に作用します。それに対して人体の多くは水分でできていますがその血液や細胞内外の液体、組織などにも圧力が伝わっていて、外からの大気圧とほぼ釣り合う状態になります。

これは空のペットボトルを密閉して外側の圧力だけを強くすると潰れますが内側にも同じ程度の圧力があれば潰れないのと同じ仕組みです。

ただここに圧力差が生まれると、それを修正しようとして変化が生まれます。例えば、飛行機で耳が痛くなるのも、この圧力差が一時的に生じるからです。釣り合わないから発生するという現象です。

常に釣り合った状態でいるから、こんなに重たい大気圧を普段は感じないのです。

呼吸はこの大気圧を活用して行われます。胸を広げて肺の中の圧力を少し下げると、大気圧によって空気が肺へ入ってくるという具合です。つまり吸う力で呼吸をするのではなく、内側と外側の圧力差を利用して呼吸をしているのです。

この圧力差の微細な差を産み出すことで、呼吸をしています。

そして法螺貝も同じ仕組みを使っているのがよく分かります。まず法螺貝を吹くことは、大気圧との「圧力差」を利用して音を生み出していく法具です。息を吸うとき、胸郭を広げて肺の中の圧力を大気圧よりわずかに低くします。すると、外の大気が肺の中へ流れ込みます。反対に法螺貝を吹くときは、呼吸筋を使って肺や口の中の圧力を大気圧より高くします。その圧力差によって空気が外へ押し出され、唇が振動します。

その振動が法螺貝内部の空気に伝わると、空気は細かく圧縮と膨張を繰り返します。これが「音波」です。法螺貝の内部では、その形に応じた共鳴が起こり、特徴的な強い音となって外の大気へ広がっていきます。つまり法螺貝の音とは、単に強く息を吐いた音ではありません。

大気圧を基準に身体が小さな圧力差をつくり、それが唇の振動、法螺貝の共鳴を経て、大気中を伝わる「圧力の波」になったもので音が出ているということです。

普段は感じることのできない大気ですが、法螺貝を吹くことで、その大気が振動し、音として私たちの耳に届いているのがわかります。

私たち法螺貝を吹くものたちは、常に大気の流動や変動、気圧や振動を調えることで場を調和させることを実践しているとも言えます。

法螺貝の音は、まさに螺旋の響きですがこの螺旋の響きそのものが宇宙の振動と共鳴していきます。

呼吸を修めることは、大気圧を修めることです。

引き続き、精進していきましょう。

自然の本体、螺旋の力

「やたらめったら」という言葉があります。この言葉は深く考えたり順序を決めたりせず、むやみに、手当たり次第に行うようなときに使われるものです。つまり一般的には無計画や無秩序という少し否定的な意味で使われます。

これは先に答えがあって動くのではなく、動きながら出会うものによって調っていくという方法の一つです。

例えば自然も、川は蛇行し、風は渦を巻き、植物は自由に枝を伸ばします。一見すると無秩序でも、その動きの中から新しい形や秩序が産まれていきます。

これを私は螺旋の力であると直感しています。

そもそもこの大宇宙はすべて螺旋の力によって活動しています。マクロでいう大宇宙の銀河やブラックホール、そしてミクロの分子や細胞まで螺旋運動していないものなでこの世に存在していません。

この地球もまた螺旋運動をしています。少し考えてみれば自明します。

例えば地球はまず、自分自身の軸を中心に自転します。赤道付近では、その速さは秒速約0.46キロメートルです。つまり、私たちは地球の上にじっと立っているだけで、地球の回転によって秒速約460メートルの速さで動いています。

そしてその地球は、太陽の周りを公転しています。その速さは平均で秒速約30キロです。そして太陽は地球をはじめとする惑星を引き連れながら、天の川銀河の中心を回っています。その速さ秒約約230キロメートルほどです。そして我々の太陽系は、天の川銀河の中心の周りを秒速約230kmで公転します。

これをすべて合わせれば、私たちは止まっているように見えて、宇宙的な基準では秒速約370km、時速約133万kmもの速さで宇宙を螺旋的に移動しているのです。だからこそ宇宙の螺旋の力を得て速度が働くのだから影響を受けないはずはないのです。やたらめったらに動いているようで、実際には偉大な力によって制御され、調和するようにできているということ。ブラックホールをはじめ、惑星が場を螺旋のように歪めるのまた秩序と調和のバランスで成り立っているのです。

これが自然の本体なのです。

私が法螺貝を使って、可視化するのもまたこの螺旋の力です。

自然がどのように働くのか、その本質を直観することで私たちは自然の力の一部をいただくことができます。それが自然との共生の真髄であり、人類が永続して存在し仕合せになる要諦なのでしょう。

引き続き、自然の甦生を学び直していきたいと思います。

山の日

本日、8月11日は「山の日」です。この山の日は、「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」ことを趣旨として設けられた国民の祝日です。この山の日が休日になるのは山岳団体などによる長年の働きかけを背景に、超党派の国会議員によって法制化が進められ、2014年に祝日法が改正、2016年から施行されることになりました。海の日と同じく、山や海に親しみその恩恵に感謝する未来へ向けた大切な日ということでしょう。

私もむかしの五穀田でお山のお水を使って稲を育てています。お山からお水が流れていなければ私たちの主食は食べることができません。里山という言葉もありますが、里が潤い豊かになるのはお山の御蔭なのです。そのお山をただの楽しみの対象ではなく、敢えて恩恵を意識して感謝し、そしてどのように恩返しをする機会を得るかというのが山の日の本質ではないかと私は思います。

今日は、霊峰英彦山の守静坊で大地の再生の矢野智徳さんと一緒に仙人苦楽部を行います。英彦山はもともと北部九州の流域の中心です。英彦山から県内をはじめ北部九州の流域を育て海へとお水が流れていきます。そのお水の流れそのものがあって私たち里の暮らしは成り立ちます。

昨日も一緒に英彦山のお山の中を歩きましたが、水源のお水が澱み木々も弱りお山がそのものに手入れが必要になっていることが分かってきました。むかしの人々は、お山がお水を産む大切な存在であると知り山岳信仰というものが誕生しました。修験道などとも呼ばれ、お山を愛し、お山に親しみ、お山に感謝して、お山と共生し、貢献しあう自然循環の暮らしを営みました。

お山をお手入れすることでお山を活かし、人も活かし、周囲のいきもののいのち全てを活かしました。これを私は徳循環と呼びます。お山が活き活きと甦生していれば、人々の心もまた安らぎ生態系が豊かになって仕合せが増えていく。

まさにお山の健康状態が、人類の健康状態を決めるというものです。

今日は、「山の日」、お山への感謝の日。

当たり前にお水がやってくるわけでもなく、川が流れてくるのではなく、海が豊かになるわけではない。これはすべて「お山」があってこそであり、お山が人類を見守り育んでくださっているからであることを思い出す日でもあります。

娯楽でくる山もありますが、本来は感謝でいのる場がお山であり滾々と貴重なお水を調えて里から海へと届ける英彦山は故郷の大切な神様です。

英彦山の守静坊からお山に親しみ、この日をもってお山に何をどう感謝を恩返ししていけばいいかを私も覚悟を決心していきたいと思います。

貴重なご縁に心から感謝しています。

徳が循環する経世済民

自然には自然の快復力というものがあります。多少破壊されてもそれが時間をかけて快復していき元通りになっていくということ。これは人間の身体と同じです。

人間の身体にも自然快復力があります。これによって病気になっても休養していれば快復していきます。例えば、怪我などで傷めても時間が経てば快復して戻通りになります。

しかしもしもこの快復力を超えてさらに傷めたり、無理をさせると恢復が追いつかずにさらに悪い結果になっていくことがあります。つまり自然の快復が好循環なのに対し、身体も悪循環になっていくのです。

自然界は、この循環によって全体最適を実現しています。循環が乱れればそれを元の循環に快復しようと全体最適を自然がみんなで行います。多様ないのちや生き物たちも協力しあって自然の循環が澱まないよう、妨げられないように変化していきます。山から海、流域や地球などをよく洞察して対応していくのもこの全体快適かどうかを見極めていくことに必要です。

しかしもしも部分最適を優先し、病気だけをみて工事をし多様ないのちや生物を排除してしまえば自然の循環が滞り快復が妨げられ、さらに悪化していき崩壊に進みます。費用も嵩み、人工物だらけでさらに自然の循環が働きにくくなるのです。

そしてこの自然の循環がどのようになっているのかで民が安んじることができるかを洞察したのが熊沢蕃山です。そもそも、治水と治国は同質のものです。お水が安んじるような循環をすれば、国も同様に人々が安んじることができるというもの。

なぜ水害や洪水が起きるのか、根本的な原因を突き止めたのです。

例えば、山が荒れれば、川が荒れる。川が荒れれば、田畑が傷む。田畑が傷めば、人々の暮らしが苦しくなるという具合です。だからこそ熊沢蕃山にとって治水とは、川だけを治すことではなく、山、川、田畑、生業、暮らし、そして政治までを、一つのつながりとして調和させようとしました。

しかし今の時代と違って、一浪人が国家の政治を語るなど不遜であると幽閉され発言の自由をも奪われていきました。これは吉田松陰とも同じです。政治は権力と結びついていますから危険思想となりました。

時代を経てその後の歴史をよく推察すると、結局は自然を破壊して快復できなくなり現代の環境問題を生みました。対処療法の限界値を超えて、現代は打つ手が次第に失われてきています。温暖化をはじめ、公害、宇宙ゴミなど始末に負えません。

一部を豊かにするために、別の場所へ負担を押しつける、今を豊かにするために、未来を犠牲にする。これは部分最適をし続けたことで発生した人類の選択ミスとも言えます。だからこそ、今こそみんなで全体快適に取り組む必要があると思います。

それを一人一人の暮らしから見直すというのが、私が提唱する暮らしフルネスの実践です。環境問題は人が起こしていますから、一人一人の意識を変えていくことで解決していくというものです。自分が全体快適な暮らしをしていくことで、世の中全体も好循環をつくりだしていく。

自然から遠ざかるのではなく、自然と近づき共生し、少しでもいのちや全体が好循環するように小さな日々の暮らしを調えていくということです。私も中江藤樹と同じように、あまり政治や権力には興味がなく日々の小さな実践こそ大切だと感じています。

極端な取り組みは、その反対をつくります。結局それを繰り返していたら、同じ穴の狢のようになってしまいます。仕合せではなく、競争や比較になって自分を見失うこともあるものです。

自然の循環やいのちのリズムに合わせていく方が偉大な螺旋の影響をいただき大河のような流れを味わい安心するのも自他一体の境地です。

引き続き、徳が循環する経世済民を目指し色々と学び直していきたいと思います。

お山は国の根本

「山林(川)は国の本なり」という言葉があります。これは江戸時代の経世家、思想家、陽明学者でもあり当時の治水山林事業の第一人者でもあった熊沢蕃山のよく使う言葉です。

これはお山こそが国の根本であるという意味です。それ以外は末であるということです。まさに本末転倒は、どの時代でも発生するものです。それが人間の特性や欲望、視野狭窄になってしまう部分です。

私はこの熊沢蕃山を深く尊敬していて、この人物のことを深めたときがあります。中江藤樹との問答も大好きですし、後世には吉田松陰にも大きな影響を与えたといいます。

この山林(川)は、国の本なりと熊沢蕃山が著書で述べたところをいくつか抜粋します。

「それ山林は国の本なり。春雨五月雨は天地気化の雨に候。六七月の間には気化の雨はまれにして、夕立を以て田畠を養へり。夕立は山川の神気のよく雲を出し、雨ををこすによれり。山は木ある時は神気さかんなり。木なきときは、神気おとろへて、雲雨ををこすべきちからすくなし。」

この神氣というのは、まさにお山が産み出す循環のことです。それが国の根本であるとします。

「山川は国の本なり。近年山荒、川浅くなれり。是国の大荒なり。昔よりかくのごとくなれば、乱世となり、百年も弐百年も戦国にて人多く死し、其上軍兵の扶持米難儀すれば、奢るべき力もなく、材木・薪を取る事格別すくなく、堂寺を作る事もならざる間に、山々本のごとくしげり、川川深くなるといへり。乱世をまたず、政にて山茂り川深くなる事あらんか。」

ここでは経世済民と自然との共生こそ国の根本であるといいます。

「当時国に深山多もち給ふ大名は、山の運上多して一旦はよきやうなれども、山をもち給ふことは大事のもの也。山川は天下の源也。山又川の本也。古人の心ありてたて置し山沢をきりあらし、一旦の利を貪るのは子孫亡ると也。国中こぞりてかくのごとくなれば、天下の本源すでにたつに近し。」

お山の自然資本の元本を食いつぶすことが如何に危険なことか、自然の自然回復力や再生力を超えて目先の利益を追いかければ世の中の循環は絶えてしまうと。

「日本国中山つき変ぜば天下乱るべし。今山林つき、沢埋れたるは五行かけ五臓破れたるがごとし。ことごとく尽て変ずるといふ道理はなし。十に七八尽て、ようよう九つに至らんとする時、天下乱るべし。」

山林が壊れたら、心身が壊れるのと同じになると。自然の循環は少し崩れ出したら加速度的に崩れると。だからこそ、お山が天下の根源であるといいます。

つまり国があるのは、お山があるからでそれが破壊すれば自ずから国も亡びると説きます。これは非常に偉大な洞察であることがわかります。

今の時代は、どこから環境問題に関わればいいかとそれぞれに学者は述べます。しかし、よくよくお水の流れや循環を辿り洞察するとそれは「お山」からであることは一目瞭然です。

源流から治していかなければ、循環は調いません。

自然の快復力を最大限活かし、地球が喜ぶようにお水が見事に生態系全てを丸ごと循環して浸透していくように場をつくること。ここからです。

私が熊沢蕃山を尊敬するのは、天地自然を丸ごと師匠として學ぶ生き方と姿勢です。まさに徳が循環するということがどのようなことかを自明自覚されていました。

最後にこういいます。

「其本をよくせずして、末にての才覚は何としてなるべく候や。」

意訳ですが、根本根源を治さずに末端でいくら能力を出してもどうして問題が解決するのかと。「川だけ(部分最適)だけで観ず、上流のお山(根源)を見よ」という声ではないかと。

ということで、明日から妙見神社境内とお山の診断、そして明後日の山の日は霊峰英彦山の守静坊にて仙人苦楽部を開催します。

経世済民や徳積循環を実践する同志、仲間たちとどのように大地を再生することでお水が循環するかを仙人と共に學びます。

家の甦生

日本全国には空き家が増えています。しかし空き家があっても新築を建て続けます。これは現在の建築業界の仕組みとビジネスモデルが新築重視で組み立てられてきたからです。そもそも高度経済成長とは、大量生産大量消費モデルです。消費あってこその生産ですから、消費するには古いものを壊して新しく建てるのが一番です。しかしこの問題点は、部分最適や対処療法でのメリットを優先するあまりそのメリット以外の価値が消失していくことです。

古民家であれば、その場所の景観や配置、また暮らし方など連綿と長い歳月、知恵として継承されてきたものがあります。それは家の中の暮らしの痕跡にも残っています。

現代は、みんな西洋化された便利な暮らしが基準になっていますから金太郎飴のようにどの家もどの建物も間取りもかつて続いてきたような暮らしが感じられなくなっています。

新築を建てればほとんど手入れもせずに、数十年で突然壊れて建て直しを提案されます。その点、伝統的な古民家は少しずつ壊れていきますからその都度のお手入れがいります。しかしそこでお手入れすることで愛着が湧き、また技術も残り、時代の変化や暮らしの小さな折り合いをつけていくことができます。

日本的な精神で暮らしをしながら、現代に少しずつ合わせるという和魂洋才ができるのです。

家は本来は、日本人の先生として機能してきました。その先生として役割が失われた現代では子どもたちが安心して育ちにくい環境になってきています。家が先生というのは、家が暮らしを伝承し、そして家が伝統を継承するものという意味です。

実際に私が手掛けた古民家では、囲炉裏があり井戸があり、建具などもむかしの繊細で弱いけれど柔軟で強い和紙や畳など、数々の自然の叡智を活かした家具、また床の間や仏壇、神棚やおくどなど様々な場所を神聖に保つ智慧。日本人の生き方が家の家風に現れていました。

古民家を遺すことは、暮らしを伝承していくことと同義です。

引き続き、色々とご縁あるものから徳を甦生していきたいと思います。

草取り行事

昨日は、無事にむかしの五穀田の草取り行事を仲間たちと一緒に無事に終えることができました。無農薬の田んぼなのでみんな素足で入り、和気藹々を土が冷たいと喜んで草取りしていたのが印象的でした。

自分は左膝を傷めていて歩けないので田んぼには入れませんでしたが、表面の見た目にはわからない田んぼの奥深くにたくさんの草が生えていて風通しが悪くならないように除草していただきました。今年は3回ほど、田んぼで草取りをしましたが入るたびに大きな発見があります。

いよいよ田んぼは、これから出穂する時季に入ります。田んぼ一面に稲の花が咲き、神聖な場ができてきます。稲の花は風媒花といって、花粉を運ぶのに風を利用します。自家受粉ともいいます。稲は夏の暑すぎず涼しすぎない絶妙な風に見守られながら花が一つ一つ咲いていきます。この花が開くのは晴れた日の午前中、一般的には午前9時から11時頃で、その時間はわずか30〜60分ほどしかありません。しかしこの短い時間におしべの先にある葯(やく)が裂け、花粉が放出されその花粉はすぐ近くにある同じ花のめしべにつき、受粉が完了するという流れです。そして受粉すると花はすぐに閉じ、その中で受精が始まり、やがて一粒のお米へと育っていきます。この約1時間の奇跡が種をつくります。連綿と数千年以上、続けてきたことで種になり私たちの主食となっているのです。

そしてこの時季に稲は土中から大量のシリカ(ケイ酸)を吸収していきます。土の中の微生物が稲の根にびっしりとはりついて発酵し、鉱物を分解してシリカをはじめ大量のミネラルを吸収するのです。この成分が循環を促進し古来から不老長寿の成分としていのちを支えます。

稲にとってもっとも種の輝きを放つのがこの出穂や開花の時季です。

草取り行事の後は、みんなで本場のマサラ、インドスパイスカレーの体験しながら学び合いました。スパイスを選んでそこから調理する。調理の当たり前に氣づく大切な時間になりました。お腹ペコペコでしたので、みんな最幸の笑顔でモリモリ食べました。持ち寄った100年ぬか漬けや、キムチ、和楽のお庭のお野菜の塩漬け、差し入れのシャインマスカットに汲みたての井戸水や竈ごはん。子どもたちが賑やかで音楽あり祈りありと、今夏の素敵な思い出になりました。

暮らしフルネスの実践はあらゆるいのちの循環と共に生きる先人の智慧をこの時代でも甦生して結んでいくことにあります。経済活動も大切ですが、自然の循環やリズムの一部になって心身を安らぎ、場を調えることも大切な経世済民活動です。

今では忙しいことが当たり前になっていますが、ほんの少しだけでもその知性を休ませ、自然の循環と共生し貢献しあう一部になってみる。そのことで、忘れてはいけない懐かしい何かが甦生していくものです。

どんな時代に産まれてきたとしても、子どもたちや子孫たちにどんな未来を譲り遺していきたいか。

その答えを引き続き、場を磨きながら調えていきたいと思います。