甦生の仕組み

現在、古民家甦生に取り組んでいますがいつもこれが最期と取り組んでいますが気が付くともう何軒も取り組んでいます。いのちがあるものをいのちがあるがままに甦生するのは、自分のいのちもそこに使い切っていきます。別の言い方では、真心を全身全霊で用いるため心身気力を膨大に使うため疲労もかなり出てきます。

私の場合は、家と同期して家の気持ちになって取り組みます。家がそうしたくないと言えば、家に合わせて工夫する必要があります。また家をどう尊重しその家の徳やすばらしさを発揮できるかを見つめては家が引き立つように配慮していきます。

その分、職人さんや業者さん、周囲とのやり取りも大変になります。家の声を伝えているだけでも、周囲からすればそれはあなたの思い込みではないのかや、個人的な主観や趣味で意見を述べているのかと勘違いもされるものです。

物として扱わず、いのちとして取り組んでいるからこそそれが弱く脆いからこそ壊れないように痛まないようにと心を砕きます。また同時に、今までのものを別のお役目として甦生させていきますから特にそれが単なる住居ではなくお店などの目的に代わる場合はさらに治し方が異なります。

以前と同じに修復したから甦生したのではありません。今を生きる同じ時代を歩む存在として未来へ向けて一緒に変化することが甦生です。

一つの役割が終わり、新たな生や場を生き次の役割が担えるように手助けするのです。

家が喜ぶように甦生に取り組んでいきたいと思います。

徳の循環

回向(廻向)という言葉があります。これは語源はサンスクリット語の「Pariṇāmanā」(パリナーマナー)から来ている言葉です。この言葉は「転回する」「変化する」「進む」という意味になります。この「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)が合体した言葉で私の解釈では「自分自身の積み重ねてきた徳を循環する」ということではないかと思います。

また仏教では先祖供養やご祈祷の時に、回向文(えこうもん)というものを最後に詠みあげます。これは先ほどの徳を循環させていくことですが「功徳を回向する」ともいいます。功徳はサンスクリット語の「グナ」を語源とするそうですがこの言葉にはもともと「幸福」「神聖」「清浄」の意味もあるといいます。つまり功徳の循環が幸福であり清浄であり神聖なものであるということでしょう。

回向文はこうあります。

「願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい) 我等與衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)」

これをそのまま読み上げると以下のようになります。

「願わくは この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを」

徳を積み、徳がめぐることこそが仏の目指した道であるということでしょう。

まさに私も仏陀の道はこの徳の循環にこそあると思います。仏陀がその歩んだ道の最期に弟子たちに語り掛けたことを記したお経があります。それを大般涅槃経といいます。そこには、「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」と説きます。

私の意訳になりますが「もしも皆が同じ道をこの先も歩んでいくのならこの世は無常であるからにして永遠に徳を積む精進をするといい」と諭したのではないかと思います。変わらないものと変わるものがあることを死の直前に示すのです。

この世は変化し続けていきますが自分はその変化の真っただ中に存在しています。たとえ自分に直接的な見返りがなくても、いただいている偉大な御恩がある。そして子孫や未来のために少しでも「徳がめぐる(回向)」ようにしていくことが最も大切であると。これは当たり前のことですが、資本主義の価値観や人間の私利私欲の人工的な社会のなかではなかなかこれはできないものです。

引き続き、ブレることなく流されることもなく仏陀の道に見守られることに感謝して何が徳を積むことかを誰かに語るのではなく脚下の実践で真摯に伝承していきたいと思います。

ありがとうございます。

価値観とは

世の中の価値観というのは、その時代の価値基準を反映させたものです。例えば、戦国時代であれば、戦国時代の価値観があり乱世の価値基準で世の中が反映されます。もしも今の時代のように経済時代の資本主義が隅々まで行渡るのであればその世の中は資本主義の価値基準が反映されます。

しかし世の中の主流の価値観の外に居るような離れ小島で文明と接してこなかった国などを訪問すると、今の自分たちの価値観が異なっていることに気づいたりするものです。

北朝鮮なども訪問したことはありませんが、きっと別の価値観で国家が形成されていて私たち日本に住んで当たり前になっている価値観では理解できないことがたくさんあるように思います。先日、訪問したスリランカの先住民族なども資本主義とは異なる価値観で暮らしていましたが今では資本主義の価値観に呑み込まれはじめていました。

結局、人類というものはいつの時代も一つの価値観で世界を統一していこうとするものです。それが宗教にも色濃く反映されます。それはその価値観の方が一部の人たちにとって都合がよいからというものがあります。統治するというのは、価値観を統治するということなのでしょう。人間の価値観こそ、人間の正体ともいえます。

そしてこの価値観の統治は、それぞれの組織でも行われています。それはそれぞれの目的により異なるものです。その価値観の違いがぶつかり合い、時には戦争を引き起こしています。人間の使う平和というのは、言い換えれば古いそれまでの価値観を毀し、それまでとは新しい価値観を創造したときに使う言葉なのかもしれません。

歴史を省みると、素晴らしい価値観もたくさんありました。いのちを活かし、共に生き、助け合い安らかに徳を積んでいくような調和を優先する価値観です。どのような価値観が本来の人間が原初から持っている価値観なのか。赤ちゃんを観たり、人間性の素晴らしい人たちに出会うと気づくものです。

子どもたちや子孫たちへ、価値観とは何かを伝承していきたいと思います。

忘己利他

忘己利他という言葉があります。これは文字通り己を忘れて他を利することをいいます。これは天台宗の祖、最澄の学生を指導する書物に記されます。忘己(自分)のことは後にして、利他(他者)を幸せにする行いをする言葉です。つまり我欲が先に立つような生活ではなく常に他の人のためにとの心をもっている人になれというのです。

この自己、自分、これは「我」ともいいますがこの我と字は、「我」は刃の部分がのこぎり状を呈している一種の古代兵器の甲骨文字から成り立つものでその意味は武器を持って自分を守ろうとする姿です。

自分を守ろうとばかりするのではなく、相手をまず思いやろう、それこそが慈悲の実践であるというのです。

いつも相手のことを思いやる人は、丁寧に話を聴き、相手の心配をします。これは徳を積む心と同じです。日々に、徳を積みたいと思っている人は徳の循環がさらに発展して好循環するようにと常に意識をして日々に取り組みます。例えば、自然界がすべて周囲と関係を結び合いお互いに助け合いながらいのちが充実しあう場をつくっていくように、同じ心で共生と貢献を繰り返します。

徳も同じく、それぞれの徳が活かされるようにと常に心に定めては徳が循環することに感謝して徳を喜ばせていきます。

思いやりも同じく、いつも心の平安や喜びや仕合せがありますようにと祈るように誰に会ってもどんな状況でも思いやりを積み重ねていくのです。

何か困っていることはないか、どうすれば人々が喜んでくれるか、自分が感謝を循環させ恩送りできるものはないかとご恩返しの日々を歩んでいくのです。この忘己利他の別の言い方では報徳報恩ともいうのかもしれません。

人間性を高めて磨いていくための道筋として、どうありたいか、どう生きるかという一つの指針として忘己利他があるということでしょう。

この忘己利他の真逆の言葉が、私利私欲というのかもしれません。似た言葉には我利私欲や損得勘定ともいいます。

一隅を照らすとは、忘己利他に生きよということかもしれません。

徳が循環する経済をまず自分の居るところから実践し照らしていきたいと思います。

有徳の志

富者有徳、富国有徳という言葉があります。もともと富者とは何か、その定義が有徳であるということです。これはどういうことかといえば、徳が積み重ねられることこそが真の富であるということです。この富という意味は、現在は大金持ちや資産家というイメージになっています。

この富の字を分解すると会意兼形声文字 です (宀+畐)となります。これは「屋根 (家屋)」の象形と「神に供える酒樽の意味を持ち、「満ち足りている」ということ、そして家が豊であるということです。

つまり家が豊かになっていくのが富であり、それが国家であれば国家が豊かに満ち足りていくこと、そして個人であれば家が豊かに満ち足りていくことを意味します。そしてこの有徳というのは、個人であろうが国家であろうがみんなが徳を積めば豊かさはさらに満ち足りていくという意味です。

むかしの伝統的な日本人は、貧しいようにみえて貧しいのではなくただ質素であったといいます。これは現代のように単なる貧乏金持ちという分け方ではなく、徳を積むから質素であったことが容易に想像できます。

つまりお金があるかどうか、稼ぐかどうか、競争に勝つかどうかのような今の消費経済ではなく本来の経世済民、つまりは道徳と経済を一致させる道をそれぞれが実践していました。それを有徳といいます。

この有徳の実践があってこそ、年数を重ねていけばいくほどに富は満ち足りて豊かになっていくのです。自分の時代で使い切っていこうとしたり、先人の貯えた徳をすべて放出していこうとしていたら国家も個人も本当の意味で貧しくなっていきます。

先人たちはそうならないように、徳を失わず徳を穢さずに徳の実践にそれぞれが努めて精進していきたのでしょう。その御蔭様で今の日本国があり、自分の家があるのです。

改めて今の時代をよく省ると、みんなで徳を目指すというような気風はあまり感じません。それぞれが日々に追われ忙しく余裕が失われているようにも思います。

だからこそ敢えて目覚めた人たちから先に、子どもたちに徳を推譲していけるように何よりも徳を優先し、徳を循環させようと自他の喜びに集中し勇気を出して実践していく必要があるように私は感じます。

まずは自分から有徳の志を実践していけるように精進していきたいと思います。

主食の甦生

私たちが日ごろ食べているお米にはとても長い歴史があります。特に近代においては、収量の確保からあらゆる食味がいいお米が多数開発されて私たちの食卓のお米の味は数々に進化してきました。

コシヒカリという銘柄があります。この開発の歴史も、収量重視から品質重視への転換でその当時の人々によって開発されてきたものです。最初は欠陥品種として病気の弱さや倒れやすさなども指摘されましたが、それを栽培方法などを工夫することで改善し、今では新潟のお米の代表となっています。そこにも関わった人たちの歴史があり、特に魚沼では風土と一体になってコシヒカリを見守り現在では日本の農家の約40パーセントがこのコシヒカリを栽培しているともいいます。

このコシヒカリという名前は、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられたといいます。その名付け親である元旧新潟県農業試験場長の国武正彦(福岡県出身)が「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光」(冬には雪に閉ざされてしまう越の国にあってコシヒカリが越の国を輝かせる光となりますようにの意)」と和歌に詠んだことによるといいます。

同じ福岡県出身で、これから私たちがエミタタワ(笑みたわわ)の新たな品種の発展に取り組むのにとても参考になる人物であり、その生きざまや生き方にもこれからどのように日本のお米に取り組んでいけばいいかということも直観します。

もともと私も震災後から会社で無肥料無農薬でお米づくりに関わってきました。収量を気にせず、子どもたちの憧れるような生き方や働き方を目指し田んぼでの暮らしを充実させていきました。一般的に国が定めるような食味とは異なりますが、その美味しさは格別で今ではたくさんのファンがいて喜んでくださっています。

今回、福岡県朝倉市で復古起新してお米づくりに関わることにも深いご縁を感じます。

このエミタワワ(笑みたわわ)は、私の叔父さんが名付け親です。まず平成27年、農研機構との共同開発で研究段階にあった「羽919」という品種改良に着手し収穫1年目から羽919には他のお米にはない粘性・膨らみ・おいしさがあることに気づきます。そして翌年には「西海307号」へと名称を更新し、その後も改良を重ね続け、令和元年10月に農水省の品種申請の受理のもと「笑みたわわ」として誕生します。それを農薬・化学肥料一切不使用の安心でおいしいお米で、笑みがたわわに実りますようにと今まさにその志が世の中に出ていく黎明期です。

日本は、農家に対する政策を失敗してきた国だと私は思います。現在では、農家の担い手も減り、田んぼは化学薬品で傷み、現在の米騒動にあるように民衆の怨嗟の声も出ています。海外からのお米がこれから大量に流入してくるのも予測できます。

だからこそ、本来の日本人として私たちの主食をどのように大切にするかが問われる時代でもあります。子どもたちのためにも、今まで取り組んできたことをさらに磨き上げ、主食の甦生に挑んでいきたいと思います。

遊行の甦生

一遍上人という人物がいます。遊行宗の開祖の方です。別の言い方では遊行上人ともいいます。すべて捨て去る実践を遊行という言い方で求道なさった方です。その一遍上人の書いた書物などは亡くなる前にすべてご本人が焼いてしまったため残っていません。また「我が化導は一期ばかりぞ」と常に一期一会に生き切ることのみで残すということをしませんでした。

その後に、遊行上人を慕う人たちによって教義を定め組織化されて今に至ります。そしてその遊行の実践語録として後世の人たちが語り継いできたことで今の私も存在を知ることができます。

結局、物質的なものとしては残さなくてもその生き方や生きざまは人々の心にいつまでも残っていくということかもしれません。もしも歴史でお会いできるのであれば、ぜひお会いしてみたい人物の一人です。

そもそも捨てるというのは、今の時代ではデトックスという言い方もします。このデトックスは解毒を意味する英語の「detoxification」を短縮した呼び名で、体内から毒素や老廃物を取り除く言葉です。

日本では古来から、「穢れを祓う」という意識があります。これは神道の実践の一つで、心身を清浄にしようとするものです。日々に置かれた環境によって私たちは穢れがつきます。これは掃除であれば、何もしなくても埃が溜まっていくようにチリも積もっていきます。そのままにしておけば、害虫がわいたり、病気の原因になったり、家も傷みます。掃除やお手入れは、常に清浄であるために行うものです。

私たちは日々に学んだと思っていても、その学んだこと自体が知識だけが増えて実践が追いつかないとそれは毒にもなり穢れにもなるものです。本来は、体験して実践してみたものを知識として調和させていくのが學びの本質ですが現代のように先に知識ばかりが詰め込まれて分かった気になってしまうとさらに毒や穢れになって積もり積もっていくものです。一度、そうやって貯えた知識や毒は次第に執着となり本来の自己の素直さや正直さを濁らせていくものです。

現代の環境は、あまり清浄を保つのに相応しいものではありません。消費活動を発展させるばかりでゴミが増え続けているような時代です。また忙しい日々に追いかけられ、心を静かにゆったりと落ち着いて休む時間も取れなくなっています。

しかし普遍的に人間の幸福や豊かさを人々は求めては苦しむものです。遊行上人はこう言います。

「無為の境にいらんため すつるぞ実(まこと)の報恩よ」

そしてこのような和歌も語り継がれます。

「旅ごろも 木の根かやの根 いづくにか 身の捨られぬ 処あるべき」

どのような思いを旅をしていたのでしょうか。きっと一期一会でいるためにあらゆるものを捨てていたのではないかと勝手に空想してしまいます。かの仏陀も万物は変化しないものはこの世には一切ないからこそ、怠らず精進せよと説いたといいます。

何が精進であるか、その一つがこの遊行であると私は直観します。

遊行をこの時代に甦生し、懐かしく新しい真の豊かさを試行錯誤していきたいと思います。

 

道徳とは何か

この二日間、仲間と共に遊行を行いました。中国や台湾からの方も参加して、お山を歩き、いのりを味わいました。一期一会のめぐりあわせに豊かさと仕合せを感じました。

人はそれぞれの道をそれぞれに歩むものです。

しかしその時、一瞬のズレもなく絶妙に出会います。お互いに必要なタイミングで最幸の瞬間に邂逅するのです。それをご縁ともいいます。ご縁は、人とだけではなく場とも出会います。天候、光の加減、星の運行、つながる歴史、とても書ききれないほどの膨大な奇跡の連続です。

それを感じて生きる人は、常に一期一会の生き方をしているともいえます。そもそも修験道をはじめ、すべての道は生き方のことです。どのような生き方をしているか、その実践や実践者たちの背中には學びの原点や根源があるものです。

そしてそれは同じ場、同じ時、同じご縁を味わい盡す時にこそ顕現するものです。

道をどのように歩むのか、それが學ぶということの本質です。

そして徳というのは、その歩み方のなかで何を最も大切にするかということです。

例えば、素直であること、謙虚であること、正直であること、思いやること、助け合うこと、真心でいること、心身を清め続けることなどが徳になります。

道徳というのは、本来は言葉や単語で理解し説明するものではなく実践を通して學び続けていく人間のいのちのいのりです。

いのちのいのりには、答えはなく生き方があるだけです。

生き方を學ぶ人たちが、いつの時代にも道を結んで螺旋のように歩んでいきます。

一期一会は、真の幸福の道ということでしょう。

このまま丁寧な暮らしを続けて、最期の瞬間まで人間らしく生きていきたいと思います。

手の持ちよう

人の手というものは色々なことができます。いのちを扱うのも手ですし、奪うのも手です。この手を通して私たちは心を見つめます。料理などはその最たるもので、自分の手を通して食事をつくります。その手はどのようにいのちを扱っているのか、そしてどのような心でいるのかが味に出てくるものです。

私はよく炭を使いますが、炭火の火加減や焼き具合などは手を通して実感しています。目で見ているというよりは、手で観ているという感覚です。舌は味を感じるものですが、実際には手で味を観るという具合です。

手は、他にも色々なことを感知できます。私は、たくさんの石を扱うからか石の持っている波動や石の持つ性質なども触ると感じたりします。他には、道に迷ったり自分の行きたいところを確認する時も手かざしのように手を向けて位置を確認したりもします。

指先からあらゆる情報を取っては、そのものの使い方や活かし方を感じます。この今は、パソコンのキーボードを打ち込みますがその指先には心やいのちが宿りこの文字を綴ります。

指先には心が宿っていて、その心をどのように感じるかでまた手の使い方も磨かれていくのです。

この世界は、人間がこの手の力を活かすことで創造されてきました。この手が世界を創ったともいえるのでしょう。

その手を何に使うか、その手で何を磨くか、手の持ちようですべては変化します。

自分の手の持ちようは、まさに心の持ちようです。

手と心を合一して、丁寧にお手入れをしていきたいと思います。

徳に報いる

人間は、今ある徳はどうやって頂戴したのかと突き詰めると必ずその徳に報いようと考えるものです。徳とは何か、それはいのちのことであり「この世の全ての存在」とも言えます。その存在そのものに感謝して生きていこうとする生き方のことです。

この生き方を生涯大切にしたのは、私も心から尊敬する二宮尊徳先生です。こういう言葉を遺しています。

「遠きを謀(はか)る者は富み、近きを謀る者は貧(ひん)す。夫れ遠きを謀る者は、百年の為に松杉の苗を植う、まして春植ゑて、秋実のる物に於てをや、故に富有なり、

近きを謀る者は、春植えて秋実法(みの)る物をも、猶(なほ)遠しとして植ゑず、只(たゞ)眼前の利に迷ふて、蒔かずして取り、植ゑずして刈取る事のみに眼をつく、故に貧窮す。

夫れ蒔かずして取り、植ゑずして刈る物は、眼前利あるが如しといへども、一度取る時は、二度刈る事を得ず。蒔きて取り、植ゑて刈る者は歳々尽くる事なし、故に無尽蔵(むじんざう)と云ふなり。

仏に福聚海(ふくじゆかい)と云ふも、又同じ。」

そして徳に報いるというのは、天地人の三徳に報いるともいいます。私なりの解釈で今でいうのなら、「自然を尊敬し、場を調え、自己を磨く」ということでしょうか。調和というものは、徳に報いるときにはじめて顕現するものです。

本来、いのちの幸福は調和にこそあります。調和というのは、自分も自然の中に一体になって存在することです。そして調和は眼前の損得を追いかけるような状態では観えてきません。競争社会で比較され、差別が優先する社会では目先にばかりに追われる忙しい心になりやすい環境があります。

しかしよく考えてみて、自分がなぜ今、活かされているのか、どのような徳の恩恵をいただいているのかを思えば何をすべきかは自明するものです。

生き方というのは、それぞれの徳に報いることで磨かれていきます。

時代が変わっても、普遍的な道は変わることはありません。先祖への感謝と子孫への推譲を祈り、日々の徳積に精進していきたいと思います。