フォロアーシップ

フォロアーシップという言葉があります。これは組織のリーダーを支える存在のことをいいます。リーダーとは何か、それは組織のトップということです。しかしこれは、だいぶ刷り込みがあるように私は思います。

例えば、人間の身体というのはすべての臓器や筋肉などが調和して循環して成立しています。そこでは脳がリーダーなのか、心臓がリーダーなのかと考えるのかもしれません。しかし実際には、全体のそれぞれが自律的に機能して全体最適に働き生きています。つまり肉体において特定のリーダーなどありません。それぞれに得意を活かして調和しあうのです。さらに、もしも体の一部が欠損したりすれば、他の機能が代替えするといいます。まさに組織の本質を身体は実行しています。

ではリーダー不在だからリーダーはないのかといえばそうではありません。一部の臓器が弱れば、他の臓器がフォローします。つまりフォローしあって存在しています。まさにこれはそれぞれが全体でリーダーをするというフォローをするのです。

フォロアーとリーダーはまさに表裏一体なのでしょう。そう考えてみると、実際のリーダーはフォロアーであることがわかります。フォロアーをすることがリーダーになるのです。その役目の一つにみんなが働きやすいように謙虚に自分の役割に尽力するというのです。

実際には、みんなが我先にと主張ばかりを繰り返せば居心地はよくありません。調和というのは、それぞれに分を弁えていますしそれが心地よく感じます。仲間と一緒にあることや、助け合うこと、安心することに仕合せを感じるのです。この仕合せはまさに全体調和の感覚で自然界が最も循環するときの真理です。

個が前にでて、個の欲求を満たすばかりの社会通念が蔓延っているとだんだん人としての仕合せというものもまたぼやけていくものです。よく会社のトップが孤独になっていたり、大都会の人たちが孤立の寂しさを感じるのはこの歪んだ個人主義の影響が大きいように思います。

誰かがやってくれる、リーダーがやったらいいというフォロアーなど存在しません。フォロアーは、自分も一緒になって自律的に主体的に自分事として調和のために尽力する人たちが自然にその境地に入っているものです。

つまり真の意味で、自己主張ではなく思いやりや真心、尊重や配慮を心を籠めて丁寧に主体的に生きることの実践をしているということ。シンプルに言えば、「自立」して「共生」しているということでしょう。

自立と共生やいのちの喜びです。

子どもたちや子孫へ、和の本当の意味や先祖が代々大切にしてきた御蔭様や見守り、そして日本の心を伝承していきたいと思います。

マッチング

世の中にはマッチングというものがあります。これは適切に組み合わせることです。この逆をミスマッチともいいます。不思議なものですが、人間をはじめすべての生命、地球や宇宙にある法則はこれで動いているともいえます。

それはあらゆる対象にも影響します。

花が咲けばそこに蜂や蝶が飛んでくるのもマッチングです。しかし寒波がきて花が咲いても虫が動かなければミスマッチです。人間においては、ビジネスをはじめ恋愛やあらゆる取り組みもまたこのマッチングで実現しています。

そもそも人のニーズというものは、お互いが適切であれば問題はありません。これが適切でないと問題が色々と発生します。どちらかが無理をしたり我慢をしたり、あるいはニーズが異なれば行き過ぎれば紛争や戦争になります。

世の中のことを少し冷静に観察していると、組み合わせというのは絶妙に存在しています。どれとどれを組み合わせるか、まさにこれは総合芸術です。しかし自然はそれをいとも簡単に実現します。環境が用意され自由であれば、自ずから居場所に移動するのです。

一期一会のタイミングで適切に出会い、そしてその節目を終えたらまたその時になるまで離れます。

私たちは毎日、ずっと組み合わせばかりを生きています。組み合わせが代われば、また別の組み合わせになります。万華鏡のようにあらゆる形にマッチングを変化させながら日々の物語を生きるのです。

マッチングしているかどうかを直観するのは、お互いの目指す道が重なる時です。大切な思いを丁寧にお手入れして醸成していきたいと思います。

遊行の喜び

昨日は、英彦山で遊行を行いました。遊行はいつも一期一会で、その時々に集中します。その時々というのは、その時々を五感がすべて感受している状態でいるともいえます。

私たちの身体を通る風も一期一会、そして光も感じ方もまた唯一無二です。私たちは脳で補正して同じものだと実感します。しかし同じというのはこの世には存在しません。しかし同じものを感じるということはできます。それは同じではない中にある同じであるという感覚です。

これは音も同じです。同じ音は出せません。毎回、異なる音がでます。これは声も同じです。五感はそれを直観的に理解するものです。

現在、AIなどが発展して情報社会の中ではあらゆる文書の中から理想を見出し言語化します。しかもAIがさも悟りの境地に入っているとまでいう人もいます。確かに人間らしさがないもの、欲が消えている存在を悟っているとも見えるものです。

しかし人間には、長い年月をかけて連綿としてこの肉体や精神に流れ続けている先祖代々の力というものがあります。この智慧や感覚はAIにはありません。これは何度も何度も体験し生まれ変わり、魂も成長し、容れものを替えながら今を生きています。そしてこれは、全宇宙の一部として存在します。

それぞれにはそれぞれに唯一無二のお役目があるものです。同じものは一つとして存在しません。だからこそ、私たちは一期一会であることを尊ぶのでしょう。

遊行の豊かさや仕合せは、言葉では説明できません。次回の遊行もとても楽しみです。

お山の智慧の甦生

私たちが暮らしに必要なお水は何処からやってくるのか、それはお山からです。どの山からかというと標高が高いお山です。標高1000メートルを超えるお山はまさにお水の貯蔵庫であり水源となります。

英彦山の守静坊に住んでいると、日々にお水の流れを感じない日はありません。一年を通して、お水がほとんど耐えることがなく沢を潤します。滝のように流れ濁流の日もあります。昨年は、もっともお水が少なく井戸も貯まりがよくないこともありました。しかし、水気は常にお山全体を包みどのような状況の時でもお水がなくなることはありません。

このような標高の高いお山には人はほとんど住んでいません。自然が厳しく食料の確保も難しく、暮らしに多くの智慧が必要になります。しかし、水源を守るには人のお手入れが必要になります。例えば、倒木を片付けたり枯れ葉や枯れ木を片付けたりして水路や水脈が清浄であるように配慮します。

他にも人が住んでいないからと誰かがよくゴミを捨てていきます。宿坊周辺もこの数年片づけていますが数十年前の空き缶やタイヤなどの粗大ゴミはまだまだたくさん出てきます。片づける大変さよりも捨てる便利さの方が勝っているのでしょうが、水源のある神聖な場所にゴミを捨てる人の気がしれません。

そのお水がなければ、私たちはいのちを育む美味しいお水が飲めないのです。お山に来て、お水の大切さを伝道することは生活即信仰の生き方を伝承する大切な機会です。

お水をより感じられるように、色々な智慧を工夫していますが有難い水源がこの場所にあることで地域全体が豊かになっていることに感謝ばかりを感じる日々です。

これからわさびをはじめ、様々な薬草を植えて共生していきますがお山の智慧を甦生していきたいと思います。

不老不死と仙人修行

不老不死という言葉があります。私は幼稚園の頃、この不老不死の言葉を知りその薬をつくることを夢に語っていたことがあります。エジソンに憧れ、発明王になり不老不死をつくると夢見たのです。

その当時は、身近で大切な犬が亡くなり死について色々と向き合っていたからかもしれません。大人になると、死は自然の一部であり老化もまた自然なことだと受け容れていきましたが不老不死という言葉には色々と思うことがあるものです。

もともと不老不死というのは、神仙思想が大きな影響を与えます。これは仙人の思想ということです。中国の書物には、「老は朽なり。老いて死せざるを仙という。仙は遷なり。遷りて山に入るなり。故に其の字を制するに人の旁に山を作るなり。」(漢文:老朽也 老而不死曰仙 仙遷也 遷入山也 故其制字人旁作山也)とあります。

つまり永遠に若く、そして死なないのが仙人です。

現代、最先端科学ではナノ技術や遺伝子工学などが発展し寿命を伸ばし、老化しない方法などが開発されています。いつまでも若さを保ち、死ぬことがなくなるというのはすぐに老いて病気になって死ぬ人類からすれば夢の技術でしょう。

しかし少し考えてみると歪な夢であることがわかります。もしもみんなが不老不死になれば、この世の人口はどうなっていくでしょうか。増え続けて死なないのですからあっという間に100億、1000億人になります。食料は枯渇し、地球が人で溢れます。

また歳をとらないことがいいことになると、世代交代がいいこととは思いません。周囲は老化し変化していくのに、人間だけが変わらないという情景はどういうものでしょうか。ライフスタイルをはじめ食生活も偏ってくるのはすぐに予想できます。

そもそも仙人というのは、住んでいる世界が異なる人々のことを言うように思います。その永遠の若さとは、瑞々しい感性や徳性、そして不死とは死をも超越している泰然自若として悠然としている山のような存在になっているということではないかとも私は思います。

権力者や富裕者が願うような目先の欲望の果てにある永遠の若さや不死ではないのです。

私が尊敬していた鞍馬山のメンターはまさに仙人のようでした。人は学び続ければ永遠に若く、心を磨き続ければ永遠に生きる。

よき仙人修行を楽しんでいきたいものです。

法螺貝の調律

調律というのは奥深いものです。これは一つの才能ともいえます。もちろん経験や体験によってその調和音を見究めることができるものもあります。音楽においても、耳のよさが大きな影響を与えます。私の場合は、場を見究めることがライフワークですからそれも体験や経験によって後天的に磨いてきたものです。

耳を磨いていくのは、よい音をたくさん聴いていくことが大切なのはわかります。また同時に音は波動ですから、波動をたくさん受けて波動を体感した質量が影響を与えます。

現代は、ヘルツを測定できるものがあったり、相対音感になる材料、スピーカーなどの性能があがっていますから便利になっているともいえます。しかし、静寂などはかえって少なくなり静かな場所がなくなっています。人工的な音があちこちに溢れ、都会だと防音室で色々と音を聴き分けています。

しかし本来、音楽というのは無音ではありません。自然の中にいると、朝目が醒める前に太陽の光が近づいてくる音が響きます。鶏などはそれに反応して鳴いています。私たちの耳は、必要な音以外は消しているものです。

例えば、この時季は田んぼではカエルが大合唱をします。最初はうるさく感じても、ずっとその場所に住んでいると聞こえなくなるものです。携帯電話で話をすると、携帯はそのまま音を拾いますからあまりにもカエルの鳴き声が大きくてびっくりするものです。

カエルの中でも、カジカカエルなどは美しい鳴き声がするといわれます。川のせせらぎ、やや流れの強いところが多いですからザーザーと水の音が響く中で美しい甲高い声で一定のリズムで鳴いています。

美しい音を知っているというのは、美しい音が分かるということです。美しいものは自然の中にすべて存在します。私たちの身体をはじめ五感もまた自然の一部です。

だからこそ調律というのは、自然によって磨かれる感覚であることはすぐにわかります。自然農などを実践し、自然の調和を観続けているとなぜか調律も直観するようになります。少しでも不調和があると、そこに色々な不調和を戻す作用が発生するからです。

調律というのは、調整することですが何が自然かがわかるということです。自然は全体最適、全体快適ですから優先順位や好循環なども大切になります。

法螺貝の調律から学び直していきたいと思います。

法螺貝の門出

法螺貝の歌口を取り付けて最終仕上げをしています。この歌口は、吹奏のために唇を当てる、もしくは口に咥える部分、つまり吹き口のことです。この歌口次第で、音が柔らかくもなれば甲高くもなります。

また吹き口の穴の大きさや角度、そして穴の長さでまったく音が変わります。調律の難しさは、この微細な長短や太短、深浅などを貝の全体最適に合わせて設置していくことです。これも感覚でしかありません。

もともと息の吹き入れも個性があります。法螺貝だけをつくるのではなく、まず依頼者の方の人格、体格、性格などもすべて事前に傾聴して把握します。私は見ず知らずの人のものは料理も含め制作などもしません。基本は、ご縁のある方に一期一会で接するという生き方をしてきました。

大量生産大量消費の時代に、誰でもいいとなれば工場で廉価版でコスパとタイパのよいことを目指して取り組んでいくものです。

私の取り組みは、徳積であり損をし、時間をかけ、非効率などを優先して取り組んでいます。面倒くさいことを喜んで取り組み、丁寧に丹誠を籠めてその時々の一期一会に生きるのです。

かつての禅僧たちや暮らしを紡いできた伝統職人たちのように、自然の中にいて自然と共に生きて歩みます。

法螺貝の仕上げは、必ず依頼者と共に貝磨きを行います。耐水ペーパーで、海が波うつように丁寧に時間をかけて磨いて光らせていきます。コーティングではなく、磨きにこだわります。

そうやって磨いていくうちに法螺貝との関係性を築き、これからのパートナーとの一生を歩んでいく覚悟を定めます。ある意味。結婚のようなものかもしれません。

この法螺貝がどのようにその方を導くのか、そしてどのような音が自然を映し出すのか、さらにはその波動が仕合せを創造していくのか。いのるような気持ちで予祝します。

新しい法螺貝の門出、おめでとうございます。

無の音

法螺貝の調律は、何度も何度も吹き込んで調整していきます。その貝その貝の息の吹き入れで音は変わります。日頃は馴染んでいる貝で吹いていますから、あまりにも個性が異なるといい音を探すのが大変です。

私のメンターは、どの法螺貝でも一発で一番善い音を出します。その貝を持った瞬間、その貝に少し息を吹き入れた瞬間に身体と貝が馴染んでしまうのかもしれません。その境地に達するにはまだまだ精進が必要です。

もともと私の身体から発する呼吸もまた唯一無二のものです。同じ法螺貝でも吹く人が異なれば音も違います。その音も、どのような思いやいのりで吹くのかで異なります。また場所でも異なり、時間帯でも異なり、その時々の人々の想いでも異なります。

つまり音というのは、それだけ複雑な波動の影響を受けているということです。その音の調律はどのようなものか。例えば、「いい音」というものがあります。このいい音とは、いい音だと感じるということですがそれは音の性質のことです。

英彦山の山中で、心を研ぎ澄まし静かに水のせせらぎに耳を傾ける。すると、穏やかな風の音、鳥の声、空気の静まり、光のゆらぎ、あらゆるものを音で感じます。人はその音を実感すると、心が落ち着くものです。座禅をし、心身脱落すればなお一層、その場所には「いい音」が宿ります。

そういう音を知っている、いや自覚する人は自然に調律の本質が理解できているように私は思います。

音には、無の音というものがあります。

この無の音をどれだけの境地で得ているか、そこにはあらゆる経験や修行が必要です。音は素直であり、音の響きに嘘はありません。法螺貝というのは、その音の波動を響かせるものです。

唯一無二で一期一会だからこそ、法螺貝づくりは全身全霊です。

丁寧に丹誠を籠めていきたいと思います。

貝の神秘~法螺貝の学び~

昨日は、法螺貝を三神ほどつくりました。それぞれに個性や癖があり、作業は大変疲れます。特に硬い殻を切ったり削ったり磨いたりする作業は、どれも繊細ながら力が要ります。夜寝る時には、手の感覚が強すぎてなかなか眠れず、肩こりや眼精疲労、また筋肉痛やだるさもあります。しかしエネルギーを使っているからか、食欲はあります。

音の吹込みは、何十回、何百回としながら調律していきますがそれもまたどの音がこの貝の音かを感覚で近づいていきますがそれは自分の中にある調和でしかわかりません。感覚としては「しっくりくる」、あるいは「感動して音と魂が震える」、あるいは「音や波動の余韻や貝が喜んでいる」というものです。

これは言葉では説明できず、感覚の世界ですから一緒に法螺貝を制作していたらわかるかもしれませんしわからないかもしれません。よく調理や料理をするときに、自然農で育った野菜を丁寧に蒸したり炭火で煮込むとき透明になることがあります。その食材が熱と水と調和して透明になった瞬間、もっともそのお野菜が美味しくなりいのちが輝きます。

このいのちが輝いた瞬間を逃さず、そのまま石膏をつかって加工するのです。この石膏という素材もまた扱いが難しく、鍛錬と修練が要ります。

そもそも石膏というのは、硫酸カルシウムが主な成分の鉱物のことです。似ているものにセメントがありますが、あれは石灰岩です。どちらも鉱物を粉にし、水と混ざることで固まります。セメントは数時間ありますが、石膏は数分で固まります。この数分で固まるのですが、実際は固まり出してからは数十秒が勝負です。

その短い時間に最適な位置で、音を確かめながら設置しなければなりません。しかも固まってしまえば調律できませんからまた壊してやり直しです。焦ったら手元が狂いますし、時間をかけたらいいわけではなくここというイメージで一気に取り付けていきます。

巻貝をはじめ貝は地球の影響を受けてらせん状になります。貝は元々は捕食される弱い生き物でしたが、そこに鎧を持つようになり身を守ってきました。また成長の過程で、その身を大きくしていくなかで何度も貝を作り替えて進化していきました。巻貝は、上に伸び、巻くことで内部の成長に余裕を持たせました。その大きさになるには、海の状況、食べ物が豊富にあるかも決定付けます。

手元にある法螺貝も、海の場所が異なりますから一つとして同じものはなく巻き方も螺旋もその貝が成長しようとした姿になっています。

どのように成長してきた貝なのか、それは加工していると実感できます。さらに、時代や年数で硬さや柔軟性も異なります。若いものは、柔らかく化石ほどになっているものは硬くて脆いですが音は響きます。

音を通して、貝と対話しその貝がどのような生き方をしてきた貝か、そして生きざまがどうだったのかまで洞察できるものです。貝から學ぶことはたくさんあります。

丁寧に根気強く、貝と共に徳を積んでいきたいと思います。

法螺貝の神秘

法螺貝の修理や修繕を続けていますが、色々と貝の生態を同時に深めていると色々と感じるものがあります。改めてこの法螺貝のことを整理してみます。

法螺貝は、軟体動物門、腹足綱、吸腔目、ホラガイ科で英語ではTriton’s trumpetといいます。一般的に分布するのはインド洋、太平洋、日本沿岸などの温暖な海域に生息しています。近親にボウシュウボラなどもあります。

姿は殻の内部に住む軟体部分は淡い色をしており、足と触角を持ち蓋をもっています。生息するのは岩礁やサンゴ礁、砂地の海底、水深10~50mほどの浅い海域で見られることが多いといいます。

食べ物は肉食性で、主にヒトデやウニなどの棘皮動物を捕食、魚の死骸なども食べます。サンゴを食べるオノヒトデの天敵ともいわれ、海やサンゴの守り神にもなっています。

ヒトデを狙う際には、口の吻(ふん)を伸ばして体液を吸うという仕組みです。動画で観ましたが、見事にヒトでの肉の部分を食べていきます。

そして動きはゆっくり動き、昼間は岩陰に隠れていて夜間に活動することが多いといいます。法螺貝は人間の食用としても美味しいそうで、むかしから漁師さんに重宝されてきました。

しかし内臓はフグ毒と同じテトロドトキシンを含むこともあるそうで、食べられるのは身の部分だけです。

日本にいる巻貝の中では最大の大きさですが、世界では70センチほどの法螺貝もあったそうです。うちにはテングニシ科の世界最大のアラフラオオニシに法螺貝もありますが、それよりは少し小さめです。このアラフラオオニシは、生息域であるオーストラリア北部とニューギニアの間にあるアラフラ海 (Arafura Sea) に由来します。 つまり「アラフラ海」+「大きい」+「螺 (にし),、つまり「海生巻貝」という意味です。

貝によって、その音も異なりますし巻き方の螺旋構造も異なります。一つとして同じ貝はなく、一つとして同じ音もありません。

色々と新たな法螺貝をつくりながら、法螺貝の神秘を学び直していきたいと思います。