地球の暮らし

日子山弁財天に仙螺法螺貝を立て、むかしの五穀田の稲刈りを開始しました。これから10月10日にかけて少しずつ刈り取り稲架けして稲をじっくりと10日間ほどかけて乾燥させていきます。

もう周囲の田んぼは大型の機械で収穫がほとんど終わっています。傍で見ているとあっという間に数時間で収穫が終了していなくなります。今では田植えと稲刈りが機械化されほとんど田んぼでの作業はありません。収穫後はまとめてすぐに乾燥機にかけて袋詰めして出荷され市場に新米として出回り食べられます。

昨日は、ずっと高齢の両親と若い息子たちが手伝ってくれました。

3世代で一つの田んぼに入り、協力しあいながら稲を刈り、稲を束にしてそれを手渡して順繰りと稲架けをする。作業の間にこんな仕合せがあるのかと感謝の氣もちがずっと心に湧いていました。

そして今日からは徳積循環の結の仲間たちがあちこちから駆けつけてくれて一緒に銀杏拾いと竹取り、稲刈りと昨日と同じことをみんなでやります。お昼の銀杏御飯や秋の味覚で笑い合うのも楽しみです。

あぁ、一つの田んぼで、自然に一つに包まれた感謝の循環。

実際の作業自体は大変で身体も疲れるしへとへとです。しかし、心の充足感や安心感、その豊かさは言葉にならないほど得られます。

その正体は一体何でしょうか?  ふと静かに考えてみます。

それはご縁が実るなかでいのちが結ばれ一つに耀く星の仕合せのことではないか。

つまり「地球の暮らし」になるということ。

現代は、暮らしがあちこち分断されていて一つに繋がっていません。私たちが取り組む「暮らしフルネスでのむかしの五穀田の場」では暮らしの中で分かれていたものが、もう一度ひとつにつながった感覚が得られます。

ただ稲刈りが仕合せだということではなく、今、此処にある自然・身体・家族・世代・仲間・食べもの・時間・土地・場など無限の関係性が一つの営みの中で結び直されご縁が実ることに仕合せを感じているのです。イベントでは決して得られない、暮らしの中で一つにつながる感覚です。

日々に法螺貝を立て、一体何をいのるのか?

ここに私が取り組む「場道」の道の正体があります。道を続けていけば、暮らしになり、暮らしを続けていけば人類の未来が平らに和になっていく。

人類は大切なことを忘れないように如何に人としての道を歩み調和を保つかではないかと私は思います。

それは私の拙い経験と短い人生で実感するのはやっぱり暮らしありきです。

特別なことをしているのではなく、一人一人が平和を暮らしにしていくということ。

頭でっかちに文字や文章や言葉で学ぶだけでなく、自然(じねん)の場の中で共に主体的に地球と平和に暮らしていけたらいいですね。

本日も一期一会、大和魂の伝承、使命、結ではよろしくお願いします。

 

お山の神の使い

昨日、田んぼを見廻りしていたらむかしの五穀田にイノシシが入ってくるのがわかり田んぼの真ん中の稲たちがなぎ倒されていました。一週間後に控えた稲刈りの神事の前に、特に一番実っている場所の稲が食べられました。イノシシは田んぼに入り、寝ころんで稲を倒して食べるため広範囲が荒らされます。

みんなで丁寧にお田植え神事で一本ずつお手植えしてきたからこそ、その時の思い出が走馬灯のように思い返され残念で悲しい気持ちになりました。

しかし、これもまた自然(じねん)の一つなのでここで意味を深めてみようと思います。

日本人は古来よりイノシシは単なる害獣ではなく「神聖な山の獣」「お山の神の使い」として敬いながら、田には入れないという二重の関係で暮らしてきました。元々、お山の神様は、猪や鹿、木、水、鉱物など「お山からもたらされる恵み」を司る存在と信じられてきました。実際に荒らされていると人間は思いますが、自然の循環の一部として暮らしていますから彼らはすべてお山をお手入れする唯一無二の存在でもあります。

それにむかしはお山と里は別の存在ではなく暮らしを通して一体になっている場所でした。なのでお山の神が春に里へ降りて田の神となり稲を守り、秋の収穫が終わると再びお山へ帰ると信じられていました。お山に帰る前にお山の神様の使いが田んぼにご挨拶に来たという捉え方もあります。

しかしそんな悠長なことを言っていたら、田んぼの稲は全部倒されてしまい食べる稲もなくなってしまいます。(笑)むかしの人たちは存在としてのお山の使いを大切に尊重しながらも同時に境界をつくり「お互いがここまで」という結界を設けました。

かつての文献を調べると山際の田に小屋を建てて夜通し番をし声を上げたり、笛や鳴子を使って追い払ったり、村ぐるみで石や土を積みシシ垣という巨大な境界を築いたともあります。

お互いの生活圏、お互いの領分がありここからはこちら、ここからはそちらという境目を丁寧に結んだのです。これは分断や断絶ではなく、調和や共生、折り合いをつけていたのです。お山からいただいている恩恵を里で頂戴し、お山にまた送り返す感謝のお祭りもまたこの暮らしの循環の一部でした。

来月、新嘗祭ではお山の神様に感謝してお山に御見送りする神事を私たちは和樂で行います。これもまた、いのちの循環の中で大切に関係性を維持するむかしから生きていく智慧の一つです。

早速、私たちも昨夜は夜通しライトアップしてラジオをつけタール系の忌避剤を撒き境界の対策をしました。今日から収穫を開始することに変更して、電気柵の結界も検討しています。畔周りなどを荒すまではいいけれど、田んぼの中は我々の食べ物だからダメですよとお知らせしていきます。イノシシにも子どももいて暮らしがあります。

「お互いを思いやり敬いながらも暮らしを守る。」

大切なのはご縁や関係性の中でどのように折り合いをつけていくか、これは現代の人たちの大切な場の思想だと思います。日本人としての場づくり、むかしからの伝承を守っていきたいと思います。

ということで、大切な御報せがあります。

当初は10月10日の巳の日の神事で稲刈りをと思っていましたが、こんな状況にもなったので明日から稲刈りを開始し10日までに終えるという計画で手刈りをはじめます。

もしも我こそはお山の神様と共生するぞという真心でお手伝いいたける結の方がいたら、ぜひ稲刈り稲架かけをご一緒いただけますと幸甚です。またご連絡をいただけますと、よろしくお願いします。

 

稲魂

そろそろ稲刈りが近づいてきて、翌年の稲の準備もはじめていきます。この一年の結集としての稲を手で刈り、束ね、稲架に掛け、自然の風で乾燥させ、種籾も残します。

懐かしい稲との暮らしの時間を味わいます。

古代より、稲魂(いなだま)という言霊があります。これは稲に宿ると考えられた霊・穀霊です。稲の生命力を神格化した存在が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。

この宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、日本神話に登場する食物・穀物の神で『古事記』では須佐之男命と神大市比売の子として登場し、のちに稲荷信仰を代表する神として日本全国各地で祀られます。いわゆる「お稲荷様」です。

この「うか」は食物や穀物に関係する言葉で「みたま」は神聖な霊や働きという意味です。稲に限らず食べ物を生み出し、人々の生命を養う力そのもののハタラキです。

種を播いても人間の力だけで稲はできません。数々の自然の恩恵、ハタラキを経てはじめて実ります。そのおハタラキそのものが宿っているというのが稲魂ということでしょう。

私たちの田んぼ「むかしの五穀田」の場は、氏神様は五穀神社があり見守っていただいています。太古のむかしから、五穀の霊性が宿る場として大切に食べ物を生産してきた場です。

その場を今も子孫のために甦生していこうとする試みが今の私たちの取り組みです。

宇迦之御魂神と共に、自然のおハタラキを祈り謙虚に学び、そのいのちの循環を次世代まで祈り続けようとする実践。それが五穀豊穣のいのりです。

「実るほど頭が下がる稲穂かな」

むかしの五穀田の稲刈りは10月10日土曜日、巳の日です。

一年間の数々のおハタラキに感謝する一日にしていきたいと思います。

無一物中無尽蔵の銀杏拾い

現代は何でもお金の価値に換算して購入する時代です。特に産業革命以降、大量生産大量消費を実現してから人々から手仕事が消え、人と人、人と自然との関係性も減退していきました。誰がどこでどのように、何を守り育て、そして分け合い助け合いそのものが自分の手元に来たのかなどは考えず、もっぱら他の商品や海外の輸入品と比較して高いか安いかの判断価値基準しかありあません。

例えば、お米であっても機械で改良されたお米を大量生産をするようになりそれが農協に集められ他のお米と混ざられてブランド米として市場で販売される。田んぼがどうなっているかや誰がどのようにしてどのような思いで、そして場との関係性などは知る必要もなくなっています。

本来は、ご縁と関係がなければ譲ってもらえないものですから場に関わり、一緒に働き、手伝い、分け合い、譲り合い、思いや心などの日頃の結びつきがあってはじめて手元に入ってきた存在でした。これはお米に限らず、すべてのことがご縁で結ばれた「暮らし」の中で営まれてきたものです。

今週の日曜日は古民家和樂で銀杏拾いを行います。

今では便利にスーパーなどに行けば銀杏は安価で購入できます。誰かが拾ったのか、どこのどのような環境の銀杏かなどは、関係もなく購入して食べればどれも同じようなものでしょう。

しかし一年間、感謝して銀杏と暮らし、銀杏拾いのために丁寧に下準備をして銀杏が傷まないようにシートをかけ、拾ったものの果肉を井戸水で丁寧に洗い、一つ一つを秋の澄んだ太陽の光で天日干しをする。数十粒つくるのにも大変な手間暇と真心を使います。

この銀杏のご神木は、百年以上ずっと故郷の関の山から吹いてくる山風を受け、棚田の栄養豊富な地下水脈を得て古民家の懐かしい風景と一体になって地域を守っている銀杏の木。この暮らしと銀杏の木の御蔭で、この季節は私たちの活動を一緒にしてきた人たちと銀杏を食べて心安まる憩いの場になっています。

便利な時代、何でもサービスでもお金で解決します。しかしご縁も関係性もないお金中心のお金の残高ばかりを気にする生活は疲れます。暮らしや関係性の残高をよくよく観つめ、私たちが実践しているような暮らしフルネスを学べば何もない中に本来の仕合せや喜びがあることに氣づき直せるものです。

まさに銀杏の木そのものが「無一物中無尽蔵」の世界を教えてくれます。

心の奥底にある偉大な豊かさに触れるご縁を銀杏と拾いに来ませんか?

 

暮らしの一部

今月は色々な年中行事が暮らしフルネスでは行われます。年中行事というのは、自然のリズムや季節の巡りに和合して生きる先人の智慧でした。

現代は、人間都合のスケジュールに合わせて生きていますが本来の自然のリズムに合わせることで心も体も調っていきます。

これは季節が変わり生態系が変化成長していくように、月の満ち欠けで心身のお水が変わっていくように、私たちは自然から離れても自然の偉大な環境の影響を受けて細胞や心も調和していきます。

先人たちは未病といって病気にならないような暮らしをしました。それを養生ともいいます。養生を健やかにするのに「場」を調えていきました。それが「暮らし」です。

私たちが調えている場には、暮らしがあります。

10月3日には、古民家和樂にて銀杏拾いと稲の稲架用の竹取りをします。10月10日は稲刈りをして稲架までします。10月23日は十三夜祭、そして11月3日には結による井戸掘り祭をします。そして11月23日は新嘗祭です。どの日も、美味しい竈ごはんや炭火をつかった秋の味覚を楽しめます。音楽、そして懐かしい未来、どれも格別なハレの日です。

年中行事はイベントではなく、暮らしの一部です。

暮らしの中にすっと入ってみると、心が癒され安息します。

実りの秋のひと時を一緒に過ごせたら仕合せです。

宇賀弁財天の神徳

昨日は、英彦山弁財天の秋の大祭を無事に執り行うことができました。この弁財天は、頭に白蛇の蜷局を巻いているのが特徴的です。これを別名、宇賀弁財天ともいいます。

この宇賀弁財天の頭上には、宝冠の中に白蛇の姿をした宇賀神が表されています。経典には「冠の中に白蛇があり、その顔は老人のようで、眉は白い」と説かれます。この白蛇は、単なる飾りや使いではありません。中世の天台密教では、白蛇そのものが宇賀神の本体と考えられました。さらに、その蜷局を巻いた姿は如意宝珠とも重ねられ、生命、豊穣、福徳を生み出す力の象徴とされてきました。

つまり一般的な弁財天が智慧や働きを表すのに対し、宇賀弁財天はその奥にある生命力や福徳の源も和合しているといわれます。

この宇賀神は、古代から「宇賀神」という完成した姿で信仰されていた神ではなく、平安時代の末から鎌倉時代にかけて日本の神仏習合や密教の世界の中でいくつもの信仰や象徴が重なりながら日本の神様に変容していったといわれます。

もともと日本には、稲や食物の霊を表す「ウカ」という古代信仰がありました。『古事記』に登場するお稲荷様とも言われる宇迦之御魂神もその一つで、食物や穀物、特に稲の生成に関わる信仰です。そして日本には古くから蛇を特別な存在として崇める信仰があります。

蛇は地中に潜り冬眠し、春に再生します。脱皮することも重なり生命力の象徴でした。そこに仏教が伝来し、龍王や如意宝珠の思想が入ってきます。

龍王は雨や水を司り、如意宝珠は願いをかなえ、必要なものを生み出す宝の珠とされました。水があり、作物が育ち、食が生まれ、暮らしが成り立つその循環が人々にとっては福徳であり富となりました。

そこにインドの河川神サラスヴァティーが中国を経て日本へ伝来します。当初は、智慧や弁舌、音楽、護国などを司る仏教の女神でしたが平安末から鎌倉時代になると日本の霊場や修験の世界の中で土地の神や水神、福徳神と和合して宇賀弁財天となります。

日本的な蛇神、穀物神、地主神、宝珠信仰、福徳信仰が宇賀弁財天の特徴です。結局、神道の神とも、仏教の菩薩とも、蛇神とも、龍神とも、穀物神にもなったのです。

私の勝手な直観ですが、元々、お水が湧きだすお山には「宝珠」が存在する。その宝珠とは、いのちのお水のことではないか。そしてその宝珠は螺旋状に湧き出してくる。そして其処に蛇が棲む。蜷局は螺旋を意味してお水が天から降り地上を生きる生命の根源として再生する。その再生した存在こそが、人であり龍であったと。

お水が湧くからこそ私たちの暮らしは豊かになります。これは稲作をすればすぐに分かります。今年はお水不足で農家はみんな大変な苦労と心配がありました。降りすぎれば洪水になり、減りすぎれば田んぼが枯れる。お山がお水の循環を調整してくれているからこそ、暮らしは安定します。

当たり前すぎて氣づかない空気のような存在がお山に湧き出すお水です。地下水脈の中に、奇跡の福徳が存在する。

2026年11月3日は弁財天の巳の日です。この縁日に和樂古民家の敷地内で井戸掘り行事があります。地下水脈のお水を結のみんなで手掛けます。宇賀弁財天のもつ福徳のハタラキや力を学び人類がこれからどう生きていくかの真の智慧を学び直します。

地域の子どもたちはじめ、たくさんの仲間たち共にお水が地下から湧く瞬間を記憶に留めて子孫へと譲り渡していきたいと思います。

循環の暦

昨日は辰の日で龍とのご縁が深いお彼岸の日、また満月の英彦山はたくさんの雨が降りました。遠方から法螺貝のお受け取りの儀式のために来られた方々と一緒に祈り、法螺貝の甦生と吹き方の練習を行いました。

とても澄み切ったお水に包まれた場でみんなそれぞれに自分らしい法螺貝の音を鳴動させ、これから新たに法螺道に入っていきます。

見送りの法螺貝を立てながらこの先にどのようなお導きがあるのか、英彦山のお山や此処からはじまる新たなご縁を深くいのります。

今日の午前中は英彦山の弁財天の秋の大祭を行います。今日は巳の日、お水や芸能、弁天様の縁日です。

古代の人たちは、日時を単なる記号やスケジュールなどとは思っていませんでした。暦は、関係性のことです。今日はどのように関係が巡り、循環した一日であるか。12日と60日とをよく観察し、因果応報がどのように成熟して今になっているのかを振り返る大切な一日でした。

お山のお水をよく観察していると洞察できますが、このお水は雨によってもたらされます。その雨は川になり海になり雲になりまた戻ってきます。このお水が戻ってくるのにどれくらいの巡りを経て今此処に辿り着いているのか。循環を感じます。

お山の甦生をしながら循環のお手入れをしていると、この暦や日取りはとても大切に思えてきます。

私はいちいち、法螺貝を甦生するのに場所やお水や縁日、そしてタイミング(刻)にこだわります。それはこのご縁がどのような巡りの中に入っていくか、それが乱れないように美しくあるように、また調和するようにといのるからです。

現代は何でも自分都合、人間都合、権威権力都合や法律都合などでスケジュールで時間を動かしていきます。しかし本来の時というものは、巡るものでありそれを内省して調和していくための道具です。

今日という日をどう結ぶのかは生き方次第です。

豊穣の秋にいのり育つ場で実っているお米を奉納して残りの収穫までを弁財天の見守りに感謝します。

そして今度の収穫祭は10月10日、日干支は「丁巳」という火を帯びた日。かがり火を囲み、一期一会の収穫をみんなと一緒に味わっていきたいと思います。

 

自然循環

今年は怪我をしたり心が傷ついたりすることがたくさんありました。秋分の日を境に色々と振り返って見ると、時々に止まるようにブレーキをかけられその都度、大切な氣づきをいただきました。

人生というのは、一度きりの旅路です。戻ることはありません。戻ることができたとしても同じことはありません。まさに一度切り。だからこそ、悔いのないようにその時々に今の判断を積み重ねていくこと。

人生は何を手に入れたかや成功したかなどが問題ではなく、何を積み重ねてきたかという継続や実践が最も大切な問題になります。

実際に振り替えれば、偶然に手に入ったものでもその手に入る理由があり、成功も失敗もその瞬間を切り取った一部でしかありません。全部を丸ごと人生として観察すれば、どのような経験をしてどのような心を磨き、一つの生を終えるときに納得できるようなものであったか。つまりどのような氣づきをいただいたかというのが遺ります。

氣づきは、努力や苦労や精進によって神様のはからいのように与えられるものです。

なぜ今、こうなっているのかは数々のご縁と関係性が結ばれた過程です。そして自分のご縁は、次の人や後からやってくる人たちの道に組み込まれていきます。

自然と同様に、人生も循環を已みません。

だからこそ自然循環の一つになるように、今を研ぎ澄まし今を生き切ることが循環を邪魔しないことになっていくように思います。

子どもたちが健やかに仕合せに育つ場ができるよう、今日も今を遣り切っていきたいと思います。ありがとうございます。

月の心

昨日は徳積堂で十五夜祭を暮らしの中で執り行うことができました。ここ数年の中でも特に印象深い素敵な心月の余韻を過ごすことができました。

秋分からお彼岸の時季ということもあり、彼岸花や稲やススキ、銀杏の実やお芋などをお供えしました。おはぎのお布施もあり、また芋名月ということから芋のお菓子の奉納もたくさんいただきました。

全員が集まってからは尊敬する禅僧と共に先祖供養をし、参加者全員のご先祖代々への感謝を一人ひとりいのりました。そしてみんなで協力して里芋などを使った芋煮けんちん汁をつくり、お月見団子や和え物、お漬物を準備しました。子どもたちもたくさんいて、一家親族の集まりように和気あいあいと楽しみます。

そして食事の前に感謝やよりよく生きるための五観の偈文を唱えいただきます。いのちをいただきながら、お月さまとの思い出話や関係の深いそれぞれのご縁をみんなで語り合います。食後はお月見をして徳積堂へ移動し、調った場で一期一会の十五夜の音楽をみんなで味わいます。

ちょうど昨日は花火大会ということもあり、遠くで花火の灯りが差し込み、音が響き合い、コオロギや鈴虫などの鳴き声とも調和して永遠のような優しい刻を過ごすことができました。演奏の最後は、みんなで唄い予祝をして静寂な時間に入りその余韻で語り合います。世の中の競争や喧騒を忘れて、1000年以上続いてきたこの中秋の名月の年中行事に心を合わせます。

何もなくても全てがある透明で澄んだ境地。

この世にこのような贅沢と幸福があるのかと思えるほどの心の静けさ。これがお月さまのいる場の空氣ではないかと実感しました。

そもそも文章では語れないものですが、目指している心は文章では綴れます。文章ではなく、その深淵にある人類が目指してきた真の調和や平和。

かつてお月さまを眺めて数々の詩や言霊が産まれてきました。

月は雲に隠れようが、欠けようが、ネオンの光で無視されようが、ずっと傍にいて離れることはありません。見守り続けていつも心の中に存在しています。心は光を当てるとき、澄んだ耀きを放ちます。

どう生きるか、どう歩むか、一つのコンクリートの文明が終焉していき、再びお山の中のような調和な文明が甦生していきます。お月様を感じるとき、いつも私の心は英彦山守静坊の枝垂れ桜を包む月光に照らされます。

お月さまへのこれまでの見守りへの感謝を澄んだ心で味わう十五夜祭、そして来月の10月23日は十三夜祭です。少し欠けたお月さまに深い慈愛と労いを感じます。また息子たちが奏でる倍音調和の月の音色をまた皆さんと一緒に味わいたいと思います。

ありがとうございました。

 

渾然一体智

私たちは何でも分別知といって、分けて考える癖があります。分析することで、様々なことを科学的に解明できる便利さが出ましたがその反面、感覚的に全体を直観したり察知する感性のようなものを使わなくなってきました。

内在する力を使わずに、外にある代替えの力に頼ると自分の内在する力がさぼりはじめていきます。これは身体の免疫も同じことです。その場しのぎで楽をすることや、便利なことで手に入れ苦労をしなくなると本来具わっている力を使わなくなるのです。

自然治癒力というものがあります。

これは自己免疫によって身体を調えていく仕組みのことです。これは人間に限らず、自然界のあらゆるものに存在しています。それを阻害しないようにすることや邪魔しないことで活性化していきます。

では何が邪魔をするのか、それが先ほどの便利さや分断すること、つまり分けることで色々な問題が発生します。

そもそも分かれているものなどこの世界には存在せず、繋がっていないものなどは宇宙にありません。水も空気も大地も太陽もすべては関係しあって渾然一体です。それをむかしの人たちは「いのち」と呼びました。

この世のものを「いのち」として接しているか、果たして単なる物として観ているか。

脳は便利な機能ですが、それだけを駆使したら楽かもしれませんが実際には実践したり、苦労しないと本当のことは顕現しません。

子どもたちの未来を思うと、AIや分析がさらに進みますからそれ以上に感性や感覚、苦労や努力の醍醐味、自己免疫や自然治癒などの意識を學ぶ場を譲り遺していきたいと思います。