生き方を変える

何かをするという行為に、心で決めることと頭で判断するというものがある。

例えば、自分の行動を変えると決めることは、自分の心でどうあるべきかその生き方を決めるということであり、頭の中で判断したこととは同じことではない。

頭で判断したものは、心で決めた生き方とは関係がないから別にやったりやらなくってもその時の相手次第や状況次第でいくらでも自分都合で判断することができる。

しかし心で決めるとなると、自分の決めた約束、つまりは生き方そのものをどうあるかということであるからそれを破るということは自分で生きないというすべて相手任せの自分ということになり本来あるべき自分のあり方は関係ないということになる。

例えば、正直に生きると決めるということは相手がどうしようが相手が何を言おうがそして状況がどうなろうが自分が自分で決めた生き方としての正直を最期まで遣り抜き貫いていくということができるというものである。

それを決めたはずが、できませんでしたというのは正直ではなかったということを自分から話しているのでありそれは生き方を間違えましたと自白し続けているようなものである。

自分で言っておきながら、それをしないというのは本当は恥ずかしいことである。誰でも、自分で言ってやらない人のことを信頼したり信用することはない、そんなことは誰でもそう思うはずである。

それなのに自分は周りを見て、やっているように見せようとしている自分には気づかないで平気で恥ずかしいことを繰り返す人がいる。

そういう今までの生き方が実は人として恥ずかしいと思って、これからは二度とそういう生き方はしないと決めることが本当の反省というものである。

二度としないという言葉は、その諸動作や事象のことではなく生き方のことである。

例えば日々のことでは、決めたルールを破ってしまったやまたミスしたや、やってしまったや、またまた遅刻したなどいろいろとできない理由を何度も何度も言い訳のように平気で並べる人がいるけれど、問題はそんな些細な其処の事柄ではなく本来の自分の生き方が常に間違っているということである。

そういう風に生きていて大丈夫ですかと尋ねられ、しないと言いながらまたやりましたという生き方をずっと繰り返しているということなのである。そしてそれなのに人前ではさもやっているように見せるとなればそれはそれこそ問題なのである。

自分で立とうとする気がないもの、つまりは自分が心で決めて遣り切ろうとしない人は自立することはない。自立とはあくまで誰のせいでもなく、自分から立つ者のことを言い、いくらどういう状況があったにせよ立たされようとするのでは自分らしくも自分の存在も貢献に結び付けることができないからだ。

そして社会とは、互いに自分で決めたルールという互いの自分自身との約束の上に成り立っている。

互いをチラチラ意識してやろうとするのは、まず自分で立とうとするよりもその人によって立たせてもらおうという依存心からそうなってしまうのであろうとも思う。

自立するには、自分から決めることと、自分から律すること、そして最期まで遣り切る事、その全てを自分の心で決めたままであるかという、あり方の方を定めているからできるのである。

能力的にできるや、個性としてそうなっているかなどは問題ではなく、要は生き方を変えられるかというのが自分を変えるということなのである。性根を叩き直すというのは、生き方そのものを学び直すという意味でもある。

変化の波の中で人は表面上の変化にあわせようとするけれどそうではなく、今までの自分と決別し新しい自分で生きることを人生が変わったというのである。

これは誰の人生でも同じく、そして個々に等しく、生き方を変える決心がその人を新しい人に変えてしまうのである。

一生懸命に真摯に生きる人に出逢うことで、素直に自分が恥ずかしいと思うことから憧れのように新しい生き方に出逢っていく。

人生は面白いことに、出会いが人を変えていくのだと本当に感じる。

私は、これからも色々な生き方に触れて素直に吸収していきたいと思う。新しい未来が、この今、この瞬間に顕われている心に寄り添い生きていこうと思います。

謙虚と素直

人は正しくあるがままに成長していくためには絶対条件というものがある。
それは正直で素直であるということである。

人間は歳を経るに従って、様々なことを経験し次第に頑固になっていく。
歳を取ればとるほどに固定概念に縛られ、自分を独りよがりに形成する。

そうなると周囲の環境と馴染まなくなり自然淘汰されていくのが万物生命の本源的原理であると私は思う。

人生がうまくいかないのは、ほとんど全てに自分の決めているその「生き方」が関与し、その生き方が人生の選択を左右しているのである。

なぜか仕事でも身近な人間関係でもいつまでも失敗を繰り返す人というのは、その根底の生き方が素直でないからであるのは間違いない。

その素直でない生き方が、あるがままの心を歪ませ自分と自我を頑なにしていくのであろうとも思う。見栄もプライドもすべてその根底に自分の生き方や生き様が如実に顕われるのである。

松下幸之助の遺した遺訓に「素直な心のない場合の弊害10か条」(PHP)というのがある。これが素直という側面をよく捉えている。

第1条 衆知が集まらない

素直な心がない場合には、人のことばに耳を傾けようとしなくなり、その結果、衆知が集まらないようになる

第2条 固定停滞

素直な心がない場合には、現状にとらわれて創意工夫をおこたり、進歩向上のない固定停滞の姿が続いていくようになる

第3条 目先の利害にとらわれる

素直な心がない場合には、目先の利害にとらわれて物事を判断した行動をとりやすく、将来の発展を損なう場合が少なくない

第4条 感情にとらわれる

素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、思わぬ失敗を招くことにもなりかねない

第5条 一面のみを見る

素直な心がない場合には、物事の一面のみを見て、それにとらわれがちになってしまう

第6条 無理が生じやすい

素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる

第7条 治安の悪化

素直な心がない場合には、個々人がバラバラとなって共同生活の秩序も乱れがちとなり、治安が悪化しやすくなる

第8条 意思疎通が不十分

素直な心がなければ、率直にものを言うこともなく、素直に耳も傾けないために、互いの意思疎通が不十分となりがちである

第9条 独善に陥りやすい

素直な心がない場合には、自分の考えにとらわれ、視野もせまくなって、往々にして独善の姿に陥りかねない

第10条 生産性が低下する

素直な心がない場合には、いろいろな無駄や非能率が多くなって生産性というものが低下するようになる

以上の言葉は何事にも参考になることで、客観的に分析すれば素直ではないということが事実として自分や周囲にどのように顕われるかを示している。

いつもあるがままに素直に明るくオープンに学び成長する人といつも本当の自分を隠そうとして自分を取り繕っている人をみればすぐにその素直さの違いは分かる。言われたことをすぐにやらない、やろうとしない、言われても聞かない、聞こうとしないなどそういうところだけでもすぐに観えるのである。

人の言うこと素直に聴けないのだから、人の真意や真心は分かるはずはない。

人は、内省し新しくなるというのは日々に新たになることである。

過去の産物や経歴で飯が食えないというのは、過去のことを忘れるという謙虚さを持っていないからである。過去の何かしらの自分に固執し、相手を尊重する姿勢もなくなることは人としてとても恥ずかしいことであると気づくことである。

少し知識がついたからや経験したからといい気になるのは傲慢な心である。

特に日々の営みは、その素直の実践道場であるはずである。

自分で決めるというのは、その生き方をどうすrかということである。

私自身、常に自らの生き方を問い、常に自分が素直であるように学び続けていきたい。

謙虚を生きることはそれそのものが貢献に繋がっているのだから、子どもたちにその大人の実践を示していきたい。大切なことを見失わないように、いつも心を遣って日々を大切に暮らしていきたい。

人生と付き合う

人は理性と感情というものがあり、上手に付き合うことで人生の妙味を楽しんでいくことができる。

しかし、実際の社会ではそうではなく感情に振り回され自分の殻に引き籠って困窮している人たちがとても多い。

もともと感情があるから色々なことに気づくことができる。

感情の喜怒哀楽を味わうことは、その人生の旅路をワクワクさせその旅路に豊かな思い出を残していくことができるもの。

人はそういう感情同士のぶつかり合いやせめぎ合いがあるから自分というものを創りあげていくことができる。先人たちも同じように自らを修めて生きてきたのは常である。

だからこそ世間というものが正しいと思えば、次第にその感情も静まりそのうちに気づいてあれは間違いだったや勘違いだったと気づくものである。

時間が解決するというのは、冷静になることができるからでもある。

自分の感情の中に引き籠った状況で、何かを判断するということはできないのはそういう感情の中にいるのは自分を味わう場所だからである。

全体最適というのは、全体の中で自分が一体どうあることがもっとも貢献できるのかを考える事である。

社会とは、ある一定のルールの中で存在しているから成り立つのである。一人以上の人間が、生き方というルールを示し、それを守るからそこに一つの社会が存在する。

つまりお互いに決めた約束を守れば、そこに一つの社会がある。

それを破れば、そこに一つの社会問題が発生するということでもある。

人は自分の生き方や自分と約束したことを守ることで社会の一員として周囲と共生していくことができるもの。

そしてそれを維持するのは貢献という、御互いに役に立つからそうしようとしているのである。社会が道徳と倫理によってはじめて調和し平和が保てるのは一人一人の生き方をどう自立させるかによる。

今の社会問題は、一人一人の自立というものの認識にかなりの勘違いがあるからでもあると私は思う。そういうものを正していくためにも、理性と感情だけではなく様々なものと上手にバランスをとって付き合っていこうと思う。

直観言語

心で感じる世界に直観というものがある。

もともと知識とは後付であり、理論も何かを合理的に理解するために造られた産物であるからその前に元々あったものが本質ということになる。

つまりは、地球誕生から脈々と流れ出でている叡智のようなものであったり、最初から存在していた自然の掟のようなものが直観なのであると私は思う。

自然の中で暮らしていけば、そういう直観的な暮らしとはそもそもその風土や環境の中で培われてきた私たちの順応性というようなものであろうと思う。

つまり直観的センスによって、様々な偉大な自然とぴったり息をあわせて生きてきたのが生命の歴史のことである。

そういうものとは別に人間のみで歴史をねつ造し、人類史のみをまるで地球の歴史だと勘違いしているから今では色々な周囲の存在や価値に気づけないほど鈍ってくるのだろうとも思う。

明治維新から近代にかけて、如何に全体を合理的にすることで短期的なパワーを得るかということが大事なことになった。西洋が誇る科学という自然を真似た物的革新技術を日本も早く取り入れようとした御蔭とツケが同時にこの私たちの今の世界には存在している。

御蔭としては、ここまでの技術大国になり世界に肩を並べるような経済大国にまでのし上がることができた。しかしそのツケは、私たち日本人としての暮らしや生活習慣など生き方として重んじてきた自然の叡智、バランスが狂った中で人々の心が荒廃してくるようにもなった。

なんでも合理的に、理屈にあわないものは取り除こうとすることは確かに早く結果をだすにはいいのかもしれない。しかし悠久の流れの中で永続的に発展と繁栄を目指した私たちの先人からの遺志は豊かさへの感謝というものを柱に様々な日本語の中に入り込んで思想を象ってきたのである。

私たちは日々に使う言葉を西洋のように合理的には考えなかった、つまりは渾然一体とした魂のようなもの、つまりはそれを「言霊」であると定義し大切に使ってきた。

西洋から取り入れた言葉にはそういうものはない、単に見たものを頭で理解できるように語られそのように言語化されてきた、自然から離れた場所で言葉を理解したことが根幹の思想、直観を鈍らせているのである。

私たちの風土環境の直観はそうではなく、瑞々しい感性と美しく真を照らした日本語の中に清く明るい正直な心、つまりは道徳倫理といった我々が目指した自然との共生の叡智そのものである生き方が凝縮されているのである。

こういうグローバルな社会の中で如何に分け合い地球の中で皆が共生できるのかを思うとき、私たちは世界へ向けて日本人の言霊を信念とともに行動で発信していかないといけない。

今こそ、一人ひとりの生き方がすべてを決める本源的な時代に入っているのだと思う。

私はあくまで原始的な直観を信じて、これから新たな扉を開いていきたい。

自分らしく

人は過去に自分の価値を守ってきたか、守られたことで今の自分の価値に出逢えているというものがある。

人は何か、外見上の何かを持っているか持っていないかなどで成功しているかどうかなどを判断するけれど実際はそういうものはたいした価値があるわけではない。

どんな生き方をしてきたか、どんな生き方をしているか、どんな生き方をしようとしているか、その生きている証そのもののがその人の存在価値を見出し、それを尊重しているのである。

存在価値とは、自分の本来の人生の目的や役割のことでもある。

私たちも今までずっとそのために何度もくじけそうになったり、諦めそうになったり失敗したりと苦しんだはずである。しかしそのたびに、何かの言葉や何かのシーン、周囲の思いやりによって何とか踏みとどまり自分を保つことができたから自分を維持しているのである。

私も過去に自分を見失い、人生の岐路にたったとき、師の生き方に触れて自分というものを取り戻すことができたからこそ今が在る。さらにその生き方に直に触れることで共感し、私の人生の生きざまをどうあるべきかを学びその生きる道を示していただいたことで今の価値に辿り着いているのである。

人は常に自分の生き方や生きざまこそが価値であり、そういうものをどれだけ自分が大切にするか、そして周囲が理解してくださるか、その自分らしく生きることの偉大な自然の見守りの中ではじめて自らを安心立命させていけるのであろうとも思う。

自分らしく生きたいと思っている人はたくさんいるし相談もたくさんうける。

他人から与えられた人生や、自分で決めない人生は、自分らしくではなく誰からしくになってしまう。その人生から脱却するには自分の人生に責任を持つこと、つまりは自分の生き方を決めて実践することが自分らしくなのである。

人間は、皆で生き方を大事にしようとすることが、皆で価値を守る事であり、皆がそうししていれば即ち世直しなのである。

今の時代は生き方というものに真摯に向き合っている人はとても少ないように思う。画一化された都合のよい便利な社内の中で、流された方が楽な生き方なのかもしれない。

しかし、自分らしくなくなるということは生き方を生きれないのである。それでは自分の価値を自分で守ることもできないことになる、つまりは生きている実感、命の輝きを感じられなくなるのである。

子どもたちがいつも命キラキラと自分らしく生きてほしいと願うように、まずは自分が価値を守れるような生き方を見つめることである。

今この瞬間が、自分らしく生きている証そのもの。

だからこそ生きている以上、自らの生き方や生きざまを貫くことに自らが誇りを持って歩んでいけるようこれからも多くの人々を自分の実践を示すことで見守っていきたい。

感謝

関係の尊重

人間関係の確認にお互いの納得というものがある。

どちらかが本気でどちらかが曖昧ではお互いが納得する答えを共有することはできはしない。何かを決めて取り組むということは、御互いの決断の質量が同じかどうかでなければ心地よくお互いを尊重し合うような対等な関係を築き上げることはできない。

どちらかの関係に依存したり、自分を蔑んで情を引き出したり、一方的に自分が世話になっているというような立ち位置でいる側と、面倒をみてやっているや、自分が世話しているや、自分がみてあげているなどと傲慢に人との関係を築けばそれは共依存の関係を構築してしまうもの。

互いに自立するとは、相手の納得できる自分の決心と、こちらの納得している自分の決心が互いにかみ合うことではじめて共自立することができる。

それはある意味で、どちらにも世話にならず世話をせず、互いに一緒に取り組んでいるということだけでもある。つまり上下の関係ではなく、平等で対等なパートナーシップを結べるかどうかが相互繁栄の要でもある。

その入口にある信頼関係が正しく築けるかどうかも、互いの信じて頼りある間を構築できるかによる。

それは御互いが自分にしかできないこと、自分ならできることを理解し合い互いに信頼しあい助け合っていく関係が築けるかどうかによる。

見守るという言葉も、見守られているからと感謝するのはいいのだけど、見守ってもらっているというのを、自分をただいつまでも世話してもらえるのだと勘違いするのは単に誰かに依存しているだけである。

勘違いをして依存しても、それで本当の意味でお互いを信頼し合い貢献しあう共存共栄の絆は生まれることはない。

大事なことは自分が世話をさせることではなく、自分が頼りにされうる人材で在り得るかということでもある。誰にも頼られない人は、いつも誰かの世話になりっぱなしの依存の中で自分を存在させてしまうもの。それで甘んじるのは単に自分に他人に頭を下げたくないというような偏ったプライドがあるからが多く、単にそれは偏見からその人と対等になるのが嫌なだけである。

そんな態度では自分の自己実現だけではなく、他の自己実現にも協力することができはしない。まともに自分が納得いく決断ができない生き方をしてるのは、その相手や周囲も大変な迷惑を蒙るのである。

まず自分自身がどうしたいのか、何のためにやるのか、そういうものを掘り下げつつ自分の決心が相手と納得いく関係を築けるものかを自らで確かめるのが人間関係を対等にし共に生きるということでもある。

自分の世話をしてくれる人を探すようなパートナー関係などありはしない、自分で決めたことを一緒にやってくれる真のパートナーはすべては互いの納得と決心の賜物なのである。

人間関係のむずかしさ、目先の先入観や相手の固定概念から引き出される目先の損得や一時的な情ではなく、本人の人生のために真心と愛を持ってこれからも接していきたいと思います。

環境に左右されて仕方がないと諦めている人を見て同情はしても、自分がどう最善の生き方をするかはすべて自分自身が決めるもの。

相手が自分で決めるということを尊重して、その刹那、私自身も対等に決めるということですべての人間関係のつながりを尊敬にしていきたいと思います。

まず心ありき

仕事をしていていつも大切に感じるのは、取り組む時の順番が特に重要であることがよく分かる。

料理でもそうだし、奉仕でもそう、どんなに拙い技術しかなくてもまず心を籠めて取り組む方が思いやりや愛で行動することができ、最終的には本物の技術まで高めていくことができる。

そしてその繰り返しの練磨により、本当にその心と技術、さらに行動がピタリと組み合わさった時、まるで何かの偉大な応援力をお借りした時のような感謝に包まれた一期一会の奇跡が起きるのであろうとも思う。

よく忙しい忙しいと常に心を使うことを避けている人がいる。

忙しいというのは何のためにやるのかということをいつまでも自分自身で掘り下げもせず、場当たり的に目の前のことだけに囚われて自分の技術技能のみで何かを遣ろうとすることに似ている。

何が本質なのか、何をしようとしているのか、それを自らの心で感じようとはせずに小手先の技術だけを頼れば変なミスはしないけれど心がないから仕事がまるで素人のような味気ないものになってしまう。

人は別に完璧なものを求めているのではなく、心を籠めて通じ合っているかどうかということをひとつひとつの作法の中で確認しあっているのであると私は思う。善い製品も、善いサービスも、善い対応も、心技体すべてを総合的に捉えて実感して満足感を得ているのである。

だからこそ主体となる人のその心がまず何を観ているのか、その心が思いやりであるのかが最終的には本物の自立した職業人としての技能や行動力、センスを育てているのであろうとも思う。

会社で言えば、お客様のことを真摯に共感し思いやる事、困っていることや悩んでいること、自分がお役に立ちたいと誠心誠意取り組むことが何よりもまずもっとも自分の役割、お役目を果たすということになっているのだと私は思う。

よく頭で聞いてすぐにわかった気になる人もいるけれど、頭で分かってしまうのは心で共感することをいつまでもしないからである。心で共感していれば、分からないことの方がいつまでも数段多くなるから注意深く聴けるようになる。

その分からないからこそ、大切にしたい、丁寧にしたい、きめ細かく注意深く配慮したいという気持ちになるのだろうと私は思う。

一流の仕事とされるのは、すべて心ありきである。

相手のことを自分の事のように思えるような日々の共感力を高めて育てていきたい。特に新入社員などは、心で感じることを頭で分かるよりも常に先にしていくことである。ホスピタリティを磨いていくのは、自分の志を何のためにお役に立てるのかを身近で実感していくところが初心や原点であることを忘れないことである。

世の中は、すぐに結果や理論、テクニックや方法論ばかりが蔓延っているけれどもっとそのものの心に寄り添い、いつも見守れるような優しい心をカグヤでは優先していきたいと思う。

素のまま

自分というものの自己像というものがあり、人は観念によってできている。

それは様々な人から影響や、自分の価値観によって自分というものを思い込み自分のメガネによってのみこの世界を観ているといっても過言ではない。

そのために、本来の自分ではない姿にに苦しんでいる人たちもたくさんいる。

例えば、自分というものは本来素朴でおとなしいと思い込んでいる人が実は活発でエネルギッシュだったりするようなもの。他にも、こういう人だと自分でも思い込んでいたけれど実は・・・というように、この実はという実体が本物かどうかというのは本人も無自覚であることの方が多い。

それを様々なキッカケにより気づき、自分と向き合うことで本来の自分に出逢っていくのも人生なのだと思う。環境が形成していく自我や、人との出会いによって関係性を与えていく自我ある。

繫がりや関係性の中で、人間は形作られ観念によって生きているのである。

子どもたちは、自分というものをそのままに出して歓び楽しみ生きている。

何かがなければ楽しいという定義があるのではなく、何もなくても楽しいのである。周りに、自然と同じような見守りさえあれば情緒が安定し子どもらしく楽しんでいることができる。

私も自然が好きで、そのままで何もしない余計なものがない世界の中に居ると心が静かに穏やかになって自分本来の素のままが顕われてくる。

自然は心をオープンにしていくものだとも思う。

文化や文明が人間社会を形成し、その中で自分というものを分からないようにするのは人工的であるからでもある。人工的が悪いというわけではなく、人工的であることを自然と定義してしまっていることに勘違いがあるのであろうとも思う。

元々の根源的な姿というものは、子どもの中にすべて存在して残っている。このままの姿で社会を形成できるようにするかはそのその環境構成を主る人間の持つ理念によるものである。

子どもたちが生きる力とは何か、素のままとは何か、もう一度掘り下げて保育というものを見直していきたいと思う。

私自身は、自己像というセルフイメージをもう一度再定義し直し、これからの人類の進むべき未来の姿を生活を通して体現していきたいと思う。

挑戦することばかり、素のままで楽しんでいきたい。

できない理由

人には何かをできない理由というものがある。

それは能力的にできないというものとは別に、やりたいことが他にあるからできないというものがある。

本来、自分らしく素のままでいるというのは自分のやりたいことを存分にやっているときにその人はその人らしく輝くことができる。しかし、それだけをやるには一人ではできず、当然多くの人たちの力をお借りしなければならない。

その際、誰かがやりたいことのために我慢するのではなく理想はみんながやりたいことをあわせていく中で自然に調和するような状態が共生や貢献の姿であるようにも思う。

自分が明確になればなるほどに、周囲が明確になるというのはそういうことでもある。

社会というものは、そうやってそれぞれが多様性を発揮し発展と繁栄を続けていけるような仕組みが生命活動の根本的なところには存在する。

しかし現状ではそうではなく、本来のやりたいことを我慢してやりたくないことばかりをやらされるというシステムが横行し、非循環社会のバランスの悪い不調和の中で無理を続けて衰退と疲弊するという状態になっていくものであると思う。

そもそもそういうものを創りだしているものには、一人一人の人間のプライドであったり欲望といった自我欲が根幹を占めていることが多い。

人間を裁くあらゆる仕組みが、階級と偏見が生み、上下を発生させ、足るを知ることのない限度のない欲を際限なく作り出していくのであろうとも私は思う。

まず「一人ではできない」ということを理解することは大切なことである。

できないのは自分があるがままにやりたいことがあるのだと信じるところからがスタートなのである。だからこそ人と助け合い協力し合おうと心から思えるのである。

経営者やリーダーは、自分の素のままの姿でいるということを大切にしていかなけいといけない。そうでなければ、不調和を生み、社会や組織に影響が出てくれば本来の貢献の意味をはき違える事にもなる。

他人の人生を生きるのではなく、自分の人生を生きてこそのリーダーであり真の模範でもある。

子どもたちのためにも、何ができて何ができないのか、その本当の意味を伝えていけるように自分らしく生きることを尊重していきたいと思う。

本当の自分に出逢えず、苦しみ迷い、もがいている人たちは本当にたくさんいる。そのことから自立できずに、真の幸せに辿り着けない人たちもたくさんいる。とても他人事ではなく、子どもたちの未来のためにも今、此処が放ってはおけない。

だからこそ、刷り込まれる前に早くからその人のあるがままを見守り信じることができる人が多くいることが世直しをする道でもある。

子どもたちへいつもの親心としての眼差し、「できないに気づけて善かったね」と許し認めることができる自分でいつまでもそうありたいと思います。

就職活道

社会人になるのに職業観というものがある。

自分がどういうことで生きていくのか、どういうことで自分を活かすのか、その自己実現の場所を社会に求めて本来は就職活動というものをしていくものであろうとも思う。

子どもの頃、何になりたいか、そういう夢を紙に描き、様々な人たちに触れながらその夢を大きくしていくのも自分というものが一体何に向いているのかを知る過程でもあるのであろうとも思う。

自分のままであるがままに自分が社会で活かせる場所を得たものは、無理をしなくても自然に楽しく人生を味わい成功者になることができる。

学生が学校を経て社会に入るということは自分の人生の道を決める上では大切なことであろうとも思う。

しかし、今の学校の状態を観ればどこでもいいからなんとか就職させようと躍起になったり、何とか生徒に来てもらおうと接待するかのようにサービスを振りまいたりする。さらに周辺企業も、聞こえはいいような商売をし実際は本来の目的を支援するものではなく自らの営利のみを優先するような理屈を持っていたりもする。

子どもたちが社会に出て就職をするという意味の本来の最初の目的から反れ、理念よりも保身やお金を優先すればズレはどんどん増大し最後にはまったく異質なものになっているのを無理やりにこじつけているような奇怪なものになってしまうのであろうとも思う。

理念を優先するということがないものはそのもので罪悪であるというのはそういうことである。

教育、医療、福祉、農業、様々な分野において理念というものは何よりも守るべき自分たちの道である。

先導者がその道を踏み外さないようにしていくことや、後人の人たちがその道に入るためにどのように門戸を開き導くのかはその道の先人たちの行じる生きざまや信念によるものではないかと思う。

子どもたちは、夢を持っている。
その夢こそが、未来人の証であもある。

その夢を目先の安定やサービスのためになくさせるようなことをするのは、先に社会に出ているものたちの責任が問われているのではないかと思ってしまう。

もう一度、その道の人たちは夢を守ることを考えないといけない。

そして、就職活道をする人は最期までお役に立つことが人の幸せなのだからもしも今の職場が、楽しい仕事、楽しい職場になっていればそれは道を歩み夢を実現する場に出逢っていると確信していいのである。

もしもそうなっていないのは、単に自分が職業観を納得していないからである。

社会で自立するのではなく、社会に依存してしまうようなところにいつまでもしがみ付いてはいけない。

自分の道を決めるために、自分から就職活道を本気で行い、自分は本当にこの道で生きるのか、生き方そのものに向き合うべきである。

そうしていく中で、決めたなら迷わずに夢を大きく持ち続けて日々に邁進していくことであると思う。

子どもたちのためにも、夢のために自分の人生をあるがままに生きれるような職場や就職の機会をこれからも実践していきたいと思う。