一体感とは

過去の一斉画一の学校教育を受けて育ち、今の社会人としてよく勘違いしている刷り込みの一つに正解を探そうとするということがある。

分からないからこそそれはやってみる価値があるということなのだけれど、分からないことはできないという思いだけではなくそれはやってはいけないとさえ思っている節もある。

優等生でいることが、もっとも怒られず価値のあることかのように感じてしまえば挑戦することよりも無難でいる事の方がいいことかのようにさえ勘違いしてしまうものである。

知っていることしかやろうとしないのは単に過去の教育の刷り込みである。

教科書通りにやることが正解なら必ずそこに何かしらの模範解答をちらつかせ、何をするにもその誰かの価値観が優先され正しいや正しくないなどとされる。

一般的な一斉画一的な教育は、あの暗記するための宿題を一方的に解かせるようにのように答えを先に学校が用意したものをやればいいというのが学問であるかのように思わせてしまうこともある。

最初からそれが当たり前だと思ってしまえば、考える力、つまりは最初から考えて自分から自分らしい正解を求めて挑戦するという力が衰えてくる。

今の社会でその教科書通りの答えや暗記能力がどれだけ必要だったか、大人になれり実社会に出てみれば何がもっとも必要とされているかはすぐに分かる。

実社会では、分からないことばかりだからこそ乗り越える力や協力して無限の答えを探し出す力や、創意工夫して応用を解くような力が必要になっているのにそれは社会に出てから学んでいたら子どもたちは大変な苦労を強いていることになる。

新入社員や、過去の高度成長期を抜けた人たちは「誰かに指示をもらってから自分で考える」ことが自立だと勘違いさせられてしまっている場合も多い。

この刷り込みがあると共生や貢献、協力の本質が理解できず本人もとても孤独になって苦心して豊かな社会の一員になりにくくしてしまう。

一体感とは、自立した中で共生し社会貢献の中で皆で豊かな繁栄と発展の社会を創造していくことで生まれてくるものだと思う。

その一体感とは、勘違いで皆が同じことを一緒にやっていれば一体感だと単に刷り込まれていることもある。

同じことをやっているのは単にクローンがたくさんできたというだけである。

本来、みんなが一体感を感じるというのは個性や価値観が異なったとしても同じ方向や目標に向かってそれぞれが自由に自立して取り組んでいることが本来の一体感である。

そこには誰かの指示などもなく、大きく言えばビジョンや理念、そして目標に向かって足並みを揃えて信頼しあい一生懸命に取り組んでいくことである。

それは草花でいえば原種の種が天や太陽だけを観てそこに向かって全身全霊で伸びていくような感じである。

様々な草花や野菜が野草が環境を構成し自由にそれぞれの役目を果たし全体として調和しているイメージである。

自然に皆の個性が生き生きと発揮されている一体感がある。

私はそれを本物のチームでの取り組み型だと思っている。

それもまずは自分の過去の刷り込みに気づくところからが挑戦なのである。
まずは、おかしな「勘違い」を捨て去ることである。

自分の勘違いに気づき、学び直すことからはじめることを大切にしていきたい。