就職活道

社会人になるのに職業観というものがある。

自分がどういうことで生きていくのか、どういうことで自分を活かすのか、その自己実現の場所を社会に求めて本来は就職活動というものをしていくものであろうとも思う。

子どもの頃、何になりたいか、そういう夢を紙に描き、様々な人たちに触れながらその夢を大きくしていくのも自分というものが一体何に向いているのかを知る過程でもあるのであろうとも思う。

自分のままであるがままに自分が社会で活かせる場所を得たものは、無理をしなくても自然に楽しく人生を味わい成功者になることができる。

学生が学校を経て社会に入るということは自分の人生の道を決める上では大切なことであろうとも思う。

しかし、今の学校の状態を観ればどこでもいいからなんとか就職させようと躍起になったり、何とか生徒に来てもらおうと接待するかのようにサービスを振りまいたりする。さらに周辺企業も、聞こえはいいような商売をし実際は本来の目的を支援するものではなく自らの営利のみを優先するような理屈を持っていたりもする。

子どもたちが社会に出て就職をするという意味の本来の最初の目的から反れ、理念よりも保身やお金を優先すればズレはどんどん増大し最後にはまったく異質なものになっているのを無理やりにこじつけているような奇怪なものになってしまうのであろうとも思う。

理念を優先するということがないものはそのもので罪悪であるというのはそういうことである。

教育、医療、福祉、農業、様々な分野において理念というものは何よりも守るべき自分たちの道である。

先導者がその道を踏み外さないようにしていくことや、後人の人たちがその道に入るためにどのように門戸を開き導くのかはその道の先人たちの行じる生きざまや信念によるものではないかと思う。

子どもたちは、夢を持っている。
その夢こそが、未来人の証であもある。

その夢を目先の安定やサービスのためになくさせるようなことをするのは、先に社会に出ているものたちの責任が問われているのではないかと思ってしまう。

もう一度、その道の人たちは夢を守ることを考えないといけない。

そして、就職活道をする人は最期までお役に立つことが人の幸せなのだからもしも今の職場が、楽しい仕事、楽しい職場になっていればそれは道を歩み夢を実現する場に出逢っていると確信していいのである。

もしもそうなっていないのは、単に自分が職業観を納得していないからである。

社会で自立するのではなく、社会に依存してしまうようなところにいつまでもしがみ付いてはいけない。

自分の道を決めるために、自分から就職活道を本気で行い、自分は本当にこの道で生きるのか、生き方そのものに向き合うべきである。

そうしていく中で、決めたなら迷わずに夢を大きく持ち続けて日々に邁進していくことであると思う。

子どもたちのためにも、夢のために自分の人生をあるがままに生きれるような職場や就職の機会をこれからも実践していきたいと思う。