夢と定義

よく勘違いし聞いてもわからないことは恥ずかしいと思っている人がいるけれど、言葉を聞いてもわからないということは決して恥ずかしいことではない。

人と人の間での大きな誤解に、「言葉の定義」というものがある。

著著やその人のインタビューなどで説明を聞けば、確かに頭では何とか理解できることがある。しかしその人の体験やその人自ら取り組んできた出来事は自分はその同じ実体験を積んだわけではない。

だとすれば、使っている言葉の定義も同じはずはない。

例えば、死と隣り合わせの修行を積んだ人と、なんとなくできそうなことで修業をしたと思っている人は同じ「修行」という言葉でも体験が異なるのだから使っている意味はまったく異なる。

これは「仕事」という言葉でも同じことが言える、今まで作業することを仕事だと定義し与えられた指示通りをやることが成果だと思っている人と、仕事とは夢を実現し社会に貢献することだと定義し、今まで誰もやったことがないからこそ自分からそれを学び最期までやり遂げることを成果だと思っている人では同じ仕事という言葉でもその定義は同じではない。

現実の世界は、人工的に加工されている学校ではないのだからそういうものは教えてもらっていることから正解を探すのではなく、誰も出したことのない答えを自分らしく挑戦してやってみることで自らを体験を積んでその自分の言葉を定義していくものである。

勘違いというのは、今までの自分のいた世界の刷り込みによって決まる。

これは私たちの現場の保育という言葉も、やってあげることだと思っている人と、見守る事だと思っている人ではその言葉の定義は異なる。しかし、やってあげてきた人が見守るとはの話を勉強して頭で分かったとしてもそれは単にわかった気になっただけで本当の意味でそれがやれるわけではない。やれる風には演じられても、実際にやることできない。それは単にやっていないからである。

今まで体験したことがないことを学ぶ際は、今までの自分の殻を破り、脱皮し新しい世界に飛び出さなくてはならない。それなのに、今まで遣ったことがある中から必死で模索し何かをやろうとしたりとやってみない場所から考えていていたらいつまでも変わらないという方を選択したことになる。

人が変わるには、言葉の定義を見つめて自分がどちらの言葉を使っているか、もしくは相手の言葉の定義に近づいているかを感じると善い。

そのためには、その刷り込みの罠に陥らないように、「きっと何かがあるのだろうや、きっとこの言葉は重いのだろうや、きっと自分は勘違いをしているぞ」と、実践している人や使っている言葉の定義の違いをすぐに察知し、そこをやってみて真似をし自らその言葉に近づいてみようと何でも挑戦することで最期には「体得」するのであろうとも思う。

夢を共有することで本質をともに取り組み常に挑戦しやりながら何度も何度も心技体をあわせることで、その言行の定義が一致し、以心伝心していくのであろうとも思う。

そこではじめてその言葉の定義が自らも掴めるのである。

自分でやってもいないのに、やることにもなっていないのに、言葉だけや本だけでなどは勘違いが増えるだけである。夢や目標のために、本気でやってみながら学び、真似び、言葉の定義を理解することで共通理解も生まれるのである。

自分とは世界で一人なのだから当然それは誰もやったことのない新しいことをやるのだから、自分らしくやっていくだけで誰かの正解はないのである。

だからこそ子ども心のようなワクワクドキドキするような好奇心を発動し思い切ってやったことがないことに挑戦していくことが夢を楽しんでいることである。

何かがおかしいと勘違いに気づいたらすぐに今までのことでやろうとせず、もっと新しい方や楽しい方をやってみようと選択していくことである。

使っている言葉は、自分らしく今を生きている証である。

この先も白紙なのだから自分にしかできないことをやっているのだと実感し、いつも夢を語り、夢に向かって挑戦してほしいと思います。皆の言葉の定義が合わさるとき、夢は実現すると思います。