供養の心

昨日は、郷里の落雁を製造する友人のところで落雁づくりをみんなで体験してきました。米粉に砂糖、あとは水を混ぜ合わせ、菓子型にいれて固めてから取り出し乾燥させるというシンプルな手仕事です。

しかしシンプルな手仕事はとても奥が深く、味わいがあるものでした。落雁のことはこのブログでも以前書きましたが、日本古来からある伝統の和菓子です。お寺にはきってもきれない関係があり今も大切にされています。

現代は、見た目が落雁である落雁風のものも増えています。本来は、砂糖がなかった古代において甘いものというのは大変貴重で高価なものです。それをまず仏様にお供えするという心が落雁には宿っています。

このお供えというのは、感謝の気持ちそのものを伝えるものです。今の自分があるのは、その前の有難い何かをいただいたことからはじまっている。そのものに深く感謝をする気持ちがお供えをする心でもあります。

亡くなった人や、もう随分前にお世話になった人にはそこでお会いすることも直接感謝することも物理的にはできません。だからこそ、心を伝え、心で接するようになるのだと思います。

心で接する時、心は体と一体ですから心を籠めて手仕事をすればそのものに心が宿るのです。心は宿ったものをお供えすればその心は、感謝というものに転換され届けることができるのです。

お供えものをお供えする側の心の中に、相手の心もあります。心というのは通じ合うことで伝わりますから、自分の心が通じ合うように調えることはとても大切なことだと私は思います。

宿坊で、供養の心を伝えていこうと考えていましたが落雁はとてもいい体験になるように思います。子どもたちに、先人たちの心、そして今を生きる私たちが大切にしていきたい心を伝えていきたいと思います。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

貝に導かれる人生

昨日から私が尊敬する友人が来庵しています。この方は、真言宗の僧侶で法螺貝を愛する人物ですが生き方が共感することが多く話をお聴きして学ぶことや気づきをたくさんいただけます。

もともと法螺貝の音色もとても情熱的でまっすぐで、その振動は全身から汗がでてくるように水を揺らします。夜中まで法螺貝談義で盛り上がりましたが、その中でも特に貝に導かれる人生についてのところは有難い気持ちになりました。

私の貝との最初の出会いは、宮崎の日南海岸です。出張で、車で海岸沿いを走っていたら海の中に光る不思議なものを発見し、スーツでしたがズボンをまくり上げて数十メートルの浅瀬を歩いていき手を伸ばした先に小さな巻貝がありました。

その体験の時の出会いが忘れられず、終生お守りとして大事に保管しています。その後の留学や海外での仕事、東京での一人暮らしのときもこの巻貝をいつも持って一緒に暮らしてきました。眠れないときは、耳に当て海を感じ、一期一会を思い出すときは手にとってお手入れをしていました。

そこからは千葉で貝磨きの方と出会い、貝を磨くことで光ることを学び、素晴らしい貝に出会うと磨き上げていました。そして、気が付けば法螺貝に出会い、法螺貝を磨き吹くことで多くの人たちとの出会いがはじまりました。

尊敬する友人も、法螺貝に導かれる人生を送られていました。幼いころにお父さんが吹いていた法螺貝に憧れ、そこから法螺貝に魅了され修行を積まれます。今では、貝がどのようにしてほしいかを直感し、貝の手入れをされ指導や修繕などを手掛けられます。

あくまで法螺貝を優先するので、法螺貝を売るのではなく法螺貝の声を届けるという生き方です。

私も古民家甦生をはじめ、あらゆるものの古いもの、懐かしいものの声を届けることを実践しています。それは同じ感覚で、古民家を売り買いしたいのではなく家がどうしたら喜ぶか、そしてこのいのちがどうやったら甦生するかということしか興味もなく、行動もしません。

たまにこれを仕事にすれば儲かるなどという人もいますが、そもそも動機や目的が子ども第一義からきているものですから、生き方が純粋でなければ、そして本志本業が一致していなければ生きている意味がありません。

生き方というものは、昔の人たちはとても大切にしていました。自分を守るために、切腹するほどに大切な生き方を優先していました。自分を守るということは、自分の純真や純粋性を守るということにほかなりません。

私の周囲には、そういう方がたくさんおられます。私自身も刺激され、生き方を磨く環境をたくさんいただけています。今回も、貝がつないでくれたご縁です。ありがたく、貝の声を聴き届けていきたいと思っています。

法螺貝に感謝して、法螺貝とともにこれからも歩んでいきたいと思います。

徳が循環する結づくり

昨日は、伝統固定種の堀池高菜を収穫しました。もともと30年間、耕作放棄地だったところを畑にし無肥料無農薬でもう10年以上になりますが今年の出来栄えもまた素晴らしいものでした。

虫もほとんどついておらず、葉も青々とし、茎などはまるで樹木のような頑丈さ。鎌で刈り取るとその周辺には高菜の香ばしい香りが満ちてきます。今回は、一緒に取り組んでいる仲間も参加しみんなで和気あいあいと畑ライフを楽しみました。

みんなで畑で歓声をあげながら、高菜の出来栄えを喜びそして分け合うと深い喜びと仕合せを感じます。種を蒔いてから半年間の間、猪被害に遭い、草とりもあり、何度も足を運んだことが報われる瞬間です。昨日はそのまま高菜を天日干しにし、高菜漬けをつくりこのあと古漬け作業に入ります。

高菜漬けもまたみんなで行いましたが、こうやって素材そのものが出来上がるプロセス、そして素材が美味しいままにみんなと分かち合える仕合せ。これはゼロから生産するからこそ味わえるものです。

私たちはいのちのバトンというものを繋いでいく存在でもあります。そのバトンをつなぐことが大切なのは当然ですが、実際にはそのバトンをつなぐまでの喜びが仕合せが幸福でもあります。

与えられた場所で、与えられた種と共に一緒に育ちあい、そして一喜一憂しながらも様々な物語を体験し感謝してみんなと分け合う。こんな仕合せは他にはありません。

私はこのような取り組みをする仲間を集めたいと、徳が循環する結づくりをしています。それが子どもを見守ることになり、私のバトンをつなぐことにもなります。

この人生は、自分のものですが自分だけのものではない。いのちはみんなのものであり、みんなとつながるなかで私たちはその恩恵や恩徳を実感できるのです。

私にとって今日の日は、特別な日の一日でもあります。陽気な春の気配と、ひなたの喜び、いのちがイキイキと躍動して仕合せを分け合える日。こういう素晴らしい日のような心のままに歩んでいきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

徳積帳とご縁

私は結というものを通して様々なことを結びなおそうとしています。生きている間は、さまざまつながりがありその結び目に気付きます。それを丁寧にほどいてまた新たに結んでいくこと。ほどくことも結ぶことも生きていることの醍醐味であり、人生の妙味はそのご縁の最中にこそあるように思います。

振り返ってみると、産まれる前からいただいてきたご縁によって導かれ今があります。それをほどきながら新たな結びをつなげます。それを生きているときにまたほどければいいのですが、ほどけないものは次への持越しになります。次の持越したときに、あまりにも結び目がきつすぎたりすればほどけません。それに絡まり合っていたらそれも時期が来なければほどけません。

不思議なことですが一つほどけ、二つほどけ、周囲が、あるいは誰かが、もしくは何かが偶然におこり奇跡によってほどけるものがあります。ほどけたとき、みんながまたそこから結びなおして調えていく。美しい結び目ができれば喜び、複雑に絡み合えばまた執着する。人間というものは、こうやって何度も心の循環を繰り返していくように思います。

自然界というものも結んでいます。そして生死を繰り返してほどけていきます。連綿と網羅し繋がっているこの宇宙で私たちは何度も結んではほどいてそのいのちを循環させていくのです。

新たな結をつくるのに大切なことは、あまり強い結び目にならないことです。すぐにほどけるようなゆるいつながり、そして何かあればすぐに結べるような柔らかで寛容な結び目を繋がり続けること。

徳積帳でこれから行っていこうとしている、私の結の本質はこのほどくことと結ぶことの中の場にこそあります。ご縁に導かれるように、ご縁を味わい、ご縁とともにいのちのつながりを子どもたちに結びなおしていきたいと思います。

感情と心

怒りというものがあります。怒りには一次感情と二次感情というものがあるといわれます。表面上で怒るのは、自分の思っていたのと違うという感情や自分の価値観では当たり前である常識やこうあるべきというものと異なるときに防衛手段として怒るのです。しかし、その背景やその奥には悲しみや苦しみ、そして自分の心や魂などの叫びなどもあります。感情というものは、ある意味で心や魂の一次感情です。その奥にあるものこそがその発端になっている元にあるものでもあります。

人は感情をバネにして成長していくものです。喜怒哀楽があるように、その感情は心で感じたことを表出させさらにそれを外に出していくことで新たなものが入ってきます。感情をコントロール事が大事なのではなく、その感情を味わい内省することが感情を調えていくことにもなるように思います。

悲しみには時薬というものがあります。ずっと荒波のように荒れていることはできず、海が静かにさざ波だつように心も感情も一つになり修まります。宇宙の心がどうなっているのか、地球の心はどうなっているのか、味わうことは風に吹かれ、雨に打たれ、光を浴び、星々と月の影に触れると心に沁みます。

私たちは常日頃、天候や気候、季節の感情に触れてはそれを味わいその心の奥深さに触れていきます。私たちの心は偉大なものと結ばれていて、その結ばれているものが自然の偉大な恵みを循環させています。

感情を見つめると心が観えます。そして心を観つめていくと天命に気づきます。天命に気づけば穏やかです。目に見える現実を直視することは、真理を探究するのに似ています。その蔭にあるもの、隠れているもの、深遠を辿ると静けさが来ます。

あるがままの弱さ、甘さも受け止めて、その時々の感情の奥にある己心と正対して今に精進していきたいと思います。

カグヤの由来

カグヤという会社の名前はかぐや姫から名付けられています。これは1000年前も今と変わらず語り継がれるような物語を子どもたちに譲り遺していこうと名付けたものです。歴史や物語には、普遍的な本質がありそれが子どもたちの心に深く響きます。自然の篩にかけられて遺ってきた物語には時代を超えた生き方があるものです。その生き方を遺し、それをつなぎ、甦生するというのは偉大な経糸や縦軸の伝承になります。

このカグヤの「かぐ」というのは、古語では光を意味したともいわれます。「かげ」という字も光を意味していて、月影や星影といったように影とはその光の余韻や陰影に映る光全体の様子を顕現したものです。そして火の神様をカグツチと呼び、天の香久山もカグヤマというのはこれも光を顕しています。

ちょうど昨日、天の香久山の歌枕を郷里の香春神社で詠みましたが、近くに銅鏡をつくる場所があり山頂で儀式をして古代には白い光を放ったいたことが想像できました。光を集めて、光を放つというのはある意味今もリーダーの役割であり心の明かりを燈す大切な古来からの徳の生き方です。

私は元々この世に存在したものを徳と呼びます。そしてこの光というものもまた徳の側面です。光はいつからあるのか、それは初めからあります。つまり初心です。その初心を思い出し、その光に感謝すること。これを御蔭様ともいい、御光様ともいいます。

この光の生き方とは何か、それは古代の人たちがしてきた生き方を今も自然に行うことです。私にとっては、鞍馬寺での信楽香仁さまがその一つの憧れた生き方であり御光様そのものでした。いつも天にお任せしてお気楽に極楽でいる生き方。暗闇すらもぬくもりにし、日々のお山の空気そのものに喜びと仕合せを感じておられました。

私たちは初心を忘れています。

改めて、カグヤという名前、そしてカゲという在り方。かんながらの道を邁進していきたいと思います。

懐かしい未来

懐かしい未来という言葉があります。この懐かしいというものは、むかしから今も続いているものです。そして未来とは今のことです。今の連続こそが未来そのものになるからです。

本来、むかしにどのようなことが行われていたのか。時間という概念のなかでは過去のことはほとんど覚えていないということになります。しかし時間という概念がないとするのなら、過去のことは今であり今があるというのは過去はないということになります。そうなると今はむかし、むかしは今となります。

つまりは過去がないのだから、今こそまさにむかしそのものを象っているということになるのです。

そういう意味で、神事というものは過去のものではありません。今のものであり、今もむかしと同じことを続けているだけということになります。

私は時間軸でいえば1000年前も100年前のことも覚えてはいません。しかし、そのころに同じ心で同じように場を設け、みんなで一緒に味わっていたであろうことは思い出します。それは今の心から思い出します。過去への推測ではなく、今感じているものに歴史やその当時の人々の心を直観するのです。

私たちは過ぎ去ったものを歴史と呼びます。しかし本当にそうでしょうか、この大きな勘違いと常識によって今というものがわからなくなります。今を生き切る、今にいるということの大切さは本当の自分たちを知り、本来の未来を実現するということです。

懐かしい未来というものは、そういうものであり私が実践で取り組んでいる暮らしフルネスもまた同様にこの今、此処に真心を籠めて生きることでもあります。それは私のいる「場」に来ればすぐに学べ伝わります。

子どもたちに懐かしい未来のままで喜びや仕合せの初心を伝承できるようにこれからも精進していきます。

暮らしと聴く

私たちは日々の暮らしのなかで様々な季節の変化を味わいます。その味わう中で、それぞれのいのちがどのように反応しているのかを観察しています。私たちは元々、光と同じように反射や反応というものですべてを認識できるようになっています。

つまり直接的ではなく間接的に物事を認識しているということです。そう考えると、私たちが直接見ていると思っているものは直接ではなく、物体から反射しているものを観ているということです。反射は関係性でもあります。そのもの、そのご縁、そのつながりではじめて認識が可能ということです。

だからこそ、その反応したもの反射したものは何かと認識するとき間にあるものを聴く必要があるように私は思います。聴くというもの一つも反射や反応です。音がそうであるように空気やそのものとの触れたもので形成されます。音も耳や体を水や空気が響きあって認識できるのです。

私たちが分解してみているものは、本来は一つではありません。外の雪一つでも、そのほかの多くと結びつき関係をもった雪ですから雪単体などはありません。風景のなかの雪であり、空気や水と一体となった雪ですから雪単体ではないのです。音も同様に、音単体ではなくその部屋や環境によって異なりますから音単体などないのです。

だからこそ暮らしは面白いのです。

ありとあらゆる生活の中で、私たちはその様々なものをつながりの中から感得し感知し感受します。それは非常に豊かなものであり、私たちはその一部としてそこに存在します。季節であれば、美しい山の中にいて自分も山の一部としての認識になります。その山の空気も、風も光もすべては一体として認識するのです。

私が「場」というものを理解するとき、私はこの場にあるすべてのものを聴くのです。聴くからこそ調い、聴くことで私たちはその場を創造します。私が場にこだわりそこで一円対話や聴福人をするのはその理由からです。

まだ科学ではわからないことは、自然そのものの本体です。その本体は、私たちはすべての感覚で直観できるようにできています。なぜ目が見えるのか、なぜ耳が聴こえるのか、心とは何か、そういうものはすべて同様です。

子どもたちから学び、子どもに暮らしと聴くを伝承していきます。