志とは何か

人は、志を持つことでどう生きるかという本命に出会います。この志というものは、何のために生きるのかという問いにはじまります。これはどの教育者も最初に自己と正対する道の入口になっています。

しかしこの志は、自己のものなのかといえばそうではないことがわかります。今まで連綿と繋がって続いてきたいのちへの問いです。つまりこのいただいているいのちを、私は何のために使うのかという問いです。

そしてその問いは、日々の結果で顕現してきます。

例えば、自己を超えているような不思議な力が発揮できたり、あるいは奇跡のようなめぐりあわせやご縁をいただいたりそこには人智をはるかに超えていくような命の充実を実感します。

生きているということの実感、活かされているという幸福のことです。

悠久の歳月をかけて、私たちの持つ「意味や目的」は醸成されてきました。自分の志だと思っていたら、その志は先祖たちや関係している世界すべてと結ばれていると感じることもあります。

つまりすべての繋がりを実感するための最も大切な生き方が「志」に集約されているのです。

志を持てというのは、すべての繋がりを実感するための入り口です。その人がどの志からすべてと結び直すのか。一人の力ではなく、偉大な一人の力になっていくのです。

だからこそ、何のために生きるのか、どう生きるのか、何を恩返しするのかと尋ねるのも繋がりに氣づくための大切な問いなのです。

すべての生きることの源流は、志と結ばれることからはじまる。今の自分を使って連綿と繋がってきたいのちが何を成し遂げようとしているのか。それに氣づくのです。

だからこそ、かの吉田松陰をはじめ先覚者たちは道の入り口にこの志を据えました。志と結ぶための学問は、人を主体的にし、育つ場を醸成します。

子どもたちが連綿と続いてきたいのちの繋がりと結び直せるように保育園に育つ場を調えていきたいと思います。

お水と暮らしと文化

11月3日の巳の日に、古民家和樂の敷地内に井戸を掘ります。なぜ今、この時代に井戸を掘るのか。何のために井戸を掘るのかと質問もあります。

今の時代は水道設備が充実しており、簡単便利に蛇口をひねればどこでもいつでも水が出てきます。コンビニや自販機でも水は売られ、誰でも飲料水は手に入ります。

井戸がなぜ必要なのか、なぜ今、わざわざ井戸を新たに掘るのかということです。

井戸の前に、そもそも古代から続くお水の信仰のことを少しご紹介します。文章に書くと長いのですが、大変有難いことに天皇陛下が~人の心と水-信仰の中の水に触れる~というタイトルで第4回アジア・太平洋水サミットにおける天皇陛下記念講演 – 宮内庁にて記念講演いただいている内容が読めるようになっています。

とても共感するのは、お水は生命を育むだけでなく、人々の暮らし、信仰、文化、そして地域のつながりを育んできた存在であると。だからこそ、お水を守ることは、人間の暮らしと未来を守ることにつながるという真意です。

お水を理解するのに、便利さや治水工事などから入るのではなく悠久の中で育まれてきたお水と一緒に生きてきた人々の暮らしや文化から見直してみるとどう感じるか。お水は人類にとって本当は何の象徴であるか。

それが今回、新たにこの土地この場、この流域の甦生のキックオフとして「井戸掘祭」をする決心をした理由です。

お水の周りには、人々の暮らしが甦ります。そしてそこには文化が醸成されます。井戸は単なる生活用水を利用するための道具ではありません。ここには、連綿と繋がってきた暮らしの源流が湧き、井戸端では人々の助け合い思いやり地域を大切に守り続けてきたいのりがあります。

だからこそ、今こそ新しく井戸をみんなで掘るのです。

お水が結ぶのは、何か、それを一緒に体験して氣づきこの時代だからこそ改めて先人たちのいのりを伝承しきたいと思っているのです。

今年はずっと弁財天やお水をいのり暮らしてきました。その大切な節目の年、そして文化の日に新しいお水の文化を創造していけることに歓びと仕合せを感じます。

水脈を調えることや地下のお水を守り続けることはこれから訪れるであろう日照りや洪水、大雨や干ばつ、様々な自然災害と向き合うのにとても大切な場になります。私の先祖もみんな雨乞い神事をしてはお水の信仰を磨いてきました。暮らしを支えているのは、お水だからこそ地域をつなぎ、地域を守るのもまたお水なのです。

本日から井戸の場に結界をはり、丁寧に場を調えていきます。

子どもたちのためにも、一緒に参画していただけますと幸甚です。井戸掘りは一日で行います。ミズムスビを主宰する石井清輝さんのご協力のもと掘っていきます。

井戸掘り祭 | 徳積財団

感謝の稲刈り

昨日は、無事にみんなで稲刈りができました。

ここまで見守ってくださっていた存在、そして太陽やお水や大地、虫たち風、あらゆるものへ感謝が湧きました。

身体はヘトヘトですが、この豊かな疲れと喜び。

稲架かけした稲が夜空や朝焼け、そして田んぼに刻まれ。

こんな美しく懐かしい風景があと何回、観れるだろうかと。

これはやっているからこそ、取り組んだからこそ観れる光景です。

心からご縁に深く感謝しています。

いつもありがとうございます。

まるで御礼メッセージのブログですが、こんな日もあっていいなぁと。

新たなご縁の深まりに感謝の連続です。

暮らしの源流

今日は、むかしの五穀田の稲刈りです。暮らしを通して仲間になってくださった結のみんなが集まって、一緒に手で一株ずつ稲刈りをしていきます。約2反ほどありますから結構な作業量です。お誘いするのは単に労働力が必要だからみんなに集まってもらおうとしたのではなく、農業イベントをしたいわけでもなく、お金儲けや承認欲求などでもありません。

新しく「暮らしを甦生」するためにみんなでやっている実践と試みです。

現代は労働力としてはほとんどが機械化されて簡単便利に短時間で収穫を終わってしまいます。別に機械を否定しているのではなく、私も機械を借りて一部は収穫しますしとても助かっています。しかしこの作業を単に労働力だけと割り切って働いていたら、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた伝統や知恵などの暮らしが失われていきます。

暮らしは労働力の方ではなく、関係性や場の中に存在しているからです。

もともとむかしの人たちは、常に自然に寄り添い自然と一体になって「暮らし」を営んできました。自然に和合するから季節に合わせて行動を決め、自然に与えられた短い旬の時季を失わないように大勢で助け合い田植えをして、稲刈りもしました。みんなで自然と共に生きて、みんなで助け合うのです。これを暮らしと呼び大切に結んできたのが「結」という共同体です。

「結」では三浦梅園の慈悲無尽講のように、病気や不慮の事故などの時の共同体の支援がありました。困ったらみんなで助け合い、お互い様おかげ様と関係を何世代も大切に結んでいきました。土地で自然と暮らしていくというのは、関係を常に甦生させ続ける工夫が要ります。現代は面倒だと、都会のように他人とはあまりプライベートには関わらないようにと何でも距離を置きますが田舎では何かあった時のためにと日頃から関係を結んでいきます。

何かあった時というのが、自然災害や天災、天候不順による水不足や洪水などに備えるためでもあります。むかしの暮らしは自然と一体ですから防災と常にセットで取り組んでいて、これは現代ではフェーズフリーとも言いますが日常から防災になるような暮らしを営みました。保存食をはじめ井戸端や結などもその典型です。つまり防災=暮らしでもあったのです。

現代では、お金や経済活動だけの共同体になっていますが防災で考えるとき今の日本はこれで人々の今後の暮らしが果たして無事に守られるのかと疑問に思います。

一つの田んぼを守ることは流域全体を守る事であり、場を調えることは人の関係性を調えることでもありました。

このような当たり前のことをしなくなり、教育も何か暮らしとかけ離れた労働力としてしか人を見なくなれば次第に労働力以外に大切にしてきた暮らしが消え、最後は人と自然の営みも失われていくのではないでしょうか?

だからこそ、今こそ新しい暮らしの関係性を結び直しが必要だと感じて人が「育つ場」をつくろうとお声掛けしているのです。

この育つ場には、現代で分かれた分断され分業された仕事が丸ごと全部存在してイキイキと学び合えます。食事も教育も介護もお祭りも信仰も伝統も文化も渾然一体です。

こういう場において人は育つ、そして人が育つだけではなく流域も育ち国家も育つのです。それが「暮らしの源流」なのです。それをフルネス(もっともっとではなく、足元の足るを知る喜び)にしていこうと提唱したのが「暮らしフルネス」なのです。

人生の真の幸福は徳を積むことです。当たり前のことを書いて何を最もだといわれるかもしれませんが、当たり前の初心をいつまでも忘れないようにしたいと思っているのです。

今日も、一日一生、一期一会の場。

徳が循環するようないのちが喜び合う暮らしを、感謝と共に今日も世界の子どもたちと人類の未来のために実践していきます。

無一物中無尽蔵の銀杏拾い

現代は何でもお金の価値に換算して購入する時代です。特に産業革命以降、大量生産大量消費を実現してから人々から手仕事が消え、人と人、人と自然との関係性も減退していきました。誰がどこでどのように、何を守り育て、そして分け合い助け合いそのものが自分の手元に来たのかなどは考えず、もっぱら他の商品や海外の輸入品と比較して高いか安いかの判断価値基準しかありあません。

例えば、お米であっても機械で改良されたお米を大量生産をするようになりそれが農協に集められ他のお米と混ざられてブランド米として市場で販売される。田んぼがどうなっているかや誰がどのようにしてどのような思いで、そして場との関係性などは知る必要もなくなっています。

本来は、ご縁と関係がなければ譲ってもらえないものですから場に関わり、一緒に働き、手伝い、分け合い、譲り合い、思いや心などの日頃の結びつきがあってはじめて手元に入ってきた存在でした。これはお米に限らず、すべてのことがご縁で結ばれた「暮らし」の中で営まれてきたものです。

今週の日曜日は古民家和樂で銀杏拾いを行います。

今では便利にスーパーなどに行けば銀杏は安価で購入できます。誰かが拾ったのか、どこのどのような環境の銀杏かなどは、関係もなく購入して食べればどれも同じようなものでしょう。

しかし一年間、感謝して銀杏と暮らし、銀杏拾いのために丁寧に下準備をして銀杏が傷まないようにシートをかけ、拾ったものの果肉を井戸水で丁寧に洗い、一つ一つを秋の澄んだ太陽の光で天日干しをする。数十粒つくるのにも大変な手間暇と真心を使います。

この銀杏のご神木は、百年以上ずっと故郷の関の山から吹いてくる山風を受け、棚田の栄養豊富な地下水脈を得て古民家の懐かしい風景と一体になって地域を守っている銀杏の木。この暮らしと銀杏の木の御蔭で、この季節は私たちの活動を一緒にしてきた人たちと銀杏を食べて心安まる憩いの場になっています。

便利な時代、何でもサービスでもお金で解決します。しかしご縁も関係性もないお金中心のお金の残高ばかりを気にする生活は疲れます。暮らしや関係性の残高をよくよく観つめ、私たちが実践しているような暮らしフルネスを学べば何もない中に本来の仕合せや喜びがあることに氣づき直せるものです。

まさに銀杏の木そのものが「無一物中無尽蔵」の世界を教えてくれます。

心の奥底にある偉大な豊かさに触れるご縁を銀杏と拾いに来ませんか?

 

育つ場

暮らしというと、日々の生活のことを指します。しかしこの暮らしという言葉はそれぞれの認識で異なります。言葉というものは、その人の経験や観念、価値観などでも意味が異なります。深さも広さも認識も異なりますから実際にはきちんと共通理解することができません。あくまで文字は脳が理解の入り口としてイメージできる範囲で道具として用いられます。

しかし共通理解は、同体験などを通して深まります。そこで言葉の定義や意味も後から追いついてくるものです。理念というものを用意し、それをみんなが日々の実践や行動と振り返りを通して学んでいけばその体験したもの同士は理解が深まり言葉の意味も変わってきます。

そのうち、理念の一歩先へと成熟していくのが「場」です。

いちいち言葉にしなくても、また誰かがいなくても、それは「場」によって理解されます。場ができてくるというのは、文化になるということでもあります。

文化ができれば、場がはたらき、それまでの本質やご縁や関係性が結ばれていきます。そして文化ができるには、それが連綿と続けられる循環が必要です。そうやって悠久の流れが循環してきた道の跡が文化になるのです。

現代は文化財だけ残して関係性が消えてしまったものがたくさん増えています。

使われなくなった寺社仏閣、古民家などもそうです、休耕田やかつての信仰のお山。路傍にある石像や井戸なども同じです。

かつて「育つ場」があったものが、分断され役割が失われ伝統や伝承、文化が途絶えました。

本来、人が育つというのはどういうことか。

これは「じねん」といって、人間の計画することよりも先に動いている育つ力があるということです。

つまりその場に元々あったご縁やはたらき、あるいは神はからいに対して人間も一緒に結ばれその徳がより発揮できるように調えるということ。

そう考えてみると、暮らしの喪失とはじねんの喪失なのです。

私が子どもたちのために徳積循環をいのり行動している理由もその一点です。理念を場に置き換えるというのは、じねん本来の役割を発揮させるためであり子どもたちのじねんを見守りよりよい人類の未来のために流れを途絶えさせずに次へその恩徳を還していくためです。

時代の変わり目、心のふるさと、かんながらの道に氣づいた人たちと育つ場を創っていきたいと思います。

開山の心

最近、守静坊には全国各地で山を開く「開山」する人たちが訪ねてきてその方々の法螺貝を創っています。

開山を辞書でひくと「寺院を初めて開くことや、その寺院を開いた僧侶を指す」とあります。仏教においては、そこから開創した僧侶を「開祖」と呼びます。他にもある物事の創始者や、初めて成し遂げた人を指します。

つまり開山とは一般的な山を人間の都合に合わせて切り拓くことをいうのではなく、もともとその山に具わっている験力や聖性、神秘を発見し、人がそこへ入っていく道を開くことをいうように思います。

守静坊に遺っている木製の護符を確認すると、役行者の瑜伽者であると記されています。この瑜伽者(ゆがしゃ)とは、瑜伽(ヨーガ)を実践する人、つまり心と身体を調え、修行を通して自己と神仏・宇宙の真理との一致を目指す人のことをいいます。「瑜伽」とはサンスクリット語の yoga の音写で、もともと「結ぶ・つなぐ・一つになる」という意味になります。つまり瑜伽者とは、自らを調え、天地自然や神仏の働きと相応し、一体となることを実践する人という意味になります。

そして役行者はそれを顕現させた人物です。修験道の開祖は役行者であるといわれます。この人物はお山にて自らの心身を自然や神仏の働きと調和させていく「瑜伽者」であったということです。

役行者が各地の霊山を「開いた」と伝えられるのは、お山そのものの霊性を発見し、ある時は滝を行場として見出し、またある時は岩や洞窟に神仏の気配を感じ、峰や尾根や谷を修行の道として境界線を越えさせ、お山と人との関係性を結びました。

かつて二宮尊徳が人間の心を変えることを「心田開発」ともいいましたが役行者の修験道の開山もまさに同じ意味であろうと私は思います。

つまり「お山の中で心を修める。」

このシンプルで当たり前なことが修験道の要諦ではないかと私は思います。心というものは、人間のことです。開山というのは、お山の話ではなくお山の中で人間が何に氣づくのかということです。

私は鞍馬寺にご縁があり約20年ほど貫主様にご指導いただきましたが、その中心は「お山の心」でした。お山の心がどうなっているのか観えるかと、常に自問自答をいただきました。

結えあっていまは英彦山にて場をいただき、お山に触れさせていただいていますが心の在処や心の循環、またいのちとの関係性を結び直す日々を法螺貝と共に暮らしています。

明日からまた法螺貝講習ですが、この辺のお話を少し英彦山の歴史を兼ねてしていこうと思います。大勢参加されますがどうかご道中、お氣をつけてお越しください。

人間の意識

昨日は、早朝から有志で英彦山の守静坊周辺からお山のお手入れをやってみました。大地の再生の仕組みを学び、自分たちでまずは自然に触れてまず実験と実践をしてみようとする試みです。

まず驚いたのが、先日矢野さんが来て診ていただいたところにモグラが来て土をほぐしてくれていました。きっと循環がはじまった場所にミミズが集まり、空氣や水脈の通りがよくなりそこにハタラキが活性化したのでしょう。

他にも宿坊の横に流れるお水が安定して綺麗に流れていたのと、この一帯だけ心地よい風が通っていたのが印象的でした。

定点観測や経過観察によって、はじめて自分たちの関与で自然がどのようなハタラキをしてくださっているのかが学べます。自然の有難さというものは、非常に尊いもので人智を超えたものがあります。

自然に対し人間が触れるところなどは果たしてどれくらいあるのかと改めて氣づかさられるものばかりでした。有志達との振り返りでは、それぞれに新たな発見や氣づきも多く、心地よい疲れとみんなの自然への眼差しに心身が癒されました。

実験や実践の面白さというものは、自然から學ぶ醍醐味でもあります。

和樂の「むかしの五穀田」でも同様に、自分が自然に対して敬虔な気持ちで謙虚に関われば関わるほどに自然は多くののもの見せてくれ日々に学び直すことができます。生き物たちは素直に自分の関与に対して応対してくれます。

これは「意識のつながり」ともいえるものかもしれません。

ここ数年ほどお月さまのリズムで暮らしを調えていますが今朝も美しい月が応対してくれていました。同じようにそこに在るものであっても、自分の意識が在ると思っていなければ出会うことはありません。

まさに周波数や波動のように縁起は、意識や関係性の中で結ばれているものです。

お山に対してどれくらい深く敬虔で謙虚な氣持ちで関係性を結んでいくか。お山の暮らしがどれくらい身近に感じられているか。

これから毎月、満月の日には有志で集まり遊行とお山のお手入れの実験と実践を続けていくつもりです。来月は27日(日曜日)に実施します。

ほんの微細な力であっても自然のハタラキは、その真心に感応して応対してくださいます。大切にしたいという人々の意識や氣持ちに応えてくださいます。

流域を創ってくださる英彦山へのご恩返しやお水を守ることも、木々を守ることも、そして生き物たちの暮らしを見守ることもまた一人ひとりの「人間の意識」からはじまるものです。

丁寧なお山の暮らしを通して、英彦山から日本全体が快復していくように場を調えていきたいと思います。

山武志の生き方

今日から英彦山で大地の再生の仕組みを使って宿坊周辺からお山のお手入れをはじめます。先人たちがやっていたように、もう一度、お山の暮らしからお山全体で起きていることを通して地球全体のことを洞察していきます。

自然は末端で行われていることが全体になり、全体は末端に現れるともいいます。以前、末梢血液を診断する治療を受けたことがありますが血液の先がどのようになっているのかを顕微鏡で観察すると自分の体内の血液にどのような汚れなどが溜まっているのかなどを見る機会がありました。海のゴミのように流れ着いたどころのゴミが健康状態を知らせます。

現在は、1950年ごろに人工的に開発された化合物、PFASの影響で環境が汚染されています。このPFASは非常に安定した性質を持ち、自然界でほとんど分解されません。人体や生物の体内に蓄積しやすく長距離を移動するという特徴があり土壌などの環境中に残留し、人の健康や動植物の生息・生育に大変な悪影響を与えます。

ゴミ問題と掃除の関係は、人類最大のテーマです。

掃除をするようにお手入れをしていかないと、この世の中はゴミの山のようになります。ゴミを増やして自然の分解もできないようなものをつくり、最後は人間が住める場所が次第に細くなっていく現実。これは環境問題でじわりじわりとその日が近づいてきているのを実感するばかりです。

実感するからと何もしないでいたら、さらに環境は悪化していきます。だからこそ、小さなお手入れをみんなでやること、お掃除をみんなで取り組むことで環境は調っていくものです。

場が調ってくれば、自然の分解や快復力、免疫力が向上して循環が促進されます。これは人体でも同じことです。人体を調えていけば、循環がスムーズになり健康が保たれます。自然の仕組みも同様です。

だからこそ、小さなことだから意味がないではなく小さなことから取り組んでいこうとすることが自然の循環やリズムと共に生きるということです。

経済活動でそれどころではないと後回しにしているのかもしれませんが、大病になればさらに多額のお金を出費するし、対処療法は副作用や後遺症が甚大です。

体質改善というのは、日々の暮らしの中で行うものですから先人の智慧に倣い誰でもできますから最初の一歩を踏み出してほしいものです。

ということで、本日も有志で取り組みます。

お山を知り、お山を学び、お山をいのり、お山と共生していくのは山武志の生き方です。愉快に豊かに毎月取り組み、この場所から世界を易えていきたいと思います。

根源の要諦

むかしの五穀田は、無肥料無農薬の自然農で取り組んでいるためたくさんの生き物たちが田んぼで生活しています。日々に田んぼの見回りをしていると、あらゆる昆虫たちや水中生物たちに遭遇します。多種多様なもの、また大小さまざまなものがいて生き物観察が大好きな自分には好奇心の宝庫です。

昨日は、掌ほどのショウジョウバッタやゲンゴロウの幼虫、ミズスマシなどを見かけました。お水をかけ流して循環を保つ工夫をしましたが、御蔭でたくさんの生き物たちが増えていきました。

ゲンゴロウなどは現代では絶滅種になり、当たり前にいるはずだった田んぼでも最近では見かけなくなっています。その理由は、農薬や人工的な田んぼの環境が影響を与えたといわれます。

単に昆虫たちや生物は農薬が田んぼに入ったから生きものが生きられなくなるわけではありません。毒によって生き物全てが全滅するイメージもありますが、ある特定の生き物にだけ作用する毒であったり、植物には影響がないような仕組みでつくられている農薬もあります。

しかしなぜ農薬を用いたら田んぼの生態系があっという間に貧しくなるのか、その理由をよく洞察するとその行為が生命の循環を途絶えさせ、いのちのつながり分断するところに原因があることがわかります。田んぼではまず藻や微生物を小さな生きものが食べ、その小さな生きものをヤゴやゲンゴロウが食べ、さらにカエルや鳥へとつながる、無数の関係によって成り立ちます。

そこに農薬が入ると、まず薬剤に感受性の高い昆虫、甲殻類、藻類などから減っていきます。すると、それらを餌にしていた生きものも生きにくくなります。さらに捕食者が減れば、今度は一部の生きものだけが増えていき田んぼ全体の均衡が崩れはじめます。つまり特定の虫を駆除したつもりが、お互いに共生しあっている生き物たちの生命のつながりを断裂させてしまうことになるのです。

生態系というのは、「すべて共生と貢献で循環」をしています。その象徴としての田んぼは、多くの生きものがそれぞれの役割を果たすことで自ら均衡を保つ場です。その一部が失われると次の生命へ渡されていたものが渡らなくなり、循環そのものが細くなって最後には関係が失われます。この関係性の消失が絶滅の本質です。

人間の一部の都合によって、特定の自然の循環の何かを止めてしまう。それが小さな分断や生命のつながりを弱くして関係が終わる。無縁社会とも私が呼ぶものです。人間社會もまた、これと似たようなことが起きているように感じるのは私だけではないはずです。

だからこそ、生き方として子どもたちにどのような未来や環境を譲り遺していきたいかを真摯に正対すると自然の田んぼの中で一緒に生態系の関係性を甦生させていきたいとこの「むかしの五穀田の甦生」に取り組んでいるということです。

短期的にみて恩恵を受けるということはたくさんあります。しかしその短期的な恩恵は、結局は視野狭窄にし短絡的に今だけ乗り切ればという発想になり対処療法の連続になります。

田んぼであれば、人間にとってデメリットが出たらすぐに対処療法しているうちに田んぼの生態系が自然に保ってくれていた均衡が崩壊して、その対策に必要なお金だけが不自然に大量にかかるという状態になるのに似ています。

自然に任せるというのは、余計なことをしないということです。

余計なことというのは「循環を切らない」ということです。

そろそろ人類は、環境問題をはじめ社会問題の本質に氣づくタイミングであろうと思います。関係性というものは、今を見直し身近な小さなところからも甦生できるものです。

こんな一つの田んぼの小さな改善ごときで人類や世界の何が変わるのかと思うかもしれませんが、循環というのは誰でもはじめはみんなほんの小さな関係性の甦生からはじめていくのです。

保育の領域も、場の領域も関係性を調えてこそいのちが健全に育つもの、つまり循環の根源の要諦は一つです。

引き続き、身近なむかしの五穀田の甦生を通して學びに来る方々と共に実践を通して世界を豊かに愉快に易えていきたいと思います。