不思議さ

一昨日から長いお付き合いのあるメンターの方が場の道場に来られています。御年85歳ですが、まったく年齢を感じさせず目もキラキラとまるで10代のようです。一期一会の哲学を教えていただいてからメンターとして尊敬して、何度か生き方をみせていただきました。その御蔭で、私も将来、どのように生きていけばいいかの指針をいただきました。

メンター自身も親の介護があり、またコロナもあったのでほとんど移動もせずに生活していたこともお聴きしました。しかし、相変わらずの好奇心であらゆる体験を大切に学び、体験から得られた驚きをたくさん私にしていただきました。

この体験からの驚き、まさに好奇心ですが英語ではセンスオブワンダーともいわれます。この解釈は色々とありますが、神秘的な体験としてもいいし、五感をフル稼働して直観的に得られる体験でもいいですがそのどれもが不思議だという驚きと共にあるものです。

私たちは生きていく中で、不思議だと思う感覚や驚くことが減ってくるものです。知識が増えれば増えるほどに、経験をすればするほどに驚きは減っていきます。

私もよく文章や言葉で伝えることも多いのですが、不思議さが観えない人たちはよくだいたい分かったという言い方をします。何がだいたい分かったのかもよくわかりませんが、そのだいたい分かったという言葉が不思議な言葉だなと感じることもあります。

そもそも不思議なことを不思議なままに理解するというのは、純粋な心が必要です。まるで子どもが最初にこの世の自然の道理や現象に触れた時のように驚きの連続です。

冷たいものを触って冷たいと感じる、誰かに声をかけられて耳に音が入ってくる、そして目に映像がうつってくる、そんな驚き、不思議さに触れた感動です。

そういう感動をいつまでも忘れないことは、私たちがいつまでも瑞々しい感性で神秘や不思議を追い求める子どものような心を持っているということでもあります。

私は子ども第一義を理念に、子どもに遺したい憧れた生き方や働き方、あるいは子孫への徳を伝承したいと思っていますからこのメンターの実践は尊敬し私もそうありたいと思うものです。

一期一会に生きるというのは、不思議さや神秘性、そしてご縁を結んでいく生き方です。いつも有難い邂逅とご縁に感謝しています。これからも驚きを味わい、豊かで仕合せなご縁を結んでいきたいと思います。

精進の結晶

人はいろいろなことを抱え込んでいるものです。そのことから様々な人間関係の問題が発生したりします。自分というものの認識をどのように本来の正しさにしていくか、そしてどのように自分を素直なままで保っていくか。そこに人間力が必要になっていきます。

この人間力とは、自分を育てていくことで磨いていくことができます。この世に生を受けてから、色々なことに取り組むなかで人としてどうありたいか、人としてどうするか、つまりは「生き方」を創っていくのです。

人生は何をしてきたかと訊かれたら、生き方をしてきたことを話すものです。何をしたとかの自慢話ではなく、自分の初心を話してどう生きていきたいかを伝えるのです。それが本当の意味で自分を生きているということだと私は思います。

自分らしく生きるには、人間力が必要です。今の自分のままでも、周囲に愛され応援され、そして思いやり優しくいれるようになるということです。自分の勝手な思い込みを持たないことや、信義に反しないこと、そして甘えずに与えること、相手を尊重すること等々、日々に気を付けて反省し自分と調えていくのです。

私も毎日の日記をはじめ、感謝ノートや自己チェックシート、一期一会語録、このブログもですが向き合っては自分を創りつづけています。

自分が興味があり好奇心もあり色々と特性があります。しかしそれが行き過ぎると周りに迷惑をかけたり傷つけてしまいます。気を付けても生き方の癖はなかなか改善されません。でも気を付けようと努力していたら少しくらいは自分のことを謙虚に見つめて創ることができてきます。そういう日々の繰り返しで、人間力を磨くのです。

みんな人間力を磨いていこうとする環境になれば、人はみんな思いやりを持てる人たちになります。文化というものは、本来はそうやってみんなで創りあげてきたのでしょう。

日本文化の真髄は、この人としてどうあるか、その生き方を創り磨いてきた先人たちの精進の結晶だったように思います。

これからも子どもたちのために、人間力を高め自分を創っていきたいと思います。

尊重し合う社会

ゆるされない我儘というものがあります。これは相手のことを配慮せず、自分の好き勝手にやりたいために周囲に多大な迷惑をかけることです。人は一人で生きていませんから何をするのにも、誰かのお手伝いが必要です。特に親しい人には余計にお手伝いを必要とします。お互いに親しき中にも礼儀ありで、その人を大切にしていくことで自分が配慮する気持ちが欠けていないかと、自分に気づくためにも必要なことです。

甘えもゆるされない甘えというものがあり、他人への配慮がない、相手の気持ちを慮ることもなく自分勝手だと多大な迷惑をかけてしまいます。毎回、相手を慮らず自分の都合を優先すればするほどに周囲は嫌な思いをします。そしてその人の大切なお時間やお金、その人のもつ人間関係、大事にしているものまで蹂躙し搾取していくのですからとても傷つくものです。

しかし我儘と甘えがある自分勝手な人は自分のことばかりに意識があるため、そうしていても相手の気持ちが理解できません。自分ばかりの感情を優先し、同様に傷ついている状況が相手にも起こっているということがわからないのです。人間はお互いを尊重していなければお互いに酷い扱いを受けたと感じるものです。

人はそれぞれにその人なりの価値観があり、世界観もあります。そしてお互いに色々なものをシェアして助け合って人生を謳歌しているものです。お互いを思いやることは、同じ場所、同じ時代に生きるものとして大切にしたいところです。

世界では戦争が起きます。その戦争もはじまりはどこかといえば、誰かが我儘をいい、そして配慮のない行動から発生します。どこかの国の思い通りにならないなら戦争をする、あるいはコントロールしてできないなら破壊するということではあまりにも虚しいものです。それで周囲は多大な迷惑をこうむります。いつもはじまりは一人の我儘から、そして配慮のない甘えから発生してくるように思うのです。

子どもたちも、幼少期より集団や社会のなかでその大切さを学びます、そして大人になっても学び続けます。みんなが喜び合う楽園、仕合せを循環するように協力し合い、助け合い、学び合うのです。

保育の志事に取り組んできましたが、まだまだ保育の奥深さを学び直しています。子どものモデルになれるよう、生き方を見つめていきたいと思います。

子孫のために今できること

ものづくりをするとき、捨てることを考えてものづくりするよりも売れるものを考えてものづくりを優先するところがほとんどです。その結果、大量のゴミが発生します。しかも、そのゴミの中には分解できないようなものもあります。それはそのまま土に埋めたりしていますが、何万年も何十万年も土の中で分解されずに循環しない環境にしてしまう有害なものが多くあります。

みんながそんなことをしていたら、この地球には循環しない場所がたくさんうまれその後処理に子孫たちが大変な思いをするということが予想されます。

私は空き家のことや古民家甦生を通して、それを実感してきました。本来は、子孫のためにと先人たちが知恵を結晶して建てたものが今では負の遺産となり破壊され続けています。そしてその逆に、環境を汚し後片付けもできないような建物ばかりを建てています。

自分の子ども、そしてその先のずっと子ども、孫たちや子孫たちがどんな思いをするのか、想像力が欠落してしまっている現代ではまるで空気のように当たり前になってしまい解決しようとすることもありません。

それくらい今は、消費経済、資本主義の流れを換えることができません。自転車操業をして今の体制で走り続けなければこけてしまうからです。一度、コロナで立ち止まってもまた周囲の流れに乗っかってしまい元の木阿弥です。

では孫たちのために、子孫たちのためにどうすればいいのか。

それは私は徳積循環経済を創るしかないと思っています。今の循環を換えるのです。ちゃんといのちや、純粋な子どもの心のような思いが循環していく世のなかにしていくのです。そのためには、どうにかしてでも別の流れを仲間を集めみんなで創っていくのです。

それが私の考える結づくりの意味です。

本当は、そうやって先祖代々、先人たちは孫や子孫のために本当の経世済民に尽力してきました。石田梅岩が倹約を中心にしたのも、二宮尊徳が報徳を中心にしたのも、三浦梅園が正徳といったのも、渋沢栄一が道徳経済合一としたのもすべては子孫のためです。

今の自分のことだけ、自分の世代だけのために経済をやるというのはあまりにも寂しいことだと思います。そしていつまでもそれをやっていたら、冒頭で話したようにいつの日か子孫たちに大きなツケをまわしてしまいます。それは先人たちも先祖も望んでいないことは簡単に想像できます。

だからこそ、私たちは今こそその本質に気づき徳積循環経済に舵を切る必要があると思います。これは、誰にでもできることですしすぐにでも実践できるものです。しかし一人では流れを換えるまではかなりの時間がかかります。だからこそ、みんなで結づくりをしてその勢いを強くする必要があると私は思います。

この場所で、まずはその徳積循環経済をつくる体験と結に参加してほしいと思います。子どもたちの未来のために、今しかやれないこと、自分にしかできないことをご一緒していきたいと思います。

花粉症とデトックス

昨日は、英彦山の宿坊のお掃除やご祈祷などを行いました。あまりにも空気が美味しく、清々しい風が吹いていたので花粉症のことを忘れていたら朝方から大変なことになっています。

花粉症というのは、人間の免疫の防御システムが過剰に反応することからだといわれます。身体というのはとてもよくできています。アレルゲンが体内に入るとマクロファージという細胞がそれを異物とみなして食べはじめます、その食べたという情報がリンパ球に伝達します。するとそのリンパ球はそれを異物と認識してすぐに防御するために抗体をつくるのです。この抗体が血液や粘膜の中にある肥満細胞に結ばれます。そして再びアレルゲンが体内に入ると抗体のついている肥満細胞の表面でアレルゲンと抗体は合体します。そして炎症を引き起こすヒスタミンロイコトリエンなどの化学伝達物質が肥満細胞から出てヒスタミンが知覚神経を刺激することにより鼻水やくしゃみがはじまり、ロイコトリエンは鼻粘膜を刺激して鼻づまりを引き起こすというメカニズムだそうです。

先日、コロナにも感染したときに感じましたが自分の免疫によって自分が大変しんどいことになるという感覚です。よかれと思って防御するのが行き過ぎると自分を攻撃するようになるということです。

アレルギーは、一般的にはデトックスの量が追いつかないことで大変になるといいます。本来は、防御が安定して入る分が出ていればいいのですが溜まってしまうとそれを出そうとして苦しくなります。

体外に排出する方が増していればいいのですが、入ってくる分があまりにも多いと対応することができません。この時機は、特に春先で冬からの毒素排出をしていますから身体の声を聴いて対応していくしかないように思います。

デトックスに力をいれる、浄化ともいいますが様々なことを清らかにして排出を高めていきたいと思います。

一夜漬けと知恵

昨日は、高菜の一夜漬けを食べましたがとても美味しくみんなで舌鼓を打ちました。古漬けも美味しいですがこの新漬けの美味しさは旬の味わいもあります。

もともと高菜はそのままでも美味しいのですが塩が入り漬物になると絶品です。ぴりりと鼻にあがってくるからしの風味が食欲を濯ぎます。本当に美味しい一夜漬けは、ご飯の御供としては最高です。

戦後、昭和のころまでは私たちは各家庭でみんな漬物をつくってきました。世界に誇る漬物大国が私たちの食文化でした。しかし今では、家で漬けることもほとんどなくなりお店で添加物で味付けした漬物風のものを食べるようになりました。

当然、むかしのように美味しい漬物はなくなり今では漬物を買ったり食べたりする食文化も衰退しています。

しかし本来、日本の風土は高温多湿で発酵に向いている風土でもあります。カビや腐敗をふくめ、多様な細菌たちが大勢共生している風土です。この場所では、自分の身体も同時に発酵をよりよくしていく必要があります。

そのため、日ごろから自分の身体を漬物と同じ原理で好発酵状態を保ち、その状態でいることで抗菌効果がでて病にかかりにくい身体を保っていたともいえます。

今では冷暖房や冷蔵庫、除湿器や乾燥機など機械に頼っていますが本来の日本の風土の中では大変な費用がかかってしまいます。

むかしの人は、美味しいものを食べれて健康になり、漬物にすることで未病を保つという一石二鳥を行っていたともいえます。美味しい、そして元氣になる、こんな好循環を発明した先人たちには尊敬の念が湧きあがります。

引き続き、私もむかしの人たちに倣ってその知恵を結び直していきたいと思います。

苔の生き方

山にいくとたくさんの苔をみかけます。苔が日陰でキラキラと輝いている様子はまるで宝石のようです。触ればふかふかで、観ていたら癒されます。苔の魅力は山にいくたびに増えてきて、それを身近に置きたくなるものです。

この山苔とは、一般的にはホソバオキナゴケ(細葉翁苔)とアラハシラガゴケ(粗葉白髪苔)のことをいいます。そのどちらもシラガゴケ科で、乾燥すると白髪のように葉が白くなり逆に過湿な状態では濃い緑色になるのが特徴です。見た目は、かわいいまんじゅうのようなコケで「まんじゅうごけ」 とも呼ばれています。

ついついこのまんじゅうごけを見つけると、足を止めて心惹かれます。

苔はまだ完全に分かっていない植物ですが、植物と同様に光合成を行います。クローンをつくる無性生殖と、受精して胞子でふえる有性生殖があり、その種類によって、雄株と雌株が別々にある雌雄異株するものと雌雄同株があるといいます。基本は胞子で増え、維管束をもたず多細胞性の生殖器官と胚をもつともいわれます。

君が代にある苔むすまでとあるように、長い時間をかけてじっくりと生長しそして偉大な杜を形成する苔に古代の人たちは尊敬の念を持ち生き方を学んだように思います。

現代では、苔は身近にありませんが私のいる場所は苔を要所に活用しています。なかなか環境に合わずに根付きませんがそれでも回数を繰り返すうちに、どういうところが好きでどういうところが苦手なのかも次第にわかってきます。

場というのは、その生き物が好きな場所で棲み分けますからそれも次第に仲間を形成したり、周囲と共生することもあり一概にこの場所がいいとはいえません。

こうやって仲間たちと一緒に、苔のように棲み分けていけるのは仕合せなことです。子どもたちの未来のためにも苔からも学び、この苔の生き方を伝承していきたいと思います。

暮らしと修養

人生というものは、今の連続で存在していますからその時の今は二度とない今ともいえます。毎日、私たちスケジュールを考えていつまでにと考えてしまいますがそれも大事なことですがそれと同じようにこの今のこともよく考える必要を感じます。

未来から逆算して今どうあるかという発想と、今何をしているから将来にこうあるだろうという発想です。むかしは今で今はむかしであるということは、今に集中するほどにそれを感じやすくなるからです。

未来というものは不確定なものです。周囲の影響を受けて、いくらでも現実は変化します。特に人間は社会を形成しますから、集合意識が変わるたびに社会も変化を続けます。それに翻弄され続けていたら疲れもたまります。むかしから時代の変化と共に、その影響を受けますからこれはどうしようもありません。

そんな中で普遍的な生き方を貫いたり、世の中の潮流にもバランスよく調和して自分をやり遂げて一生を送られた方もたくさんいます。その方々は学問をし、自学自修を実践し心の持ち方によって変化に順応していきました。

この心の持ち方のことを考えてみるとそれは今の心の在り方ともいえるようにも思います。今の心をどのように調えるのか、そしてどのように生きるのか、そういうことを常に忘れずに心の平安をつくり続けるのです。

別の言い方では一つの幸福の在り方でもあろうと思います。不幸せにならないように、今を丁寧に暮らしていくのです。人の幸不幸はこの今の暮らし方によっても決まっていきます。

暮らし方というのは、生活のことではなく心の持ち方のことでもあります。そしてそれは幸福の在り方ともいえます。

日々の今をどれだけ大切に過ごしていくか、引き続き丁寧な暮らしを通して自らを修養していきたいと思います。

懐かしさとは

むかしの遺跡や和歌を深めていると、その時の情景や心情がどうだったのだろうかと感じるものです。今は、ほとんど景色も様変わりしており、遺跡の周囲は近代的な建物や資材置き場など価値のない場所として使われています。そもそもこの価値が変わってしまい、昨日ブログでも書いた種よりもお金が大事になり、歴史よりも経済が大事になればその土地の本来の価値も失われていくのは当然かもしれません。

私達が懐かしいと思うものは、ただ思い出があるものだけではありません。そこには、今にも「つながっている心」であったり、その当時から人間が持っている普遍的な情緒や感情、気持ちに「共感」するときに懐かしいと感じるのです。

この懐かしいという言葉は、慣れ親しむもの、手放したくないものという意味でもあります。つまり、いつまでも失いたくないもののことのことでしょう。

私達が懐かしいという言葉を語る時、忘れてはいけない初心や、いつまでも失いたくない大切な記憶のことをいうのです。

今の時代は、懐かしいものが減ってきています。ほとんど懐かしいという言葉を使うことがないほどに、なんでも新しくし、近代化を進め、過去を否定し、価値を換えてしまいました。

しかし、子孫のことを思う時、これはいつまでもなくしてほしくないもの、そして忘れてはいけないもの、そういう先人たちも一度きりの人生で深く味わった大切な体験をずっと宝ものとしていのちのままとして後世に伝承していけたらと思うのです。

伝承は、この懐かしさと一体になっているものです。

初心伝承をしながら、子どもたちに懐かしい未来をつないでいきたいと思います。

種を守る

現在、私は故郷で在来種の高菜の種を山間の特別な畑で守っています。まもなく収穫時期ですが、有難いことに最近この高菜の種がほしいという志のある方が増えています。少しずつですが種を分けて、もう一度この地域に伝統の在来種の高菜畑が広がっていくことを夢見ています。

想えば、はじまりは亡くなったお義母さんが病気が平癒後に一緒に高菜を育てようと元氣づけることからはじまりました。それが供養として続けようとなり、家族が育つための畑になり私の心を癒し、そして今では初心を忘れないための大切なパートナーになっています。食べれば元氣が湧き、漬物にして保存すれば菌たちも参加してみんなのいのちを守ります。

そもそもこの種は誰のものでもありません。連綿と1200年以上、この地で根付いてきた歴史そのものであり今でも一緒にいのちを分け合う大切な仲間です。そもそもですが、山は誰のものか、海は誰のものか、種は誰のものか、これはすぐに考えればわかりますが誰のものでもありません。これは徳そのものであり、その徳をいただき私たちは生かされている存在です。

だからこそ、種というものも大切に先人たちが守ってきたように今の私たちも守っていくのは本来当たり前のことです。お金にならないからやらない、暇がないからしない、メリットがないからやらないではありません。本来、感謝しているから当たり前にそれをやるのです。

今の時代は何をするのにも自分や私、誰かという人間の都合ばかりで物事を判断されていきます。しかし、むかしはそんなことよりも大切ないただいている存在に何か恩返しをしたい、言い換えれば徳に報いたいという気持ちがあったように思うのです。

二宮尊徳も同じように、種を守り、田畑を守り、先人の心を守りました。今の時代、何が一番恐ろしいことか、それは種を守らないように自然を守らず、自分たちにいただいてきた先人の心も守りません。

環境破壊の本質は、心の荒廃です。心を如何にととのえていくか、そこには暮らしの甦生が必要だと私は感じています。

これからどうやってこの在来種を守るのか、そのためにも私は徳積み循環経済をまわす仕組みが欠かせないと感じています。私のやり方で私ができることで、種を守り続けていきたいと思います。