主食の甦生

私たちが日ごろ食べているお米にはとても長い歴史があります。特に近代においては、収量の確保からあらゆる食味がいいお米が多数開発されて私たちの食卓のお米の味は数々に進化してきました。

コシヒカリという銘柄があります。この開発の歴史も、収量重視から品質重視への転換でその当時の人々によって開発されてきたものです。最初は欠陥品種として病気の弱さや倒れやすさなども指摘されましたが、それを栽培方法などを工夫することで改善し、今では新潟のお米の代表となっています。そこにも関わった人たちの歴史があり、特に魚沼では風土と一体になってコシヒカリを見守り現在では日本の農家の約40パーセントがこのコシヒカリを栽培しているともいいます。

このコシヒカリという名前は、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられたといいます。その名付け親である元旧新潟県農業試験場長の国武正彦(福岡県出身)が「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光」(冬には雪に閉ざされてしまう越の国にあってコシヒカリが越の国を輝かせる光となりますようにの意)」と和歌に詠んだことによるといいます。

同じ福岡県出身で、これから私たちがエミタタワ(笑みたわわ)の新たな品種の発展に取り組むのにとても参考になる人物であり、その生きざまや生き方にもこれからどのように日本のお米に取り組んでいけばいいかということも直観します。

もともと私も震災後から会社で無肥料無農薬でお米づくりに関わってきました。収量を気にせず、子どもたちの憧れるような生き方や働き方を目指し田んぼでの暮らしを充実させていきました。一般的に国が定めるような食味とは異なりますが、その美味しさは格別で今ではたくさんのファンがいて喜んでくださっています。

今回、福岡県朝倉市で復古起新してお米づくりに関わることにも深いご縁を感じます。

このエミタワワ(笑みたわわ)は、私の叔父さんが名付け親です。まず平成27年、農研機構との共同開発で研究段階にあった「羽919」という品種改良に着手し収穫1年目から羽919には他のお米にはない粘性・膨らみ・おいしさがあることに気づきます。そして翌年には「西海307号」へと名称を更新し、その後も改良を重ね続け、令和元年10月に農水省の品種申請の受理のもと「笑みたわわ」として誕生します。それを農薬・化学肥料一切不使用の安心でおいしいお米で、笑みがたわわに実りますようにと今まさにその志が世の中に出ていく黎明期です。

日本は、農家に対する政策を失敗してきた国だと私は思います。現在では、農家の担い手も減り、田んぼは化学薬品で傷み、現在の米騒動にあるように民衆の怨嗟の声も出ています。海外からのお米がこれから大量に流入してくるのも予測できます。

だからこそ、本来の日本人として私たちの主食をどのように大切にするかが問われる時代でもあります。子どもたちのためにも、今まで取り組んできたことをさらに磨き上げ、主食の甦生に挑んでいきたいと思います。

道徳とは何か

この二日間、仲間と共に遊行を行いました。中国や台湾からの方も参加して、お山を歩き、いのりを味わいました。一期一会のめぐりあわせに豊かさと仕合せを感じました。

人はそれぞれの道をそれぞれに歩むものです。

しかしその時、一瞬のズレもなく絶妙に出会います。お互いに必要なタイミングで最幸の瞬間に邂逅するのです。それをご縁ともいいます。ご縁は、人とだけではなく場とも出会います。天候、光の加減、星の運行、つながる歴史、とても書ききれないほどの膨大な奇跡の連続です。

それを感じて生きる人は、常に一期一会の生き方をしているともいえます。そもそも修験道をはじめ、すべての道は生き方のことです。どのような生き方をしているか、その実践や実践者たちの背中には學びの原点や根源があるものです。

そしてそれは同じ場、同じ時、同じご縁を味わい盡す時にこそ顕現するものです。

道をどのように歩むのか、それが學ぶということの本質です。

そして徳というのは、その歩み方のなかで何を最も大切にするかということです。

例えば、素直であること、謙虚であること、正直であること、思いやること、助け合うこと、真心でいること、心身を清め続けることなどが徳になります。

道徳というのは、本来は言葉や単語で理解し説明するものではなく実践を通して學び続けていく人間のいのちのいのりです。

いのちのいのりには、答えはなく生き方があるだけです。

生き方を學ぶ人たちが、いつの時代にも道を結んで螺旋のように歩んでいきます。

一期一会は、真の幸福の道ということでしょう。

このまま丁寧な暮らしを続けて、最期の瞬間まで人間らしく生きていきたいと思います。

徳の中心

嘘をつくなというのは幼い時に親に教えられるものです。嘘というのは、本当ではないということです。本当ではないというのは偽物ということです。本物は嘘がないということです。嘘がないというのは、ではどういうものをいうかといえば自分の心に嘘がないということです。これは正直であるということです。

正直というのは、どんな状態でも正直に生きるという生き方のことです。正直に生きる人のことを誠実ともいいます。誠実な人は、自他ともに信頼されます。自己を信頼できる人は、他人からも大いに信頼されるのです。

生き方を貫いている人は、その生き方ゆえに嘘がありません。日々に、自分の心に確認してその心が正直であるように努力精進していきます。正直であるからこそ、信頼されその人は社會に認められます。

また正直にも感謝と同じように段階があるように思います。

例えば、最初の正直は他人に誠実であることから始まり深い正直さはどのような環境や状況であっても自己に誠実であり続けるということです。

実際には今の世の中は、食品偽装や医薬品や化粧品、環境商品や政治をみても残念なくらい嘘だらけです。防腐剤化学調味料無添加と謳いながら実際には本来のむかしながらのつくり方をしません。漬物であっても、現代のお金にするためにはあり方を換えても世間の声や便利さを優先します。お金にならなければ生きていけないから、これくらいはいいだろうと嘘をつきます。そして購入する方も、嘘が入っていることは当たり前だろうとそれでもこの程度の嘘ならと気にしなくなっていきます。

人間の欲望によって、正直さは歪められていき他人や周囲が納得していればそれも正直でいいと正直が流されることや、大多数に合わせること、仕方がないと妥協することが正直さと誤認されるようにもなりました。

そうしたのは、嘘をつくなといった大人側の責任でもあります。

そう考えてみると、むかしの人たちは道徳を子どもに教えるとき自分自身のことを深く反省していたからこそ、そして生き方や実践をしていたからこそその意味の大切さを知っていたように思います。

西郷隆盛がお母さんや郷中教育から「嘘をつくな、負けるな、弱いものをいじめるな」と教わってきました。その結果として、信頼される人物に育っていきました。人間がどうあるかというのに、複雑な教育メソッドなどは必要ありません。

もしこれだけはと選ぶのなら、やっぱり「嘘をつくな」というのは一番なのかもしれません。実際には、嘘をつかないとなると本当のことを直視して本物になる努力が今の時代は必要です。

何が本物で何が偽物か、何が本当で何が嘘かを見抜く力も必要です。本質を學ぶことや、元々何かという根源を學ぶことも大切です。そして何が自然かという自然観も養う必要があります。また真実の歴史を深めることも大事です。

人間らしさは、正直さの中にこそあります。

正直はまさに徳の中心です。

徳を磨いて、正直の実践を積んでいきたいと思います。

お水の権現

今朝はBAの前にある鳥羽池(八龍権現池)には冬の風物詩でもある蒸気霧が発生しました。ここ数日の寒さは特に厳しく、この桜の時季に初冬の景色が重なりとても幻想的です。

毎朝、この場から八木山の龍王山と合わせてこの八龍権現池を拝んでいますがこの蒸気霧は一期一会です。この霧の特徴は冷気が温かい水面上に流れてきたときにできる霧で発生条件も空気と水の気温差が15度以上あり風があまり吹いておらず晴れていることが必要です。

よく考えてみると、私たちはお水に包まれてはじめて暮らしていくことができます。地球もお水に包まれ、自然も身体もお水に包まれます。お水はあらゆる形に姿を変えては常に循環を已みません。このあらゆる姿は決して雲や霧のような水蒸気や海や川などの液体のようなものだけではありません。ある時は、花になり、ある時は虫になり、またある時は菌になり、ある時は石などの物体にもなります。そして雪になりお湯になり、光にもなります。

今日は私の誕生日で人生を振り返っていますがこれまで道のりもまたずっとお水に守られてきたものでした。辰年の辰の刻に産まれ、龗神の多田の鎮座する妙見神社のお汐井川で遊び、氏神様でお水の親祖でもある水祖神社の境内で育ちました。大切な人生の節目は、お水の関係することばかりに導かれました。気が付くと、お水の湧くお山を守る活動をするようになり、井戸も5本ほど甦生させていただく機会に恵まれました。ここ数年では、滝行をはじめ石風呂サウナをつくりこれから薬草蒸気風呂の甦生に挑みます。日常では鉄瓶で炭火で沸かしたお湯を飲み、よく蕎麦打ちをして蕎麦を食べています。邸内社や自宅、宿坊のお供えのお水を換えることは欠かしません。

有難いことに、生まれてからこれまでずっとお水に見守られてきた人生でした。

この見守ってくださっているお水のことを私は総称して「龍神」と呼びます。

龍は単なる蛇のような鰐のようなドラゴンではなく、私たちのいのちの本体、「いのちのお水権現」です。

そしてお水は、自分の意識次第でどのようにも波動が変化します。変化の象徴もまたお水であり、あらゆるものに姿を変えることができ常に寄り添い離れないものもまたお水です。

誕生日を迎えた朝、鞍馬山の恩師の言葉を思い出しました。

「お水さんありがとう」

これからも残された刻をみおやの龍神と一緒に修行を続け、太古のむかしからの生きた智慧の伝承を子孫へと結んでいきたいと思います。

日日是試煉日

何かがはじまるとき、試練(試煉)が訪れます。つまり試練とは、正対することであり、実践するということであり、挑戦するということです。

試練(試煉)のことを辞書でひくと、「信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと、能力や信仰、気持ちの強さなどを厳しく試すこと。また、その時の苦難。」とも書かれます。

この試練(試煉)の字にある「練」には「繰り返し行う」「精練する」「磨く」という意味があります。「煉」には、金属や心身をきたえることやねり固めることを表します。練習、練磨、鍛錬、修練、そして煉瓦や洗煉などもあります。

練は、煉の書き換え字で使われますが共通するものはどちらも「磨く、鍛える、溶かす、ねり固める」などの意味になります。

「試」の方は、言ったことをはじめるという意味です。試験なども試みる、確かめるというイメージです。有名なものに「試金石」というものがあります。これは貴金属の純度を調べるのに用いる黒色緻密ちみつな玄武岩やケイ質の岩石のことをいいます。この石にこすりつけて条痕色を既知のものと比較して金・銀の純度を試験したことから言われます。

つまり「純度」を試し確かめるのです。

何かをはじめるには、根源としての「純度」がいります。その人の覚悟や決心が試されます。純度がどれくらい澄んでいるのか、純度がどれくらい濃密であるか、純度が玉のように美しいかどうか、真善美が試されそれはもはや信仰とも呼べるほどにです。

試練が来たというのは、純度を磨き上げる時が来たとも言い換えられます。

この世に私たちが誕生し、生き続けるというのは試練の真っただ中にいるということです。だからこそ、誰にでも「生き方」というものが何よりも優先され大切になるのでしょう。

どのような試練を迎えて、どのような生き方を実践するか。

純度が全てです。

私たちは有難いことに、親祖より今に至るまで先祖代々からずっと純度を磨き煉りあげてきました。終わりはなく、永遠に続く道の途上です。

日日是試煉日と、心の持ち方を味わって歩んでいきたいと思います。

同行コンサルティング

コンサルティングという言葉があります。この言葉を調べると語源は、ラテン語の「consultare」だといいます。この意味は「共に話し合うことや協力して意見を出し合う」という意味だとあります。そして「consult」という言葉を分解すると、「con(共に)」と「sulere(取る)」とあり、共に座り考える、また相談するという意味です。

つまりは、一緒に考えて共に歩むということがその言葉の本質です。

世間でいうコンサルティングの仕事は今では多岐に及びます。日常的なビジネスなどでは様々な定義も分類もあります。例えば、一般的には専門的な知識があり客観的に分析したりアドバイスをしてクライアントを導くような仕事。または、具体的に組織の人間関係を含む経営課題を解決に導くために仕事などもあります。

私の場合は、「見守る」という実践を仕事にしてきましたから見守り合う関係を通して一緒に取り組み伴走するうちに次第にコンサルティングの方といわれるようになりました。

そもそも誰かの人生に大きな覚醒や気づきや影響を与えるということは、共に成長していくということで発生します。共にお互い様と御蔭様の心の関係を結んだら、一緒に成長しあっていく。成長する人同士だからこそ自他が一体になりお互いの成長する姿に刺激されることで共に高め合っていくことができるものです。これは自然界も同様に見守り合う中で育ちあいます。

教える側も教わる側も本来は本質として表裏一体の存在であり、これは同志であっても師弟であってもお互いに深い尊敬と成長しあう関係があって成り立っているものだからです。

そして見守る時に最も求められるのは、心を寄り添うという伴走型であるということです。この伴走というのは、共に走っているという関係です。単なる並走ではありません。むしろ見守りに近い別の私なりの言い方では、「同行」ともいいます。この同行も、一緒に行動する、同じ道を歩むという意味です。また四国八十八か所巡礼に同行二人(どうこうににん)という言葉があります。この「同行」と「二人」を合わせた「同行二人」という言葉は、巡礼者が弘法大師空海の生き方、智慧、そして教えや精神を学び一緒に道を歩んでいくことを意味するといいます。

私は本来のコンサルティングという生き方はこの同行二人にこそあるように思います。そして伴走するというのは、同じ心で同じ理念で共に一緒一体になって取り組むということです。

そうすると、一般的なコンサルティングのように専門家による部分最適のみをビジネスのためにやるのではなく常に「全体最適で一緒に人生を生き切るという実践」が必要です。つまりは、実践を通して貢献する。自分の体験や経験や研鑽がそのまま、一緒に同行する相手の成長の糧そのものになるということです。お互い「道」に導かれるように歩んでいくということです。そこには偉大な「場」が誕生します。

こういう関係は、一生涯のうちに滅多に巡り会えることではありません。同行同時のように、同じ人生をシンクロさせるような一期一会の関係を築くことです。一般的にはあまりにもリスクも高く、効率もわるいので世間的なビジネスにはあまり向かないかもしれません。しかし、そもそも人は利他や貢献、そして共生をしたいと心から願うものです。自然にコンサルティングになるのなら、ほとんどはこのような同行二人の境地に入ると私は思います。そして本来の幸福を考えるのならば、私はやはりこの「同行コンサルティング」にこそ深い共感を覚えます。

子どもたちのためだからこそ、子孫に恥ずかしくないような仕事を遺していきたいと思います。

 

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。

いのちの言葉

日頃、私たちが使っている言葉をよく観察するとそこにはその時代や環境の価値観が大きく影響を与えていることが分かります。例えば、経営戦略や経済戦争など、常に競争をしているからこそ戦争用語が並びます。本来は、経営も経済も争うものではありません。恩や徳、あるいは感謝や安心など日々の暮らしがよりよく調和していくための言葉です。しかし実際には、新たな造語にまでしてそれが当たり前に使われます。

そういう意味では、意訳や誤訳が解釈の違いは人間が創り出していきます。本来は真理を言葉にしたものであっても、それを使う人によって捻じ曲げられ歪みます。これは道具という性質が、人間によってどうにでも使われてしまうからです。

どんなに善い道具をつくったとしても、それを使う人間が善くないとそれは悪しきことのために用いられます。例えば、包丁やハサミも使い方次第では人を傷つける危険な武器にもなります。

だからこそ私たちはこの優れた道具をどう使う人になるのかを一緒に磨き続ける必要があるのです。

ITやAIなど、まさに今は機械という道具が次々に発明され世の中を便利にしています。しかしこの機械のもつ危険性をどれだけ直視して真摯に議論しているかというとほとんど無視しでは欲望や競争の道具としていち早く世の中にあることや使うことを常識にしようと躍起になります。

先ほどの言葉であれば、マスコミの報道を見聞きしていてもわかりますが言葉という道具を巧みに利用し敢えて不安を煽り、ゴシップを流し、専門家がさも絶対のような話を語り部分最適がまるで全体最適かのように本質を歪めます。言葉は情報伝達の道具としては便利ですが、その言葉が大変危険なことを世の中に産み出すことについてはまるで無関係かのようにふるまっています。本来は言葉がない時代であれば、人間は常に自然の一部であり誠の実行実践があるのみでした。

言葉も道具の一つですから先ほどの包丁やハサミのように人を傷つける武器にもなります。だからこそ、言葉は扱い方を気を付けなければなりません。先ほどの経済戦争というのは、お金や石油という武器を使って相手を抹殺しようとしている行為です。そんな言葉を使っていたら、世の中がみんなその言葉によって価値観をつくられます。

自分たちが本来の意味で道具を正しく、丁寧に使い人格を磨いてその道具を使いこなせるようにと学び続けていけば知らず知らずに価値観に流される人ではなく、主体的に価値観を省みて自己を調える人になります。

人間は自己を省みることによってのみ、はじめてこの世の主人公として自立して全体最適に調和していくことができます。

いのちの言葉のことをこれから少し深めていきますが、大前提になっている道具というものそのものの持つ徳をよく見詰め直して纏めていきたいと思います。

例大祭と5周年

久しぶりの大雪のなか、御蔭さまで無事に例大祭と徳積財団5周年記念を開催することができました。真っ白に光り輝く風景のなかで、美しい奉納音楽や神楽舞、祈りの時間は心に深く遺る有難い時間になりました。

思い返せば、何もなかったところからはじまり今ではたくさんの仲間や同志に恵まれています。それぞれに無二の役割があり、天命を全うするために徳を磨いておられる方々ばかりです。時折、道を生きる最中に場に立ち寄りその努力を分かち合い、苦労を労い合うことは心のエネルギーを充足させます。何かの偉大なものに見守られていると実感する場には、お互いを深く尊重しあう安らぎや元氣があります。

一人一人がそのような安心で健やかな元氣に充ちれば心も解放されます。心を解放していくことは、心を喜ばせていくことです。真のおもてなしというのは、心の解放があってこそです。

この例大祭は、みんなで協力しあっておもてなしの準備をはじめます。同じ釜の飯を食べ、綺麗に場を清め、静かに穏やかに暮らしを調えます。真っ白な雪の中、妙見神社のお汐井川に若水を汲みにいき、桜の薪に炭火をいれて火を熾します。その火を竈に移し、前日からお祓いして汲んでおいた井戸水を鉄鍋にいれてじっくりと昆布や高菜を煮出していきます。直来は、白いものとして御餅や素麺等、そして福茶などご準備します。

自然の恵みと薫りに包まれた仕合せな時間です。

祝詞にはじまり、岩笛、法螺貝、篠笛、そして鈴に太鼓と懐かしい音に包まれます。龍の舞に音楽、お祭りも賑やかで弥栄な一日でした。恵方も偶然にも、龍王山や龍神池、そして神社の方角にピタリと合っていました。5周年でしたが、またこの恵方になるのは次回は5年後の10周年の時です。周期の豊かさも味わう有難いひと時でした。

人間は見守り見守られるという感覚をお互いに持つことで自然と一体になっているかのような同じような安心感を得ていくものです。安心感は徳を活かしいのちを輝く場を創造していきます。どれだけ安心感の種を蒔いていくか、安心の場こそ懐かしい未来であり心のふるさとです。

これからも子どもたちに先人の生き方を譲り遺せるよう精進し、道を確かめ道を手入れし、真の人間らしさや人間性を高める場を弘げていきたいと思います。

 

 

徳の伝承

私たち人間は本来は自然の一部でした。自然の一部であるときは、自然の中にいて自然に守られてきました。しかし自然から離れてしまうことで、自然の外に出ていきました。そのことで、自然の一部ではなく自然を人間の一部にしてしまいました。人間の一部になれば、人間のために自然はあるわけですから自然をどうにでも管理していくことを正しいことだと思うようになったのです。

例えば、都市部などはまさに人間が住むための設計されたものでそこでの自然は街路樹や公園くらいです。どれもが管理され人間の生活が快適になるように用いられます。都市部では人間にとって便利であるものであふれかえります。それを支えているのはお金です。

このお金というものは、本来は物の交換手段として使われてきました。あるいは、最古の貨幣のトークンにあるように預かりの信用の証明として使われてきました。しかし現代は、お金は別の機能として増産され発行されゲームのように使われています。人間界でのお金は、自然とはまったく何も関係がありません。もはやお金が世界を席巻し、自然を呑み込みました。人間はもうお金の一部になってしまうのもそんなに遠い先のことではありません。

私たちはどこからがズレてきたのか。それは自然から離れたところというのは間違いない事実です。ではいつこんなに離れたのか。私は古民家甦生を通して懐かしい暮らしを学び、新しいとは何かを深めてきました。その中で、徳を積み、いのちを循環させる暮らしをしていた先人たちの知恵にたくさん触れました。

伝統という名のつくものや、伝承されてきた道の中には自然の一部であることを忘れていない人々の生きざまが垣間見れました。そこには自然とは離れないという確かな遺志を感じるものばかりでした。

私が今、暮らしフルネスをしているのはこのように先人たちの遺志や思いを受け継いできたからです。別に人間界での便利な暮らしを丁寧にしても人間の一部として自然を扱っているのではミイラ取りがミイラになるだけで資本主義の助長の一部になっていくだけです。

だからこそ、何をすることが今は最も自然の一部として生きていけるのかを考え抜いて取り組む必要を感じるのです。道はまだ途上ですが、徳が循環する出会いのなかで少しずつ自然の一部としての自分を取り戻してきています。暮らしフルネスの真の目的はこの一点であり、子どもたちに譲り遺していきたい未来は徳の伝承です。

真摯に学び直して、志を磨き、日々を精進していきたいと思います。