知識と知恵

私たちはよく本を読み知識を得ます。しかしその知識は、自分自身の中に一体になり知恵にならなければ本当の意味で役に立つことはありません。知識と知恵は両輪であり、そのどちらもあることではじめて活かし続けることができます。

特に知識は、知識を持っている人たちの間では役には立ちます。特に最近は、情報化社会で知識はそのままお金になりますから知識を持っている人が持っていない人に提供することで役に立ちます。また知恵は、知識がなくても仕組みや方法、習得していることで救われるものです。知識で言葉にできなくても、先に実践をできてしまっていればそれはそのまま役に立つことができます。本来、すべての生命、そして存在はこの知恵を持つことで生き延びてきました。

知恵はそのまま自然の仕組みが身体から体現されたものであり、その知恵は身体のつくりをはじめ特徴、あるいは性質そのものまでに影響を与えています。虫が色々な形になったのも、動物がいろいろな種類があるのもまた、これは知恵が性質に及ぼしたものです。

人間もまた知恵が性質に及ぼしたものです。その知恵の一つに、知識があるということです。人間の脳のつくり、そして身体の動き、手を上手に用いて知識を活用し様々な道具を産み出します。これが人間の持っている特徴であり知恵です。

知恵としてのこの知識を使うことを持っていても、その知識があるゆえに人間自体が滅びてしまうこともあります。知識をどう用いるかは人間次第です。先人たちは、自然の知恵を学び、それを知識で磨いてきました。人間の欲を知識で調和させてきました。道徳や信仰というものもまた、知恵と知識の両輪を活かしたものです。

今の時代、知恵を隠し知識が知恵をコントールできるかのような様相で話が進みます。そんなことは存在せず、知識はあくまで知恵の後に従って一緒に動く存在です。包丁と砥石のようなもので、鏡と布のような関係です。お互いを磨いたり、ととのえたり、清めたりする存在であるとき、この両輪は調和するように私は思います。

知識の在り方のようなものを語り合う人はほとんどおりません。偉い人は、知識を使ってさらに自分の立場を守ります。教育の本当の怖さというのは、他人の知識を得ることで自分で学ぶことを忘れさせることかもしれません。

子どもたちには、自学自悟、自分の目や手、あらゆる五感や身体感覚などを用いて学ぶことの大切さを伝道していきたいと思います。真の豊かさを日々の学びから集めて磨いていきたいと思います。

治療の仕組み

日本の地方ではどこも過疎化や空き家の問題などが進んでいます。国の主導の仕組みでやってきたことのほとんどが地方では結果、裏目に出たという状態としか思えません。現実や現場を観ずに、上から降ろしていくような政策というのは歴史をみてもほとんどうまくいっていないものです。

延命治療ばかりを続けているうちに、最後は打つ手がなくなりあとは最期を待つばかりというのは治療の方法自体に問題があることを気づく必要があります。しかし実際には、今の補助金や予算のつけかたでは目先の問題で症状が出た所への対処療法にしか対応できずかえってその延命治療の幅を広げるばかりです。

本来は延命治療をやめるという選択肢を持つべきですが、現在の選挙も票もあるいは仕組みがそうさせませんからどうしようもありません。いよいよという時に、その土地の人たちがみんなで自立して根源的に治療していこうと向き合っていくことではじめて延命治療は終わるようにも思います。

病気というたとえは、人間の欲の中にも存在します。質素倹約、適度な運動、一汁一菜、地産地消、身土不二、心の平安、瞑想、など、食や運動、ストレス大切にし健康を保つためにみんなで工夫した生活をおくればあまり病気になることはありません。

現代はその当たり前のことができなくなっていますから、健康をお金で買うような世の中にあり、ストレスの解消や心の不安もお金でなんとかしようとする仕組みにもなっています。

お金にならないものはやらないとしていると、問題があってもお金がないからやらないということになります。お金があるかどうかで問題を観ていると、次第に本来の大切なものにもお金次第でかけられないということになります。これでは、先ほどお対処療法や延命治療が伸びるばかりです。

根源治療というのは、原点回帰でもあります。

本来は、どうだったのか、最初はどのようにしてきたのか。先人への配慮や思いやりを忘れずに、みんなで大切なことを思い出そうという活動に取り組んでいくことです。そうしているうちに時代の価値観から目覚め、永続する仕組みや根源的なものの存在に気づき感謝できるようになるものです。

子どもたちや子孫に借金を残すのではなく、次世代のために少しでも善いものにして譲渡していくような生き方をしていきたいと思います。

二つで一つ

日本には元々、二つのものをもって一つであるという思想があります。無双原理や反観合一などという言い方もあります。どの思想家、哲学者もこの二つが合わさったものの中にすべての元があると説きました。

これは万物が円球体であるということの証明でもあります。二宮尊徳はこれを一円観という言い方をしました。すべてが渾然一体になって融和しているのが私たちの根源の元氣ということになります。

よく考えてみると、一つのものを二つにするところから分別というものははじまっていきます。時空というものでさえ、時間と空間とを分けて理解することから取り組みます。

本来はこれは二つで一つですが、この二つというのは単に二個のことではないことはすぐにわかります。水と空気でも同じく、混じり合って存在していますしそのさらに奥には地球がありその奥には宇宙があります。ありとあらゆるものは本来は一つであり、それを分けるという行為が現在の学問を体系化したようにも思います。

私は、炭が大好きですから炭の火を感じながら水を味わいます。水を味わうのには火があるとよく、火を味わうには水があるといいのです。他にも、木と石が調和するとお互いの活力が引き出され、闇と光が重なりあうことでほのかな安らぎが満ちていきます。

この世は、何かが混じり合うときに一つの元氣が誕生します。その元氣が四方八方に放たれることでまた別の元氣と結びついて新たな元氣が誕生します。こうやって無限に元氣を分け合いながらこの世は存在するのです。

そしてこの思想こそ、日本の神話から今にまで続く私たちの民族の価値観でありそれが生き様として歴史を象っていきます。この歴史というものと今の私たちの生命というものも、二つで一つになったものです。

直観的に人間は、この元氣の間を往来する存在ともいえます。静かに今を見つめたら、この今を元氣に生きることが仕合せや豊かさをもたらします。

当たり前なことがわからないほど勉強してきましたが、本来の根源的なもの、中心は何かということを自覚し悟ってこそ人生の妙味を直観できるように思います。時折、初心を忘れないように同じように生きた方々の余韻に触れたいものです。

子どもたちにもその余韻が伝承できるように場をととのえていきたいと思います。

いのちのリレー~理念研修~

えにし屋の清水義晴さんの御蔭さまで福島県にある日本三大薄皮饅頭で有名な柏屋の五代目本名善兵衛さまとご縁をいただき、無事に理念研修を終えることができました。また本名さまからは、日本一の誉れのある旅館、八幡屋の7代目女将の渡邊和子さんと日本を最も代表する自然酒で有名な十八代蔵元の仁井田穏彦さまとのご縁をいただきました。どの方も、覚悟の定まった美しく清らかな生き方をされており志に共感することが多く、暖簾を同じくした親戚が増えたようなあたたかい気持ちになりました。

福島は東日本大震災の影響をうけ、そのままコロナに入り大変なことが続いた場所です。離れて報道などを拝見し、また人伝えにお話をお聴きすることが多くありずっと心配していました。今回、ご縁のいただいた方々のお話をお聴きしているとピンチをチャンスに乗り越えられさらに美しい場所や人として磨かれておられるのを実感しました。

自分たちの代だけのことではなく、託されてきた先人たちへの尊敬や感謝、そして子孫たちにどれだけの素晴らしい宝を遺しそしてバトンと渡せるかと皆さん今を磨いて真摯に精進されておられました。

私にとっても本来の日本的と何か、日本人とは何か、日本的経営の素晴らしさをさらに実感する出会いになりました。

私は理念研修をする際には、本来はどうであったかというルーツや本質を徹底的に追求します。今がある原因は、始まりの初心が時間を経て醸成されたものです。その初心が何かを知ることで、お互いが志した源を共感することができるからです。この志の源とは何か、これは自然界でいう水源であい水が湧き出るところのことです。

この湧き出てきたものが今の私たちの「場」を産んだのですから、その最初の純粋な水を確かめ合い分け合うことで今の自分に流れている存在を再確認し甦生させていくことができます。甦生すると、元氣が湧き、勇氣を分け合えます。

水はどんなに濁っていたり澱んでしまっても、禊ぎ、祓い、清めていくうちに真の水に回帰していきます。私たちの中に流れているその真水を忘れないことで水がいのちを吹き返していくように思います。

私たちは必ずこの肉体は滅びます。それは長くても100年くらい、短ければその半分くらいです。そんな短い間でできることは少なく、みんないのちのバトンをつなぎながら目的地まで流れていきます。大航海の中の一部の航海を、仲間たちと一緒に味わっていくのが人生でもあります。

その中で、後を託していくものがあります。これがいのちの本体でもあります。そのいのちを渡すことは、バトンを繋いでいくことです。自分はここまでとわかっているからこそ、次の方に渡していく。その渡していくものを受け取ってくださる存在があるから今の私たちは暮らしを営んでいくことができています。

自分はどんなバトンを受け取っている存在なのか、そしてこれからこのバトンをどのように繋いでいくのか。それは今よりももっと善いものを渡していこうとする思い、いただいた御恩に報いて恥じないようなものを磨いて渡していこうという思い、さらにはいつまでも仕合せが続いてほしといのるような思いがあります。

自分という存在の中には、こういうかけがえのないバトンがあることを忘れてはいけません。そしてそのバトンを繋いでいる間にどのような生き方をするのかも忘れてはいけません。そのバトンの重みとぬくもりを感じるからこそ、私たちは仕合せを感じることができるように思います。

一期一会の日々のなかで、こうやって理念を振り返る機会がもてることに本当に喜びと豊かさを感じます。このいただいたものを子どもたちに伝承していけるように、カグヤは引き続き子ども第一義を実践していきたいと思います。

ありがとうございました。

美味しいもの

昨日は、仲間たちと一緒に千葉県神崎のむかしの田んぼで新嘗祭を行いました。まるで親戚が集まってみんなで和気あいあいと豊かな時間を過ごせるように、懐かしい時を過ごしました。

この懐かしい感覚は、自分の幼い頃の思い出なのか、あるいは先祖からずっと繋がって体験してきたことの思い出なのかはわかりません。しかし、なぜか全員がその感覚を持っていてそれがいつでも場に甦生してくるというものです。

私たちが産み出している場というのは、私たちの懐かしい感覚の場でもあります。

何度もあの幸福や仕合せ、そして一緒に生きていくことの素晴らしさを体験しあう。そしてお互いの近況や一年を振り返って思いやり心配し合い助け合う。

こうやって厳しい自然界や時代の変化のなかでも助け合って今まで生き残ってきたようにも思います。そしてまた新たな元氣を蓄えてみんなで豊かに仕合せを味わっていくのです。

私はこの元氣の源、それは田んぼでありお米であろうと直観しているのです。そこでむかしの田んぼで、田んぼを喜ばせようと無肥料無農薬で伝統的な神事や祈り、家族の団欒や作法を大切に食べることで懐かしい未来を実践しています。

純粋な気持ちというものは、純粋になりきったときにその純粋さを混じります。純粋さは、混じらないと物理的には思いますが魂が渾然一体となって結ばれるようにすべてが調和していきます。

調和したものは、感覚的に美味しいと感じます。

昨日は、備長炭で炊いた竈のご飯と豚汁をみんなでつくり食べましたがこの一年でもっとも思い出深い美味しいものになりました。この美味しさは心に沁みますし、魂を揺さぶります。

こうやって当たり前ではない日々に感謝して、これからもみんなで力を合わせて子どもたちのために働いていきたいと思います。

同志の友

昨日は、同志の友が来て一緒にお酒を酌み交わしました。お互いにそれぞれで別々の仕事をしていますが目的は同じだったりするものです。お互いにやり方が異なり、手段も違いますがどのようにアプローチをしていくのかは参考になるものです。

時代の中で、何度も同じようにそれぞれの得意分野や役割分担をしながら志を分かち合って取り組んでいきます。この分かち合いというのは、勇気の分かち合いでもあります。それぞれにそれぞれの場所で頑張っているからこそ、挑戦も葛藤もあり、その心を分かち合います。そのなかでお互いに前進していることを確認することで刺激し合うこともできるからです。

よく好敵手の関係というものもあります。ライバルともいいます。この存在の御蔭で自分が一つ進化していくことができます。仲間であり好敵手というものが同志というものも味わい深いものです。

長い時間をかけて人は成長していきます。そしてその長い時間、長い道のりの中で偶然に同じ目的地に向かっているような人と出会います。それは嬉しいものです。嬉しいからこそ、同志に恥じないように自分の持ち場で志を高めて磨きます。

磨き合う関係になるというのは、魂を分けた関係でもあります。みんなそうやって長い歴史の中で託された魂を受け継ぎ、分け合い、磨き合いながら前進し続けます。懐かしい何かに触れて色々と思い出しました。

吉田松陰の遺した言葉を振り返ります。

「道を志した者が不幸や罪になることを恐れ、将来につけを残すようなことを黙ってただ受け入れるなどは、君子の学問を学ぶ者がすることではない。」

「決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。大事なことを思い切って行おうとすれば、まずできるかできないかということを忘れなさい。」

「敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか。」

「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある。」

「奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。」

「成功するせぬは、もとより問うところではない。それによって世から謗されようと褒められようと、自分に関することではない。自分は志を持つ。志士の尊ぶところは何であろう。心を高く清らかにそびえさせて、自ら成すことではないか」

「英雄はその目的が達成されないときには悪党や盗人とみなされるものだ。世の中の人から馬鹿にされ、虐げられたときにこそ、真の英雄かどうかがわかる。」

「法律をやぶったことについてのつぐないは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義をやぶれば、誰に向かってつぐないえるか、つぐないようがないではありませぬか。」

ということで、再会を楽しみにしています。

波動の徳

私たちは音というものを感じます。その音は、あらゆるところに無限に満ちています。音はそのまま正直であり真実です。音を聴けば、その物の本体や本性もわかります。音は波動です。

この波動というのは、一部では目に見えないから怪しいとか胡散臭いとか言われますが現在は量子力学が波動を解明していることもありその存在を明らかにしはじめています。しかし実際には、科学で証明できないものも全部含め波動と呼んでいますから解明されたとしてもあくまで一端が見えるだけです。

眼に見えないものの方がこの世には多くあります。これは脳の構造も同じく、人類がいくら科学を進歩させてもほんの数パーセントもわかればいいほうです。宇宙のこと、いのちのこと、一端を知識で得てもそれを感得し気づくためには今のアプローチだけでは限界です。

その歪さからか、世の中や社会情勢も歪になっていきます。本来の原初、原始には何があったか。そういうものは哲学のように語られますが、本来これは当たり前のことではじまりを知ることで人は今につながります。

眼に見ないものの中にこそ、そのはじまりの答えがあります。答えを生きるためにも、私たちはもっとその自然的なもの宇宙的なものも否定せずに全身全霊で味わい語り合っていくことが必要だと感じます。

波動といえば、音の波動の話を先ほど書きました。そもそも音はとても不思議です。耳に聞こえるものだけではなく、全身全霊で感じる音もあります。その音は、イヤホンで聞こえる音ではなくまさに波動を感じる音です。

そもそも波動とは何か、辞書をひけば 「1 波のうねるような動き。 2 空間の一部に生じた状態の変化が、次々に周囲に伝わっていく現象。 水の波・音波などの弾性波や、光・X線などの電磁波などにみられる。」とあります。よくエネルギーなどもいわれます。

私たちの意識も、心臓などの肉体もすべては海の波のように呼吸をしています。自然界の天候や気候、宇宙の星々にいたるまでその波が重なり合ってお互いに影響を与えているということです。

どのような調和をするのかで波動も変わります。例えば、人間にも波動の善い人という人物がいます。周囲がその人といると和み、居心地が善く仕合せになるのです。その人が日ごろ発している波動は生き方です。生き方を磨き徳を高めている人の周囲は落ち着くものです。

波動をどのようにととのえているのかは、物質だけではなく人の周囲にも顕現していきます。音は、それを響かせたり増幅させたり感受させたりする触媒の一つでもあります。

一つの人生のなかで私たちは様々な音や波動に触れて変化していきます。変化を味わうのは音を味わいことであり波動を味わうことです。

様々な体験によって人間が気づき変わっていくのも波動の本質かもしれません。人の出会い、ご縁を楽しんでいきたいと思います。

いのちのバトン

いのちのバトンというものがあります。私はよく誰かのバトンを受け取ることが多く、後を任せて託されることばかりです。そのバトンは生前ほとんど関わっていないのに託されいなくなったあとに深い関係になり親しくなるバトンもあれば、長い年月、ご指導していただきその教えを学びそれを実践するなかで託されるバトンもあります。他にも、一度もお会いしていないのになぜか同じことを同じ場所で託されているバトンもあります。

このバトンは、リレーで使う棒のことで他には指揮棒や杖などの意味もあります。これを渡され次の人に渡してはじめてバトンはつながれていきます。バトンは、次のことをするから渡すバトンもあれば身体がなくなるから心で一緒に歩んでいこうとするバトンもあります。どちらにしても、バトンにいのちが宿っています。そのいのちのバトンを託されたものと託したものはいのちを分かち合い共に歩み続ける関係であるのです。

バトンを渡したらあとは関係がないということではありません、またバトンを託されたら託した人はいなくなったのではありません。これは一蓮托生になったということです。この一蓮托生は、仏教の言葉で死後、極楽浄土で同じ 蓮華の上に生まれることを指します。この意味が転じて、ものごとの善悪や結果のよしあしに関係なく永遠に最期まで行動、運命を共にすることをいいます。これはいのちがつながりが永遠になっているということです。

よく考えてみると、人のご縁というものはそういうものです。

今の自分はいのちのバトンをつないでいただいた存在としてこの世に生を受けます。そして死後もまた自分のバトンを誰かに託して共にいのちを分け合い存在し続けていきます。いくら頭で忘れても、いのちのバトンを託された中で暮らし続けています。

私たちが使うこの言葉や文字、そして生活文化、あらゆるものはいのちのバトンを託されたものです。それを私たちは頂戴しながら道を歩み続けます。

もしも自分がいなくなってもよろしくお願いしますと、頂いた偉大な恩恵や光を多くの人たちに渡していきます。そうやって道を照らし道統を継いでいくのです。

それが道の偉大さであり、いのちのバトンの有難さです。

私も偉大なメンターを今年の7月に亡くしました。15年以上、有難いご指導をいただき見守ってくださいました。今でも目を閉じればすぐに心に存在が映り声も聴こえます。不思議なことですが、この世を去られた瞬間にご指導いただいた長年の言葉や意味が自分そのものの言葉や意味になりました。まるでいのちが一つになったかのような感覚です。今までその人の言葉と思っていたものが、自分の言葉と和するのです。これがバトンを託される感覚なのかと改めて直観しました。

このいのちのバトンというものの本質は、バトンこそいのちであるということかもしれません。

人間は無私無我の境地で悟り、存在そのものに意識を合わせればそこにあるのは「いのちのバトンのみ」です。これからの私の役割もまた、そのいのちのバトンと共にあります。

いただいたご縁に深く感謝し、私の役割を精いっぱい果たしてまたあの世とこの世に報徳と朗報を伝道していきたいと思います。

節目は終わりではなく、新たなはじまり、これからも共に精進せよということです。今までご指導に心から感謝しています、そしてこれからも新たによろしくお願いします。

一期一会

ハタラキ続ける存在

私には尊敬している人がいます。その人はすでにこの世にはおられませんが存在はいつまでも生きておられます。人は生死だけではない、存在というものを持っています。これはいのちという言い方もします。別の言い方ではハタラキと呼んでもいいかもしれません。

生前、死後の別なく、ハタラキ続けておられる存在。ハタラキが観えている人たちはそのハタラキそのものの存在に感謝をします。これは自然界も同じです。自然の生き物たちはいのちがあります。そのいのちのハタラキをしてくださっているから感謝しあうことができます。この世界、宇宙にはハタラキをしていないものなどは存在せず、常にハタラキ合うことで調和しています。

存在がハタラクからこそ、その感謝を忘れないというのは先祖が喜ぶ生き方です。なぜなら先祖もまた終わったものではなく、今でもハタラキ続けてくださっているからです。

私たちの物質的な見方では不思議に感じますが、無から突然有がでてきます。何もないところから出てくるからそんなはずはないと思うものです。それは意識が同様です。なぜこの意識が産まれてくるのか。そのはじまりは何か、誰がつくったのか、深めてみるとそこには偉大な存在があることに気づきます。

この時代、というよりも人類は目覚めというものを必要とします。常に気づいて目覚めることで今の場所をよりよい場所へ移動していくことができます。今居る場所はどのようなところか、この環境のなかで自分はどのようなことをしているのか。人間は環境の影響を受けて抗えないからこそ、様々な問題は環境に現れていきます。

私たちがもっとも平和で謙虚だった環境はどのようなものか。こういう時代だからこそ原点回帰する必要もあります。自分が産み出す環境がどのような環境であるのか。それぞれに環境を構成する一人として、みんながそれぞれに気づき目覚めていくしかありません。

自然に包まれているのを感じる感性、童心という好奇心、呼吸するたびに感じる感謝の心など、もともと在る存在に気づいてこそハタラキのなかで仕合せを味わうことができます。

尊敬している方がいつまでもハタラキを与えてくださっている感謝を忘れずに、私も子どもたち子孫のためにハタラキのままで今を磨いていきたいと思います。

掃除の功徳

昨日は、英彦山の守静坊の庭池の掃除を仲間たちと一緒に行いました。いつも思うのですが、みんなで一生懸命に協力して取り組んでいると知恵もでて作業もはかどります。

作業のあと、みんなで食べるご飯が美味しくいつも清々しい気持ちになります。今回は、畑で収穫したさつまいもを私が炭焼き芋にしてエバレットさんはお手製のお味噌汁を振る舞ってくれました。

秋晴れで紅葉づいた青い空の下でみんなで囲み団欒をする喜びは格別でした。

釈迦に掃除の功徳というものがあるといいます。

1. 自身清浄(自分の心が清められる)
2. 他心清浄(他人の心まで清めることが出来る)
3. 諸天歓喜す(周囲の環境が活き活きしてくる)
4. 端正の業を植ゆ(周囲の人の心も物事も整ってくる)
5. 命終の後、まさに天上に生ずべけん(死後、必ず天上に生を受ける)

というものです。まさにこれは徳の循環であり、功徳の本質が記されます。

どのようなものを磨いているのか、何のためにやっているのか、そしてこれがどんな意味があるのか、それは磨いている人が気づくものです。自らの人生の一つの道を歩む心得としての魂を磨いていくという実践。

いつの時代も同じように生きた人たちがまさにここに挑み、人格を高め、世の中の大切な役割を担ってきました。誰もがやることではなく、誰もやらないこと、誰も気づかないからこそ人知れず磨くのです。

仕合せというものは、足元の宝に気づくかどうかです。その宝は、足元を磨くかどうかともいえます。掃除の有難さは、足元に気づく機会を与えてくれることです。遠くばかりをみて、周囲ばかりをみて、自分のことばかりを気にしていたら足元の宝に気づけません。

池の掃除をしながら、長い時間をかけてきたあらゆる歴史が綺麗に流されていくのを感じました。またもう使えなくなって役目を終えた道具たちが燃えていくのを見て、そこに一つの歴史が終焉し新たなものが誕生したことも憶えました。

掃除はあらゆることを甦生するための大切な実践徳目です。

これからも暮らしフルネスやお手入れを通して、子孫へ徳を顕現させていきたいと思います。