地域の文化

地域の文化というものを観察すると、その地域に根付いてきた習慣や生き方、人々の暮らしがよく観えてきます。本来、地域で循環をしあらゆるものが地域の単位で調っていたころは地域文化はよく育ちました。そして地域文化が育っている場所では、よく人も育ちました。これは育つということの本質が、よい土壌が調っていることが前提になっているからです。

田んぼでも畑でも土壌がやせ細って硬く生き物もいないようなものになればよく育つことはありません。ではなぜそんなに土壌がやせ細り衰えているのか。これは畑や田んぼならすぐにわかります。目先の収穫をしようとして、農薬や化学肥料を大量に入れては効率優先に取り組むからです。すると、作物は一時的に大量に収穫できても土が弱ってくるから次第によい作物が育たなくなります。そのうち水耕栽培のように、土がなくても育つように遺伝子を組み替えたり色々とその場しのぎの技術で乗り切ります。そのうち何をしても効率がよくないとし、その場所を捨てて別のところに移動していきます。

地域の文化はこれと似ています。育つ環境が失われていくと似たように文化も荒廃していきます。

本来、経済というのは経世済民といい文化づくりの言葉です。文化づくりは地域の徳が循環する中で育つものです。つまりは土づくりは徳を積むことで醸成されていくということです。

これは太古のむかしから、山が平地を潤すように水が流れあらゆる生命を活性化するように徳が循環することで土地や地域は発展を継続してきて今もあります。そういうものを無視して、目先の損得や個々の欲望を最大化させれば土はやせ細り衰えてしまうのです。

ずっと住み続けたい町とは、文化や暮らしが甦生し続けて徳が循環するような場がある町ということだと私は感じます。

近代、時代背景を観るとほとんどこのようなことは言葉の定義も異なり、常識から外れ思想のように言われますがそのうち時間が経過すれば誰しもが現実に向き合う日はやってきます。

世界の潮流や競争、比較、分断などよりも足元の土をよく観てよく味わい直すところから文化づくりは続いていくように思います。引き続き、子孫や未来のためにも丁寧に暮らしを調えて実践を磨いていきたいと思います。

暮らしの夏至祭

一年で最も昼の長さが長くなる2026年6月21日、英彦山守静坊では暮らしの中の夏至祭を行います。夏至は太陽の恵みを最大限に享受する日として、世界各地で独自の祭りや儀式が行われています。例えば神道では半年間の穢れを祓う「夏越の禊」も、夏至の頃に行われる代表的な風習の一つです。太陽と地球の関係性のエネルギーがあり、そして中庸になる一期一会の光で人々は自然への感謝と無病息災を祈ります。

現在、お山の暮らしを甦生していますがお山との関係性を磨いていくとかつての日本人が忘れてはいけない大切な初心や生き方、そして場があることに氣づきます。

現代は、時間に追われ忙しさや無理をして頑張る生活の中で自然感覚が麻痺してしまう人も増えています。この自然感覚とは、暮らしの場が失われているということです。

今回の夏至祭では、自然感覚と仏道を修養された仙人も一緒に参加し、生き方や場づくりを共にしながら先祖供養の大切さや日々の自己内省や環境づくりなども学び合います。

また夏至は陽極陰性ともいいます。陽が極まり陰が産まれる、つまり一陰来復です。冬至が光がやってきて陽に転じるのに対して、夏至は光が陰になっていきます。しかしこれが自然の法理でり、陰もまた好循環の兆しなのです。盛者必衰であり、老化していくのはいのちの循環です。

その大切な節目に、よく内省し養生し今を受け容れて甦生することがいのちを逞しくし健康にしていきます。無病息災を祈り、長寿を祝い、ご先祖様に感謝する大切な暮らしの行事なのです。

日子山仙螺講の方々と、法螺貝を立て、法螺貝を磨き合います。お水と紙やすりで丁寧に手入れします。英彦山の倒木を片付け、場を清め調えて、甦生した石風呂サウナを実践しお山の霊水で禊をします。

また音のご奉納や神事後の直会なども予定しています。

私たちが大切にしているのは、「場づくり」です。人は個人で回復するよりも、場によって人間性は回復します。純度の高い場、そして純度が磨かれ続ける場は、人間の自然感覚を呼び覚まします。

環境や場は、人を見守り続けます。

成長と成熟~自我との折り合い~

人間は人格が磨かれないと自我との折り合いがつきません。自我とは調和であり、自然体の姿でもあります。これは一人の人格の中に二人の人がいるような感覚です。神経では、交感神経と副交感神経との関係に似ています。

通常、成長成熟は人間的にも才能的にも技術にも完璧になった人のように語られます。地位も名誉も人格も身に着いた人物のように言われます。

しかし実際には、良寛さんやあるいは名も知られずとも地位がなくても見事な生き方をした僧侶や医師がいたりします。最近では、ウルグアイのホセ・ヒムカ氏などもそうです。

艱難辛苦がその人の自我を調え、見事に調和した「一人」になっておられました。つまり自我が調い、真の人間性を生きることができたということです。

そこから逆説として、では何が成長成熟なのかということを洞察してみると人間はどのような状況でも自己を深く探求し学問を続けることができるということ。また人間の理解が深まり、何が未熟であるのかがわかるということ。そしてどのような状況かであってもどう生きるかという生き方を磨いていくということが真の人格、自我との調和には関係していることがわかります。

人生は一度切りですが、生き方はそれぞれが決めるものです。

そして真の資質とは、その人がどのような状況でも本質が保てるかということに他なりません。

本質を学び、本質のままでいることは人格を高めることです。同時に、本質を守る人の周りには同じく人格を磨きたい人が集まってくるものです。孔子の一生が十五にして学を志し、七十にして心の欲するところ矩をこえずといったのは、本質を学び続けて遂に自然体の一人になれたということでしょう。

本質を保とうとすれば必ず苦労は訪れます。

残りの人生も、意味を味わいながら自我の調和を暮らしの中で調えていきたいと思います。

現代文明の困窮

現代文明の困窮とは何か、それは人間性の減退と発達の未成熟により徳を切断・分断し循環しなくなったことが大きいように私は思います。

人間が徳の循環から離れたらこの世の中は、単なるいのちではない物質を利用する人間が征服する世界があるだけです。西洋文明の本質は、自然を支配し人間の思い通りにしていく未来をつくることでしょう。そこに人間性の成熟を見失えばどうなるか、それが現代文明の病巣として数々の問題を引き起こしています。犯罪、テロ、麻薬、戦争、宗教対立、民族対立も、人間が「自分だけ」「自国だけ」「自宗教だけ」「自民族だけ」「今だけ」を守ろうとし、いのち全体の循環から切り離された時にこそ発生するものです。

全体の循環を止める、そして離すという行為が如何に目先の利益だけを追い求めることになるのか。それは現代の経済や医療、そして教育を洞察すればすぐに観えてきます。目先の経済のために自然を破壊し、対処療法で切る焼く毒を入れても病気は増える一方、そして即席ラーメンのようにすぐに使える人間の育成、それはすべて全体調和や全体循環を歪めるものです。

人類は今、もう一度問い直し具体的な実践を変えていく時機を迎えています。そうしないと、困窮がさらに進み戦争をはじめ環境破壊をはじめ、この地球の生態系を滅ぼし、最後はその生態系の循環から除外されてしまいます。

「何のため」を問う、つまり生き方の再編集が必要なのかもしれません。

何のために発展し、何のために生き、何のために存在するのか。

目先の困りごとは、その奥に真の困りごとが隠れています。目先の困りごとの解決は、全体が調和し循環することで真に解決するものです。いつまでも目先の困りごとが解決できないのもまた真の困りごとが動かないからです。真の困りごとを動かす人たちが増えてこそ、目先の困りごとの解決も進みます。

大事な節目に、どうこの人類の困りごとを転じて福にしていくか。

色々と私の場づくりを通して試行錯誤していきたいと思います。

螺旋の道

明日は、英彦山守静坊で法螺貝を七神お渡しする儀式をします。誓願した法螺の五百羅漢を目指し、いま七十四羅漢になりました。ますます法螺を通した波動は揺れ螺旋の繋がりが広がりより中心への思いの結びつきは強くなります。

法螺の意味は、「螺旋の真理」という意味です。ではこの螺旋の真理とは何かということです。螺旋というものは、宇宙の姿であり、星々の姿であり、意識や生命の姿です。そして分子や量子の姿でもあります。波動は揺れていますが、それを纏めているのが螺旋です。

つまり波動がカタチになったものが螺旋ということです。

例えば、空気中の風は揺れています。しかしそれが纏まるとき、台風や竜巻になります。海や川などの水も同様です。流れがありそれが揺らぎ螺旋になることで調います。時が動けば波動、空間や場が螺旋です。

最近は、脳科学でも螺旋波というものが見つかり私たちの脳の認知や意識は螺旋上に信号を送ることで纏まるといわれます。心臓も単なるポンプをするのではなく、螺旋状に包まれた筋束が螺旋のように呼吸をして血液や酸素を全身に巡らせているというものです。つまり螺旋はマクロ宇宙からミクロ宇宙まで全て網羅しているあらゆる真理の姿です。

此の世の全ての神秘には、波動や螺旋が深く関わっています。古代より人々は螺旋の力を発見し、紋様をはじめあらゆる暮らしの中心に螺旋を取り入れてきました。ある部族は、蛇を象った螺旋の踊りをすることでいのちを蓄えました。またある宗教では螺旋はすべての神人合一の象徴としました。陰陽道やタオといった道もまた、波動と螺旋が顕現したものとされました。

法螺貝を持つということは、螺旋の道を実践するということでもあります。

人は日々の生活の中で様々な感情を持ち心を調えます。この瞬間瞬間の一期一会には、波動と螺旋が深く結びついています。微細な揺れから大きな揺れ、それを自己内省によって螺旋にして調えます。

私たちが「調っている」という状態は、螺旋になっているということです。そして調うとは、成長すること変化すること、シンプルに言えば「旅をする」ということです。宇宙を太陽系の星々と共に螺旋しながら旅をするように、私たちのいのちは螺旋の道と一緒に歩みます。

法螺貝を吹くとき、私たちは螺旋になります。

螺旋になるということは、あらゆるものを一円和合して成長して真に自己に氣づくことを繰り返すということです。

何度も何度も繰り返し同じことをしても、必ず前と同じ円ではなく螺旋となるという法則。そこに絶対的安心を直観するから今でも法螺貝は人々と共に旅を導く存在として大切に守られ人類のお導きの存在、宝ものになっているのでしょう。

宇宙自然、全体調和、波動の中で旅をし、螺旋の道を究めていきたいと思います。

あるがまま、かんながらの道

人は自己を責めるとき、自己の関係が歪むものです。人間は脳で自分というものを認識します。外から見られる自分、こうでありたい自分、あらゆる自分が自分という存在を象り認識するものです。しかし自己には、本来の自分というものもあります。これはあるがままの自分でもあり、何ものでもない事実としての自分です。

例えば、紅葉の木はライオンではありません。蟻は鯉ではなく、石は虫でもありません。そんなことは客観的に観ればすぐにわかります。しかし、人間は何にでもなれると認識することができるからか主観的に自分を別の何かと思うものです。

これは幼少期からの環境や教育に左右されることが多いように思います。人間は人間という存在で世界を刷り込みます。実際には、自然というようにあらゆるいのちが循環謳歌して活かし食べあいながら暮らしている場が地球です。その地球の中には、あらゆる生き物たちがいます。

そしてその生き物は生来もって生まれたものがあります。猫は猫になるように姿形もできています。人間と同じように鼻も口も毛もありますが、猫は猫なので得意不得意があるのです。

自分というものはどのようになっているのか、それは先祖の徳の集積でできています。同じ人であっても、辿ってきた先祖の生き方や特徴や業が異なりますからそれを色濃く受けていますから人はみんな別人です。似てるように見えても、同じ存在は一つもありません。これは指紋がすべて異なるように、また葉脈が異なるようになるのと同じです。

それぞれにそれぞれ固有の特徴があります。他の人にできても、自分にできないことがあります。逆を言えば、自分にしかできないこともあり今の自分だからこそできることがあるのです。

他人と比較したり、完璧を求めたり、承認欲求などに自己を奪われてしまうと不平不満ばかりで不幸になるものです。

よくよく自己を見つめ直して自己を認めることで、事実や現実を直視することが「あるがまま」で生きるということかもしれません。

あるがままの自己を愛するというのは、あるがままの他者を愛するということでもあります。これでいい、これがいい、ちょうどいい、相応しいと生きることは、今の全てを肯定する生き方です。自己肯定感などとよく教育界では叫ばれますが、実際にはみんながあるがままを認め合える社會にできるよう、環境や教育を変えていけばいいだけです。

あるがままである世界は、いのちが活き活きと充たされ合う自然の道です。

引き続き、かんながらの道を歩むからこそ何度も繰り返し成長を確かめるための必要な節目があることに感謝して丁寧に道を拓いていきたいと思います。

お水は薬

薬のことを深めているとお水に辿り着きます。万物全ての薬の根源はお水ということです。そもそもお水は私たちのいのちの源です。お水がなければ私たちはこの生命を維持することもできません。だからこそ、お水が薬となります。そしてお水は単一の存在ではなく、お水は千差万別にあらゆる姿にカタチを変えてその時々のいのちの一部となって私たちの生命を巡ります。

結局、どの薬草もまたお水が土と和合して生成したものであり、その薬草もまた人体に取り込む時にはあらゆるお水と和合して溶け合うものです。お水こそ、私たちの根源ということです。

今年は私の一文字は「水」としていますが、お水の持つ力には驚嘆するばかりです。深めても深めてもその奥が底知れず、好奇心は尽きません。

もともと私はお水を薬として認識したのは、若い時に体調を崩した経験からです。その時は、何も食べれなくなりお水も飲めなくなりました。その時にせっかくだからと日本中のお水を取り寄せ飲み比べていたら飲めるお水があったのです。その時に、お水は一つではなく唯一無二であることを学びました。その時々の体調や心境、精神状態でも和合できるものとできないものがあると。そこからお水にこだわる人生になりました。今でも、料理別にお水も変えますし炭も変えます。お鍋に向くもの、お蕎麦に向くもの、蕎麦湯一つでも飲んだ後の身体の変化はまったくお水で異なるのです。

李氏朝鮮時代の医師、許浚が記した東医宝鑑にお水を分類わけしたものがあります。具具体的には、「井華水(せいかすい)、寒泉水(かんせんすい)、菊花水(きくかすい)、臘雪水(ろうせつすい)、春雨水(しゅんうすい)、秋露水(しゅうろすい)、冬霜(とうそう)、雹(ひょう)、夏氷(かひょう)、方諸水(ほうしょすい)、梅雨水(ばいうすい)、半天河水(はんてんがすい)、屋霤水(おくりゅうすい)、茅屋漏水(ぼうおくろうすい)、玉井水(ぎょくせいすい)、碧海水(へきかいすい)、千里水(せんりすい)、甘爛水(かんらんすい)、逆流水(げきりゅうすい)、順流水(じゅんりゅうすい)、急流水(きゅうりゅうすい)、溫泉(おんせん)、冷泉(れいせん)、漿水(しょうすい)、地漿(ちしょう)、潦水(ろうすい)、生熟湯(せいじゅくとう)、熱湯(ねっとう)、麻沸湯(まふつとう)、繰絲湯(そうしとう)、甑氣水(そうきすい)、銅器上汗(どうきじょうかん)、炊湯(すいとう)」です。

この分類は、お水そのものの化学的違いではなく「どこから来たか」「どのように存在しているか」「どのように変化したか」という観点で水を捉えています。

まずはじめにお水は「天から来るもの」と「地から来るもの」に分けられます。そして春雨水や秋露水、臘雪水などは天からもたらされる水であり、季節や気候の影響を強く受けた「天の気」を帯びるとされました。また井華水や泉水、海水などは地に由来する水でありその土地の性質や環境の影響を受けた「地の気」を持つとされます。お水は天地の間にありますが、そのどこで採取するかで性質が全く異なるとするのです。

そしてお水は「動き」で分けます。順流・逆流・急流といった流水の違いは、水の中に宿る気の巡りや勢いを表し体内の気の流れと対応づけて考えられました。流れるお水がどこを通ってきたかということも大切で、屋根を伝った水や木の中に溜まった水などは、その経路にある物質や環境の影響を受けて性質が変わってしまうとしたのです。

次に甘爛水や生熟湯のように意図的に人が攪拌したり混合したりして作られる水は、すでに「薬」として治療目的に応じて性質が調整されたものとあります。他にも蒸気が凝結した水や器物に付着した水滴、あるいは穀物や土などから生じた水などもあり、お水は他の物質との関係や変化の過程でも変わるとするのです。

お水の変化を的確にとらえ、そのタイミングで性質が変化する。それを薬として用いるとするのです。

お水のことを深く理解することが、薬道の第一義です。私はお水とのご縁が深いので、性質をさらに学び直していきたいと思います。

命根と世根

福岡県飯塚市赤松にある「むかしの五穀田」の田んぼの準備をはじめました。霊山、関の山の吹きおろしの爽やかな風を浴びながらの農作業は格別です。田んぼと共にある古民家和楽の御蔭で、農作業の休憩がとても癒され仲間たちとの時間もさらに豊かになりそうな予感です。ご縁というのは有難くいつも絶妙なタイミングに包まれます。

思い返せば子どもたちのためにと千葉県神崎で自然酒の寺田本家の酒米を一緒につくる農家と冬季湛水の無農薬無肥料で一緒にお米づくりをするご縁から今では故郷で同じ道を続けています。

昨日は、美しい関の山からのお水をこれからどのように管理していくかを調えました。澄み切ったお水があってはじめて美味しいお米になることを再実感しました。

昨年参加してくださった多くの徳積仲間たちが安心してお米づくりができるように色々とこれから場を磨いていきます。

「自然真営道」という著書を遺した江戸時代の人物に安藤昌益さんという方がいます。この方は、自然や人とは何かということを突き詰めた人物です。私は同じ時代の三浦梅園先生を尊敬していますが、この安藤昌益さんのことも尊敬しています。

あまりにも普遍なこと言い、時代的にも進み過ぎている思想を持つ人たちはその時代には認められ受け容れられるものではありません。しかし300年経った今になると、その思想や実践が如何に今の時代に必要なことかがよく分かります。時が真実を証明するのです。

三浦梅園先生の300周年では国東半島にある生家でシンポジウムをして学び直しましたが、むかしの五穀田では安藤昌益先生を改めて仲間たちと学び直してみようと思っています。

まず自然真営道とは何か、これは読んで字のごとくで「自然とは、真実の営みという道である」ということ。では営道とは何か、それは「互生」であるといいます。例えば、天と地、男と女、雄と雌など二つが一つであるということ。つまりお互いがお互いを活かし合って存在になっていることといいました。

原文はこうあります。

めうハ互性ナリ、だうは互性ノかんナリ。是レガ土活眞ノ自行ニシテ、不教ふけう不習ふしふ不増ふぞう不減ふげんひとルナリ。故ニ是レヲ「自然」トフ。

私も同感で、水は二つの性質が一つで水となります。絶対零度で固まるものと固まらない水があるといいます。火も燃えている眼に見えるものと、遠赤外線のような見えないものがあります。二つが調和しあって一つになるところに互生の真理があるのです。

そして安藤昌益先生は、ここから人の互生の道として「直耕」の実践を説きます。

是レ活眞、無始・無終ノ直耕ちよくかうナリ。故ニ轉定くわいじつせいげつ八轉八方横逆ニ運囘うんくわいスル轉定ハ、土活眞ノ全體ぜんたいナリ。

故ニ活眞、自行シテ轉定ヲツクリ、轉定ヲ以テ四體したい四肢しし府藏ふざう神靈しんれい情行じやうかうト爲シ、つね通囘轉つうくわいてん・横囘・逆囘央土ト一極いつきよくシテ、逆發穀ぎやくはつこく、通開男女ヒト、横囘四類、逆立草木ト、生生直耕シテやむコト無シ。

故ニじんぶつ各各かくかくことごとク活眞ノ分體ぶんたいナリ。是レヲ「營道えいだう」ト謂フ。故ニ、八氣互性ハ自然、活眞ハ無二活むにくわつ不住一ふぢゆういつノ自行、じんぶつ、生生ハ營道ナリ

安藤昌益先生は「人はまず自分の食べるものを自分で耕し生産する農を営むことがあってこそはじめて自然となる」としました。その中に人類の真の平等は存在すると言い切りました。自分で耕さなくなると不耕貪食になっていくと。そして直耕し農を実践することで互生を通してお互いに活かしあい真の営道になると説きます。それを「活真人」となるともいいました。

活真人の互生によってのみ自然の世を実現するとしそれが永続してこの地球で仕合せに生きる智慧であるとしたのです。しかしこれをそのまま説くことは、あまりにも本質的過ぎてその時代も、いや今の時代も危険思想や狂人と呼ばれるものかもしれません。

例えば、今でも呼吸さえ調和していればすべての生物の病気は治癒するなどといえば奇人や詐欺だと言われたりするのと同じです。真実というものは、真実であればあるほどに都合が悪いものを浮き出させるものです。

「むかしの五穀田」に話を戻せば、田んぼでは稲を育てます。稲のことを安藤昌益先生は命根(いのちのね)といいます。これを略して命根(いね)です。人は稲の精から生まれ、稲を食して命を養うから、稲は命根(いのちのね)となるとし、またお米のことを世根(よのね)と書いて米(よね)呼びます。人は耕して米をつくり、これを食して人の世をつくることから、米は世根(よのね)となる。

自然真営道を學ぶことは、この命根と世根を創造し共生する社會を甦生することでもあります。私はこの自然真営道をかんながらの道で綴ります。

ということで、これからまた徳積仲間を集めて場をつくります。4月15日には最初の耕耘をはじめ苗床づくりをします。田植えは6月下旬の予定です。今年は、自然農法のお米と自然農のお米、古代米、地域のお米の5種類を育てる予定です。

共に学びたい、また子どもたちのため徳を譲りたいと思うご縁のある方々はそれぞれに準備をお願いします。

生き方の先生~サクラの智慧~

英彦山守静坊の枝垂れ桜がまもなく満開を迎えます。そして満開の後はいよいよ静かに散り始めます。

桜はどうしても満開ばかりを見る機会が多いと思いますが、桜守をしていると最初の咲き始めから終わりまでの散り際をずっと見守っていますからそのどの場面も一期一会を感じて学び直し、感動することばかりです。

特にこの枝垂れ桜の散り際の美しさは、信仰やいのりの場にある桜だからこそ偉大な智慧や教えを味わえます。

もともと日本人の美意識には散り際の美学のようなものがあるといいます。人生の終わりからどう生きるかという死生観のことです。

私たちの先祖たちは「生き方」というものを何よりも大切にしてきました。これは何を人生の初心にして何のために生きるのかという生きる姿勢のことでもあります。

一生懸命に真摯に生き切って、潔く静かに美しく散ってまた新たな甦生の循環となる。

古来から桜にはそのような雰囲気があるものです。

修験道発祥の地、山岳信仰の中心であった英彦山にひっそりと咲く守静坊のいのりの一本桜はまさに今の時代の人間が憧れる生き方の智慧の結晶のようです。

今週末にかけて散っていきますが、2日には満月を迎えます。夜桜の美にもまた智慧が隠れています。この枝垂れ桜は全方向、全時間、全受容、全存在で味わえます。

宿坊の甦生からますます元氣になっている奇跡の彼岸桜から季節の巡りと一緒に心の持ち方も学び直していけるといいですね。

 

 

英彦山枝垂れ桜の物語

英彦山の守静坊の枝垂れ桜は少しずつ開花をはじめています。この唯一無二の枝垂れ桜の物語を少しご紹介してみようと思います。

もともと守静坊のしだれ桜が英彦山の地に植樹されたのは今からちょうど二百三十年年前のことです。この頃の英彦山には約三千人以上の修験者たちが英彦山の中で暮らし宿坊も八百坊ほどあったといわれます。当時の英彦山はとても参拝者で賑わっており、坊家の山伏たちは薬草で仙薬をつくり、信仰者へのお接待やご祈祷や祭祀、護符の授与や生活の知恵の指導などを生業として暮らしていたそうです。

時代の変遷を受け、今はその様子は失われていますがその当時の面影のままに今でも清廉に咲き誇る「しだれ桜」が守静坊の敷地内にあるのです。時代を超えて生き続けている存在の御蔭さまで私も甦生に取り組むことができています。

この守静坊の枝垂れ桜の特徴は、「澄みきった可憐さを持つ花びらと、鳳凰のように羽を広げた姿はまるで今にも飛翔していきそうな姿」です。実際には樹齢二百三十年以上、高さ約十五メートル、幅約二十メートルほどあります。

品種は、「一重白彼岸枝垂桜」といいます。この名前には日本人の自然観と死生観がある象徴的な桜ともいわれています。この「彼岸桜」は、春のお彼岸の頃に咲くことから名付けられ、此岸(この世)と彼岸(あの世)をつなぐ存在として、古くから先祖供養や浄土思想と深く結びついてきました。

そして「枝垂」は枝が下へと流れるように垂れる姿を指し、その形は水や柳を思わせ古来より霊性や神聖さを帯びるものとされ寺社に多く植えられてきたものです。純白の透明感のある「白」は清浄や浄土を象徴する色であり彼岸という概念と重なることでより一層あの世への祈りや鎮魂の意味が入ります。

また「一重」は花びらが簡素で原初的な形であることを示し人の手による装飾性よりも自然そのものの美しさを宿しているともいわれます。これらすべてが重なり合ったという意味で「一重白彼岸枝垂桜」という名前になっています。

この世とあの世の境界に静かに佇み、亡き人への想いをそっと託すような、日本的精神性を体現した桜がこの守静坊の枝垂れ桜なのです。

そして言い伝えでは、江戸時代の文化・文政年間に(1804年~1819年)に当時の守静坊の坊主である守静坊普覚氏が二度ほど、英彦山座主の命を受けて京都御所へ上京しました。その時、京都祇園にあるしだれ桜を株分けしたものを持ち帰りこの英彦山に植樹したといいます。

昨年、故あってちょうど福岡にお越しになっていた平安時代末期から続く公家の家職であり代々宮中の装束を担当してきてこられた若宗家の山科言親様に浮羽の私が甦生している古民家でお会いするご縁をいただきました。その時に「元々は祇園桜の発祥は、京都円山公園にある山科家の宿坊の敷地内にあった枝垂れ桜だったんです」というお話をお聴きしました。その時の出会いの感動は大きく、時代を超えて桜を通して繋がる人々の関係があることに感謝したことを今でも覚えています。

守静坊ではこの枝垂れ桜の開花時期に、英彦山と場にご縁のある方々や檀家さんたちが集まりご先祖さまの供養を行う年中行事その後に行われてきたという伝承があります。それを新たに甦生して、今の時代に本質は変えずに桜を喜ばせるような年中行事「サクラ祭り」として私が実施しています。

昨日も大量の落ち葉を桜の養分にと作務をしていたら何処からか桜を観に来る方やお花見のお電話が入ってきました。どの方々もこの守静坊の枝垂れ桜を観て感動した、魂が震えた、桜との出会いが忘れられずにまた来たいと足を運んでおられました。

桜は凛としてただ自分の花を精一杯に咲かせているだけですが、その姿そのものあるがままの徳が人々の心を癒し清め、繋がりを保ち今でも心を救っています。

私もこの枝垂れ桜のように生きたいと、人生の大先生と慕い桜守をさせていただいているところです。きっと満開と見頃は今週末から来週末くらいまでではないかと思います。

英彦山はちょうど上宮の工事も終え、お山も次第に調ってきました。桜と共に皆様にお会いできるのを心から楽しみにしています。

https://www.crossroadfukuoka.jp/event/15519