手の扱い方

国家を観察するとき、その国家が人の扱い方がどうなっているのかというのを客観視するとき国家の方針を確認できるものです。例えば、大量生産し大量消費するモノのように人が扱われているのならその状況はモノを観察すればよくわかります。

利用価値があるものは大量に生産され、価値がなくなれば廃棄します。ゴミをよく観察すると、どのようにゴミが増えていくか、そして捨てられるのか、そのプロセスに扱い方というものが現れているからです。

この扱い方というのは、モノへの接し方です。

人は少ないと、希少だとして大切に扱いますが大量になると扱い方が雑になります。少ししかないと貴重だとして少しも捨てませんが多すぎると捨てるのです。

世の中にお金がありあまるほどあれば、同じように扱い方が雑になります。その逆に少ないと扱い方が丁寧です。

私はよく古民家甦生で「お手入れ」の話をします。これはどのように丁寧に接し手を入れ甦生させ続けるかというお話です。同時に、この「扱」の漢字の語源は、五本指と手でどのように引き込むかという意味です。

自分の手がどのようにモノやコトなどすべてを扱っているか、もっと言えば、自分の手でどのように今に接するかでその人の人生の方針がわかるのです。便利な道具としてか、それとも信仰の対象としてか、あるいはいのちを感じるためかはその人の手の扱い方に出てきます。

手は、何でも産み出します。私たちの心は手に顕れます。手は幸福を世界に産み出すこともあれば、残虐な不幸を産み出すこともあります。ある手は、人を救い、ある手は戦争によって人を殺します。この手は、心そのものでその手の扱い方をどうするかで生き方までも変わっていくのです。

取り扱うことが難しい案件というものはこの世にはたくさんあります。核や遺伝子組み換え、人工知能などもまさに手におえない難しいものです。これは頭でなんとかなる問題ではなくまさに日頃の手の扱い方、手の使い方にこそ気を付けなければなりません。

毎日、手を使って私たちは色々なことを創造します。

この手をまず善くすることから人は生き方を磨いていくことです。日々の手の扱い方、そこに自分の意識が投入されます。手を大切にしていくことから、人は心を大切にしていくことができます。

手の中にある意識をさらに高めて、世の中の平和を創造していきたいと思います。

熱に中る病

地球の温度が年々、上昇を続けています。15年くらいまでまでは、夏に35度を超える日はそんなに多くはありませんでした。たまたま1日から3日くらいは猛暑日があっても10日や15日以上続くということはありませんでした。

最近は、連続して猛暑日が続き植物をはじめ動物たちもそして私たち人間も悲鳴をあげています。そして熱中症という病気も増えてきました。この熱中症ですが、亡くなることもある病気でとくに高齢者をはじめ体調がよくないときなど気を付けないといけません。

もともと人間の身体は、産熱といってじっとしていても熱を産みます。心臓や脳が動けば熱がでますし、ご飯を食べても胃腸が活発に動けば熱を出します。簡単に言えば、常にエネルギーを燃焼する熱を持っているのです。

それが絶妙な自律神経の働きで調整され、体温があがれば末梢神経を広げて皮膚に血液を流し、体外へと熱を放出して放熱しようとします。汗も放熱のために発生します。

しかし、如何にすぐれた調整機能があっても周囲があまりにも高温になり、それが長時間続くとこの機能が働かなくなります。すると、放熱ができずに今度は体内に熱が溜まっていきます。

熱中症は一つではなく、4つの症状があるといいます。具体的には、熱失神・熱けいれん・熱疲労・熱射病です。これらをまとめて熱中症です。熱失神は、脳に送られる血流が減るためにおこります。よく真夏に運動しているときに頭がふらっとするのはこの湿疹傾向が出ているともいえます。熱けいれんは、塩分が足りなくなると発生します。水分の蒸発とともに塩分も放出していますから電解質のバランスが崩れてけいれんします。熱疲労は、塩分水分がなく脱水症状です。これもかなり危険な状態です。そして最後の熱射病は、脱水症状が悪化して高熱になり体温調節が破壊されます。汗もかかなくなり、中枢神経や心臓、肝臓、腎臓などの臓器に致命的な影響を与えて死亡します。意識も混濁するため、誰かが周囲にいないと手の打ちようがありません。

つまり熱中症は、重度になればなるほどに危険度は増します。だからこそ予防は、早めに意識して対応するということです。熱は身体に籠ります。放熱できない場合は大変危険ということです。

結局、短い時間だけの熱なら対応できますが長期間になると身体は大きな打撃を受けるということです。こまめな水分補給や、塩分補給、あとは熱が放熱できない場合は暑いところを避けるか、早めに冷やすということです。熱が長時間籠ることがないようにするためには、長時間体内が高音になっていないのかをチェックが必要です。

熱中症のチェックの一つに、爪をつまんで三秒以内にまた皮膚が元のピンク色にもどらなければ危険というものもあります。あとは尿の色で赤や茶など濃くなっていると脱水症状になっているというものです。眩暈なども症状が出ているともいえます。

この熱中症は、軽く見る人がいますが大変危険な病気です。この猛暑日が長時間続くときこそ、みんなで声掛けして気を付けていきたいと思います。子どもたちにも関係なく人間は誰でもこの病気にかかりますので子孫のためにもこれからの環境変化に合わせて情報を発信していきたいと思います。

徳を調える

色々な生き物は毒を持っているものがあります。この毒を持てるのは、その生き物がその毒を上手に使う熟すからです。毒はもともと薬であり、薬は毒です。重要なのは、その匙加減であり、塩梅、適量であるということです。

生き物の中では、自分の毒で自滅するものもあります。また毒によって元氣になるものもあります。この毒と薬というものの正体は一体何かということです。これを少しだけ深めてみようと思います。

そもそも私たちの空気の酸素も生きていく上で必要ですが大量に濃度を上げて摂取すると猛毒になります。酸素があることで私たちは身体の薬になるようにリフレッシュをしたり、治癒を促進しますが過剰であると死んでしまうのです。また酸素によって呼吸し身体は活動しますが活性酸素というものがそのうち2パーセント毒になって身体をむしばみ続けます。

つまりこの宇宙の法則として、必ずすべての存在は薬であり毒であるということです。言い換えれば、生と死は一体であるということです。別の言い方では、病と老も一体なのです。

そもそも一体だからこそ、私たちはその加減を絶妙にして寿命を伸ばし健康を保ちます。この加減の妙を知るからこそ、調和して元氣を保つことができているのです。

この世の中は、そう考えてみるとすべては加減と調和によって運ばれています。自然環境にしても、あるいは人間の幸不幸にしてもすべてはこの加減と調和です。

現在、薬草やデトックスを深めていますが結局はいのちそのものの真理の妙を調律したり調整することをやっています。法螺貝の波動も同様に、この世は振動数の加減も含めて手入れと手加減でどう調えるかということです。

調えるには、調えるということが分かっていないと調えることができません。場を磨き、徳を調えていきたいと思います。

講という信仰

この二日間、大阪で歴史のある修験道の講のお手伝いをする機会がありました。英彦山を先導して歩き、私が感じる信仰の場所をご案内し共に修行し、共に笑い、共に食べ、共に歩き、共によき時間を過ごしました。

私は講というものは、三浦梅園先生の慈悲無尽講から学んでいましたが実際に歴史のある講の方々をご接待することで講の本質を垣間見ることができました。

そもそも修験道とは何かということにおいては、験を修める道とありますから読んで字の通りでしょう。では講とは何かということです。私は、この講とは別に「結」というものを宿坊の茅葺の葺き替えで学びました。宿坊は、機械や重機など何も入れないような場所にあるので200人の人の手でみんなでバケツリレーのようにして2000本ほど萱を運びました。みんなが力を合わせて助け合い生きていく仕組み、まさにそこに結の智慧を感じました。

この結に近いものがあるのが講ですが、講の方がもっと強い信仰を持っているように感じます。現代では、推し活動(おし活)というものがあります。先日も、ある若いピアニストをみんなで推して支えようと活動をしている人とお会いしました。その方々はそのピアニストのために全力で推して経済的にも精神的にも全身全霊で応援して支えておられました。各地のコンサートには駆けつけ、練習風景はSNSで発信し、まるで家族の一員のように見守っていました。

信仰というものは、人間が生きる支えになるものです。信仰があるから人は元氣になり、若々しくも瑞々しくもなり青春をし続けていきます。まさに信仰とは、好きであることです。

好きなことがあることは、人生を真に豊かにします。それは好きな人いることでも同じですし、好きなことをしている人も同様です。好きなことが同じ人が集まると、そこには自由闊達な集団が誕生します。

本来、無理をして組織などつくらなくても人は好きなことで集団をつくるものです。私の周りには、左官集団などの伝統職人集団や、音楽関係集団、波動を学ぶ集団、またあらゆる分野のオタク集団があります。どの集団も、自然発生的に集まっていてとても自由です。そして同じ目的で集まった人たちは、共感しあい助け合う場ができます。

時代が変わっても、人の本質は変わりません。

暮らしの中で信仰があること好きなことがあることはとても仕合せなことです。私もあまり現代の組織論や集団、外部から評価される信仰や宗教などに惑わされず、好きに遊行を生きていきたいと思います。

ありがとうございます。

見え方

自分たちの歴史を考える時、今の地理からや現在の常識から考えるものです。しかし実際には、もっと以前の状態から考えないとわからないことばかりです。日本史などは狭い地域で語れることが多くてこの辺の考え方がよりわかりません。

世界の広さで物事を観ることが日本史であれば、本来は日本は世界と一体になって分析される必要があるものです。

たとえば、日本人は何処から来たのか、どのような民族であったかは、世界の民族と一体に考えてみて観えてくるものです。

世界を分けて考えるのではなく、世界と一体になって日本を観ると日本人の古代はほとんど世界人であることがわかります。今のように分かれているところから考えるのではなく同じところから考えることが大切だということでしょう。

その中で何が異なるのかを考察するとき、はじめて日本というものや歴史が観えてくるように思います。

丁寧に、今の自分の常識を毀して本来の見え方を磨いていきたいと思います。

有難い行

昨日も滝行をしてきましたが、お水がとても清らかで心地よく清々しい時間になりました。私の滝行の場は2種類のお水があり、それが混ざり合う場で座禅をして瞑想をします。強く流れるお水と、静かに優しく流れるお水。水は同じに見えますが、実際には同じ水は一つも存在しません。

流れてくる経路も異なれば、どのくらい土中にいたか、あるいは雲として何処から流れてきたものか、そして落ち方、音、揺れ方、時間帯でもすべて異なります。また、お水はお水を感受する側の状態によっても変化します。自分の気持ちが真心や感謝で充たされているのならお水もその状態に合わせて応えます。また激しい感情や煩悩があれば同様にお水は状態に合わせ応えます。

まさに和合の象徴で和合の化身がこのお水ということです。

これはお水に限らず、火でも同様のことが起きます。この世はあらゆるものが渾然一体となっている存在です。だからこそ、渾然一体の中の一つが自分の出す波動の一つにいって応えるのです。あらゆる引き出しが自然の中にはあり、その自然の一部が自分の状態に合わせて和するということでしょう。

滝行の有難さは、お水の尊さを自覚できることにあります。滝行後は、肌の感覚が変わります。少しの水気でも肌が感応します。例えば、杜の中に近づくと奥から流れてくる水の気配で全身がその杜の深さや厚みを感じるほどです。

他にも田んぼからのお水の流れ、空の風と共に動く雲の気配、飲み物や食べ物などからもお水を徳を感受感応します。

本来、私たちの身体や意識はお水で形成されています。そのお水であることを忘れてお水ではないものに囚われていくものです。滝行はそれらのお水の感覚を呼び覚まし、原点回帰してくれる有難い行です。

人生の中で滝行に出会ったことに喜びを感じます。ついやりすぎると冷えが蓄えられて、調整が大変ですが炭火を含め色々と暮らしフルネスの実践に役立ちます。

子孫や人類、平和のためにも日々の実践を磨いていきたいと思います。

今日から大阪の神晃講の修験者の方々を英彦山、守静坊でおもてなしします。みなさまがお山で静かで安らかなひと時になるよう人事を盡していきたいと思います。

暮らしが神事

昨日は、夏至祭を行いました。宿坊をはじめその周辺の片付けをし、場を調えました。宿坊周辺は、先日の暴風で枝木や落ち葉が散乱して大変な荒れようでした。いくつかの場所では落石もあり、直系80センチほどの丸い岩が上から転がっている場所もありました。また古くなった大木も折れていたりと、自然の間引きとその威力にはいつも驚かされます。お山が大きいのと放置期間が長いため、片づけても片づけても片づけることばかりです。

古木の守静坊のしだれ桜が心配でしたが、一つも折れている枝がなく旺盛な葉をつけてはいまずがしなやかに風をいなしたのでしょう。桜とは一緒に見守り合う関係になってはや4年目ですが、植物や木々はとても正直です。お互いに思いやれば、それに応え合います。この世は、関係性によって信頼が生まれ、そして信用や信仰が醸成されます。

信じあうということや、見守り合うということはお互いが「信じる」という絆を持つために大切な行為であり人間の徳の原点かもしれません。

現代、信仰というとすぐに宗教を思い浮かべます。しかし私は真の宗教は、暮らしや文化、生活習慣に渾然一体となって根付いているものではないかと感じます。例えば、食事の時に感謝で手を合わせることや、お互いにご挨拶をしてお辞儀をすること、お布団を畳んだり、靴をそろえたり、またはもったいないやありがたい、おもてなしなどの日々に使う言葉の中にも信仰を感じます。

信仰というと、何が正しくて何が正しくないかなどすぐに対立構造や両義性ばかりが語られます。お互い様や御蔭様というものがなければ、世界の紛争や戦争はなくなることはありません。個人のレベルでさえ、人間は欲望や煩悩、権威や権力、お金の力によっていつまでも禍根を増やしていきます。

本来、それぞれが日々に丁寧に自分自身の暮らしを調えていく中で信仰の実践をしていればそこに禍根や争いは発生せず、お互いに心穏やかにいられるものです。宿坊周辺を調えたあとは、土地や場所、お山の神様、そして太陽に深く祈ります。ご供物を捧げ、いただいている恩恵や恩徳に感謝します。ご先祖様に御礼をして、お水をはじめ火や土などの精霊にも感謝します。夏至の太陽の光は、雲に隠れて穏やかでしたが確かに太陽の見守りを感じてみんなで喜びを分かち合いました。

優しい光と風が吹き抜けて、心身が調うのを実感しました。有難い静かなひと時は、いつも日常の暮らしの中の一期一会に存在します。

また沈んでいく太陽を眺める間は人生を振り返ることに似ています。この一日をどのように過ごしてきたか、どれだけたくさんの存在に助けられているか。美しいもの、善いもの、循環する徳に包まれていることなどを深く感じられます。

畢竟、私が人生で取り組んでいるのは、暮らしの中の神事です。そもそも暮らしが神事なのです。その神事は宗教ではなく、まさに暮らしそのものを神事のように生きることです。暮らしフルネスは、暮らしを神事として実行し実践することです。

今日は、これから新たな田んぼで仲間たちとお田植祭です。伝承してきた古来からの祝詞をみんなと一緒に捧げ、唄いながら、笑いながら、田んぼの元氣をいただきながら一日を暮らします。千葉の田んぼや一緒に生きる仲間たちのことを思いながら稲を一本、一本手植えしていきます。

忙しい日々の中でも、太陽や月や土を忘れず丁寧に暮らしは誰にでもできます。

さあ、これから準備万端、田のかみさぁと英彦山ガラガラをもって田んぼと遊びます。

おめでとうございます。

杣と仙

山のお手入れをする人たちを「杣」(そま)と呼びます。この杣という語はもともと木を植え付けて材木をとる山そのものという意味になります。

古来から人間社会において建築用の木材が大量に必要なときに、木を伐採する必要があります。そのためには、その伐採するための重要な木材を管理する場所が必要です。それを「杣山」(そまやま)といいました。

そこで採れる木を杣木(そまぎ)といい、その杣によって生業とする人たちと杣人(そまびと、そまうど)と呼びました。

この杣は、古来よりお山を守る大切な生業の一つでした。自然と共生し、お山の暮らしを支えた大切な存在です。樵(きこり)とも呼ばれますが、神様が宿る依り代としての木を尊敬し丁寧に扱い、お山のお手入れを通してお山を中心にできた地域の伝統的な暮らしが穏やかに伝承され安心できるようにしてきました。今ではその存在はほとんど見かけません。お山は放置されるか観光地化しゴミを捨てる人たちによって汚れ、荒れ果ててここ数年の水害で土砂崩れが頻発しています。お山で暮らすのは、金銭的にもできないということでお山を捨てて都市に移動した結果、杣人もいなくなりました。当然、山伏などもほとんど暮らしていません。

現在、私も英彦山の守静坊からお山のお手入れをしていますがまるでやっているのはこのかつての杣人と同じです。かつての杣人たちは、霊峰や杜のなかで暮らし、木々や森林資源を活かして生活していました。お山と一体になっていたのです。

枯れ木や倒木を片付けて燃料にしたり、木材を加工して生活文化に必要な道具をつくったり、炭焼きや薬草の採取などお山で自然と調和する暮らしを守っていました。その調和する暮らしそのものが、自然への畏敬や感謝に溢れておりそれが地域の伝統文化や行事、神事、そして智慧を守ってきました。それを山岳信仰と呼ぶのでしょう。

現代では区別や分業化が進み林業となって、お金のための森林伐採がメインになっていますがかつての杣人たちはお山の仙人のような風格があったようにも直感します。

お山にいるとお山の恵みを感じない日はありません。美しく澄んだ空氣に、清らかなお水、またあらゆる動植物や昆虫まで多様に活き活きと生活をして循環を支えます。このお山の恩恵を大切に見守っていこうとするのが杣人、そして仙人の役割ではないかと私は思います。

私が今、取り組んでいるお山の甦生はまさにこの杣人や仙人の暮らしを甦生することです。すでに薬草が増え、炭焼き、法螺貝づくり、お山のご神木を見守る神事や山岳の智慧の伝承など活氣づいています。

子孫たちに如何に自然の恩恵を譲り渡していくか。現代文明が終焉に入り、歪んだ物質至上主義の世の中もちらほらと綻びはじめています。コロナをはじめ感染症の背景にあるもの、食料危機という名の拝金主義、田んぼを農薬で汚し新築ばかりを建てては智慧を捨てていく現状。

子どもたちのためにもそろそろ氣づいて行動していく時節ではないかと私は思いますが皆さんはどう思われますか?

暮らしフルネスと私が提唱のは、むやみに危機感を煽りたいのではなく本来は暮らすだけで仕合せだった古来からの智慧に原点回帰した方が喜びも仕合せも増えますよという意味でもあります。みんな自然と共生していたころの懐かしい未来に憧れていたものです。いつの時代も心の豊かさは自然との共生の中にこそ存在します。

杣から学び直し、仙からやり直していけたらいいですね。

 

日子山仙螺

私の手でつくる鳴動法螺貝の数も次第に増えてきました。一つ一つにいのりといのちを籠めてつくりますが、どの法螺貝にもその法螺貝の音や徳性がありその波動や鳴動には感動するばかりです。

英彦山の守静坊で、弁財天と英彦山三所権現、瀬織津姫や造化三神に供物を捧げ法螺貝を安置して祈祷します。そのあと、全てが調ってから唄口を合わせて調律し唯一無二の鳴動法螺貝をつくりこみます。

一つつくるのにかなりの心身のエネルギーを使うので、大量生産はできません。しかし、一つできるとその鳴動は持ち主の人生を守ります。

かつて法螺貝は、龍の一種であり貝の中には龍が潜んでいると信じられていた伝承があります。龍宮に棲み、海の中で寿命を全うしその後に鳴動し昇天するものとして信じられてきました。つまり、龍の抜け殻ともいえます。そこから雨乞いや水に関係する神様として様々な厄災を祓い清め、その振動によって様々な病気などを快癒していったともいわれます。

現代の科学では振動するものや周波数、また波動が場や身体に影響を与えることが少しずつ解明されてきました。

この法螺貝の神秘は、まさにいにしえの伝説の龍と深い関係があるのです。

私が手掛ける法螺貝には命名をすることにしました。

その名は「日子山仙螺」(ひこさんせんら)です。霊峰日子山の場でいのり法螺貝を甦生させ、仙人の霊力を持つ貝にしていこうという覚悟からです。

お山の暮らしを丁寧に守り、場をととのえ、縁者たちのいのちを仙人のお山から見守ることは徳を磨くことにもなるでしょう。

法螺貝が人一人を変え、そして真の平和な時代をつくることを信じて一つ一つ真心を籠めて手を入れていきたいと思います。

マッチング

世の中にはマッチングというものがあります。これは適切に組み合わせることです。この逆をミスマッチともいいます。不思議なものですが、人間をはじめすべての生命、地球や宇宙にある法則はこれで動いているともいえます。

それはあらゆる対象にも影響します。

花が咲けばそこに蜂や蝶が飛んでくるのもマッチングです。しかし寒波がきて花が咲いても虫が動かなければミスマッチです。人間においては、ビジネスをはじめ恋愛やあらゆる取り組みもまたこのマッチングで実現しています。

そもそも人のニーズというものは、お互いが適切であれば問題はありません。これが適切でないと問題が色々と発生します。どちらかが無理をしたり我慢をしたり、あるいはニーズが異なれば行き過ぎれば紛争や戦争になります。

世の中のことを少し冷静に観察していると、組み合わせというのは絶妙に存在しています。どれとどれを組み合わせるか、まさにこれは総合芸術です。しかし自然はそれをいとも簡単に実現します。環境が用意され自由であれば、自ずから居場所に移動するのです。

一期一会のタイミングで適切に出会い、そしてその節目を終えたらまたその時になるまで離れます。

私たちは毎日、ずっと組み合わせばかりを生きています。組み合わせが代われば、また別の組み合わせになります。万華鏡のようにあらゆる形にマッチングを変化させながら日々の物語を生きるのです。

マッチングしているかどうかを直観するのは、お互いの目指す道が重なる時です。大切な思いを丁寧にお手入れして醸成していきたいと思います。