徳の循環

回向(廻向)という言葉があります。これは語源はサンスクリット語の「Pariṇāmanā」(パリナーマナー)から来ている言葉です。この言葉は「転回する」「変化する」「進む」という意味になります。この「回」は回転(えてん)、「向」は趣向(しゅこう)が合体した言葉で私の解釈では「自分自身の積み重ねてきた徳を循環する」ということではないかと思います。

また仏教では先祖供養やご祈祷の時に、回向文(えこうもん)というものを最後に詠みあげます。これは先ほどの徳を循環させていくことですが「功徳を回向する」ともいいます。功徳はサンスクリット語の「グナ」を語源とするそうですがこの言葉にはもともと「幸福」「神聖」「清浄」の意味もあるといいます。つまり功徳の循環が幸福であり清浄であり神聖なものであるということでしょう。

回向文はこうあります。

「願以此功徳(がんにしくどく) 普及於一切(ふぎゅうおいっさい) 我等與衆生(がとうよしゅじょう) 皆共成佛道(かいぐじょうぶつどう)」

これをそのまま読み上げると以下のようになります。

「願わくは この功徳を以(も)って 普(あまね)く一切に及ぼし 我等と衆生(しゅじょう)と 皆共(みなとも)に仏道を成(じょう)ぜんことを」

徳を積み、徳がめぐることこそが仏の目指した道であるということでしょう。

まさに私も仏陀の道はこの徳の循環にこそあると思います。仏陀がその歩んだ道の最期に弟子たちに語り掛けたことを記したお経があります。それを大般涅槃経といいます。そこには、「諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」と説きます。

私の意訳になりますが「もしも皆が同じ道をこの先も歩んでいくのならこの世は無常であるからにして永遠に徳を積む精進をするといい」と諭したのではないかと思います。変わらないものと変わるものがあることを死の直前に示すのです。

この世は変化し続けていきますが自分はその変化の真っただ中に存在しています。たとえ自分に直接的な見返りがなくても、いただいている偉大な御恩がある。そして子孫や未来のために少しでも「徳がめぐる(回向)」ようにしていくことが最も大切であると。これは当たり前のことですが、資本主義の価値観や人間の私利私欲の人工的な社会のなかではなかなかこれはできないものです。

引き続き、ブレることなく流されることもなく仏陀の道に見守られることに感謝して何が徳を積むことかを誰かに語るのではなく脚下の実践で真摯に伝承していきたいと思います。

ありがとうございます。

主食の甦生

私たちが日ごろ食べているお米にはとても長い歴史があります。特に近代においては、収量の確保からあらゆる食味がいいお米が多数開発されて私たちの食卓のお米の味は数々に進化してきました。

コシヒカリという銘柄があります。この開発の歴史も、収量重視から品質重視への転換でその当時の人々によって開発されてきたものです。最初は欠陥品種として病気の弱さや倒れやすさなども指摘されましたが、それを栽培方法などを工夫することで改善し、今では新潟のお米の代表となっています。そこにも関わった人たちの歴史があり、特に魚沼では風土と一体になってコシヒカリを見守り現在では日本の農家の約40パーセントがこのコシヒカリを栽培しているともいいます。

このコシヒカリという名前は、越前、越中、越後などの国々を指す「越の国」と「光」の字から「越の国に光かがやく」ことを願って付けられたといいます。その名付け親である元旧新潟県農業試験場長の国武正彦(福岡県出身)が「木枯らしが吹けば色なき越の国 せめて光れや稲越光」(冬には雪に閉ざされてしまう越の国にあってコシヒカリが越の国を輝かせる光となりますようにの意)」と和歌に詠んだことによるといいます。

同じ福岡県出身で、これから私たちがエミタタワ(笑みたわわ)の新たな品種の発展に取り組むのにとても参考になる人物であり、その生きざまや生き方にもこれからどのように日本のお米に取り組んでいけばいいかということも直観します。

もともと私も震災後から会社で無肥料無農薬でお米づくりに関わってきました。収量を気にせず、子どもたちの憧れるような生き方や働き方を目指し田んぼでの暮らしを充実させていきました。一般的に国が定めるような食味とは異なりますが、その美味しさは格別で今ではたくさんのファンがいて喜んでくださっています。

今回、福岡県朝倉市で復古起新してお米づくりに関わることにも深いご縁を感じます。

このエミタワワ(笑みたわわ)は、私の叔父さんが名付け親です。まず平成27年、農研機構との共同開発で研究段階にあった「羽919」という品種改良に着手し収穫1年目から羽919には他のお米にはない粘性・膨らみ・おいしさがあることに気づきます。そして翌年には「西海307号」へと名称を更新し、その後も改良を重ね続け、令和元年10月に農水省の品種申請の受理のもと「笑みたわわ」として誕生します。それを農薬・化学肥料一切不使用の安心でおいしいお米で、笑みがたわわに実りますようにと今まさにその志が世の中に出ていく黎明期です。

日本は、農家に対する政策を失敗してきた国だと私は思います。現在では、農家の担い手も減り、田んぼは化学薬品で傷み、現在の米騒動にあるように民衆の怨嗟の声も出ています。海外からのお米がこれから大量に流入してくるのも予測できます。

だからこそ、本来の日本人として私たちの主食をどのように大切にするかが問われる時代でもあります。子どもたちのためにも、今まで取り組んできたことをさらに磨き上げ、主食の甦生に挑んでいきたいと思います。

道徳とは何か

この二日間、仲間と共に遊行を行いました。中国や台湾からの方も参加して、お山を歩き、いのりを味わいました。一期一会のめぐりあわせに豊かさと仕合せを感じました。

人はそれぞれの道をそれぞれに歩むものです。

しかしその時、一瞬のズレもなく絶妙に出会います。お互いに必要なタイミングで最幸の瞬間に邂逅するのです。それをご縁ともいいます。ご縁は、人とだけではなく場とも出会います。天候、光の加減、星の運行、つながる歴史、とても書ききれないほどの膨大な奇跡の連続です。

それを感じて生きる人は、常に一期一会の生き方をしているともいえます。そもそも修験道をはじめ、すべての道は生き方のことです。どのような生き方をしているか、その実践や実践者たちの背中には學びの原点や根源があるものです。

そしてそれは同じ場、同じ時、同じご縁を味わい盡す時にこそ顕現するものです。

道をどのように歩むのか、それが學ぶということの本質です。

そして徳というのは、その歩み方のなかで何を最も大切にするかということです。

例えば、素直であること、謙虚であること、正直であること、思いやること、助け合うこと、真心でいること、心身を清め続けることなどが徳になります。

道徳というのは、本来は言葉や単語で理解し説明するものではなく実践を通して學び続けていく人間のいのちのいのりです。

いのちのいのりには、答えはなく生き方があるだけです。

生き方を學ぶ人たちが、いつの時代にも道を結んで螺旋のように歩んでいきます。

一期一会は、真の幸福の道ということでしょう。

このまま丁寧な暮らしを続けて、最期の瞬間まで人間らしく生きていきたいと思います。

お水の権現

今朝はBAの前にある鳥羽池(八龍権現池)には冬の風物詩でもある蒸気霧が発生しました。ここ数日の寒さは特に厳しく、この桜の時季に初冬の景色が重なりとても幻想的です。

毎朝、この場から八木山の龍王山と合わせてこの八龍権現池を拝んでいますがこの蒸気霧は一期一会です。この霧の特徴は冷気が温かい水面上に流れてきたときにできる霧で発生条件も空気と水の気温差が15度以上あり風があまり吹いておらず晴れていることが必要です。

よく考えてみると、私たちはお水に包まれてはじめて暮らしていくことができます。地球もお水に包まれ、自然も身体もお水に包まれます。お水はあらゆる形に姿を変えては常に循環を已みません。このあらゆる姿は決して雲や霧のような水蒸気や海や川などの液体のようなものだけではありません。ある時は、花になり、ある時は虫になり、またある時は菌になり、ある時は石などの物体にもなります。そして雪になりお湯になり、光にもなります。

今日は私の誕生日で人生を振り返っていますがこれまで道のりもまたずっとお水に守られてきたものでした。辰年の辰の刻に産まれ、龗神の多田の鎮座する妙見神社のお汐井川で遊び、氏神様でお水の親祖でもある水祖神社の境内で育ちました。大切な人生の節目は、お水の関係することばかりに導かれました。気が付くと、お水の湧くお山を守る活動をするようになり、井戸も5本ほど甦生させていただく機会に恵まれました。ここ数年では、滝行をはじめ石風呂サウナをつくりこれから薬草蒸気風呂の甦生に挑みます。日常では鉄瓶で炭火で沸かしたお湯を飲み、よく蕎麦打ちをして蕎麦を食べています。邸内社や自宅、宿坊のお供えのお水を換えることは欠かしません。

有難いことに、生まれてからこれまでずっとお水に見守られてきた人生でした。

この見守ってくださっているお水のことを私は総称して「龍神」と呼びます。

龍は単なる蛇のような鰐のようなドラゴンではなく、私たちのいのちの本体、「いのちのお水権現」です。

そしてお水は、自分の意識次第でどのようにも波動が変化します。変化の象徴もまたお水であり、あらゆるものに姿を変えることができ常に寄り添い離れないものもまたお水です。

誕生日を迎えた朝、鞍馬山の恩師の言葉を思い出しました。

「お水さんありがとう」

これからも残された刻をみおやの龍神と一緒に修行を続け、太古のむかしからの生きた智慧の伝承を子孫へと結んでいきたいと思います。

螺旋の循環

昨日は、無事に英彦山守静坊でのサクラ祭りが開催されました。一期一会に集まり、それぞれにご先祖様や故人、また桜や場との邂逅がありました。時代が変わっても、いつまでも大切な初心を失わない暮らしを繋いでいくことに仕合せを感じました。

人のご縁というのは不思議なもので、人生の中でめぐり逢い重なります。まるで旅のように道を歩んでいるときにところどころで出会います。みんなそれぞれに歩いていて、お互いに惹かれ合いひと時を一緒に過ごします。

歩いているのが自分なのか、歩かされているのが自分なのか、あるいは一緒に歩き続けているのかはわかりません。目に映るあらゆる光景や舞台、場は記憶としていつまでも心に宿ります。

今朝がた、供養した存在が夢に出てきました。思い出したことで身近に感じました。道は夢の中、心の中、現実の中に存在していてそのご縁もまたあらゆるもので結ばれ続けていきます。

この世での役割、あの世での役割、全体での役割と人は生き、ご縁に活かされます。

この3年間、守静坊の枝垂れ桜と共に歩んできましたが桜の一年は人の一生のようです。毎年、花を咲かせていきますが巡りをいつまでもループしていきます。ループして重なり合うことで遠くへと旅をします。

螺旋の循環というのは、道そのものでありその道筋はご縁そのものです。

また来年、あるいは数百年後、もっと先に出会うご縁がある。

徳に感謝して、お互いに尊重しあいながらそれぞれの道を歩んでいきたいと思います。

日日是試煉日

何かがはじまるとき、試練(試煉)が訪れます。つまり試練とは、正対することであり、実践するということであり、挑戦するということです。

試練(試煉)のことを辞書でひくと、「信仰・決心のかたさや実力などを厳しくためすこと、能力や信仰、気持ちの強さなどを厳しく試すこと。また、その時の苦難。」とも書かれます。

この試練(試煉)の字にある「練」には「繰り返し行う」「精練する」「磨く」という意味があります。「煉」には、金属や心身をきたえることやねり固めることを表します。練習、練磨、鍛錬、修練、そして煉瓦や洗煉などもあります。

練は、煉の書き換え字で使われますが共通するものはどちらも「磨く、鍛える、溶かす、ねり固める」などの意味になります。

「試」の方は、言ったことをはじめるという意味です。試験なども試みる、確かめるというイメージです。有名なものに「試金石」というものがあります。これは貴金属の純度を調べるのに用いる黒色緻密ちみつな玄武岩やケイ質の岩石のことをいいます。この石にこすりつけて条痕色を既知のものと比較して金・銀の純度を試験したことから言われます。

つまり「純度」を試し確かめるのです。

何かをはじめるには、根源としての「純度」がいります。その人の覚悟や決心が試されます。純度がどれくらい澄んでいるのか、純度がどれくらい濃密であるか、純度が玉のように美しいかどうか、真善美が試されそれはもはや信仰とも呼べるほどにです。

試練が来たというのは、純度を磨き上げる時が来たとも言い換えられます。

この世に私たちが誕生し、生き続けるというのは試練の真っただ中にいるということです。だからこそ、誰にでも「生き方」というものが何よりも優先され大切になるのでしょう。

どのような試練を迎えて、どのような生き方を実践するか。

純度が全てです。

私たちは有難いことに、親祖より今に至るまで先祖代々からずっと純度を磨き煉りあげてきました。終わりはなく、永遠に続く道の途上です。

日日是試煉日と、心の持ち方を味わって歩んでいきたいと思います。

同行コンサルティング

コンサルティングという言葉があります。この言葉を調べると語源は、ラテン語の「consultare」だといいます。この意味は「共に話し合うことや協力して意見を出し合う」という意味だとあります。そして「consult」という言葉を分解すると、「con(共に)」と「sulere(取る)」とあり、共に座り考える、また相談するという意味です。

つまりは、一緒に考えて共に歩むということがその言葉の本質です。

世間でいうコンサルティングの仕事は今では多岐に及びます。日常的なビジネスなどでは様々な定義も分類もあります。例えば、一般的には専門的な知識があり客観的に分析したりアドバイスをしてクライアントを導くような仕事。または、具体的に組織の人間関係を含む経営課題を解決に導くために仕事などもあります。

私の場合は、「見守る」という実践を仕事にしてきましたから見守り合う関係を通して一緒に取り組み伴走するうちに次第にコンサルティングの方といわれるようになりました。

そもそも誰かの人生に大きな覚醒や気づきや影響を与えるということは、共に成長していくということで発生します。共にお互い様と御蔭様の心の関係を結んだら、一緒に成長しあっていく。成長する人同士だからこそ自他が一体になりお互いの成長する姿に刺激されることで共に高め合っていくことができるものです。これは自然界も同様に見守り合う中で育ちあいます。

教える側も教わる側も本来は本質として表裏一体の存在であり、これは同志であっても師弟であってもお互いに深い尊敬と成長しあう関係があって成り立っているものだからです。

そして見守る時に最も求められるのは、心を寄り添うという伴走型であるということです。この伴走というのは、共に走っているという関係です。単なる並走ではありません。むしろ見守りに近い別の私なりの言い方では、「同行」ともいいます。この同行も、一緒に行動する、同じ道を歩むという意味です。また四国八十八か所巡礼に同行二人(どうこうににん)という言葉があります。この「同行」と「二人」を合わせた「同行二人」という言葉は、巡礼者が弘法大師空海の生き方、智慧、そして教えや精神を学び一緒に道を歩んでいくことを意味するといいます。

私は本来のコンサルティングという生き方はこの同行二人にこそあるように思います。そして伴走するというのは、同じ心で同じ理念で共に一緒一体になって取り組むということです。

そうすると、一般的なコンサルティングのように専門家による部分最適のみをビジネスのためにやるのではなく常に「全体最適で一緒に人生を生き切るという実践」が必要です。つまりは、実践を通して貢献する。自分の体験や経験や研鑽がそのまま、一緒に同行する相手の成長の糧そのものになるということです。お互い「道」に導かれるように歩んでいくということです。そこには偉大な「場」が誕生します。

こういう関係は、一生涯のうちに滅多に巡り会えることではありません。同行同時のように、同じ人生をシンクロさせるような一期一会の関係を築くことです。一般的にはあまりにもリスクも高く、効率もわるいので世間的なビジネスにはあまり向かないかもしれません。しかし、そもそも人は利他や貢献、そして共生をしたいと心から願うものです。自然にコンサルティングになるのなら、ほとんどはこのような同行二人の境地に入ると私は思います。そして本来の幸福を考えるのならば、私はやはりこの「同行コンサルティング」にこそ深い共感を覚えます。

子どもたちのためだからこそ、子孫に恥ずかしくないような仕事を遺していきたいと思います。

 

ご縁結び~魂の対話~

今年も英彦山、守静坊の「サクラ祭り」が近づいてきました。有難いことに、この季節の宿坊はまるでこの世のものとは思えないほどの幻想的で美しい純白の一本桜の花と薫りが場を包み込みます。

この守静坊の一本桜はひとたび風が吹ば、ゆらゆらと仙人のような佇まいになり夜になれば満天の星空と和合します。今回は、昨年よりもまた充実して周囲に茶席を設けたり、ライトアップしたり、生演奏をしたりとサクラと共に開花の歓びを分かち合います。

元々、霊峰と呼ばれる英彦山は我々のご先祖様たちの魂が居る場所ともいわれ宿坊はその魂の宿直をする場であると信じられていました。お盆にはたくさんの檀家さんたちをはじめご縁のある方々が参拝されお山の静謐で清々しい場でご先祖様たちとの魂の対話をし感謝を通じ合わせていたといいます。

現代は、各家庭にはお仏壇もなくなりご先祖様と通じ合う時間が激減しているといいます。

私たちの今の身体を含め、すべてはご先祖様たちから譲り受けてきて今があります。その証拠に、顔かたちをはじめ身長や体格、持病や性格なども色濃く受け継いでいることがわかります。心を落ち着かせ耳を傾ければ、ご先祖様が今も一緒に私の身体に宿り生きているのがわかります。

その共生するご先祖様の存在を一年に一度、思い出し共に感謝しあって桜の木の下で和合するのがこの「サクラ祭り」なのです。

不思議なことですが、サクラ祭りに参加された方からはご先祖様にお会いできて涙が出たとか、あるいは心の養分が甦り元氣が出てきたとか、他にもすでにご先祖さまにいただいている感謝や幸福を感じ直すことができたなど喜びの声ばかりでした。

年中行事というのは、本来は意味があって行っていたものです。ただのお花見ではありません。この英彦山の守静坊のサクラ祭りは「ご先祖様との邂逅」のために行われてきたものです。

今を生きる私たちが、伝統を継ぎ継承しご先祖様たちとの繋がりや結びを強くすることで自分だけでなく子孫たちをはじめご縁のある方々の幸福に貢献していくことができます。

もうこの年中行事を復活させてから3回目になりますが、幸運ばかりに恵まれご先祖様たちの応援を感じます。過大な宣伝はせずご縁のある方々から丁寧に少しずつ、植物が芽吹いて花が咲き種が増えていくようにご縁を中心にお誘いしています。

今年も、守静坊でご縁結びができるのを楽しみにしています。

日時:2025年3月29日(土曜日)13時より~

場所:英彦山守静坊 (福岡県添田町英彦山731)

詳しくはこちらをご覧ください。

和の徳が溢れる人

昨日、大阪の藤井寺にいる私のメンターの雛祭りの年中行事を見学してきました。全国各地から集めた人形たち、それは古いものから新しいものまで、また伝統的なものから創作したものまでありとあらゆるものが丁寧に飾られていました。

私が最初にそのメンターにお会いしたときに衝撃を受けたのは、その目利きの審美眼と数奇道の生き方です。目利きにおいては、本物や普遍的な美しいものがわかるということです。これは自然観があり、最も調和したものや心が産み出す芸術の真髄を直観できるというものです。そして数奇道というのは、風流人としての道を歩んでいるうということです。この数奇は、元々は好き者ともいい最初は好色な男という意味でしたが中世以降は茶の湯に熱心な人などたとえらます。そして風流は、一般的には人目を驚かすために華美な趣向を凝らした意匠を指し侘び・寂び と対峙する存在だとされました。

つまり数奇道を実践する人は、風流人であり侘び寂びを遊ぶことができるということです。メンターの古民家は、あらゆるところに「遊び心」があります。この遊び心は、今でいう「おもろい」がたくさん入っているということです。

伝統芸能には、守破離という概念があります。基本や型を守り、それを破りそこから離れるということです。そこに私は遊ぶを追加して、守破離遊が大切ではないかと感じます。遊んだ後はどうなるのかといえば、徳が顕現します。そうなると、守破離遊徳ということになります。

道は生き方ですが、一度きりの自分にしかない人生の妙味をどう味わいきるか、周囲の評価よりも自分の好きなことに没頭する人生というのはそれだけで徳を活かす素晴らしい生きざまになるように思います。

現代は、突き抜けた人や遣りきった人は少なく感じます。それだけ純度が高いことにいのちを懸けてまで遊ぼうとする人が減ってきたからかもしれません。

数奇道の生き方は、独立自尊した豊かさや面白さを感じて子ども心にワクワクします。面白い大人になって、子どもたちに和の徳が溢れる真善美を伝承できる背中を見せていきたいと思います。

いつまでもお元氣でいてほしいです。いつもありがとうございます。

聴されて聴く

徳の真髄の一つに「聴されて聴く」というものがあります。この聴く(きく)は、聴す(ゆるす)とも呼びます。私は、聴福庵という庵を結び、聴福人という実践をしています。この実践は、あるがままを認め尊重して聴くという意味と共に自然にゆるされているという徳が循環するいのちを聴すというものです。

私が創造した一円対話という仕組みは、この聴く聴すという生き方をみんなで一緒に取り組んでいこうとしたものです。

そもそも私たちのいるすべては分かれているものはありません。人類は言葉の発明から文字が誕生し、文字を使うことで複雑に無限に分けて整理していくことで知識を得てきました。本来の言葉は、言霊であり精霊や霊性、つまりは自然あるがままでした。

自然からいのちや霊性を切り離して分析し、単なる物質や知識として認識することによって私たちはこの世の仕組みや真理を分かるようになりました。しかし同時に分かることによって本当のことが分からなく、あるいは分かった気になるようになりました。この分けるという手法は、分断の手法です。本来、和合したものを分けて理解する。しかし分けたものは元に戻りません。なぜならそもそも分かれていないものを分けているからです。そのことで、人類は争い続け、お互いを認め合えず尊重できず苦しみや憎しみが増えていきました。

例えば、ご縁というものも分かれていたり切れるものではありません。最初から永遠に結ばれ続けていてあらゆるご縁の導きによって今の私たちは生きています。つまり最初から分かれているものはこの世には存在しないのです。それを仏教では、羅網という道具で示したりもします。私はそれをブロックチェーンや自律分散の仕組みで示します。

私がこの聴すという言葉に最初に出会ったのは、高田山にある親鸞さんの手帳のメモ書きです。そこには、「しんじてきく、ゆるされてきく」と書かれていました。

これは何をいうものなのか、全身全霊に衝撃を受け感動し、そこから「聴」というのを真摯に深め続けて今があります。この聴は、聞くとは違います。徳に耳があります。よく自然や天や自分の内面の深い声を聴くことを意味します。

人類が平和になるには、聴くことです。聴けばほとんどのことは自然に解決します。何かきっと自分にもわからない深い理由があると心で認めるとき、お互いを深く尊重しあうことができます。それが「聴す」なのです。

私の故郷にある聴福庵には、その聴で溢れています。そして徳積堂では、その聴福人の実践、一円対話を場で実現しています。

百聞は一見に如かずです。真剣に対話に興味のある仲間は訪ねてほしいと思います。

最後に、「聴福人とは聴くことは福であり、それが人である」という意味です。

子どもたちがこの先もずっと人になり幸福を味わいゆるされていることに感謝して道を歩んでいける人生を歩んでいけることを祈ります。