志とは何か

人は、志を持つことでどう生きるかという本命に出会います。この志というものは、何のために生きるのかという問いにはじまります。これはどの教育者も最初に自己と正対する道の入口になっています。

しかしこの志は、自己のものなのかといえばそうではないことがわかります。今まで連綿と繋がって続いてきたいのちへの問いです。つまりこのいただいているいのちを、私は何のために使うのかという問いです。

そしてその問いは、日々の結果で顕現してきます。

例えば、自己を超えているような不思議な力が発揮できたり、あるいは奇跡のようなめぐりあわせやご縁をいただいたりそこには人智をはるかに超えていくような命の充実を実感します。

生きているということの実感、活かされているという幸福のことです。

悠久の歳月をかけて、私たちの持つ「意味や目的」は醸成されてきました。自分の志だと思っていたら、その志は先祖たちや関係している世界すべてと結ばれていると感じることもあります。

つまりすべての繋がりを実感するための最も大切な生き方が「志」に集約されているのです。

志を持てというのは、すべての繋がりを実感するための入り口です。その人がどの志からすべてと結び直すのか。一人の力ではなく、偉大な一人の力になっていくのです。

だからこそ、何のために生きるのか、どう生きるのか、何を恩返しするのかと尋ねるのも繋がりに氣づくための大切な問いなのです。

すべての生きることの源流は、志と結ばれることからはじまる。今の自分を使って連綿と繋がってきたいのちが何を成し遂げようとしているのか。それに氣づくのです。

だからこそ、かの吉田松陰をはじめ先覚者たちは道の入り口にこの志を据えました。志と結ぶための学問は、人を主体的にし、育つ場を醸成します。

子どもたちが連綿と続いてきたいのちの繋がりと結び直せるように保育園に育つ場を調えていきたいと思います。

感謝の循環

昨日は地域の庄内中学校の生徒会の生徒たちが訪ねてきて、地域清掃活動やなぜこのような取り組みをするのか、そして将来のビジョンなどのヒアリングに来られました。純粋になぜ、どうしてという疑問を素直に投げかけてくれて一緒に理由を共感しあえた時間は私も初心に帰ることができてとても有難い機会になりました。

そもそもはじまりは今から4年前、2022年にそれまでのコロナウイルスの影響で人と人の関係や地域との繋がりが途絶えて困っていると校長先生からも相談され、何か生徒たちが主体的に関われる地域活動がないかと尋ねられたことがはじまりでした。

ちょうど、うちの娘が生徒会に入っていた関係もありそれなら鳥羽池のお手入れがいいのではないかと提案したことが事の発端です。

この鳥羽池というのは、私たちの地域の中では池全体に桜の木があり風光明媚で穏やかな誇らしい自慢の観光名所の一つでした。庄内町が飯塚市に合併されてからはほとんど注目されなくなり、告知や案内もなくなり町の人たちも飯塚市にある別の大きな公園などに行くようになりお花見も来なくなり夜店なども減っていきなくなりました。そして閑散としてきた頃からゴミを捨てる人たちが増えて事故なども増え、周辺も場も傷んできました。

そこでまずこの鳥羽池からお手入れしようとなり、バスケ部の生徒たちが有志で試しに掃除をしたら多くの人たちから褒められて喜ばれたのを知り、次は生徒会も一緒にとなってやってみた結果をみんなに報告してからは部活動の生徒たち全員、そして最後は全校生徒でとなって今では年に二回ほど大人数で地域清掃活動、お手入れ活動を続けてくれています。

最初は徳積財団で有志ではじめていた小さな鳥羽池清掃が中学生たちの主体的な活動の御蔭で見る見ると綺麗になり、粗大ゴミも3年目にはほとんどなくなり4年目ではメンテナンスのようにこれ以上、汚れることがないように調える作業がほとんどになりました。

それを知った庄内庁舎も昨年は本格的にお手伝いしてくれて、民間企業の支援もあり高所作業車での伐採、倒木の片付け、そして鳥羽池周辺の草刈りもしてくださいました。

今では、この鳥羽池の清掃活動で私のやることは地域のおじさん代表として中学生のお掃除の見守り隊ということで軽トラックでお手入れに追走して片付けのお手伝いをするくらいと見廻りをするくらいなものです。また中学生は鳥羽池だけでなく、かつて千日詣でといって庄内に八十八か所霊場のあった場所の掃除や、日頃の通学路の除草やお手入れまでに発展し町がとても綺麗になっています。

本当に有難いことで、いつ戻ってきてもこのふるさとの地域は美しい環境が保たれているというのは嬉しいことです。まさに徳を積んでいて、その徳が未来に大きな幸福を結んでいるのを実感します。この地域に育った人たちや大人たち、将来戻ってくるかもしれない成長した子どもたちの心の故郷になっています。

こうやって、最初に中学生たちが小さくはじめた活動が今ではこの地域全体を動かしています。

地域清掃活動は単なる掃除や片付けではありません。ここには、「地域にいただいてきた恩返しや感謝」があります。地域とは、暮らしであり風や水や太陽、鳥の声や大地やお野菜、人と人のつながりなど、多くの徳が循環している場なのです。

日本には古来より「煤払い」という暮らしの行事がありました。

これは一年間、大切に育ててくださった道具たち、そして日頃お世話になっている存在に感謝でお手入れをするという掃除です。ここには心があり、そして感謝の循環があります。地域がお掃除やお手入れをすることで感謝が循環していく。こういう場づくりを伝統として続けていくことで暮らしが調い、いいまち庄内になっていきます。

改めて、本質的に場を通して教育をしてくださっている庄内中学校、そして生徒たちに感謝しています。

これからも地域の見守り代表という気持ちで、丁寧に丹誠を籠めて参加していきたいと思います。

お水と暮らしと文化

11月3日の巳の日に、古民家和樂の敷地内に井戸を掘ります。なぜ今、この時代に井戸を掘るのか。何のために井戸を掘るのかと質問もあります。

今の時代は水道設備が充実しており、簡単便利に蛇口をひねればどこでもいつでも水が出てきます。コンビニや自販機でも水は売られ、誰でも飲料水は手に入ります。

井戸がなぜ必要なのか、なぜ今、わざわざ井戸を新たに掘るのかということです。

井戸の前に、そもそも古代から続くお水の信仰のことを少しご紹介します。文章に書くと長いのですが、大変有難いことに天皇陛下が~人の心と水-信仰の中の水に触れる~というタイトルで第4回アジア・太平洋水サミットにおける天皇陛下記念講演 – 宮内庁にて記念講演いただいている内容が読めるようになっています。

とても共感するのは、お水は生命を育むだけでなく、人々の暮らし、信仰、文化、そして地域のつながりを育んできた存在であると。だからこそ、お水を守ることは、人間の暮らしと未来を守ることにつながるという真意です。

お水を理解するのに、便利さや治水工事などから入るのではなく悠久の中で育まれてきたお水と一緒に生きてきた人々の暮らしや文化から見直してみるとどう感じるか。お水は人類にとって本当は何の象徴であるか。

それが今回、新たにこの土地この場、この流域の甦生のキックオフとして「井戸掘祭」をする決心をした理由です。

お水の周りには、人々の暮らしが甦ります。そしてそこには文化が醸成されます。井戸は単なる生活用水を利用するための道具ではありません。ここには、連綿と繋がってきた暮らしの源流が湧き、井戸端では人々の助け合い思いやり地域を大切に守り続けてきたいのりがあります。

だからこそ、今こそ新しく井戸をみんなで掘るのです。

お水が結ぶのは、何か、それを一緒に体験して氣づきこの時代だからこそ改めて先人たちのいのりを伝承しきたいと思っているのです。

今年はずっと弁財天やお水をいのり暮らしてきました。その大切な節目の年、そして文化の日に新しいお水の文化を創造していけることに歓びと仕合せを感じます。

水脈を調えることや地下のお水を守り続けることはこれから訪れるであろう日照りや洪水、大雨や干ばつ、様々な自然災害と向き合うのにとても大切な場になります。私の先祖もみんな雨乞い神事をしてはお水の信仰を磨いてきました。暮らしを支えているのは、お水だからこそ地域をつなぎ、地域を守るのもまたお水なのです。

本日から井戸の場に結界をはり、丁寧に場を調えていきます。

子どもたちのためにも、一緒に参画していただけますと幸甚です。井戸掘りは一日で行います。ミズムスビを主宰する石井清輝さんのご協力のもと掘っていきます。

井戸掘り祭 | 徳積財団

暮らしの源流

今日は、むかしの五穀田の稲刈りです。暮らしを通して仲間になってくださった結のみんなが集まって、一緒に手で一株ずつ稲刈りをしていきます。約2反ほどありますから結構な作業量です。お誘いするのは単に労働力が必要だからみんなに集まってもらおうとしたのではなく、農業イベントをしたいわけでもなく、お金儲けや承認欲求などでもありません。

新しく「暮らしを甦生」するためにみんなでやっている実践と試みです。

現代は労働力としてはほとんどが機械化されて簡単便利に短時間で収穫を終わってしまいます。別に機械を否定しているのではなく、私も機械を借りて一部は収穫しますしとても助かっています。しかしこの作業を単に労働力だけと割り切って働いていたら、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた伝統や知恵などの暮らしが失われていきます。

暮らしは労働力の方ではなく、関係性や場の中に存在しているからです。

もともとむかしの人たちは、常に自然に寄り添い自然と一体になって「暮らし」を営んできました。自然に和合するから季節に合わせて行動を決め、自然に与えられた短い旬の時季を失わないように大勢で助け合い田植えをして、稲刈りもしました。みんなで自然と共に生きて、みんなで助け合うのです。これを暮らしと呼び大切に結んできたのが「結」という共同体です。

「結」では三浦梅園の慈悲無尽講のように、病気や不慮の事故などの時の共同体の支援がありました。困ったらみんなで助け合い、お互い様おかげ様と関係を何世代も大切に結んでいきました。土地で自然と暮らしていくというのは、関係を常に甦生させ続ける工夫が要ります。現代は面倒だと、都会のように他人とはあまりプライベートには関わらないようにと何でも距離を置きますが田舎では何かあった時のためにと日頃から関係を結んでいきます。

何かあった時というのが、自然災害や天災、天候不順による水不足や洪水などに備えるためでもあります。むかしの暮らしは自然と一体ですから防災と常にセットで取り組んでいて、これは現代ではフェーズフリーとも言いますが日常から防災になるような暮らしを営みました。保存食をはじめ井戸端や結などもその典型です。つまり防災=暮らしでもあったのです。

現代では、お金や経済活動だけの共同体になっていますが防災で考えるとき今の日本はこれで人々の今後の暮らしが果たして無事に守られるのかと疑問に思います。

一つの田んぼを守ることは流域全体を守る事であり、場を調えることは人の関係性を調えることでもありました。

このような当たり前のことをしなくなり、教育も何か暮らしとかけ離れた労働力としてしか人を見なくなれば次第に労働力以外に大切にしてきた暮らしが消え、最後は人と自然の営みも失われていくのではないでしょうか?

だからこそ、今こそ新しい暮らしの関係性を結び直しが必要だと感じて人が「育つ場」をつくろうとお声掛けしているのです。

この育つ場には、現代で分かれた分断され分業された仕事が丸ごと全部存在してイキイキと学び合えます。食事も教育も介護もお祭りも信仰も伝統も文化も渾然一体です。

こういう場において人は育つ、そして人が育つだけではなく流域も育ち国家も育つのです。それが「暮らしの源流」なのです。それをフルネス(もっともっとではなく、足元の足るを知る喜び)にしていこうと提唱したのが「暮らしフルネス」なのです。

人生の真の幸福は徳を積むことです。当たり前のことを書いて何を最もだといわれるかもしれませんが、当たり前の初心をいつまでも忘れないようにしたいと思っているのです。

今日も、一日一生、一期一会の場。

徳が循環するようないのちが喜び合う暮らしを、感謝と共に今日も世界の子どもたちと人類の未来のために実践していきます。

時務を識る者は俊傑に在り。

「時務を識る者は俊傑に在り。」という言葉があります。この言葉は『三国志』蜀書の諸葛亮伝の裴松之注に引用された『襄陽記』の中に記される言葉です。

具体的には、まだ弱小であった劉備玄徳が司馬徽(水鏡先生)に天下の情勢を尋ねたときの返答の言葉です。

正確には「劉備、世事を司馬徳操に訪う。徳操曰く、「儒生俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。この間、自ら伏龍・鳳雛あり。」劉備、問う、「誰となす」と。曰く、「諸葛孔明、龐士元なり。」と。

意訳ですが、劉備が水鏡先生に真摯に尋ねる。今まさに私はどのうようにしてこの天下に在ればいいか、どうか教えてくださいと。水鏡先生が言う。儒学者の私に聞かれても知識は答えられてもそれは教えることができません。もしそれができるとすれば「今を知る」ものです。そのような人物こそ俊傑と呼ばれるものです。この地に俊傑は二人います。それが諸葛孔明と龐士元ですと。

俊傑とは何か、これは時代の兆しを知り、今を識るもののことです。

この今を識るとは何か。

私の言葉では、日々を新たに生き切る人のことです。つまりゼロベースに物事を常に刷新して洞察し続けられる人。新しい自分を常に創り続けている人ともいえます。

人間は、過去によって今を概念で操作していきます。それを思い込みといいます。過去の思い込みによって今を観ています。しかし、本当は過去からの今は真の今ではありません。

真の今を識るには、今までを少し隣に置いて常に今の時の中に棲んでいなければなりません。だからこそそれができるのが「龍であり鳳」なのです。

この話は、人物の話に聴こえますが易経の話です。

龍や鳳は、時を識ります。

今がどのような今か、今の中に存在します。時とはそもそも今のことです。道元禅師はこれを而今ともいいました。つまり龍は今なのです。

文字や知識で今を知ると龍が観えなくなっていきます。だからこそ、知識ではなく壮大な循環に身を置き仙人のように悠久の流れに静かに心を委ねます。

時代は変化して已みません、そして時勢は今に顕現しています。

今を識るには新しい自己で居続けるという、まるで変化と一体になっている融通無碍な境地の体得があります。絶対的な主体性、自然の境地です。

果たして諸葛孔明がそうだったのか、それはわかりませんが自分も龍や鳳の如く刻の徳を磨いていきたいと思います。

地球の暮らし

日子山弁財天に仙螺法螺貝を立て、むかしの五穀田の稲刈りを開始しました。これから10月10日にかけて少しずつ刈り取り稲架けして稲をじっくりと10日間ほどかけて乾燥させていきます。

もう周囲の田んぼは大型の機械で収穫がほとんど終わっています。傍で見ているとあっという間に数時間で収穫が終了していなくなります。今では田植えと稲刈りが機械化されほとんど田んぼでの作業はありません。収穫後はまとめてすぐに乾燥機にかけて袋詰めして出荷され市場に新米として出回り食べられます。

昨日は、ずっと高齢の両親と若い息子たちが手伝ってくれました。

3世代で一つの田んぼに入り、協力しあいながら稲を刈り、稲を束にしてそれを手渡して順繰りと稲架けをする。作業の間にこんな仕合せがあるのかと感謝の氣もちがずっと心に湧いていました。

そして今日からは徳積循環の結の仲間たちがあちこちから駆けつけてくれて一緒に銀杏拾いと竹取り、稲刈りと昨日と同じことをみんなでやります。お昼の銀杏御飯や秋の味覚で笑い合うのも楽しみです。

あぁ、一つの田んぼで、自然に一つに包まれた感謝の循環。

実際の作業自体は大変で身体も疲れるしへとへとです。しかし、心の充足感や安心感、その豊かさは言葉にならないほど得られます。

その正体は一体何でしょうか?  ふと静かに考えてみます。

それはご縁が実るなかでいのちが結ばれ一つに耀く星の仕合せのことではないか。

つまり「地球の暮らし」になるということ。

現代は、暮らしがあちこち分断されていて一つに繋がっていません。私たちが取り組む「暮らしフルネスでのむかしの五穀田の場」では暮らしの中で分かれていたものが、もう一度ひとつにつながった感覚が得られます。

ただ稲刈りが仕合せだということではなく、今、此処にある自然・身体・家族・世代・仲間・食べもの・時間・土地・場など無限の関係性が一つの営みの中で結び直されご縁が実ることに仕合せを感じているのです。イベントでは決して得られない、暮らしの中で一つにつながる感覚です。

日々に法螺貝を立て、一体何をいのるのか?

ここに私が取り組む「場道」の道の正体があります。道を続けていけば、暮らしになり、暮らしを続けていけば人類の未来が平らに和になっていく。

人類は大切なことを忘れないように如何に人としての道を歩み調和を保つかではないかと私は思います。

それは私の拙い経験と短い人生で実感するのはやっぱり暮らしありきです。

特別なことをしているのではなく、一人一人が平和を暮らしにしていくということ。

頭でっかちに文字や文章や言葉で学ぶだけでなく、自然(じねん)の場の中で共に主体的に地球と平和に暮らしていけたらいいですね。

本日も一期一会、大和魂の伝承、使命、結ではよろしくお願いします。

 

無一物中無尽蔵の銀杏拾い

現代は何でもお金の価値に換算して購入する時代です。特に産業革命以降、大量生産大量消費を実現してから人々から手仕事が消え、人と人、人と自然との関係性も減退していきました。誰がどこでどのように、何を守り育て、そして分け合い助け合いそのものが自分の手元に来たのかなどは考えず、もっぱら他の商品や海外の輸入品と比較して高いか安いかの判断価値基準しかありあません。

例えば、お米であっても機械で改良されたお米を大量生産をするようになりそれが農協に集められ他のお米と混ざられてブランド米として市場で販売される。田んぼがどうなっているかや誰がどのようにしてどのような思いで、そして場との関係性などは知る必要もなくなっています。

本来は、ご縁と関係がなければ譲ってもらえないものですから場に関わり、一緒に働き、手伝い、分け合い、譲り合い、思いや心などの日頃の結びつきがあってはじめて手元に入ってきた存在でした。これはお米に限らず、すべてのことがご縁で結ばれた「暮らし」の中で営まれてきたものです。

今週の日曜日は古民家和樂で銀杏拾いを行います。

今では便利にスーパーなどに行けば銀杏は安価で購入できます。誰かが拾ったのか、どこのどのような環境の銀杏かなどは、関係もなく購入して食べればどれも同じようなものでしょう。

しかし一年間、感謝して銀杏と暮らし、銀杏拾いのために丁寧に下準備をして銀杏が傷まないようにシートをかけ、拾ったものの果肉を井戸水で丁寧に洗い、一つ一つを秋の澄んだ太陽の光で天日干しをする。数十粒つくるのにも大変な手間暇と真心を使います。

この銀杏のご神木は、百年以上ずっと故郷の関の山から吹いてくる山風を受け、棚田の栄養豊富な地下水脈を得て古民家の懐かしい風景と一体になって地域を守っている銀杏の木。この暮らしと銀杏の木の御蔭で、この季節は私たちの活動を一緒にしてきた人たちと銀杏を食べて心安まる憩いの場になっています。

便利な時代、何でもサービスでもお金で解決します。しかしご縁も関係性もないお金中心のお金の残高ばかりを気にする生活は疲れます。暮らしや関係性の残高をよくよく観つめ、私たちが実践しているような暮らしフルネスを学べば何もない中に本来の仕合せや喜びがあることに氣づき直せるものです。

まさに銀杏の木そのものが「無一物中無尽蔵」の世界を教えてくれます。

心の奥底にある偉大な豊かさに触れるご縁を銀杏と拾いに来ませんか?

 

循環の暦

昨日は辰の日で龍とのご縁が深いお彼岸の日、また満月の英彦山はたくさんの雨が降りました。遠方から法螺貝のお受け取りの儀式のために来られた方々と一緒に祈り、法螺貝の甦生と吹き方の練習を行いました。

とても澄み切ったお水に包まれた場でみんなそれぞれに自分らしい法螺貝の音を鳴動させ、これから新たに法螺道に入っていきます。

見送りの法螺貝を立てながらこの先にどのようなお導きがあるのか、英彦山のお山や此処からはじまる新たなご縁を深くいのります。

今日の午前中は英彦山の弁財天の秋の大祭を行います。今日は巳の日、お水や芸能、弁天様の縁日です。

古代の人たちは、日時を単なる記号やスケジュールなどとは思っていませんでした。暦は、関係性のことです。今日はどのように関係が巡り、循環した一日であるか。12日と60日とをよく観察し、因果応報がどのように成熟して今になっているのかを振り返る大切な一日でした。

お山のお水をよく観察していると洞察できますが、このお水は雨によってもたらされます。その雨は川になり海になり雲になりまた戻ってきます。このお水が戻ってくるのにどれくらいの巡りを経て今此処に辿り着いているのか。循環を感じます。

お山の甦生をしながら循環のお手入れをしていると、この暦や日取りはとても大切に思えてきます。

私はいちいち、法螺貝を甦生するのに場所やお水や縁日、そしてタイミング(刻)にこだわります。それはこのご縁がどのような巡りの中に入っていくか、それが乱れないように美しくあるように、また調和するようにといのるからです。

現代は何でも自分都合、人間都合、権威権力都合や法律都合などでスケジュールで時間を動かしていきます。しかし本来の時というものは、巡るものでありそれを内省して調和していくための道具です。

今日という日をどう結ぶのかは生き方次第です。

豊穣の秋にいのり育つ場で実っているお米を奉納して残りの収穫までを弁財天の見守りに感謝します。

そして今度の収穫祭は10月10日、日干支は「丁巳」という火を帯びた日。かがり火を囲み、一期一会の収穫をみんなと一緒に味わっていきたいと思います。

 

育つ場

暮らしというと、日々の生活のことを指します。しかしこの暮らしという言葉はそれぞれの認識で異なります。言葉というものは、その人の経験や観念、価値観などでも意味が異なります。深さも広さも認識も異なりますから実際にはきちんと共通理解することができません。あくまで文字は脳が理解の入り口としてイメージできる範囲で道具として用いられます。

しかし共通理解は、同体験などを通して深まります。そこで言葉の定義や意味も後から追いついてくるものです。理念というものを用意し、それをみんなが日々の実践や行動と振り返りを通して学んでいけばその体験したもの同士は理解が深まり言葉の意味も変わってきます。

そのうち、理念の一歩先へと成熟していくのが「場」です。

いちいち言葉にしなくても、また誰かがいなくても、それは「場」によって理解されます。場ができてくるというのは、文化になるということでもあります。

文化ができれば、場がはたらき、それまでの本質やご縁や関係性が結ばれていきます。そして文化ができるには、それが連綿と続けられる循環が必要です。そうやって悠久の流れが循環してきた道の跡が文化になるのです。

現代は文化財だけ残して関係性が消えてしまったものがたくさん増えています。

使われなくなった寺社仏閣、古民家などもそうです、休耕田やかつての信仰のお山。路傍にある石像や井戸なども同じです。

かつて「育つ場」があったものが、分断され役割が失われ伝統や伝承、文化が途絶えました。

本来、人が育つというのはどういうことか。

これは「じねん」といって、人間の計画することよりも先に動いている育つ力があるということです。

つまりその場に元々あったご縁やはたらき、あるいは神はからいに対して人間も一緒に結ばれその徳がより発揮できるように調えるということ。

そう考えてみると、暮らしの喪失とはじねんの喪失なのです。

私が子どもたちのために徳積循環をいのり行動している理由もその一点です。理念を場に置き換えるというのは、じねん本来の役割を発揮させるためであり子どもたちのじねんを見守りよりよい人類の未来のために流れを途絶えさせずに次へその恩徳を還していくためです。

時代の変わり目、心のふるさと、かんながらの道に氣づいた人たちと育つ場を創っていきたいと思います。

山人合一

「日常茶飯」という言葉があります。これはもともと茶を飲み、飯を食べるという、毎日のごく当たり前の営みのことをいいます。調べてみると最近できた言葉のようですが、実際にこの言葉ができた背景には中国の禅で用いられた「尋常茶飯」や「家常茶飯」という言葉が由来だと言われます。むかしから禅では、悟りや修行を特別な場所や特別な行為の中だけに求めるのではなく日々の暮らし、つまり食事をする、掃除をする、水を汲む、人と語るといった実践こそが修行であると言われてきました。

日本でもハレとケといって特別な出来事(ハレ)に価値を求め、何気ない毎日(ケ)を「ただの日常」と区別したりします。しかしこの何でもない日常こそが、本来の生き方の中心でありお茶を飲むときには本気でお茶を飲み、ご飯を食べるときには真剣にご飯を食べる。その一つひとつに心を丸ごと尽くし、今ここにある暮らしの営みに全身全霊を傾ける。つまり暮らしが道そのものと、敢えて「区別しない」ということの境地であったように私は思います。

暮らしフルネスも同じで、日々に場を調える。自然(じねん)と循環(リズム)を大切にして内省しながら一期一会に来縁したものをすべて引き受ける。その中に真の喜びも道もあるという考え方です。

最近、親友のご縁から九州出身の大智禅師という方を知りました。

この方の詩には、深く共感して今の英彦山での暮らしの参考になります。

万象之中独露身
更於何処著根塵
回首独倚枯藤立
人見山兮山見人

すべての森羅万象のただ中にあって本来の身(自己)はありありと顕現している。ならば六根と六塵という主客の分別を、いったいどこに付け加える余地があるだろうか。ふと振り返り内省し、ひとり枯藤の杖に寄りかかって立ってみると、人は山を見、山もまた人を見ている。

終日搬柴運水中
分明顕露主人公
三千日月観成敗
坐断須弥第一峯

一日じゅう薪を運び水を汲む、その営みのただ中で渾然一体になるとき本来の自己は明々白々に現れている。三千世界の天地が成り、また滅びてゆくさまを観じ、須弥山の最高峰さえも坐り切る。

この日常茶飯の中にこそ、この暮らしの本質である主人公とじねんと徳循環の妙があるという真理。暮らしというものの根源や本質をここまでそぎ落として磨き上げた人がいるでしょうか。もしも今、生きておられたら一緒に参禅したいと願う理想の師です。

道は普遍、今もここに在ります。だからこそ今、与えられているご縁と場所こそ私の天命。それぞれに運命があり同じにはなりませんが、同じいのりと同じ道を歩んでいけることに無常無窮の仕合せを感じます。

引き続きお山から學び直し、かんながらの道を結んでいきます。