暮らしの源流

今日は、むかしの五穀田の稲刈りです。暮らしを通して仲間になってくださった結のみんなが集まって、一緒に手で一株ずつ稲刈りをしていきます。約2反ほどありますから結構な作業量です。お誘いするのは単に労働力が必要だからみんなに集まってもらおうとしたのではなく、農業イベントをしたいわけでもなく、お金儲けや承認欲求などでもありません。

新しく「暮らしを甦生」するためにみんなでやっている実践と試みです。

現代は労働力としてはほとんどが機械化されて簡単便利に短時間で収穫を終わってしまいます。別に機械を否定しているのではなく、私も機械を借りて一部は収穫しますしとても助かっています。しかしこの作業を単に労働力だけと割り切って働いていたら、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた伝統や知恵などの暮らしが失われていきます。

暮らしは労働力の方ではなく、関係性や場の中に存在しているからです。

もともとむかしの人たちは、常に自然に寄り添い自然と一体になって「暮らし」を営んできました。自然に和合するから季節に合わせて行動を決め、自然に与えられた短い旬の時季を失わないように大勢で助け合い田植えをして、稲刈りもしました。みんなで自然と共に生きて、みんなで助け合うのです。これを暮らしと呼び大切に結んできたのが「結」という共同体です。

「結」では三浦梅園の慈悲無尽講のように、病気や不慮の事故などの時の共同体の支援がありました。困ったらみんなで助け合い、お互い様おかげ様と関係を何世代も大切に結んでいきました。土地で自然と暮らしていくというのは、関係を常に甦生させ続ける工夫が要ります。現代は面倒だと、都会のように他人とはあまりプライベートには関わらないようにと何でも距離を置きますが田舎では何かあった時のためにと日頃から関係を結んでいきます。

何かあった時というのが、自然災害や天災、天候不順による水不足や洪水などに備えるためでもあります。むかしの暮らしは自然と一体ですから防災と常にセットで取り組んでいて、これは現代ではフェーズフリーとも言いますが日常から防災になるような暮らしを営みました。保存食をはじめ井戸端や結などもその典型です。つまり防災=暮らしでもあったのです。

現代では、お金や経済活動だけの共同体になっていますが防災で考えるとき今の日本はこれで人々の今後の暮らしが果たして無事に守られるのかと疑問に思います。

一つの田んぼを守ることは流域全体を守る事であり、場を調えることは人の関係性を調えることでもありました。

このような当たり前のことをしなくなり、教育も何か暮らしとかけ離れた労働力としてしか人を見なくなれば次第に労働力以外に大切にしてきた暮らしが消え、最後は人と自然の営みも失われていくのではないでしょうか?

だからこそ、今こそ新しい暮らしの関係性を結び直しが必要だと感じて人が「育つ場」をつくろうとお声掛けしているのです。

この育つ場には、現代で分かれた分断され分業された仕事が丸ごと全部存在してイキイキと学び合えます。食事も教育も介護もお祭りも信仰も伝統も文化も渾然一体です。

こういう場において人は育つ、そして人が育つだけではなく流域も育ち国家も育つのです。それが「暮らしの源流」なのです。それをフルネス(もっともっとではなく、足元の足るを知る喜び)にしていこうと提唱したのが「暮らしフルネス」なのです。

人生の真の幸福は徳を積むことです。当たり前のことを書いて何を最もだといわれるかもしれませんが、当たり前の初心をいつまでも忘れないようにしたいと思っているのです。

今日も、一日一生、一期一会の場。

徳が循環するようないのちが喜び合う暮らしを、感謝と共に今日も世界の子どもたちと人類の未来のために実践していきます。

時務を識る者は俊傑に在り。

「時務を識る者は俊傑に在り。」という言葉があります。この言葉は『三国志』蜀書の諸葛亮伝の裴松之注に引用された『襄陽記』の中に記される言葉です。

具体的には、まだ弱小であった劉備玄徳が司馬徽(水鏡先生)に天下の情勢を尋ねたときの返答の言葉です。

正確には「劉備、世事を司馬徳操に訪う。徳操曰く、「儒生俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。この間、自ら伏龍・鳳雛あり。」劉備、問う、「誰となす」と。曰く、「諸葛孔明、龐士元なり。」と。

意訳ですが、劉備が水鏡先生に真摯に尋ねる。今まさに私はどのうようにしてこの天下に在ればいいか、どうか教えてくださいと。水鏡先生が言う。儒学者の私に聞かれても知識は答えられてもそれは教えることができません。もしそれができるとすれば「今を知る」ものです。そのような人物こそ俊傑と呼ばれるものです。この地に俊傑は二人います。それが諸葛孔明と龐士元ですと。

俊傑とは何か、これは時代の兆しを知り、今を識るもののことです。

この今を識るとは何か。

私の言葉では、日々を新たに生き切る人のことです。つまりゼロベースに物事を常に刷新して洞察し続けられる人。新しい自分を常に創り続けている人ともいえます。

人間は、過去によって今を概念で操作していきます。それを思い込みといいます。過去の思い込みによって今を観ています。しかし、本当は過去からの今は真の今ではありません。

真の今を識るには、今までを少し隣に置いて常に今の時の中に棲んでいなければなりません。だからこそそれができるのが「龍であり鳳」なのです。

この話は、人物の話に聴こえますが易経の話です。

龍や鳳は、時を識ります。

今がどのような今か、今の中に存在します。時とはそもそも今のことです。道元禅師はこれを而今ともいいました。つまり龍は今なのです。

文字や知識で今を知ると龍が観えなくなっていきます。だからこそ、知識ではなく壮大な循環に身を置き仙人のように悠久の流れに静かに心を委ねます。

時代は変化して已みません、そして時勢は今に顕現しています。

今を識るには新しい自己で居続けるという、まるで変化と一体になっている融通無碍な境地の体得があります。絶対的な主体性、自然の境地です。

果たして諸葛孔明がそうだったのか、それはわかりませんが自分も龍や鳳の如く刻の徳を磨いていきたいと思います。

地球の暮らし

日子山弁財天に仙螺法螺貝を立て、むかしの五穀田の稲刈りを開始しました。これから10月10日にかけて少しずつ刈り取り稲架けして稲をじっくりと10日間ほどかけて乾燥させていきます。

もう周囲の田んぼは大型の機械で収穫がほとんど終わっています。傍で見ているとあっという間に数時間で収穫が終了していなくなります。今では田植えと稲刈りが機械化されほとんど田んぼでの作業はありません。収穫後はまとめてすぐに乾燥機にかけて袋詰めして出荷され市場に新米として出回り食べられます。

昨日は、ずっと高齢の両親と若い息子たちが手伝ってくれました。

3世代で一つの田んぼに入り、協力しあいながら稲を刈り、稲を束にしてそれを手渡して順繰りと稲架けをする。作業の間にこんな仕合せがあるのかと感謝の氣もちがずっと心に湧いていました。

そして今日からは徳積循環の結の仲間たちがあちこちから駆けつけてくれて一緒に銀杏拾いと竹取り、稲刈りと昨日と同じことをみんなでやります。お昼の銀杏御飯や秋の味覚で笑い合うのも楽しみです。

あぁ、一つの田んぼで、自然に一つに包まれた感謝の循環。

実際の作業自体は大変で身体も疲れるしへとへとです。しかし、心の充足感や安心感、その豊かさは言葉にならないほど得られます。

その正体は一体何でしょうか?  ふと静かに考えてみます。

それはご縁が実るなかでいのちが結ばれ一つに耀く星の仕合せのことではないか。

つまり「地球の暮らし」になるということ。

現代は、暮らしがあちこち分断されていて一つに繋がっていません。私たちが取り組む「暮らしフルネスでのむかしの五穀田の場」では暮らしの中で分かれていたものが、もう一度ひとつにつながった感覚が得られます。

ただ稲刈りが仕合せだということではなく、今、此処にある自然・身体・家族・世代・仲間・食べもの・時間・土地・場など無限の関係性が一つの営みの中で結び直されご縁が実ることに仕合せを感じているのです。イベントでは決して得られない、暮らしの中で一つにつながる感覚です。

日々に法螺貝を立て、一体何をいのるのか?

ここに私が取り組む「場道」の道の正体があります。道を続けていけば、暮らしになり、暮らしを続けていけば人類の未来が平らに和になっていく。

人類は大切なことを忘れないように如何に人としての道を歩み調和を保つかではないかと私は思います。

それは私の拙い経験と短い人生で実感するのはやっぱり暮らしありきです。

特別なことをしているのではなく、一人一人が平和を暮らしにしていくということ。

頭でっかちに文字や文章や言葉で学ぶだけでなく、自然(じねん)の場の中で共に主体的に地球と平和に暮らしていけたらいいですね。

本日も一期一会、大和魂の伝承、使命、結ではよろしくお願いします。

 

無一物中無尽蔵の銀杏拾い

現代は何でもお金の価値に換算して購入する時代です。特に産業革命以降、大量生産大量消費を実現してから人々から手仕事が消え、人と人、人と自然との関係性も減退していきました。誰がどこでどのように、何を守り育て、そして分け合い助け合いそのものが自分の手元に来たのかなどは考えず、もっぱら他の商品や海外の輸入品と比較して高いか安いかの判断価値基準しかありあません。

例えば、お米であっても機械で改良されたお米を大量生産をするようになりそれが農協に集められ他のお米と混ざられてブランド米として市場で販売される。田んぼがどうなっているかや誰がどのようにしてどのような思いで、そして場との関係性などは知る必要もなくなっています。

本来は、ご縁と関係がなければ譲ってもらえないものですから場に関わり、一緒に働き、手伝い、分け合い、譲り合い、思いや心などの日頃の結びつきがあってはじめて手元に入ってきた存在でした。これはお米に限らず、すべてのことがご縁で結ばれた「暮らし」の中で営まれてきたものです。

今週の日曜日は古民家和樂で銀杏拾いを行います。

今では便利にスーパーなどに行けば銀杏は安価で購入できます。誰かが拾ったのか、どこのどのような環境の銀杏かなどは、関係もなく購入して食べればどれも同じようなものでしょう。

しかし一年間、感謝して銀杏と暮らし、銀杏拾いのために丁寧に下準備をして銀杏が傷まないようにシートをかけ、拾ったものの果肉を井戸水で丁寧に洗い、一つ一つを秋の澄んだ太陽の光で天日干しをする。数十粒つくるのにも大変な手間暇と真心を使います。

この銀杏のご神木は、百年以上ずっと故郷の関の山から吹いてくる山風を受け、棚田の栄養豊富な地下水脈を得て古民家の懐かしい風景と一体になって地域を守っている銀杏の木。この暮らしと銀杏の木の御蔭で、この季節は私たちの活動を一緒にしてきた人たちと銀杏を食べて心安まる憩いの場になっています。

便利な時代、何でもサービスでもお金で解決します。しかしご縁も関係性もないお金中心のお金の残高ばかりを気にする生活は疲れます。暮らしや関係性の残高をよくよく観つめ、私たちが実践しているような暮らしフルネスを学べば何もない中に本来の仕合せや喜びがあることに氣づき直せるものです。

まさに銀杏の木そのものが「無一物中無尽蔵」の世界を教えてくれます。

心の奥底にある偉大な豊かさに触れるご縁を銀杏と拾いに来ませんか?

 

循環の暦

昨日は辰の日で龍とのご縁が深いお彼岸の日、また満月の英彦山はたくさんの雨が降りました。遠方から法螺貝のお受け取りの儀式のために来られた方々と一緒に祈り、法螺貝の甦生と吹き方の練習を行いました。

とても澄み切ったお水に包まれた場でみんなそれぞれに自分らしい法螺貝の音を鳴動させ、これから新たに法螺道に入っていきます。

見送りの法螺貝を立てながらこの先にどのようなお導きがあるのか、英彦山のお山や此処からはじまる新たなご縁を深くいのります。

今日の午前中は英彦山の弁財天の秋の大祭を行います。今日は巳の日、お水や芸能、弁天様の縁日です。

古代の人たちは、日時を単なる記号やスケジュールなどとは思っていませんでした。暦は、関係性のことです。今日はどのように関係が巡り、循環した一日であるか。12日と60日とをよく観察し、因果応報がどのように成熟して今になっているのかを振り返る大切な一日でした。

お山のお水をよく観察していると洞察できますが、このお水は雨によってもたらされます。その雨は川になり海になり雲になりまた戻ってきます。このお水が戻ってくるのにどれくらいの巡りを経て今此処に辿り着いているのか。循環を感じます。

お山の甦生をしながら循環のお手入れをしていると、この暦や日取りはとても大切に思えてきます。

私はいちいち、法螺貝を甦生するのに場所やお水や縁日、そしてタイミング(刻)にこだわります。それはこのご縁がどのような巡りの中に入っていくか、それが乱れないように美しくあるように、また調和するようにといのるからです。

現代は何でも自分都合、人間都合、権威権力都合や法律都合などでスケジュールで時間を動かしていきます。しかし本来の時というものは、巡るものでありそれを内省して調和していくための道具です。

今日という日をどう結ぶのかは生き方次第です。

豊穣の秋にいのり育つ場で実っているお米を奉納して残りの収穫までを弁財天の見守りに感謝します。

そして今度の収穫祭は10月10日、日干支は「丁巳」という火を帯びた日。かがり火を囲み、一期一会の収穫をみんなと一緒に味わっていきたいと思います。

 

育つ場

暮らしというと、日々の生活のことを指します。しかしこの暮らしという言葉はそれぞれの認識で異なります。言葉というものは、その人の経験や観念、価値観などでも意味が異なります。深さも広さも認識も異なりますから実際にはきちんと共通理解することができません。あくまで文字は脳が理解の入り口としてイメージできる範囲で道具として用いられます。

しかし共通理解は、同体験などを通して深まります。そこで言葉の定義や意味も後から追いついてくるものです。理念というものを用意し、それをみんなが日々の実践や行動と振り返りを通して学んでいけばその体験したもの同士は理解が深まり言葉の意味も変わってきます。

そのうち、理念の一歩先へと成熟していくのが「場」です。

いちいち言葉にしなくても、また誰かがいなくても、それは「場」によって理解されます。場ができてくるというのは、文化になるということでもあります。

文化ができれば、場がはたらき、それまでの本質やご縁や関係性が結ばれていきます。そして文化ができるには、それが連綿と続けられる循環が必要です。そうやって悠久の流れが循環してきた道の跡が文化になるのです。

現代は文化財だけ残して関係性が消えてしまったものがたくさん増えています。

使われなくなった寺社仏閣、古民家などもそうです、休耕田やかつての信仰のお山。路傍にある石像や井戸なども同じです。

かつて「育つ場」があったものが、分断され役割が失われ伝統や伝承、文化が途絶えました。

本来、人が育つというのはどういうことか。

これは「じねん」といって、人間の計画することよりも先に動いている育つ力があるということです。

つまりその場に元々あったご縁やはたらき、あるいは神はからいに対して人間も一緒に結ばれその徳がより発揮できるように調えるということ。

そう考えてみると、暮らしの喪失とはじねんの喪失なのです。

私が子どもたちのために徳積循環をいのり行動している理由もその一点です。理念を場に置き換えるというのは、じねん本来の役割を発揮させるためであり子どもたちのじねんを見守りよりよい人類の未来のために流れを途絶えさせずに次へその恩徳を還していくためです。

時代の変わり目、心のふるさと、かんながらの道に氣づいた人たちと育つ場を創っていきたいと思います。

山人合一

「日常茶飯」という言葉があります。これはもともと茶を飲み、飯を食べるという、毎日のごく当たり前の営みのことをいいます。調べてみると最近できた言葉のようですが、実際にこの言葉ができた背景には中国の禅で用いられた「尋常茶飯」や「家常茶飯」という言葉が由来だと言われます。むかしから禅では、悟りや修行を特別な場所や特別な行為の中だけに求めるのではなく日々の暮らし、つまり食事をする、掃除をする、水を汲む、人と語るといった実践こそが修行であると言われてきました。

日本でもハレとケといって特別な出来事(ハレ)に価値を求め、何気ない毎日(ケ)を「ただの日常」と区別したりします。しかしこの何でもない日常こそが、本来の生き方の中心でありお茶を飲むときには本気でお茶を飲み、ご飯を食べるときには真剣にご飯を食べる。その一つひとつに心を丸ごと尽くし、今ここにある暮らしの営みに全身全霊を傾ける。つまり暮らしが道そのものと、敢えて「区別しない」ということの境地であったように私は思います。

暮らしフルネスも同じで、日々に場を調える。自然(じねん)と循環(リズム)を大切にして内省しながら一期一会に来縁したものをすべて引き受ける。その中に真の喜びも道もあるという考え方です。

最近、親友のご縁から九州出身の大智禅師という方を知りました。

この方の詩には、深く共感して今の英彦山での暮らしの参考になります。

万象之中独露身
更於何処著根塵
回首独倚枯藤立
人見山兮山見人

すべての森羅万象のただ中にあって本来の身(自己)はありありと顕現している。ならば六根と六塵という主客の分別を、いったいどこに付け加える余地があるだろうか。ふと振り返り内省し、ひとり枯藤の杖に寄りかかって立ってみると、人は山を見、山もまた人を見ている。

終日搬柴運水中
分明顕露主人公
三千日月観成敗
坐断須弥第一峯

一日じゅう薪を運び水を汲む、その営みのただ中で渾然一体になるとき本来の自己は明々白々に現れている。三千世界の天地が成り、また滅びてゆくさまを観じ、須弥山の最高峰さえも坐り切る。

この日常茶飯の中にこそ、この暮らしの本質である主人公とじねんと徳循環の妙があるという真理。暮らしというものの根源や本質をここまでそぎ落として磨き上げた人がいるでしょうか。もしも今、生きておられたら一緒に参禅したいと願う理想の師です。

道は普遍、今もここに在ります。だからこそ今、与えられているご縁と場所こそ私の天命。それぞれに運命があり同じにはなりませんが、同じいのりと同じ道を歩んでいけることに無常無窮の仕合せを感じます。

引き続きお山から學び直し、かんながらの道を結んでいきます。

人間の意識

昨日は、早朝から有志で英彦山の守静坊周辺からお山のお手入れをやってみました。大地の再生の仕組みを学び、自分たちでまずは自然に触れてまず実験と実践をしてみようとする試みです。

まず驚いたのが、先日矢野さんが来て診ていただいたところにモグラが来て土をほぐしてくれていました。きっと循環がはじまった場所にミミズが集まり、空氣や水脈の通りがよくなりそこにハタラキが活性化したのでしょう。

他にも宿坊の横に流れるお水が安定して綺麗に流れていたのと、この一帯だけ心地よい風が通っていたのが印象的でした。

定点観測や経過観察によって、はじめて自分たちの関与で自然がどのようなハタラキをしてくださっているのかが学べます。自然の有難さというものは、非常に尊いもので人智を超えたものがあります。

自然に対し人間が触れるところなどは果たしてどれくらいあるのかと改めて氣づかさられるものばかりでした。有志達との振り返りでは、それぞれに新たな発見や氣づきも多く、心地よい疲れとみんなの自然への眼差しに心身が癒されました。

実験や実践の面白さというものは、自然から學ぶ醍醐味でもあります。

和樂の「むかしの五穀田」でも同様に、自分が自然に対して敬虔な気持ちで謙虚に関われば関わるほどに自然は多くののもの見せてくれ日々に学び直すことができます。生き物たちは素直に自分の関与に対して応対してくれます。

これは「意識のつながり」ともいえるものかもしれません。

ここ数年ほどお月さまのリズムで暮らしを調えていますが今朝も美しい月が応対してくれていました。同じようにそこに在るものであっても、自分の意識が在ると思っていなければ出会うことはありません。

まさに周波数や波動のように縁起は、意識や関係性の中で結ばれているものです。

お山に対してどれくらい深く敬虔で謙虚な氣持ちで関係性を結んでいくか。お山の暮らしがどれくらい身近に感じられているか。

これから毎月、満月の日には有志で集まり遊行とお山のお手入れの実験と実践を続けていくつもりです。来月は27日(日曜日)に実施します。

ほんの微細な力であっても自然のハタラキは、その真心に感応して応対してくださいます。大切にしたいという人々の意識や氣持ちに応えてくださいます。

流域を創ってくださる英彦山へのご恩返しやお水を守ることも、木々を守ることも、そして生き物たちの暮らしを見守ることもまた一人ひとりの「人間の意識」からはじまるものです。

丁寧なお山の暮らしを通して、英彦山から日本全体が快復していくように場を調えていきたいと思います。

山武志の生き方

今日から英彦山で大地の再生の仕組みを使って宿坊周辺からお山のお手入れをはじめます。先人たちがやっていたように、もう一度、お山の暮らしからお山全体で起きていることを通して地球全体のことを洞察していきます。

自然は末端で行われていることが全体になり、全体は末端に現れるともいいます。以前、末梢血液を診断する治療を受けたことがありますが血液の先がどのようになっているのかを顕微鏡で観察すると自分の体内の血液にどのような汚れなどが溜まっているのかなどを見る機会がありました。海のゴミのように流れ着いたどころのゴミが健康状態を知らせます。

現在は、1950年ごろに人工的に開発された化合物、PFASの影響で環境が汚染されています。このPFASは非常に安定した性質を持ち、自然界でほとんど分解されません。人体や生物の体内に蓄積しやすく長距離を移動するという特徴があり土壌などの環境中に残留し、人の健康や動植物の生息・生育に大変な悪影響を与えます。

ゴミ問題と掃除の関係は、人類最大のテーマです。

掃除をするようにお手入れをしていかないと、この世の中はゴミの山のようになります。ゴミを増やして自然の分解もできないようなものをつくり、最後は人間が住める場所が次第に細くなっていく現実。これは環境問題でじわりじわりとその日が近づいてきているのを実感するばかりです。

実感するからと何もしないでいたら、さらに環境は悪化していきます。だからこそ、小さなお手入れをみんなでやること、お掃除をみんなで取り組むことで環境は調っていくものです。

場が調ってくれば、自然の分解や快復力、免疫力が向上して循環が促進されます。これは人体でも同じことです。人体を調えていけば、循環がスムーズになり健康が保たれます。自然の仕組みも同様です。

だからこそ、小さなことだから意味がないではなく小さなことから取り組んでいこうとすることが自然の循環やリズムと共に生きるということです。

経済活動でそれどころではないと後回しにしているのかもしれませんが、大病になればさらに多額のお金を出費するし、対処療法は副作用や後遺症が甚大です。

体質改善というのは、日々の暮らしの中で行うものですから先人の智慧に倣い誰でもできますから最初の一歩を踏み出してほしいものです。

ということで、本日も有志で取り組みます。

お山を知り、お山を学び、お山をいのり、お山と共生していくのは山武志の生き方です。愉快に豊かに毎月取り組み、この場所から世界を易えていきたいと思います。

自然の場の甦生

自然と書いて「じねん」と呼ぶ言葉があります。現在、自然はしぜんと呼ばれ欧米のnatureの意味が強く使われますが東洋では本来、自然はじねんと呼び「おのずからしかり」という意味で用いられてきました。

これは老子の「道法自然」から由来します。これは道は自然を法とするとし、道とはおのずからそうなる働きに則るものだという意味です。全文は、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」です。また日本では、浄土真宗の開祖、親鸞が「自然法爾(じねんほうに)」という言葉を用いました。この「法爾」の「爾」も「そのようである、あるがまま」という意味です。おのずからしかりとして、人のはからいを離れたところではたらいているものにすべて丸ごと信じて任せるという生き方です。

まず前提として、何が自然で何が不自然かという問いがあります。自然が分かるというのは何か、不自然とは何かということが観えるかというものです。

現代は、あらゆる自然災害が発生します。そこに対して、環境改善や自然保護などという人間の意識もありますがそれは少し離れてみると傲慢ではないかと感じるものもあります。謙虚に静かに自然災害をみつめていたら何が自然なのか、何が不自然なのかが洞察できるものです。

自ずから然りとは、神はからいとも言えます。

何をしようとしているのか、どうしたいのか、自然の法理や宇宙の働きにすべてお任せしていると人間がどうあるべきか、何をすることが自然体であるかに氣づきます。

親祖をはじめ先人たちは人間が自然と共に道を歩むことを智慧として伝承してきました。それを「暮らし」と呼びます。例えば、場が調っていくようにし、いのちが循環できるように調え、多様な生き物たちが生を全うして持ち味を活かせるように見守り、季節の巡りにあわせていのり、日々、供養をして感謝し謙虚に心身を静かに調えていきました。その自ずから然りの実践こそが「暮らし」の本義であったのです。

宇宙をはじめ地球は常に調和を保つようにはたらきます。人間がそのはたらきを阻害して循環を滞らせれば自然はそれに応えます。縁起と関係性によってはたらくのです。滞るのをまた流そうとして自然ははたらきますから、そのはたらきにあわせて人間もまた滞らないようにしていくことがはたらきに任せることになります。

はたらきに任せるというのは、何もしないことではありません。

人間も一緒に「じねん」になることです。

それが暮らしを調えていくことです。

私が実践する暮らしフルネスの根源は此処にあります。

自然のリズムで生きることや、自然のお手入れをすること、自然の循環の邪魔をしないことや、子どもが子どものままあるがままであることや発達を邪魔しないことなどもすべてこの道法自然の意識を保つ智慧と工夫です。

「かんながらの道」という日記もまた、この「じねん」の意識の醸成と習慣、つまり暮らしの一部としての実践なのです。

残された私のいのちはすべて、この「自然の場の甦生」に使い切ります。

いつも一期一会の師の絶妙な声掛けと道しるべに心から感謝しています。