人間の意識

昨日は、早朝から有志で英彦山の守静坊周辺からお山のお手入れをやってみました。大地の再生の仕組みを学び、自分たちでまずは自然に触れてまず実験と実践をしてみようとする試みです。

まず驚いたのが、先日矢野さんが来て診ていただいたところにモグラが来て土をほぐしてくれていました。きっと循環がはじまった場所にミミズが集まり、空氣や水脈の通りがよくなりそこにハタラキが活性化したのでしょう。

他にも宿坊の横に流れるお水が安定して綺麗に流れていたのと、この一帯だけ心地よい風が通っていたのが印象的でした。

定点観測や経過観察によって、はじめて自分たちの関与で自然がどのようなハタラキをしてくださっているのかが学べます。自然の有難さというものは、非常に尊いもので人智を超えたものがあります。

自然に対し人間が触れるところなどは果たしてどれくらいあるのかと改めて氣づかさられるものばかりでした。有志達との振り返りでは、それぞれに新たな発見や氣づきも多く、心地よい疲れとみんなの自然への眼差しに心身が癒されました。

実験や実践の面白さというものは、自然から學ぶ醍醐味でもあります。

和樂の「むかしの五穀田」でも同様に、自分が自然に対して敬虔な気持ちで謙虚に関われば関わるほどに自然は多くののもの見せてくれ日々に学び直すことができます。生き物たちは素直に自分の関与に対して応対してくれます。

これは「意識のつながり」ともいえるものかもしれません。

ここ数年ほどお月さまのリズムで暮らしを調えていますが今朝も美しい月が応対してくれていました。同じようにそこに在るものであっても、自分の意識が在ると思っていなければ出会うことはありません。

まさに周波数や波動のように縁起は、意識や関係性の中で結ばれているものです。

お山に対してどれくらい深く敬虔で謙虚な氣持ちで関係性を結んでいくか。お山の暮らしがどれくらい身近に感じられているか。

これから毎月、満月の日には有志で集まり遊行とお山のお手入れの実験と実践を続けていくつもりです。来月は27日(日曜日)に実施します。

ほんの微細な力であっても自然のハタラキは、その真心に感応して応対してくださいます。大切にしたいという人々の意識や氣持ちに応えてくださいます。

流域を創ってくださる英彦山へのご恩返しやお水を守ることも、木々を守ることも、そして生き物たちの暮らしを見守ることもまた一人ひとりの「人間の意識」からはじまるものです。

丁寧なお山の暮らしを通して、英彦山から日本全体が快復していくように場を調えていきたいと思います。

山武志の生き方

今日から英彦山で大地の再生の仕組みを使って宿坊周辺からお山のお手入れをはじめます。先人たちがやっていたように、もう一度、お山の暮らしからお山全体で起きていることを通して地球全体のことを洞察していきます。

自然は末端で行われていることが全体になり、全体は末端に現れるともいいます。以前、末梢血液を診断する治療を受けたことがありますが血液の先がどのようになっているのかを顕微鏡で観察すると自分の体内の血液にどのような汚れなどが溜まっているのかなどを見る機会がありました。海のゴミのように流れ着いたどころのゴミが健康状態を知らせます。

現在は、1950年ごろに人工的に開発された化合物、PFASの影響で環境が汚染されています。このPFASは非常に安定した性質を持ち、自然界でほとんど分解されません。人体や生物の体内に蓄積しやすく長距離を移動するという特徴があり土壌などの環境中に残留し、人の健康や動植物の生息・生育に大変な悪影響を与えます。

ゴミ問題と掃除の関係は、人類最大のテーマです。

掃除をするようにお手入れをしていかないと、この世の中はゴミの山のようになります。ゴミを増やして自然の分解もできないようなものをつくり、最後は人間が住める場所が次第に細くなっていく現実。これは環境問題でじわりじわりとその日が近づいてきているのを実感するばかりです。

実感するからと何もしないでいたら、さらに環境は悪化していきます。だからこそ、小さなお手入れをみんなでやること、お掃除をみんなで取り組むことで環境は調っていくものです。

場が調ってくれば、自然の分解や快復力、免疫力が向上して循環が促進されます。これは人体でも同じことです。人体を調えていけば、循環がスムーズになり健康が保たれます。自然の仕組みも同様です。

だからこそ、小さなことだから意味がないではなく小さなことから取り組んでいこうとすることが自然の循環やリズムと共に生きるということです。

経済活動でそれどころではないと後回しにしているのかもしれませんが、大病になればさらに多額のお金を出費するし、対処療法は副作用や後遺症が甚大です。

体質改善というのは、日々の暮らしの中で行うものですから先人の智慧に倣い誰でもできますから最初の一歩を踏み出してほしいものです。

ということで、本日も有志で取り組みます。

お山を知り、お山を学び、お山をいのり、お山と共生していくのは山武志の生き方です。愉快に豊かに毎月取り組み、この場所から世界を易えていきたいと思います。

自然の場の甦生

自然と書いて「じねん」と呼ぶ言葉があります。現在、自然はしぜんと呼ばれ欧米のnatureの意味が強く使われますが東洋では本来、自然はじねんと呼び「おのずからしかり」という意味で用いられてきました。

これは老子の「道法自然」から由来します。これは道は自然を法とするとし、道とはおのずからそうなる働きに則るものだという意味です。全文は、「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」です。また日本では、浄土真宗の開祖、親鸞が「自然法爾(じねんほうに)」という言葉を用いました。この「法爾」の「爾」も「そのようである、あるがまま」という意味です。おのずからしかりとして、人のはからいを離れたところではたらいているものにすべて丸ごと信じて任せるという生き方です。

まず前提として、何が自然で何が不自然かという問いがあります。自然が分かるというのは何か、不自然とは何かということが観えるかというものです。

現代は、あらゆる自然災害が発生します。そこに対して、環境改善や自然保護などという人間の意識もありますがそれは少し離れてみると傲慢ではないかと感じるものもあります。謙虚に静かに自然災害をみつめていたら何が自然なのか、何が不自然なのかが洞察できるものです。

自ずから然りとは、神はからいとも言えます。

何をしようとしているのか、どうしたいのか、自然の法理や宇宙の働きにすべてお任せしていると人間がどうあるべきか、何をすることが自然体であるかに氣づきます。

親祖をはじめ先人たちは人間が自然と共に道を歩むことを智慧として伝承してきました。それを「暮らし」と呼びます。例えば、場が調っていくようにし、いのちが循環できるように調え、多様な生き物たちが生を全うして持ち味を活かせるように見守り、季節の巡りにあわせていのり、日々、供養をして感謝し謙虚に心身を静かに調えていきました。その自ずから然りの実践こそが「暮らし」の本義であったのです。

宇宙をはじめ地球は常に調和を保つようにはたらきます。人間がそのはたらきを阻害して循環を滞らせれば自然はそれに応えます。縁起と関係性によってはたらくのです。滞るのをまた流そうとして自然ははたらきますから、そのはたらきにあわせて人間もまた滞らないようにしていくことがはたらきに任せることになります。

はたらきに任せるというのは、何もしないことではありません。

人間も一緒に「じねん」になることです。

それが暮らしを調えていくことです。

私が実践する暮らしフルネスの根源は此処にあります。

自然のリズムで生きることや、自然のお手入れをすること、自然の循環の邪魔をしないことや、子どもが子どものままあるがままであることや発達を邪魔しないことなどもすべてこの道法自然の意識を保つ智慧と工夫です。

「かんながらの道」という日記もまた、この「じねん」の意識の醸成と習慣、つまり暮らしの一部としての実践なのです。

残された私のいのちはすべて、この「自然の場の甦生」に使い切ります。

いつも一期一会の師の絶妙な声掛けと道しるべに心から感謝しています。

場の甦生の本質

自然から離れて暮らすようになって私たちは様々な苦しみや悩みが増えてきました。その中で自然と共生するために大切にしてきたものに掃除という知恵が産まれました。

この掃除というのは、単に物を綺麗に片づけるだけではありません。すべての関係性を調えていくことであり、自然の循環を巡らせていくことができる人類が自然の循環に参加していくための大切な仕組みです。

掃除の功徳を最も実践した二宮尊徳は、自然の循環こそ徳の巡りとして掃除(人道)から荒れた人々の心田を開発して人間性の甦生に取り組みました。

二宮翁夜話巻乃四、一八二にはこのように記録されています。

「翁曰、天道は自然なり、人道は天道に随ふといへ共、又人為なり、人道を尽して天道に任すべし、人為を忽にして、天道を恨る事勿れ、夫庭前の落葉は天道なり、無心にして日々夜々に積る、是を払はざるは人道に非ず、払へども又落る、之に心を煩し、之に心を労し、一葉落れば、箒を取て立が如き、是塵芥の為に、役せらるゝなり、愚と云べし、木の葉の落るは天道なり、人道を以て、毎朝一度は払ふべし、又落るとも捨置て、無心の落葉に役せらるゝ事勿れ、又人道を忽にして積り次第にする事勿れ、是人道なり、愚人といへども悪人といへども、能教ふべし、教て聞ざるも、是に心を労する事勿れ、聞ぬとて捨る事なく、幾度も教ふべし、教て用ひざるも憤る事勿れ、聞かずとて捨るは不仁なり、用ぬとて憤るは不智なり、不仁不智は徳者の恐るゝ処なり、仁智二つ心掛て、我が徳を全ふすべし。」

私の意訳ですが「自然は自然のままにしておけばいいわけではない。自然に対して人は人の道を実践することではじめて自然の循環と渾然一体になることができる。例えば永久的に木の葉は落ち、庭には積もっていくもの。だからといって、そのままにしておくのではなく、人は毎日、箒を持って調えることではじめて自然となる。これは人に対しても同じである。何度教えても分からないからと見捨てるのではなく、何度も淡々と押して導いていく。思いやりと知恵をもって心がけることが人の道であり徳を積むことになる」と。

つまり徳を積むというのは、自然の循環に対して自分もその循環の一部として和合し生きるというこ。その仕組みが「掃除」をするということを説きます。掃除をするときこそ、人間が最も自然と渾然一体になります。

私はこれを「お手入れ」とも呼び、心やいのちを触る行為だとし、丁寧に徳を巡らせ徳を磨くこと甦生すると場の道場で伝道しています。

だからこそだれかに掃除をさせるのではなく、自分自身が日々に掃除を実践すること。掃除をするときはじめて人間は自然と共生し、人間性を甦生していくことができるからです。

本来の掃除の本質は、天の働き、自然の循環に対して人間が暮らしやすいようにすべてのいのちを豊かに巡らせていくように調えることです。つまり捨てるのではなく磨くということ、分断するのではなく結ぶということです。

私の取り組む場の甦生は、自然の循環の一部になることを通してこの徳を積むことからはじめます。徳積財団も徳積循環も、お山の甦生もお水の甦生もすべて人類の経世済民、人々の心の荒廃を救い、「塵を払わん、垢を除かん」と一緒に掃除をして磨きましょうという目的のために実践するものです。

私の持ち場は今の世界や日本ではとても小さな場所かもしれませんが、歴史的に観ても地理的に観ても、風水脈を観ても日本の要であることがわかります。

今日も天道に倣い、人道を精進していきたいと思います。

日本的精神と真心の実践

日本的精神を引き続き深めていますが、それは日本人の歩んできた古代からの記憶であり今も続いている道です。その道はどこから探り出していくのか。古の日本を研究する学問が、霊元上皇や国学、水戸学などの流れをつくり尊王攘夷を経て今に至ります。

今ではあまり日本の道は何かなど考える学問がありません。私はそれを「かんながらの道」と名付け二十年前から毎日欠かさずブログを綴り続けています。

そしてその日本の道、かんながらの道は、暮らしの中にこそあるとし『暮らしフルネス』というものを発案し実践して今に至ります。

もともと古代の記憶はどこに伝承されているのか、また先人が何を畏れ、何に感謝し、何を次の世代へ伝えようとしたのかは場や暮らしに継承されています。それを甦生し、その心をもう一度受け取り、今の時代にふさわしい営みにすることで道を甦生しながら共に歩み連綿と続く未来の子どもたちや子孫へこの日本人の生き方を譲り渡していこうとする文明実験の一つです。

日本的精神は特別な何かの抽象的な思想を掲げることではなく、日々の暮らしを通していのちのつながりを日々の所作や実践によって内省し改善を続けるものです。あらゆる自然と混然一体になり、祖先が共に自分の心身と共生していることを自覚し、悠久の循環の中に自分と関係するすべてを丸ごと結び、呼吸するように暮らしを投じていくこと。それを徳循環と呼んでいます。

一人一人が、暮らしを調えて徳を磨いていけば自ずから道は現れます。すべてのものや人との関係性を大切にしていくことで日本的精神は研ぎ澄まされていくからです。

かつて古事記や万葉集から本居宣長は、日本人の精神をつかみ取ろうと人生を懸けて洞察しました。そこで「もののあはれ」と「真心」であると発見します。「もののあはれ」とは、物事に触れたとき、その姿や出来事の奥にあるいのちや意味を感じ取り、自然に心が動くことをいいます。あらゆる縁起の中で心が動いたままにいる。私の言葉では、常に直感が働いている状態のことをいいます。

そしてこの感受性の根源の存在を「真心」としました。作為や作り物ではなく、完全に宇宙のまま、あるがままありのままの心の動きです。これは先ほどのもののあはれと一体のものです。

心があらゆる事象に対して微細に動く、あらゆる八百万の神々たちとの関係性の中で変化して無常である。まさにその自然や宇宙の繋がりの中で感受する渾然一体の存在です。それを私は螺旋や法螺貝を通して実践しています。

心のままであることは、日々の暮らしを大切にすることで守っていくことができます。

なぜ私がここまで暮らしにこだわるのかは、それは生き方や在り方、日本人の心を生きるためです。霊峰英彦山から日本人の暮らしを甦生できるよう、お山と一体になった真心の実践を伝承していきたいと思います。

流れと螺旋

中国最古の医書『黄帝内経』には「正氣内に存すれば、邪干すべからず」(体の正しい働きが保たれていれば、病邪は容易に侵入できない)」という言葉があります。そして現代では有名な「未病」(みびょう)という言葉もまたこの『黄帝内経』で初めて使用された言葉です。

そこには「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」とあります。これに対して既病とは、既に症状が出ている状態のことをいいます。未病とはまだ病気が表面に現れていない状態のことをいいます。

現代では、病気は病院が治すもののようになり病気になってからはじめて人は病気を認識します。そして病院もまた病気になってから診療を受ける場所になっています。

本来は病気というものは、生命を支えている循環の何らかの流れが滞り、流れなくなって循環しなくなったことをいいます。

自然治癒を洞察するとそれはすぐに察知できるものです。自然界も同様に、循環や流れが滞ると問題が発生してきます。スムーズに静かに流れていれば、自然も穏やかです。しかしそこに何らかの澱みや流れの滞りが起こればそれが災害となっていきます。

つまり自然は常に「調和」するために流れや循環を已まないようにしているのです。

そして人間の身体もこれを同じです。

人間の身体では、血液やリンパ、呼吸や腸内や神経などあらゆるものが流れています。それが疲れや感情や自立神経の乱れ、食べ物の片寄りや睡眠や運動不足などで流れが滞ってくると病気が表層に出てきます。

誰しもが調和している状態を健康であると知っているのは、この「流れ」というものを自明しているからともいえます。

流れが澱み、滞れば不調和が産まれ調和に戻そうと自己免疫力が働きます。それが自然治癒です。つまり自然治癒というのは、流れを取り戻そうとする根源力のことです。

これは人体だけでなく宇宙も同様の真理で働いています。

場の道場では、薬草をはじめ太陽や月のリズム、そして呼吸法、滝行や坐禅、自然農や発酵などあらゆることを体験を通して場づくりを学びます。これは未病を実践するためです。

つまり未病の場というものは、流れが澱まない場であるということ。言い換えれば、循環しようとするのを邪魔せず、自然の流れになるように調えるということです。

これを私は場づくりの中心に据えています。

そしてその養生法が暮らしフルネスということになります。

氣は風、いのちは水、この風水によって流れ(螺旋)は常に循環するのです。

自然治癒の学びを深めつつ、螺旋の真理を甦生していきたいと思います。

 

大地と徳治

昨日、熊本で大きな地震があり私のいる場所も大きく長く揺れました。東日本大震災の時の揺れを思い出し、あの時、受け取った自然からのメッセージを振り返りました。暮らしフルネスに取り組む今があるのは、あの地震からの声をいただき、初心を忘れないようにしてきたからです。

中国の思想に「天人合一」(天人相関)という思想があります。これは紀元前二世紀、中国・前漢の時代に生きた儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ)という人物が人類に投げかけた問いの思想です。

当時の中国では、法律によって国を治める法家、自然に任せる道家など、さまざまな思想が競い合っていました。その中で董仲舒は、「国は力ではなく徳によって治まる」と説きました。その理由は、人間は自然の外側に立つ存在ではなく、天地とともに生きる一つの生命であるとしすべては相関関係と因果によって為ると直観しました。つまり空を流れる雲も、山を吹き抜ける風も、川の流れも、月や太陽の光も、大地の震えも、人間とは無関係に存在するものではなく、同じ宇宙の理によって結ばれていると見立てたのです。

つまり天と人も自然の一部であり分かれているものではない。だからこそ人間社会が私欲によって乱れれば、その歪みは自然との調和を失い、やがて社会全体の苦しみとなって現れると説きました。

そして為政者こそ、自然のメッセージを真摯に受けとり自らを省みる鏡にせよといいました。そしてその政治の実践のことを「徳治」と定義し、まず国を導く者自身が徳を積み、人を敬い、自然を敬い、その姿によって人々を導くことが政治の根本であるとしたのです。それを当時の漢の武帝によって国家の理念として採用され、その思想がのちに日本にも渡来し、聖徳太子の「和をもって貴しとなす」、熊沢蕃山の治山治水、二宮尊徳の「天道に従う」、西郷隆盛の「敬天愛人」など、日本の思想の根底にも、天地を敬い、人を敬い、自らを正すという和の系譜が脈々と受け継がれたといいます。

どんなにお金があっても、便利な文明を築いても、科学技術が発展しても、驕れるもの必ず滅びるものです。平安末期の鴨長明の時代も大地震がありました。そして彼が遺した書物『方丈記』にあるように、大地が震えればこの世に絶対に安全などというものは存在しない、万物は変化して已まないし無常。人間の傲慢さはいつかは必ず天人合一に現れると氣づくのです。

今の世界に響き渡る大地の声は私たちへの偉大な問いかけではないかと感じます。そして為政者こそ災害の時に自らを省み、改心して徳を積み人々の心を治めよと聴こえてきます。

人類全体が謙虚にならなければ、すべてのいのちの幸福はない。

今こそ、徳治覚醒の刻です。

今日は、これから英彦山の宿坊で大地座禅と初心を深め禊をしてご祈祷して過ごします。

今夜の満月の心が、どうか穏やかに人々の内省を調えていただけますように。

地球の利益

現在、無肥料無農薬で自然農のお米づくりをしていますが周囲の田んぼと違う光景に色々と観えてくるものがあるものです。

たとえば、資本主義の経済の中では利益の最大化を目指すために大量生産をして原価を抑えて利益を出そうとします。その原価の抑え方は、効率化がほとんどです。労働力を抑えて、生産能力を最大化するというものです。

そのために田んぼでは巨大な農業機械や便利な農薬や肥料が用いられます。実際にお米の価値も粒が大きくて虫に食べられていないもので収量が多いと利益になります。そのために、農家は労働力の最大化をはかり圃場の拡大を目指します。

しかし私の田んぼはまったくのその逆です。

そもそも収量は一つの田んぼでは限界がありますし、稲だけを育てているのではなく暮らしを豊かにするために田んぼ全体の生態系と一緒にいのちが循環しあう中で仕合せや喜びを感じます。

ほとんどが手作業です。労働力の最大化というよりも無駄ばかりです。しかしその無駄が心地よく、田んぼの小さな生き物たちを見てはまた雑草が生えては必要な分だけを除草します。

労働力の最大化というよりは、自然が育てて見守ってくださっている偉大な力を実感することができるのです。

そもそもいのちは誰が育てているのか、それは自然ですし他力ですし、自分以外の存在が丸ごとでゆりかごのようにいのちを見守っています。その偉大な労働力の御蔭で、私たちはいのちを繋いでいくことができています。

それぞれが自分のいのちを精一杯生きることによって恩返しをしていきます。人間だけがつくった社会のシステムの中でどっぷりつかった機械化されるのではなく、生命全体の循環の一部としていのち全体が耀くように自分を生き切っていくのです。

つまりそれぞれに生き方というものがあり、それを生きることによって全体と一体になって徳が循環するようにしていきます。

資本主義の中の利益の最大化というのは、結局は誰の利益かということです。株主や資本家のということです。利益の最大化というものが、もしも地球のためということになればどうなるか。

すると、みんな地球が喜ぶように「循環」や「流れ」が澱みなく絶やさずに安心するようにすることが利益の最大化になることをすぐに自明するようにも思います。

田んぼであれば、お水が流れていくなかですべての生命たちが多様ないのちを活性化させて自由に暮らしを謳歌できるような場をつくることでしょう。

引き続き、生き方を通して田んぼと関り、本来の日本人としての生き方や先人からの遺訓や遺徳を後世の子孫たちのために暮らしで結んでいきたいと思います。

お水

四千年前の中国最古といわれる夏王朝に禹王という人物がいます。この方は、水土の理を深く理解し、水の道に従って天下を治めた聖王、そして水神とも呼ばれ民衆に称えられます。

この禹王の時代は天下は大洪水に苦しんでいました。川はあふれ、田畑は水に沈み、人々は住む場所と食べ物を失っていました。そして暮らし消え、村が崩れ、国も乱れました。

むかしは水を治めることは、川だけを治めることではなく、人々の命と暮らしを治めることです。この禹王の父である鯀は、国家の命運をかけて水を堤防で囲い込み、力によって押さえようとしましたが力によって水は抑え込めずに行き場を失った水は力を増し、ついには堤防を破り、さらに大きな洪水となってあふれました。そして処罰されいのちを失いました。

その父の失敗を受け継いだ禹王は、まったく反対の道を選びます。水を力で抑え込むのではなく、流す。そして水が本来向かう道を拓くという考え方によって治水を実現しました。そして、国家を同様に見事に治めていきます。

この禹王の治水を「禹の水を治むるは、水の道なり」と孟子はいいました。

この禹王が行ったのは、もともと水土の中にある道を読み取り、流れを塞いでいるものを取り除き、水が本来の働きを取り戻せるように調えて治めたのです。治めるとは、支配することではなく、本来の働きが自然に現れるように調えたということ。

最近、流域という言葉をよく聴きます。流域は、お水が集まりそこで数々の生命が結ばれ繁栄していく場のことです。そして水土は、その土地がその土地らしく育つ場ができることです。

私は徳積循環に関心がありますから、この水土に強く惹かれます。この水土は、風土と似ていますが明らかに水の道のことを示唆します。

お水を知るには、その土地の水土を知ることからはじまります。つまりお水の源流、上流のお山からです。お山を知ることが下流を知ることにつながります。そしてお山を知るには、先人たちが続けてきたお山の暮らし(智慧)を実践することからです。

私が英彦山の宿坊でお山の暮らしを甦生するのは、水土を學び直すためです。水土こそいのちの甦生の要諦ともいえます。どのようにいのちが循環しているか、どうすれば甦生するのかを観るのです。

お水が喜び廻れば、人の心も癒され喜び廻ります。お水が土と人を結ぶのです。

古代の中国では「善く国を治める者は、まず水を治める」とし、為政者の徳目第一とされました。「治める」のは、力の支配ではなく「徳を活かす」ことだと定義していたのです。

最後に作者不明の有名なお水の徳目、「水五訓」で締めくくります。

一 常に己の進路を求めてやまず自ら動いて他を動かすは水なり

二 如何なる障害にも屈せず巌(いわ)をも透す力を蓄えながらよく方円の器にも従い和合の性を兼ね備えるは水なり

三 自ら清くして他の汚れを洗い清濁合わせ容れるの量あるは水なり

四 力となり光となり生産と生活に無限の奉仕を行い何ら報いを求めざるは水なり

五 洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう)たる鏡となりたえるもその性を失わざるは水なり

今年の私のテーマは「お水」です。

一緒にお水を先生に学び直していきましょう。

お山の再生

英彦山に現存する最古の宿坊、守静坊を甦生してから4年目に入ります。歴史のバトンを受け継ぎ、かつての修験道や山伏たちの暮らしを甦生してきましたがそこには常にお山のお手入れや活用を直観するものばかりでした。

宿坊周辺の倒木の片付け、落ち葉や枯れ木の剪定、側溝の掃除や壊れてくる石積みの修理、また谷の水路の補修や土づくりなど作業は膨大です。特にここ数年、短期間で大量の雨が降るため水の流れが変わり林道なども崩れてきています。人口が多い時は、まだ地域で協力していましたが高齢化と過疎でほとんど山中に人もおらず手入れが進みません。

コツコツと作務をしたり、遊行というお山を歩いて修行する機会や年中行事の集まりで仲間たちや法螺貝の講のみなさんにお手伝いいただき少しずつお山のお手入れをはじめだいぶ調ってきました。現在では、不老園という英彦山に伝承する有名な不老長寿の薬を満月の時に土鍋で煎じてお茶としてお渡ししたり、薬草園の畑でナルコユリなどの仙人の薬を育てたり、柚子の古木と鷹伝説に因んだ鷹の爪なども育て柚子胡椒をつくったりと場も調いはじめています。

そんな中、親しい仲間のご紹介で「大地の再生」の提唱者の矢野智徳さんとお会いするご縁をいただきました。聴福庵にご来庵いただき、特に螺旋や循環、お水や風の原理や思想に意気投合して具体的に再生のご指導いただくことになりました。

矢野智徳さんは、50年前、日光東照宮を観て世界にこのような素晴らしい場所はないと感動し、そこから「生命は流れによって育まれる」という考えのもと、水や空気、土中環境の流れを読み解き、自然本来の循環と回復力を引き出す「大地の再生」を提唱・実践する環境再生士になりました。

人が自然を支配したり作り変えたりするのではなく、自然が本来持つ力が十分に発揮される環境を整えることを大切にし、森や田畑、河川、庭、集落など全国各地で数多くの再生に取り組まれてきました。一般的な重機や大量の資材に頼るのではなく、人力でお手入れし、土地の声に耳を傾け、水脈や風の通り道を回復させることで、自然が自ら甦る環境を育む独自の場づくりで結果を出しておられます。現代ではその活動が映画化され、多くの農家や林業家、造園家、建築関係者、環境再生の実践者に大きな影響を与え続けておられる方です。

私自身も、徳が循環する場づくりに取り組んでいますから改めて「甦生」をお山から学び直せる機会になり大変心強く、また理論も後押しいただくことで仲間たちとも安心して継続実践を楽しんでいくことができるように思います。

今回は、英彦山でまず大地の再生の根源の思想に触れ、現地を調査しながら実地実践を共有するなどを仙人苦楽部として企画します。

日時は2026年8月11日、山の日です。

「甦生」や「再生」、「場づくり」や「循環」、生き方や智慧の伝承に興味のある仲間たちで集中して取り組んでみたいと思います。

よろしくお願いします。