老舗兵四郎の甦生

浮羽の古民家がお披露目会の準備に入りました。思えば、2年半もかけてたくさんの方々のお力をお借りしてここまで甦生できました。本当に感謝しかありません。最初に、叔父さんからお声がけがありこの古民家はどう思いますかと尋ねられました。その時、素晴らしい古民家ですよとお伝えしてから今があります。

古民家がどう素晴らしいかというのは、役割をまだ持っていてさらに生きようとする意志が家にあるということ。同時にその主人がその意志を活かそうと覚悟を決めていること。このふたつさえあれば、私は甦生できますと応えます。

もちろん、実際には取り掛かろうとするとあらゆる問題が山積みでちょっと手軽にや、片手間でなどできることではありません。まさに全身全霊、身を粉にして取り組みます。その理由は一緒に取り組んでくださる職人さんたちにとっても大変な仕事で、できないことや無理なことばかりを要求することが多くなるからです。

具体的な無理な要求とは、そのものを活かしてほしいや、できる限り壊さないこと、目的や理念から外れないこと、我を出さず家の声に合わせてもらうこと、禍転じて福にしていくような働き方で取り組んでもらうこと含め、様々な注文を出していきます。

だからこそ、それを言うあなたはどうなのか、その背中はどうなっているのかの信頼を姿かたち実践で共感してもらい安心してお志事に取り組んでいただく必要があるからです。

しかしそのプロセスを通して、一緒に苦しみ、一緒に歓び、一緒に智慧を出し、一緒に感動し、一緒に感謝するという場が産まれます。そういうことの一つ一つが、実を結び、最期には生き方のようなものを纏った家や場が完成するのです。

そして生き方を纏った家はまるで生き物のようにそこで暮らしをはじめます。その暮らしを共に生きるのがその場の主人と家族です。

物語は新たに続きだし、永遠となります。

つまり甦って生きるということ。

これらの日々の記憶は、真摯に真剣に至誠を生き切ったからこそ語り継がれます。

この浮羽の古民家、老舗兵四郎が日本をはじめ世界の子どもたちの成長を見守る偉大な存在としてこの先も甦生し続けることを祈念しています。

 

無理をしない

無理をしないというのはとてもいい言葉です。理に適っていないという意味になります。では何が理に適っているのか。物事は筋道というものがあったり、道理というものがあります。自然があるがままに道理に逆らわないように、不自然であることが理に適っていないということです。

例えば、真冬に田んぼにお米を蒔いても芽はでてきませんし、真夏に冬眠させることもできません。現代であれば、科学の力で人工物をつかったり電気や燃料を大量に用いては無理にでもそれを実現することができるのかもしれません。しかし、それは無理をしているのであり理に適っているわけではありません。

何か不自然だと大いに感じることがあるのなら、私は朝令暮改であっても善いと思っています。

自然というものは、不自然というものを教えてくれるものです。日々に季節の変化を眺めていたら、風が吹いていないときには船は帆があっても船は進んでいきません。風が吹くのを静かに待つしかありません。また土が育っていなければ作物は育ちません。土が育つのを丁寧に見守るしかありません。

そのように道理をよく観察してその道理に適っているかどうかをよくよく洞察するのです。

人生というのは、誰にしろ節目というものがあります。言い換えれタイミングというものです。タイミングが合っているかどうかを見極めるのは、自然かどうかを見究めるということです。

その見極めは、自然や自己との正対や内省が必要です。つまり、これは果たして自然かどうか、天道地理に沿っているか、義理人情の筋道は適っているか、天地人の状態はどうかなど、常に全体快適や一期一会のご縁の状況を結んで適宜判断していきます。

私の生き方、かんながらの道というのはそういうことです。

道を歩むというのは、日々の変化に順応して自己を変化し続けていくという実践です。カグヤという会社の御蔭で精進をさせていただけます。

誠に感謝です。

私たちは生き方が場に顕れてくるものです。どのような人がその場所でどう生きたかは、よくよく観察すると場に顕れます。そしてその場が残るのは、その場に生きた人たちが遺したものによっていつまでもいのちが継承されていくのです。

私は場道家として、場をつくることが本志です。

場をつくるには、場を調える必要があります。場を調えるにはまず場を澄ますことからはじまります。場を澄ますには、自分が場と同化して自己を澄ます実践が必要です。つまり、場と自己を磨き続けるという精進があってこそです。

では何を砥石にして場と自己を磨き続ければいいか。それは自我よりも偉大な存在に対して素直に従い、すべてを選ばずに承りながら道を歩む時に砥石は顕現します。この砥石は、かんながらの道でありあるがままの天命を生き切るときに自然発生してくるものです。

なので、正解もなく、固定もなく、思い込みもありません。ただあるがままの道を歩んでいるということです。

畢竟、人生というものは誰にでも誰にしかないものがありその使命を盡していのちを全うする存在そのものです。ただし、どれだけ透徹された透明さであるか、どこまで澄み切れたかというのはそれぞれに異なります。

自分の生れ落ちた場が選べなくても、自分の場を澄ませて透明にしていくことはできるということです。

いのちが透明であるというのは、いのちの正体を生きるということです。

場はそういう時にこそ、はじめて自他一体になり神人合一の境地に入るように私は思います。場と一体になるというのは、宇宙そのものであるともいえます。

引き続き、場を學び、場と歩んでいきたいと思います。

福徳円満の実践

円満という言葉があります。これは最も調和している状態のことをいいます。福徳円満という言葉もあります。もともとこの円満はどのようにして起こるのか。それを少し深めてみようと思います。

そもそも調和というものは、誰がするのか。

それは自然がするものです。言い換えるのなら、自然に調和するようにこの宇宙はできているということです。ではなぜ不調和が産まれるのか。それは宇宙の調和に対して抵抗したり邪魔をするから発生します。人間であれば、我を通したり、部分最適ばかりをしていると調和が離れていくものです。

かつて浄土真宗の親鸞上人は、「浄土に生まれん事、自然おのずからえんまんしなん」という言葉を遺しました。そこにはこう続きます。

「自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず然といふは しからしむといふことばなり しからしむといふは 行者のはからいにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ法爾といふは この如来の御ちかひなるがゆゑに しからしむるを法爾といふなり 法爾はこの御ちかひなりけるゆえに およそ行者のはからひのなきをもつて この法の徳のゆゑにしからしむといふなり すべて ひとのはじめてはからはざるなり このゆゑに 義なきを義としるべしとなり」

意訳ですが、自然あるがままにお任せするとき不思議な力が働く、それが法爾という。この法爾は宇宙の力でもありの徳に委ねてお任せすると本来のあるがままになっていく、いのちはすべてこの真理にすべてお任せすることだと。

つまり本来のあるがままがわかるかどうか、真理そのものに委ねることができているかどうかは、偉大な存在にあるがままにお任せするという生き方を実践することだと説いています。

それは努力をしないわけでも自分の力を一切使わないのではなく、「すべてお任せ」して身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれと、偉大な流れに自分をまかせていくという自然でいる努力精進を怠らないということです。

自然であるためには、自我に打ち克ち、欲を鎮め、心を調えて日々に自己を浄化して静かに止まる暮らしを実践していくことも必要です。

改めて、いただいている存在やご指導に深く感謝して「おのずからえんまんしなん」と生きていきたいと思います。

丙午の年

いよいよ今年は、「ひのえうま(丙午)」に入ります。これは十干十二支といって中国の古来の歴訪、そして日本の民間信仰が結びついてうまれたものです。一般的には自然の循環や時間の流れを整理し、理解するための東洋的な知恵の体系であるといわれます。

まず十干は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類があります。これに五行(木・火・土・金・水)と陰と陽が組み合わせられます。そして十二支は、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類があります。具体的には時間帯や方角や季節を意味します。

今回の丙午は、五行では「火」を顕し、陰陽では「陽」を示します。つまり火の氣が重なる非常に情熱的な年になるということです。

風水では、エネルギーが最高潮に達するということで燃えるイメージになります。活動的でスピード感、発展や成長などがあります。同時にメリットにはデメリットもあるように反対側に衝突やトラブル、激情や極端になるともあります。

私の名前は、「火」の性質がとても強く、この丙午のような性質で人生を送ってきました。よいこともあればよくないこともある。燃えすぎる情熱は時として摩擦や人間関係の軋轢をつくります。昨年、レスキュー隊長の消防士が来られましたが燃えていて冷静という二つの性質を調和することで人命を救助できるお話をお聴きしました。

まさに今年は、黙っていても背中を押されるように熱気や気炎が盛んですからどう調和していくかというのが何よりも重要になります。

風水では、火を調和させるのは土と水の役割です。土と水といって最初に連想するのは「田んぼ」です。田んぼはまさに火と調和する素晴らしい智慧です。

有難いことに今年の私のテーマは、「水」。そして土づくりは私の使命の一つ。丁寧に火と調和し、子どもたちのいのち耀く元氣なお米(魂)が育つような環境を調える一年にしていきたいと思います。

本年もよろしくお願いします。

みずからの一年

今年も色々なことがはじまった一年でした。毎年、新しいことに挑戦させていただき実践が増えていきます。氣がつくと、今の私の暮らしフルネスの実践のほとんどがご縁から取り組んだことの集積であることに氣づきます。

今年はスリランカからはじまり本質的な仏縁も広がりました。英彦山の法螺貝においては、60貝を守静坊から新たに甦生するご縁にも恵まれました。大阪万博のいのち会議にもカグヤとして参加し、子ども第一義のこれまでの取り組みを発信することができました。BAでのブロックチェーンの活動も、次第に仲間も増え聖地のようになってきました。英彦山での仙人苦楽部でも面白い仙人との出会いが新たな自分の仙人活動の境地を開いてくれました。浮羽の古民家甦生もほとんど終え、いよいよ来年から田んぼを守り日本人の心を甦生する取り組みも本格化していきます。

また出会いと別れもたくさんありました。大切な家族の一員でもあった犬のサスケや烏骨鶏のナビキが亡くなりました。講をはじめて結成し、普遍的なかんながらの道を共に新たに一緒に生きていく仲間や同志も増えました。大和の遊行も少しずつですが確かに歩き始めてカタチも顕現してきました。

来年は会社のみんなで恒例のように定めているそれぞれの一文字を私は「水」としました。尊敬するお水に触れ、いのちの根源を学び直し、お水の場を丁寧に磨き澄ませていく一期一会の恩返しの一年にしようと思っています。

振り返ってみると私の人生はずっと美しいお水に守られてきました。いつも何かをはじめるとき、お水が見守ってくださっています。氣がつくと、お水の神様をあらゆるところにお祀りして毎朝、雨乞い神事の法螺貝をお水に鳴動奉納しています。

お水が深くかかることで、いのちも健やかに新鮮に活き活きと癒されていきます。

もっとも大切で何よりも当たり前だと思う存在にいつも感謝できるお水のような柔軟で素直な心で来年は一旅を味わい歩み続けていきたいと思います。

本年も間接的なことを含めあらゆることでお世話になっている御蔭様の八百万のみなさまに、改めて心から感謝申し上げます。来年も、子どもたち、子孫のために徳積循環の実践を積み重ねていきたいと思います。

どうぞよろしくお願いします。

すべてのいのちが循環し、喜び合える素晴らしい刻を過ごせますように。

ゆずり葉

この時季、鏡餅のゆずり葉を英彦山の守静坊のお庭に取りに行きます。この「ゆずり葉」というのは、常緑樹です。常緑樹でユズリハ属ユズリハ科に属します。

このゆずり葉の名前の由来は、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来します。古名ではユズルハ(弓弦葉)と書きます。葉の中にある主脈がはっきりと目立ち、まるで弓の弦のように見えることからその名がありました。

正月の鏡餅に添える理由は、ユズリハが年神の乗り物として用いられるからともいいます。自分たちの先祖が次々と代を譲って新しい命へ生を繋げていくように、春になるとユズリハの新葉が芽吹きあたかも古葉が代を受け継ぐように落葉する様子に後世の人々がそのユズリハの落ち葉に乗ってまたご先祖様は天上界へ昇ったと信じられてきました。また葉柄の赤い色が呪力をもち邪気を祓うと信じられたからです。

このゆずり葉には、有名な二つの詩があります。一つは、三好達治氏のもの。もう一つは、河井醉茗氏のものです。改めて二つの詩から「ゆずる」ということを感じてみると、

三好達治氏

「ゆずり葉」

子どもたちよ
子どもたちよ
ゆずり葉の木の下で

==

河合醉茗氏

「ゆずり葉」

子どもたちよ。
これはゆずり葉の木です。
このゆずり葉は
新しい葉が出来ると
入り代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちをゆずって――。

子供たちよ
お前たちは何をほしがらないでも
すべてのものがお前たちにゆずられるのです
太陽のめぐるかぎり
ゆずられるものは絶えません。

かがやける大都会も
そっくりお前たちがゆずり受けるのです。
読みきれないほどの書物も
幸福なる子どもたちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど――。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持ってゆかない。
みんなお前たちにゆずってゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを、
一生懸命に造っています。

今、お前たちは気が付かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のようにうたい、花のように笑っている間に
気が付いてきます。

そしたら子どもたちよ。
もう一度ゆずり葉の木の下に立って
ゆずり葉を見るときが来るでしょう。

==

どちらのゆずり葉も子どもたちに向けてのものです。私は、子どもに関わる志事に24年間取り組んできました。子ども第一義の理念を掲げ、子どもたちが憧れるような生き方や働き方をしようと理念に忠実に実践しました。

このゆずり葉の詩にあるような生き方や心にはとても胸に響くものがあります。シェル・シルヴァスタイン氏の本、大きな木~ザ ギビングツリー~という本があります。この心境もとても似ています。

与えて去っていくもの、与えられて受け継いでいくもの、伝承の歴史のうえに私たちのいのちは咲き続けています。

いつまでもその恩徳を忘れないように子どもたちの傍で見守っていきたいと思います。

信頼と覚醒

私が運営するBAというのは、ブロックチェーンアウェイグの略です、これは訳すと「ブロックチェーンの目覚め」という意味です。

そもそもこのブロックチェーンとは何か。

これは一般的には、取引や記録のデータを「ブロック」という単位でまとめ、それを時系列に鎖(チェーン)のようにつなげて管理する分散型のデータ管理技術だといわれます。しかし、この技術は何を中心に使うものなのか、それは人と人の信頼の絆を結ぶことであることは間違いありません。畢竟、事業も人、すべては人が創るものです。人が創るからこそ技術も産まれ新たに活かされます。何のためにこの技術を使うのかもまた人なのです。技術だけを見るのではなく、人を観ることがすべてのはじまりです。

そしてアウェイクニングとは何か。

これは「本質に氣づく」ことや「目が醒める」ことをいいます。人は覚醒し意識が目覚めると世界がとても透明に観えます。それは本質や真実に氣づくとそれまでの視野がまったく変わるということです。人間は真の自我に目覚めると、今まで何をやっていたのかというくらい環境に流されていたことに氣づきます。本当の自分を生きることに目覚めた人は自分だけの物語を生き切っていきます。それは宇宙や自然の循環のなかで使命を生きるという喜びです。

つまり「ブロックチェーンアウェイクニング」のBAは、この「信頼と覚醒」を実現する場ということになります。

では何が信頼なのか。

例えば、昨日私たちのBAでブロックチェーーンのイベントの懇親会がありました。食べるものから置いてあるもの、人、そして実践、取り組みなどすべてオープンで透明性があります。集まった人たちもみんな正直に使命や志を語り合い、心を開きます。気づいたらもうこの町でITを活用して心を結ぶ活動を同志は27年間以上続けてきました。その結果として、今のブロックチェーンの取り組みがこの場所で発展繁栄しています。

信頼は、いつも人の生き方や取り組み、その継続や思いの切磋琢磨、そして心の交流により育っていくものです。時間をかけて醸成してきた本物の実践や継続だからこそ心の信頼そのものを強くしていきます。昨日の参加者の一人から、心のブロックチェーンを創るという発信がありました。嬉しい宣言でした。人が人と心を結び一緒に何をするか、それが事業の面白さです。

この場所があるということ、そして人がいるということ、それを支える技術もあるまち。私たちが目指しているブロックチェーンアウェイクニングは、本来の人間性や徳といった技術と人の和の本質を追及していくものです。徳積循環経済をブロックチェーンを活かして実現していきます。

来年もまた変化挑戦の多い一年ですが、こうやって場に一同で集まれて仕合せでした。故高橋剛さんの魂もBAに留まっています。新たな仲間たちとまた一緒に未来を創っていきたいと思います。

太陽系との暮らし

今日はBAで冬至祭が行われます。太陽と共に暮らしてからより太陽を身近に感じて暮らしが豊かになりました。昨年は、夜は月と暮らすようになって合わせて心が穏やかになりました。

太陽と月とそして地球、その星々との暮らしはまさに太陽を中心にした太陽系との暮らしともいえます。

家にはにわとりがいますが、特に今朝の鳴き声は嬉しそうに感じました。毎朝、太陽が出てくる前にはなきはじめ太陽の刻を教えてくれます。今日も、太陽が拝めると有難い気持ちになり朝の太陽の光で目覚めます。

もしも太陽がなければ地球もありません。太陽が地球を牽引してくれているからこの銀河を共に豊かに旅を巡ることができています。

私たちはその一部として存在している小さな細胞のようなものです。

むかしの人たちは、太陽のことを「おひさま」とも呼びました。そして月のことは「おつきさま」。

親しくして、一緒一体になってあたたかさややさしさ、慈しみや愛おしさを感じていたのでしょう。

いつの刻にも、おひさまとおつきさまと共に暮らしていける仕合せを感じていたいと思います。

いつもいつもありがとうございます。

法螺貝講習

昨日、英彦山守静坊で法螺貝講習を行いました。一人一人に丁寧に、法螺貝を吹いてもらい何が課題で何が重要か、そして吹き方の癖やどのように吹くと振動や音が安定するのかなどを見つけて指導していきます。

今回は、私のメンターの立螺師も宇佐から来ていただき一緒に考え方をはじめ法螺貝を吹くことの意味や背景、その歴史や経緯など、仏教の真理に従い進行していきました。

例えば、法螺貝を立てるときの偈文に「三昧法螺声」というものがあります。この偈は、仏教の教えを表し、法螺貝の音が三界の神霊を驚かせ、妄夢を醒まし、覚りの位に導くとされているものです。他にも「一乗妙法説」などの偈文を唱え、魔障を払い、大日如来の説法からご祈祷が始まります。

その中で、最後に「當入阿字門」と最後に唱え法螺貝を吹きます。

この「阿字門」とは何なのか?

これはシンプルにいうと「阿」という万物の根本真理に入り、悟りの本質に至ることを意味する真言密教の言葉です。

まずこの阿は、梵字(サンスクリット文字)の 「अ(a)」 のことです。この阿は万物の根源・生滅しない真理(不生)・大日如来そのもののことを指します。つまり不生不滅の存在、分別することのないあるがままの存在のことです。

そして阿字門とは、その悟りへの入り口に入ると門のように見立てたものです。最後は、すべての修行は阿に帰着するのだという意味で唱えます。「當入」というものは、「まさに入るべき」「正しく入る」という意味になります。

この法螺貝の音を聴き、まさに自己と宇宙(大日如来)が一体の存在であることを悟るのだということがこの「當入阿字門」です。

法螺貝を吹くたびに、この心願を唱えます。

私たちが吹いている法螺貝は、その音を聴けば宇宙と一体になる響きを味わう。まさに宇宙の螺旋を顕現する唯一無二の存在が法螺貝であると私は信じています。

参加者の講のみんなも活き活きとし、また法螺貝をもっと吹き込みたいと熱気が充ちていました。このように繰り返すことで、はじめてやっていることの意味や、自分たちがなぜ法螺貝に導かれたかがわかります。

ご縁を大切にし、また次回の講習を楽しみにしています。次は法螺貝網袋に使う「七宝」の真理についても学び合いたいと思います。