自然の恩恵

世の中の商品には、自然環境を著しく破壊するものがたくさんあります。同時に、人体を著しく破壊するものもあります。今も文明と人類が滅び、長い時間が経ては回復するかもしれません。しかしそれはとても残念なことのように思います。

そもそも縄文人をはじめ、太古の人々は自然と共生して自然の恵みだけで生きてきました。その恵みを過剰に取りすぎず、破壊しないように配慮して長い時間をかけて回復する自然の恩恵に肖っていました。その自然の恩恵に氣づく感性もまた研ぎ澄まされていたようにも思います。

どこからか自然の恩恵よりも資源として採掘をはじめ、それをどう資金にしていくか。埋蔵金の発掘や海賊のように恩恵を搾取するようになりました。それも個人の権利として特定の人たちがだけが独占するという具合です。

恩恵の独占によって恩恵から外された人たちは厄難であり迷惑をうけます。特定の人たちが権力や富を牛耳ることで問題が発生して恩恵ではなくなったということでしょう。つまり恩恵をわが物にして、恩恵を与える側になったようにふるまうのです。

恩恵というものは、人間が造り出したものではありません。恩恵は元々、宇宙自然によって存在しているものです。その恩恵をみんなで分け合い暮らしていくと決めて生きてきたのがかつての人々であったということでしょう。

権力者や独占者は、恩恵を奪取するのが得意です。恩恵がなくても、恩恵のように見せかけて人間を操るのも得意です。最近では、マッチポンプといって敢えて環境を壊すことでそれを回復させているかのように振舞いお金を集める組織や会社も氾濫しています。マッチポンプとは、自分で起こしたもめごとを鎮めてやると関係者にもちかけて報酬を得ることのことをいいます。

自作自演をして恩恵を誤魔化しているのを見ると、悍ましさに悲しみも覚えます。今の時代、グローバリゼーションがそれを加速させています。

暮らしを調えていくことは、生き方を調えていくことでもあります。

よくよく自然の恩恵とは何かを見究め、恩恵と共に暮らしていくことを積み重ねていくことでしょう。子どもたちのためにも、恩恵に感謝する暮らしを精進していきたいと思います。

侍の精神

昨日は日本の「天下の三大揃え」の一つ、秋月の鎧揃えに法螺貝役としてお役目をいただき勤めてきました。秋月和紙の侍、井上さんとのご縁で参加してからはや五年目になります。

もともとこの鎧揃えは江戸時代の秋月藩における年中行事の一つであり、寛永14年(1637年)の島原の乱に際して初代藩主「黒田長興」(黒田長政の三男)が家中に命じて正月三日に鎧揃え(軍事演習)を行ったことが起源です。

その後は明治維新とその後の廃藩置県で秋月藩は消滅し、残された士族たちによって細々と続けられていた鎧揃えも昭和20年代には一度途絶えます。それから60年余りの時が流れ、平成21年(2009年)に地元有志により『秋月鎧揃え保存会』が結成され現代に鎧揃えを甦生しました。

この鎧揃えが生まれた背景を調べてみると江戸時代に入り最後の関ケ原の戦いが終わってから38年ほど経ち、武士たちも平和が続き平和ボケしていたといいます。実践経験のない武士たちはとても弱く、島原の乱に対応できず実践経験がある古参の武将たちがその時、とても重宝したといいます。平和ボケした武士は戦おうともせず、鎮圧もなかなかできず、一揆などがおき反乱する状況になるまで初期の対応もしなかった藩にも問題がありました。

つまり平和に油断していたことで被害が大きくなったのです。

この鎧揃えの年中行事の目的は、易経、孔子の『 安くして危うきを忘れず(安而不忘危) 存して亡ぶるを忘れず(存而不忘亡) 治まりて乱るるを忘れず(治而不忘乱)』の意味もあります。

これは安泰な時であっても危機を忘れず、存続している時も亡びる事を忘れず、治まっている時も乱れる事を忘れないこと。どのような時でも、油断してはならないという先人からの遺訓であり智慧の一つです。

そう考えて観ると、ただ伝統は繰り返し行っているわけではありません。この本質を守り続けようとする意志を伝承したものが行っている大切な実践であるのです。

現代ではどうでしょうか?

政治の無関心や先送り、そのうちなんとかなるだろうと何も主体的に動くことがなく、忙しさとお金儲けや目先のことで精いっぱい、誰かがやるだろうと他人任せにしては油断していないでしょうか。

今、もしも食糧危機が来たらどうするのか、もし近隣の戦争に巻き込まれたらどうするのか、もし大災害や金融危機が来たらどうするのか、ちゃんと対策はできているでしょうか。

私は暮らしフルネスの実践を通して、いつも危機に備えた暮らしをしています。自然と離れずに循環の中で食料や燃料やお水を確保し、徳を中心に据えた講のコミュニティをつくり、伝統の智慧を継承し、古民家を甦生しています。そして子どもたちの主体性を見守る環境をつくり広げ、最先端技術を温故知新しています。それでも油断してないかと色々と挑戦をしています。

武士道とは何か、商人道とは何か、日本人が大切にしてきた精神を守ることが治に居て乱を忘れずという実践ではないでしょうか。

引き続き、子孫のために志士たちの真心を紡ぎながら侍の精神を守り続けていきたいと思います。

竹との関係

昨日は、古民家和楽の竹垣をみんなで一緒につくりました。澄んだ秋の空と竹垣の美しさが映えていてその家と調和する姿に感動しました。

現在は、人工竹垣というものも増えています。プラスチックなどによって見た目が竹のようにつくられた別物です。よく本物の竹を使うか、人工竹を使うかで迷う人も増えているといいます。

この竹と人工竹の違いは、まずは自然の経年変化がないことです。自然の竹は、緑色から次第に乾燥して色が黄色になります。そして時間をかけて朽ちていきます。そのため、柿渋をはじめ年に何回かお手入れをしながらもたせます。人工竹の方は、経年変化がなくそのままですがこれも時間が経てば突然壊れます。塗装も、柿渋などではなく油性の科学塗料を用います。

シンプルですが、自然のものや本物は自然の智慧で対応していく。人工的なものや自然ではないものは、科学的な技術で対応していくということです。しかし、ここではっきりと異なるのは「調和」のことです。

自然と調和するものはやはり本物であることは間違いありません。どうしても人工的なものは自然には合いません。私はよく古民家甦生をしますが、不自然なものは壊れるのが早くなります。山中などの家では、人工的なものはすぐに劣化していきます。あるいは自然の植物や微生物がすぐに排除しようと分解していくので腐食も朽ちるのも早くなります。

一般的には人工的なものの方が長持ちをしているように感じますが、本当の長い歳月を観るとすぐに人工的なものは壊れていきます。

また竹垣などは身近な竹を使いますから修理もしやすく、お手入れも楽です。それに毎年、増えていきますから資源の心配もありません。いのちが循環する素材として、永続的に利用できます。子孫の時にこの材料がないという心配もありません。よくお手入れした竹藪や竹も美しく、風が通るようになると神聖な気配を周囲に放ちます。

自然な竹垣が世の中から失われ、竹藪が放置され竹が悪者になるのはとても残念なことです。人類を長く支えてきた大切なパートナーとしての竹は、いつまでも子孫へその関係を結んでいく必要があると私は思います。

そのためにはまずは暮らしを甦生することが先決です。

引き続き、暮らしフルネスといのちの循環の和樂を味わっていきたいと思います。

大切なこと

人生は、いつどのタイミングで亡くなるのかはわからないものです。大切な人が増えていくと、それだけ別れがつらくなります。その大切さは思い出となっていつまでも大切にされていきます。

この大切という字は、不思議な字です。語源を調べると、平安時代に遡ります。今昔物語集では「大い切る」は、切る(きる)ではなく、切る(せまる)という読み方になっています。平安末期には、「捨て置けない」という意味になります。そして室町くらいの頃になると「かけがえないのもの」となります。江戸時代には、「愛する」と訳されるようになります。今の時代も、守りたいもの、失いたくないもの、敬愛するものと訳されます。

人生は守られている存在が増えていき、自分が守りたいと思う存在も増えていきます。失ったとき、守られていたことに氣づくものです。では何を守られていたのか。それは存在そのものや心が守られていたことに氣づきます。

親切という言葉もあります。これは親を切るではなく、親しみ丁寧に接するという意味です。この切るという字は、守るという意味ではないかと私は思います。この守るという言葉も、切ると同じように歴史の中で変化している言葉です。

言葉というのは成長していくということでしょう。

それは人が用いることが増えていくからです。その言葉をどのような時に用いたか、それによってその言葉に新たな人格が加わるのです。

人が使っている言葉には、人格が宿ります。誰が使うか、どのように使うかで意味も変わります。だからこそ、先ほどの大切という言葉や親切という言葉は特に重要な言葉になっていきます。

私は徳という字もよく使います。この徳も歴史と共に成長していきます。言葉というのは、その時代の人格が依り代になっているものです。

いのちというものを思う時、言葉の大切さを改めて実感します。親切や大切など、暮らしの中で使う言霊を見守っていきたいと思います。

 

古民家和楽

昨日は、古民家和楽で二回目の銀杏拾いの会を行いました。たくさんのご家族や友人、仲間たちが集まり和気藹々と懐かしい時間を過ごすことができました。はじめて銀杏拾いをする大人も多くいて、子どもたち以上に楽しく喜んでいるのが印象的でした。

自然農の自家製のお米を銀杏と一緒に土鍋で炊き込みました。それをみんなでおむすびにします。また秋の味覚としてきのこ汁をたくさんつくり、備長炭で炒り立ての銀杏と一緒に食べます。

この古民家和楽の最大の魅力と徳は、お庭にご鎮座する銀杏のご神木であることをみんなで実感する時間です。一年に一度、銀杏の木の下にはたくさんのご縁のある方々が集まり笑い合います。自然の恵みをみんなで分け合うということにここまで安心するのは、そうやって人類は長い間暮らしてきたからではないかとも思います。

現代はすぐにお金で買うようになりましたが、そのお金で買っているものはすべて自然がつくってくれるものです。大地や太陽や風やお水、あらゆるものの中にいのちがありそのいのちがみのり私たちはそのみのったいのちをいただきます。そのいのちに見守られながらいのちに活かされるという体験の安心感は一生涯持続するものです。

たくさんの子どもたちと色々な家庭が古民家の中で一緒に食べてお話をして遊ぶ。昨年はスリランカの方々が来られていましたが、この雰囲気にとても感動され日本に来て一番の体験になったと喜んでいたのが印象的でした。

時代が変わっても、環境さえあればかつての日本人たちが大切にしていた暮らしは伝承していけるものです。

引き続き、暮らしフルネスの場を通していのちを活かしいのちに活かされるという体験を子どもたちに譲り遺していきたいと思います。

いのち宣言

昨日は、大阪万博のいのちの宣言に参加してきました。今年の2月、いのち会議が飯塚の聴福庵とBAで開催されてからそのご縁でこの貴重な機会をいただきました。人のご縁によって導かれていくというもの、まさにこれも「いのち耀く」仕組みであると私は感じています。

そもそも日本人の暮らしの中の神様は「八百万の神々」といい、そして仏様は「山川草木悉皆成仏」といいました。つまり一神教ではなく、すべてには「いのち」が存在しているという「いのちのつながり」の中ですべてのご縁と物事を感受してきたということでしょう。

その証拠に大和言葉や日本の言霊は、自然の中で繋がりながら生きているからこそ産まれたものであり西洋のように自然と人を分けたり、神と人を分けている意識では誕生することもありません。雨にも色々な雨があり、黒にも色々な黒がある。日本人の使う美しい言葉はこのいのちの象徴です。

世界ではこの分けるという便利な思考方法によって様々なものを分類してきました。その結果、思い込みや刷り込まれたものをを真実のように勘違いをしては現実から目を逸らせてそれぞれが本質的ないのちを生きることを忘れて元氣がなくなってきました。ますます世界から元氣は失われているように思います。

この元氣というのは、自然あるがままのことです。そしてそれをかつての日本人は「かんながら」と呼びました。これはいのちの道ともいい、いのち耀く生き方を実践するという意味です。

いのち宣言ではそれぞれの発表するいのちの話をたくさん拝聴してきました。ちょうど、その前日、私は「いのち輝く」を理念にしている鞍馬寺にて2日間過ごし、本堂にてご祈祷と法螺貝奉納をしてきました。鞍馬山はお山の場にいるだけで元氣が湧いてくる。まさに鞍馬山は太古のむかしから今も「場」によっていのちを顕現している信仰の実践道場です。

そして私は現在、九州の霊峰、英彦山の宿坊を中心に法螺貝をつくりその法螺貝を吹き、一人でも多く覚醒していく人を増やすいのちの甦生活動をしています。この10年で500人と定め、場を調えて暮らしを実践しています。

人類は、思い込みや刷り込みからどのように目覚めていくか。謙虚というものは、実践のただ現実の真っただ中にこそ存在します。かつて古代中国の殷の湯王が「苟日新、日日新、又日新」と洗面器に刻み毎日、顔を洗って実践をしていたことが礼記に書かれていました。徳を磨き続ける覚悟があってこそ、いのちは輝き続けるのかもしれません。

私にとって徳を積むというのは、いのち耀くということと同義です。

引き続き、神仏といのちのご縁とお導きに感謝しながら謙虚と素直の両輪でかんながらの道を歩んでいきたいと思います。

ありがとうございました。

 

先人の初心

人は何かを行動するとき、その目的や初心があります。ただユニークだからやっているのではなく、その理由の原因と結果がそこに存在するということです。初心を大切に磨いている人は、プロセスの中に常に実践があるものです。

規模が大きいとか小さいとかはあるかもしれませんが、本来は規模は関係がなく大切なのは意識の純度ではないかと私は思います。

純度の高い人は、丁寧に経過に初心を籠めます。何のためにこれをやるのかという理由がちゃんとあるのです。忙しかろうが、大変であろうが、やるべきことは欠かしません。諦めずにコツコツと丹誠を籠めて取り組みます。その判断力は揺らぎません。

私はここ数年、老舗というものを深めてきました。

老舗の意味は「代々続く古いお店」「先祖から続く家業を継ぐこと」です。この代々や先祖から続くというのは、一体何が続いているのかということです。

それは先人の初心が続いているということです。

そして先人の初心とは何か。

これは今もその先人が生きていたとしたら今はどうするかという試行錯誤、挑戦を已まないで実践しているということでしょう。

私がとても尊敬する老舗はどこにも先人への畏敬の念と謙虚さを持っています。時代の変化の中でも初心に照らして温故知新を続けています。そこに老舗の風格のようなものを纏います。

現在、私は老舗の古民家甦生に取り組んでいますが何よりも大切にしているのが先人の初心を最も大切にすることです。もしもご先祖様が今、生きて老舗をするなら何を大切にしただろうか。

一つは、お水を守る事、一つはお米を守る事、一つは田んぼを守る事、一つは素材を守る事、一つは美味しいものを守る事、一つは人の喜びを守る事、一つは誇りを守る事、一つは人を守る事。等々、大切なことが湧いてきます。

ご先祖様に恥ずかしくないように、今の代が心を籠めて生き方を磨いていくのです。

今日も老舗を学び直すために、滋賀まで向かいます。

先人の初心を忘れずに、最期まで丁寧に取り組んでいきたいと思います。

自然に通じる

昨日は、筑豊在来種の日子鷹菜の種を自然農の畑に蒔いてきました。近年は、イノシシもよく入ってきて対策に苦労しています。普通の柵くらいではほとんど効果がなく、イノシシが本気を出せばあっという間に破壊してきます。

近くに柿園もあり、音で撃退しようとしていますが雨の日に入ってきてはあっという間に荒していきます。彼らも生きることに必死ですから、食料が山に減ってくればすぐに畑に降りてきます。

現在、高菜を育てている畑の下は空き地にしていてそこにイノシシがたくさん来るようにしています。敢えて、隙間や自由、自分たちのスペースを用意することで高菜の畑に来ないように場を分けています。

自然が多いところというのは、それだけ自然の縄張りのようなものがあります。現在、英彦山で薬草園もつくっていますが野草の力が大きく、なかなか一般的なものはそのままだと育ちません。人工的なものが調和するには、かなりの時間がかかり自然に認められるまではコツコツと手入れをしていくしかありません。

この時季は、葛なども旺盛でほとんど畑の周囲を取り囲むように旺盛に育っています。もう少し先になれば、乾燥して枯れますが柵などはあっというまに倒していきますし、近隣の木々などはほとんど葛の木のようになっています。葛は梅雨時期などは一日に80センチほど伸び、節でクローンのように繁茂していきます。蔓植物というのは、なかなか厄介なものです。根こそぎしか対策はなく、私は農薬は一切つかいませんから手作業で取り除くしかありません。

現在は、なるべく共生できるようにここまでという範囲と、ここからは自由という範囲を分けています。ここまでと間を定めてコツコツ手入れすると、植物にも伝わるのかそこからは入ってこないようになります。

先ほどのイノシシも、ここまでと決めて全部を荒していなければおおらかな気持ちになっておけばそこまでは荒しません。むしろ英彦山の鹿の方が、宿坊の庭の中にまで入ってきて何でも噛んで食べていきます。しかしよく観察すると、植物が枯れるほどは食べません。上の方だけ食べては、また伸びたら食べにくる程度です。

昨年は、土が激しい暑さで乾燥してしまい発酵が間に合いませんでした。今年は、発酵するように草刈りを早めにして草を敷き、発酵を促しました。日子鷹菜スパイスや高菜漬が大変好評で今年はちゃんと収穫する責任があります。

しかしこの日子鷹菜は、職業として仕事でやっているのではなく供養からはじめたものです。今も初心は供養の気持ちで関わっています。何のためにという心は、不思議ですが自然の動植物にも波動として伝わっていくように思います。

お金のためとなると、容赦なく自然はその動機を試してきます。供養や真心であれば、自然の心の通じていきます。私たちは自然と繋がって生きています。自然もみんな生きることに必死です。お互いに尊重しあいながら、時には奪われ、時には与えますが、お互いに助け合う心あってこそ自然の生産性に任せていくことができます。

引き続き、今年の高菜を見守りながら後半の季節を味わっていきたいと思います。

 

慚愧懺悔六根清浄

英彦山の遊行を毎月行っていますが、その際にお山を歩きながら「慚愧懺悔六根清浄」(さんぎさんげろっこんしょうじょう)と唱えながら仲間とお山を歩きます。

この懺(さん)は、心の咎を天に恥じること、そして愧(ぎ)とは自分の犯した罪を地に恥じることをいいます。

涅槃経に「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」とあります。

つまりこの慚愧懺悔とは、深く内省をして天地の間で自分をよくよく見つめ反省していきますという意味です。内省しながらお山に入り、反省をすればそのあとに六根が清浄になるという意味です。その六根清浄の「六根」とは私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官のことをいいます。そして「清浄」とはその煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで穢れのない境地に入ったことをいいます。

シンプルに言えば、「お山の清浄な場を歩かせていただきながら、日頃の自己をよくよく振り返り素直に反省して心を澄ましていこう」という掛け声です。

これをみんなで唱えながら遊行します。

私たちは生きていれば、氣が付かないうちに環境の影響を受けては喧騒と煩雑な日々を過ごしていきます。いくら氣をつけて注意していても、知らず知らずに心が穢れます。穢れは、氣枯れともいいますが元氣が消耗していくのです。

毎日、私たちの細胞が生まれ代わるように日々もまた生まれ変わります。その中で、穢れが増えていくと甦生が澱んでいくものです。水が下流に流れていくときに次第に混濁していくようにいろいろなものが混ざってきます。本来の透明な魂や玉のような状態が隠れていくのです。

その隠れたものを綺麗に洗い流し、注ぎ、浄化して元の状態に帰っていく。それがこのお山で歩く理由であり、古い信仰の原型ともいえるものです。

古い信仰はすべてこの「穢れを祓う」ことからはじまります。いつも澄ませていこうとする生き方の中に、人間性を常に保とうとする自然と一体になった神人合一の精神があります。

時代が変わっても、人間の本質は変わりません。世界は自然破壊を続けて目先の経済を膨張させることに人々は躍起になっています。ありあまる富は一部の人たちの権力を守るために集中し、奴隷のように洗脳される教育や環境によって目覚めることもありません。

法螺貝を吹いて、錫杖をつき、お山を歩けば道に覚醒するものです。英彦山の守静坊の場から目覚めた法螺吹きを甦生させ真に心を澄ます道を照らしていきたいと思います。

真価 

真価というものがあります。これは本当の値打ちという意味です。真価が問われるという言葉もあります。本当の値打ちや価値が証明される時が来るという意味でしょう。

私は歴史の中でも、特に純度の高い生き方をしてきた先人たちを心から尊敬しています。その方々は、世間や時代の評価ではあまりよい評価を得ていません。ある時は、異端者や変人、あるいは犬死や無駄死などとも言われたりもします。獄死する人もいれば、暗殺される人もいます。世間でいう、一般的な成功者や名声を得たような人物ではないのです。また或いは、陰ながら徳を積み驚くほどの世界を変革するような実践者がいたりします。聖人や聖者など、あるいは菩薩のような人たちです。その人たちも隠者のように世間には出てきませんが、見事な生き方で一生を送ります。

この世の中、特に現代は情報化社会で我先にと評価を求める時代です。現代の社会が求めていることを発信してはその評価を自分に投影させます。

しかし実際の真価というのは、どのようなものか。それは値打ちが分かる人が決めるものだと私は感じます。例えば、純度の高い実践をして目立たずに真摯に生き方を磨いている人は有名人でなくても偉人と呼ばれなくても、私にとっては偉大な人物です。

志高く、どう生きるかと自己を研鑽し見返りを求めずに徳に報いるように生きる人たちは市井にはたくさん存在するものです。それが長い歳月を経て、同じく値打ちが分かる人たちに発見されます。あるいは伝承され、その値打ちがさらに光り輝くのです。

真価というのは、値打ちが決まるまでに時間差がある、あるいは時間をかけてのみ醸成されていくものということかもしれません。

焦らないこと、急がないこと、それは真価とは関係がないことだからです。どのような結果になったとしても、どう生きたかは必ず時が証明するということかもしれません。

丁寧に実践し、生き方と働き方を磨いていきたいと思います。