関係の尊重

人間関係の確認にお互いの納得というものがある。

どちらかが本気でどちらかが曖昧ではお互いが納得する答えを共有することはできはしない。何かを決めて取り組むということは、御互いの決断の質量が同じかどうかでなければ心地よくお互いを尊重し合うような対等な関係を築き上げることはできない。

どちらかの関係に依存したり、自分を蔑んで情を引き出したり、一方的に自分が世話になっているというような立ち位置でいる側と、面倒をみてやっているや、自分が世話しているや、自分がみてあげているなどと傲慢に人との関係を築けばそれは共依存の関係を構築してしまうもの。

互いに自立するとは、相手の納得できる自分の決心と、こちらの納得している自分の決心が互いにかみ合うことではじめて共自立することができる。

それはある意味で、どちらにも世話にならず世話をせず、互いに一緒に取り組んでいるということだけでもある。つまり上下の関係ではなく、平等で対等なパートナーシップを結べるかどうかが相互繁栄の要でもある。

その入口にある信頼関係が正しく築けるかどうかも、互いの信じて頼りある間を構築できるかによる。

それは御互いが自分にしかできないこと、自分ならできることを理解し合い互いに信頼しあい助け合っていく関係が築けるかどうかによる。

見守るという言葉も、見守られているからと感謝するのはいいのだけど、見守ってもらっているというのを、自分をただいつまでも世話してもらえるのだと勘違いするのは単に誰かに依存しているだけである。

勘違いをして依存しても、それで本当の意味でお互いを信頼し合い貢献しあう共存共栄の絆は生まれることはない。

大事なことは自分が世話をさせることではなく、自分が頼りにされうる人材で在り得るかということでもある。誰にも頼られない人は、いつも誰かの世話になりっぱなしの依存の中で自分を存在させてしまうもの。それで甘んじるのは単に自分に他人に頭を下げたくないというような偏ったプライドがあるからが多く、単にそれは偏見からその人と対等になるのが嫌なだけである。

そんな態度では自分の自己実現だけではなく、他の自己実現にも協力することができはしない。まともに自分が納得いく決断ができない生き方をしてるのは、その相手や周囲も大変な迷惑を蒙るのである。

まず自分自身がどうしたいのか、何のためにやるのか、そういうものを掘り下げつつ自分の決心が相手と納得いく関係を築けるものかを自らで確かめるのが人間関係を対等にし共に生きるということでもある。

自分の世話をしてくれる人を探すようなパートナー関係などありはしない、自分で決めたことを一緒にやってくれる真のパートナーはすべては互いの納得と決心の賜物なのである。

人間関係のむずかしさ、目先の先入観や相手の固定概念から引き出される目先の損得や一時的な情ではなく、本人の人生のために真心と愛を持ってこれからも接していきたいと思います。

環境に左右されて仕方がないと諦めている人を見て同情はしても、自分がどう最善の生き方をするかはすべて自分自身が決めるもの。

相手が自分で決めるということを尊重して、その刹那、私自身も対等に決めるということですべての人間関係のつながりを尊敬にしていきたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です