兵庫県にある安泰寺の場にご縁をいただくことができました。かねてより暮らしフルネスを実践する中で、同じような取り組みをしているということをお聴きしていて一度は訪ねてみたいと思っていました。この度、念願叶って色々とお話を拝聴し、場を感じることができています。
ここは兵庫県の深い山中にあり、世界各地から日本の禅の修行を求めてこの場に訪れ、3年間ほど共に暮らし、座禅と自給自足をしています。具体的には奥深い山中でお米や野菜を育て、時には周囲の農家さんや猟師さんからのいただきもので丁寧に食をいただき暮らしています。
生きていくための作務がほとんどで、それぞれが協力し合って薪を拾い、草刈りをし、保存食をつくり座禅をし、また掃除をするというような慎ましくシンプルで丁寧な暮らしです。現在の日本社会では、日々は時間追われお金と仕事のことで一日のほとんどが過ぎ去っていきますがここでは自然のなかで大地に托鉢をしながら心を磨いて過ごします。
修行というと、日本では何か苦しく辛く厳しいものというイメージがあります。しかしこの安泰寺に来て暮らす人々と直に接しているとそんなイメージはありません。日々に作務に黙々と集中してみなさんとてもいい顔をしておられます。お山の空気も新鮮で風は心地よく光が輝き鳥や虫たちの音で溢れていて自然の一部のようです。
一年に何回かは、外部からの体験者を1週間ほど受け容れておられました。一緒に安泰寺の暮らしを共にすることで、禅を求めてこられた方々と邂逅しては共に学びそして共に座ります。修行は悟ることではなく、道を歩み続けることにあるという暮らし方の体験がその人の一生に寄り添う生き方の道しるべになります。ここはその禅に入門する道場ともいえるかもしれません。
私は暮らしフルネスを実践して、この数年間たくさんの人たちと一緒に体験をしてきました。体験者のみなさんは意識が変わったや、今までにない考えを知ったなどとも言われてきましたがまた元の生活の中に戻れば日々に流されてしまいます。そういう私も場や伝承文化、共に暮らしている在来種の野菜たちや鶏たちなど自然の叡智と仲間たちとの内省や作務で支えられています。私の取り組みや実践がいつかその人の一生に寄り添い導いてくれるような杖や貝などになったらいいなと思うばかりの日々です。
そもそも人は何のために修行をするのか。
先日、邂逅のあった山蔭神道の修験者は修行はすべての人々のために行うものと仰っていました。では何のために暮らしをするのか。私はこれは人間性を保つためにではないかと思います。では何を実践することが人間性を保つことになるのか。そこが何よりも大切なのです。
今回の邂逅で安泰寺と私たちの場に共通するものが観えてきました。
引き続き、自分の場に還りさらに一歩、暮らしの道の歩みを強めていきたいと思います。
一期一会に感謝しています。
