文字というものが発明されてから人類はかなりの歳月が経ちました。文字がない時代、口頭伝承が行われ、文字が発明され書承というものが出てきました。声の音で伝えるもの、文字の形で伝えるもの、それぞれが伝えたいことがありそれらは発明されました。
ほとんどの動物たち虫たちは文字を持ちません。しかし声による音はあります。また同時に本能伝承というものがあり、無意識でも動きます。人間では他にも神楽のように踊りで伝承するもの、生活文化のような暮らしで伝承するもの、また職人たちが道具や技で伝承するものもあります。
そのどれもが、暗黙知を形式知に換えたものです。
この暗黙知というのは、経験的に使っている知識ですが簡単に言葉で説明できない知識のことをいい、経験知と身体知の中に含まれている概念であるといわれます。そして形式知というのは、文章・計算式・図表などにより、客観的、論理的に言葉で説明ができる知識のことだといわれます。
伝承には、この暗黙知を形式知に換えていく過程で先ほどの文字や図形など色々なものが発明されて今に至ります。
先日、曹洞宗の寺院でお経をはじめ様々な形式知に換えたものを観る機会がありました。仏像などもその一つで、信仰を伝承した形式知の一つともいえます。英彦山の山中で修行をするときも、大きな磐座にサンスクリット語が刻まれているものもあります。あれも形式知の一つです。
つまり形式知というのは、暗黙知を知らせるものであるということもすぐにわかります。暗黙知が分からないから形式知にして知らせるのです。お経の中のものや、行儀作法、あるいは使う道具から口伝や躾のようなものもまた暗黙知を伝承するためです。
その暗黙知はどのように暗黙知になったかといえば、暗黙知を形式知にしようとした人物の経験による智慧です。
例えば、家訓のようなものがあります。あれも家主や祖先が自分たちの体験からこれは大切だということを文字や文章にして暗黙知を形式知にしたものです。その家訓を何万回も読み直して日々を経験するうちに先祖の暗黙知を自分も理解するというものです。いつまでも子孫が繁栄していくために、自分の経験から得た智慧を子孫に遺していくのです。
遺そうとする必要がなければ形式知にする必要はありません。つまり形式知になるというのは、遺そうとする意志がある行為ということになります。文字をはじめ形になるものは次の代へと結ぼうとする行為です。
その結ぼうとする暗黙知が何だったか。
これがまさに伝承の要諦ということでしょう。伝承の要諦に気づく人は、経験をする人です。たくさんの本質的な経験を通して暗黙知は暗黙知のままに継承されます。本質的な経験は、その人の思いや志と同期します。
同じような祈りや願い、そして心を持つことが暗黙知の伝承に最も必要なことかもしれません。これは徳を積むことに似ています。徳積循環は、智慧の伝承でもあり暗黙知を學ぶ大切な機会です。
