師弟とは何か

師弟関係、徒弟制度というものがあります。現代ではあまり用いられていませんがかつての伝統職人をはじめ武道や芸能などでは当たり前に存在していた仕組みです。今では法律によりすぐにパワハラやモラハラなどといわれるようになり、かつての仕組みは人気がありません。

そもそも師匠というものは、何をもって師匠とし、弟子とは何をもって弟子とするのか。誰でもすぐに弟子と呼ぶ師匠もいれば、すぐに誰でも師匠といって近づいていく人もあります。その定義も深さも異なりますから師弟関係といっても、軽いものもあれば重たいものもあります。一子相伝のように命懸けで伝承する師弟関係もあります。

改めて師弟関係というものを少し深めてみようと思います。

中国の古典「礼記・学記」には師とはこうあるものと記されます。

記問之学、不足以為人師。
必也聴語乎。
力不能問、然後語之。
語之而不知、雖舍之可也。

意訳ですがこれは単なる暗記と受け売りによる学問だけでは、人の師になることはできない。師は、よく心で傾聴しなければならない。相手が自分の力では問いを立てられないところにきてはじめて教えるようでなければならない。もしもその時に教えてもまだ理解できないなら、いったん置いて見守り待つようでなければならないと。

師といえば吉田松陰が孟子の講義の中で記した「講孟余話」(滕文公 上 第四章)でこう記します。

「大抵、師を取ること易く、師を択ぶこと審らかならず。故に師道軽し。」

これはおおよそ人は安易に誰でも師にするが、その師を慎重に選ぼうとはしない。だから師弟の道が軽くなってしまうのだ。

「故に師道を興さんとならば、妄りに人の師となるべからず、又妄りに人を師とすべからず。必ず真に教ふべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし。」

だからこそ、もし師の道を興そうとするなら、軽々しく人の師になってはならない。また軽々しく人を師としてもならない。本当に教えるべきことがあってはじめて師となり、本当に学ぶべきことがあってはじめて師につくべきであるのだ。と。

つまり、誰でも簡単に師弟関係などというのはおかしいと。道があり志があり実践があり、その上で高め合い学び合うものがお互いにあるのならはじめてそこで師弟となるのだと。

さらにこう言います。

「而して己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして、自ら人の師となるべし。人の為にする学は、人の師とならんと欲すれども、遂に師となるに足らず。故に云はく、「記聞の学は以て師となるに足らず」と。

これは自分を磨くために学ぶ人は、師になろうと思わなくても自然に人の師となるものだ。反対に人に教えよう人の上に立とうという目的で学ぶ人は、結局、本当の師になることはない。だから先達は、「知識を覚え込んだだけの学問では、人の師になることはできない」と言ったのであると。

先ほどの礼記の文章、「記聞の學」の話が出てきます。知識の學問では師弟関係は興らないというのです。

知識を多くもっているだけでは、生き方や生きざままでは薫陶することはありません。私も師と呼べる人は、生き方や生きざまを磨いておられ私が憧れるほどに日々に貫遂透徹して純度の高い精神と魂で実践をなさっている方を師と仰ぎ観ているだけです。そして自分を勝手にその人の弟子などとはいいません。生き方を磨いていく中で、遠く及ばない師を羅針盤に、時には砥石にして切磋琢磨できるように心で師と呼びます。

また同じ道を志し、同様に挑戦している人たちやこれからその道に入ろうとする初心者ののことを決して弟子とはいわなくても、親身になって苦楽の妙や丸ごと信じて見守りたいという気持ちは湧いてきます。

畢竟、自分もまた道を歩んでいくなかで少し先を歩いているだけで、そのうち自分も死んではその屍を越えて後人が歩んでいく一つのいのちです。優劣もなく、早い遅いも比較もありません。ただどのように道を歩んでいるのか、道中の師弟は一期一会とめぐり逢いです。

つまり一期一会とめぐり逢いというのが私の師弟の定義です。

引き続き、徳を磨いていくことに集中して我が道、天命を精進していきたいと思います。