暮らしの源流

今日は、むかしの五穀田の稲刈りです。暮らしを通して仲間になってくださった結のみんなが集まって、一緒に手で一株ずつ稲刈りをしていきます。約2反ほどありますから結構な作業量です。お誘いするのは単に労働力が必要だからみんなに集まってもらおうとしたのではなく、農業イベントをしたいわけでもなく、お金儲けや承認欲求などでもありません。

新しく「暮らしを甦生」するためにみんなでやっている実践と試みです。

現代は労働力としてはほとんどが機械化されて簡単便利に短時間で収穫を終わってしまいます。別に機械を否定しているのではなく、私も機械を借りて一部は収穫しますしとても助かっています。しかしこの作業を単に労働力だけと割り切って働いていたら、人類が長い時間をかけて積み重ねてきた伝統や知恵などの暮らしが失われていきます。

暮らしは労働力の方ではなく、関係性や場の中に存在しているからです。

もともとむかしの人たちは、常に自然に寄り添い自然と一体になって「暮らし」を営んできました。自然に和合するから季節に合わせて行動を決め、自然に与えられた短い旬の時季を失わないように大勢で助け合い田植えをして、稲刈りもしました。みんなで自然と共に生きて、みんなで助け合うのです。これを暮らしと呼び大切に結んできたのが「結」という共同体です。

「結」では三浦梅園の慈悲無尽講のように、病気や不慮の事故などの時の共同体の支援がありました。困ったらみんなで助け合い、お互い様おかげ様と関係を何世代も大切に結んでいきました。土地で自然と暮らしていくというのは、関係を常に甦生させ続ける工夫が要ります。現代は面倒だと、都会のように他人とはあまりプライベートには関わらないようにと何でも距離を置きますが田舎では何かあった時のためにと日頃から関係を結んでいきます。

何かあった時というのが、自然災害や天災、天候不順による水不足や洪水などに備えるためでもあります。むかしの暮らしは自然と一体ですから防災と常にセットで取り組んでいて、これは現代ではフェーズフリーとも言いますが日常から防災になるような暮らしを営みました。保存食をはじめ井戸端や結などもその典型です。つまり防災=暮らしでもあったのです。

現代では、お金や経済活動だけの共同体になっていますが防災で考えるとき今の日本はこれで人々の今後の暮らしが果たして無事に守られるのかと疑問に思います。

一つの田んぼを守ることは流域全体を守る事であり、場を調えることは人の関係性を調えることでもありました。

このような当たり前のことをしなくなり、教育も何か暮らしとかけ離れた労働力としてしか人を見なくなれば次第に労働力以外に大切にしてきた暮らしが消え、最後は人と自然の営みも失われていくのではないでしょうか?

だからこそ、今こそ新しい暮らしの関係性を結び直しが必要だと感じて人が「育つ場」をつくろうとお声掛けしているのです。

この育つ場には、現代で分かれた分断され分業された仕事が丸ごと全部存在してイキイキと学び合えます。食事も教育も介護もお祭りも信仰も伝統も文化も渾然一体です。

こういう場において人は育つ、そして人が育つだけではなく流域も育ち国家も育つのです。それが「暮らしの源流」なのです。それをフルネス(もっともっとではなく、足元の足るを知る喜び)にしていこうと提唱したのが「暮らしフルネス」なのです。

人生の真の幸福は徳を積むことです。当たり前のことを書いて何を最もだといわれるかもしれませんが、当たり前の初心をいつまでも忘れないようにしたいと思っているのです。

今日も、一日一生、一期一会の場。

徳が循環するようないのちが喜び合う暮らしを、感謝と共に今日も世界の子どもたちと人類の未来のために実践していきます。

好きとは何か

明日は、いよいよ待ちに待ったみんなでむかしの五穀田の稲刈りをします。英彦山弁財天の縁の深い日に合わせて種もみをお山のお水に寝かせ苗づくり、田植えと草取りとすべて「巳の日」に合わせて取り組んできました。巳の日というのは、十二支の「巳=蛇」が巡ってくる日のことです。むかしの人たちは、この縁日というものを大切にしてきました。お水の中で蛇は脱皮して新しく甦生する存在です。そのお力に肖ろうと意識を保ちながら渾然一体の自然の一部になっていきます。

御蔭様でみんなのいのりが通じ、稲は本当によくよく育ってくれました。

はじめての田んぼで心配していましたが、関の山からのいのち豊かな風とお水が棚田の上も中も通り場の力を育ててくださいました。古代米をはじめ在来種や福岡のお米などご縁あったものが全部みんな活き活きと育ちました。

心から場に感謝しています。

秋は今までの苦労をみんなで労う季節です。そして冬に入る準備をしていきます。

実際にすべて稲刈りを手刈りでするのは本当に大変なことです。周囲の関係者からも無理ではないか、やめて機械にした方がいいと薦められます。正直言うと、あらゆる兼業をしていますから纏まった時間がうまく取れなくて身体が悲鳴を上げることがあります。

でもたくさんの仲間が集まってあのみんなで竈のご飯を食べたり、子どもたちからお年寄りまでみんなで居心地のよい場にしていく古民家と田んぼと稲と人の絶妙な調和が好きなのです。

「好き」というのは美しいという古語ですが、論語には「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」とあります。つまり「知る」より「好き」が深く、「好き」よりさらに「楽しむ」境地があるといいます。

そして禅の道元禅師は、「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり」、人になる道は自分を識り自分になること、それは自分を忘れるほどに好きになっているという意味に近いように思います。

この好きというのは、周囲の評価など氣にしない現代でいう「オタク」になっている境地に似ています。(笑)自分が好きで誰よりも楽しんでいるのなら、それでいいと。それが自分らしさの源流ということでしょう。

どの方向に向かって暮らしをしているか、何が徳でそれを積み循環しているか。

不思議ですが私の田んぼの周りには、そういう人たちばかりが集まってきます。

ということで、明日は「労いの秋もやります」。

具体的には、稲架けをしたらライトアップして親戚の「丸目雅(まるめみやび)」さんによる労いの歌奉納をします。彼女は、私の息子たちと幼い頃から一緒に育ってきた音楽の申し子です。その歌唱力と声は、澄み切っていて一度そばで聴くと忘れないほど深く心に遺ります。

むかしの五穀田のと関係を結び稲刈りをしてくださった方々だけ参加できる秘密のライブをします。

心を癒し、好きの方向をみんなで確認しあい労い合う。

力をお借りしたいのが本音ですが、明日はじっくりと労いを意識して好きを楽しめたらいいですね。

参加のご連絡をよろしくお願いします。

https://www.tokutsumi.or.jp/info/2974.html

時務を識る者は俊傑に在り。

「時務を識る者は俊傑に在り。」という言葉があります。この言葉は『三国志』蜀書の諸葛亮伝の裴松之注に引用された『襄陽記』の中に記される言葉です。

具体的には、まだ弱小であった劉備玄徳が司馬徽(水鏡先生)に天下の情勢を尋ねたときの返答の言葉です。

正確には「劉備、世事を司馬徳操に訪う。徳操曰く、「儒生俗士、豈に時務を識らんや。時務を識る者は俊傑に在り。この間、自ら伏龍・鳳雛あり。」劉備、問う、「誰となす」と。曰く、「諸葛孔明、龐士元なり。」と。

意訳ですが、劉備が水鏡先生に真摯に尋ねる。今まさに私はどのうようにしてこの天下に在ればいいか、どうか教えてくださいと。水鏡先生が言う。儒学者の私に聞かれても知識は答えられてもそれは教えることができません。もしそれができるとすれば「今を知る」ものです。そのような人物こそ俊傑と呼ばれるものです。この地に俊傑は二人います。それが諸葛孔明と龐士元ですと。

俊傑とは何か、これは時代の兆しを知り、今を識るもののことです。

この今を識るとは何か。

私の言葉では、日々を新たに生き切る人のことです。つまりゼロベースに物事を常に刷新して洞察し続けられる人。新しい自分を常に創り続けている人ともいえます。

人間は、過去によって今を概念で操作していきます。それを思い込みといいます。過去の思い込みによって今を観ています。しかし、本当は過去からの今は真の今ではありません。

真の今を識るには、今までを少し隣に置いて常に今の時の中に棲んでいなければなりません。だからこそそれができるのが「龍であり鳳」なのです。

この話は、人物の話に聴こえますが易経の話です。

龍や鳳は、時を識ります。

今がどのような今か、今の中に存在します。時とはそもそも今のことです。道元禅師はこれを而今ともいいました。つまり龍は今なのです。

文字や知識で今を知ると龍が観えなくなっていきます。だからこそ、知識ではなく壮大な循環に身を置き仙人のように悠久の流れに静かに心を委ねます。

時代は変化して已みません、そして時勢は今に顕現しています。

今を識るには新しい自己で居続けるという、まるで変化と一体になっている融通無碍な境地の体得があります。絶対的な主体性、自然の境地です。

果たして諸葛孔明がそうだったのか、それはわかりませんが自分も龍や鳳の如く刻の徳を磨いていきたいと思います。

精進

先日、ある会社で100年カレンダーというものを拝見しました。そこには100年の歳月が1枚の紙に全部書かれていて自分が残りの期間、もし長生きするとしてその生きていられる期間を感じられるものがありました。

人生はあっという間です。

伝統や歴史の中にいることを思えば、自分がいただいているものの役割に感謝して今度はそれを遠い未来までどう繋いでいくかと思索します。何代もかけて結んできたご縁が結実し、今があります。

結局は、この今をどうするかをゼロベースで取り組んでいく全身全霊の一日を生き切ることが最善であることに氣づくものです。一期一会に結ばれていく奇跡のようなご縁の瞬間を真心で結びその結んだものからまた新たなご縁と結ばれていく。

人生は羅網のように無限につながり、螺旋のように永遠に循環していきます。

だからこそ、今、来ているご縁にどれだけ真剣に取り組むかが大切です。

つまりご縁というものを感じる意識のままに、そのご縁を選ばずに主体的にお役目を全うしていくという無為自然にすべてお任せして真心のみを尽力する。

今を生き切ることで生き方と働き方も一致していきます。

どのような境遇に出逢ってもそのご縁に謙虚に感謝してどれも素直に心と向き合っていこうと努力する。

人体に免疫があるように、心にも免疫があるように私は感じます。

免疫は苦労するとき、成長するときによく働きます。

免疫は自然そのもので、厳しい環境の中でよく働きます。人体も同様でもしもあまりにも楽をさせすぎたり、怠けさせると免疫が働かなくなっていきます。つまり病気になります。病気になっても免疫があれば快復していきます。病気もまた成長の証ですから、氣付きを得ていのちは育つのです。

だからこそ謙虚に素直に今に向き合い精進していくことがよりよく生きるということになっていくのだろうと思います。

而今、時中、時務、今此処にすべての真心を籠める。

自然免疫が活き活きと発酵して、主体的に主人公で生きる姿をこの先の未来に結んでいけるように精進していきたいと思います。

 

ご縁の甦生

過去と今という考え方があります。私たちはつい過去のことを相手にして対応していると今から離れていくものです。既存の発想に囚われてしまうと新規の発想は出てきません。変化というものは、今を観続けるということですから今の自分に何がもっとも相応しいかと問い続けていくことで過去のものを手放していくものです。

情報というものはすぐに固定されていきます。

かつての自分を知っている人は、かつてのままで止まっているものです。今の自分を知る人は、いつも新しい自分に刷新されていきます。大事なことは、その人の今を知ることではないかと私は思います。

それは前と比べて今というものや、きっとこうではないかという思い込みの今ではなく、ゼロベースでありのままのあるがままの今を知ることを「今」といいます。

先日、法螺貝を選ばれる時に今のあなたに最も相応しいのは何かと聴くと過去に馴染んだものよりも今の自分に相応しいものを選んでおられました。

自分が思っているものではなく、その人の今を知ることでその人の抱えている問題や課題、そして希望や行動したいと思っている動機を確認できるのです。

振り返って見ると、ご縁を結ぶのは今を知ることに似ています。

今の自分に相応しいご縁がやってきては今の自分を形成していきます。そしてそれは古い友人や仲間との再会においても同様です。ご縁を結び直すことはゼロベースに今を知り合うことです。むかしはこうだったからきっとこうだろうと思い込み、既存の知識に囚われるのではなく今のその人はどうなっているだろうかとその人と自分の今を結びご縁を探します。

人のご縁は時機や時節で変化して強く濃くなっていくことがあります。

これを新たなご縁ともいえるし、ご縁が結び直されたともいえます、つまりご縁の甦生です。ご縁の甦生はお手入れや磨くことでもできますし、場づくりをしていくことで自然に調っていくものです。

前はこうだったという意識を手放すことは「本当の今を観ているか」という自分との対話です。

今を知る者こそ、本当に今何をすべきかを知ります。

つまり今を識るものこそ今を知る、知識の本質ということでしょう。

一期一会にご縁を甦生していくのを楽しんでいきたいと思います。

心と心

昨日は、無事に古民家和樂のご神木の銀杏拾いや綱分八幡宮の参道の竹林のお手入れと田んぼの稲架を設置することができました。

御蔭さまで地域の暮らしを甦生し、かつての里山のような地域の循環の場ができています。こんなことを数年続けていると、集まってくる結の人たちや地域の人たちも故郷の風物詩のように風景に馴染みます。これを文化といいます。文化は暮らしがあってはじめてできるものです。文化は決してお金で買えません。

今年の銀杏の実はとても大粒で全部まるごとみんなで拾いきることができました。昨年まではあまりにも銀杏の量が多く、拾いきれずに一部は土に還していました。銀杏の木に「いつもありがとう、いつか拾いきるほどになるのが夢ですね」と話していたからか、不思議なことにその冬に枝が風でだいぶ落ちスリムになりました。すると今年は小粒だった銀杏がすべて大粒になり、味もさらに美味しくなり全部、ご縁のある方々の来訪分でぴったりと拾いきりました。

現代では一般的には思い込みだとかスピリチュアルだとか言われそうな話ですが、きっと主人の話を聴いてくださってそうしたのではないかと不思議に思い、改めてご神木の存在を尊敬して大切に一緒に暮らしていきたいと思いました。これは英彦山の守静坊の枝垂れ桜も同じく、話しかけるとすぐに翌年にそれを聴き届けてくれます。これはむかしの五穀田の稲も同じです。

樹木や植物には、人間のような口もなければ耳もありません。

しかし心は通じるようで、尊重していのり話しかければ応えてくれます。重要なのは、「応じる」ということです。応じるというのは、相手の求めに心で受けこたえるという意味です。

心で聴く、心を通じ合わせる、心で接する、心を観守る、心と心。

何を伝えてくださっているのか、どうしたいと願っているのか、傾聴し共感し受容して感謝しあう。

二宮尊徳はこれを「一円観」と言いましたが、自然循環の妙であり真理です。

御蔭様で年々、ご縁や関係性が充ちてみのり、一期一会の場が醸成されていきます。

ご縁や関係性の中にこそ、真の暮らしがあります。

秋は、多様な生き物たちが心と心を和合します。

秋に心からありがとうございます。

 

地球の暮らし

日子山弁財天に仙螺法螺貝を立て、むかしの五穀田の稲刈りを開始しました。これから10月10日にかけて少しずつ刈り取り稲架けして稲をじっくりと10日間ほどかけて乾燥させていきます。

もう周囲の田んぼは大型の機械で収穫がほとんど終わっています。傍で見ているとあっという間に数時間で収穫が終了していなくなります。今では田植えと稲刈りが機械化されほとんど田んぼでの作業はありません。収穫後はまとめてすぐに乾燥機にかけて袋詰めして出荷され市場に新米として出回り食べられます。

昨日は、ずっと高齢の両親と若い息子たちが手伝ってくれました。

3世代で一つの田んぼに入り、協力しあいながら稲を刈り、稲を束にしてそれを手渡して順繰りと稲架けをする。作業の間にこんな仕合せがあるのかと感謝の氣もちがずっと心に湧いていました。

そして今日からは徳積循環の結の仲間たちがあちこちから駆けつけてくれて一緒に銀杏拾いと竹取り、稲刈りと昨日と同じことをみんなでやります。お昼の銀杏御飯や秋の味覚で笑い合うのも楽しみです。

あぁ、一つの田んぼで、自然に一つに包まれた感謝の循環。

実際の作業自体は大変で身体も疲れるしへとへとです。しかし、心の充足感や安心感、その豊かさは言葉にならないほど得られます。

その正体は一体何でしょうか?  ふと静かに考えてみます。

それはご縁が実るなかでいのちが結ばれ一つに耀く星の仕合せのことではないか。

つまり「地球の暮らし」になるということ。

現代は、暮らしがあちこち分断されていて一つに繋がっていません。私たちが取り組む「暮らしフルネスでのむかしの五穀田の場」では暮らしの中で分かれていたものが、もう一度ひとつにつながった感覚が得られます。

ただ稲刈りが仕合せだということではなく、今、此処にある自然・身体・家族・世代・仲間・食べもの・時間・土地・場など無限の関係性が一つの営みの中で結び直されご縁が実ることに仕合せを感じているのです。イベントでは決して得られない、暮らしの中で一つにつながる感覚です。

日々に法螺貝を立て、一体何をいのるのか?

ここに私が取り組む「場道」の道の正体があります。道を続けていけば、暮らしになり、暮らしを続けていけば人類の未来が平らに和になっていく。

人類は大切なことを忘れないように如何に人としての道を歩み調和を保つかではないかと私は思います。

それは私の拙い経験と短い人生で実感するのはやっぱり暮らしありきです。

特別なことをしているのではなく、一人一人が平和を暮らしにしていくということ。

頭でっかちに文字や文章や言葉で学ぶだけでなく、自然(じねん)の場の中で共に主体的に地球と平和に暮らしていけたらいいですね。

本日も一期一会、大和魂の伝承、使命、結ではよろしくお願いします。

 

お山の神の使い

昨日、田んぼを見廻りしていたらむかしの五穀田にイノシシが入ってくるのがわかり田んぼの真ん中の稲たちがなぎ倒されていました。一週間後に控えた稲刈りの神事の前に、特に一番実っている場所の稲が食べられました。イノシシは田んぼに入り、寝ころんで稲を倒して食べるため広範囲が荒らされます。

みんなで丁寧にお田植え神事で一本ずつお手植えしてきたからこそ、その時の思い出が走馬灯のように思い返され残念で悲しい気持ちになりました。

しかし、これもまた自然(じねん)の一つなのでここで意味を深めてみようと思います。

日本人は古来よりイノシシは単なる害獣ではなく「神聖な山の獣」「お山の神の使い」として敬いながら、田には入れないという二重の関係で暮らしてきました。元々、お山の神様は、猪や鹿、木、水、鉱物など「お山からもたらされる恵み」を司る存在と信じられてきました。実際に荒らされていると人間は思いますが、自然の循環の一部として暮らしていますから彼らはすべてお山をお手入れする唯一無二の存在でもあります。

それにむかしはお山と里は別の存在ではなく暮らしを通して一体になっている場所でした。なのでお山の神が春に里へ降りて田の神となり稲を守り、秋の収穫が終わると再びお山へ帰ると信じられていました。お山に帰る前にお山の神様の使いが田んぼにご挨拶に来たという捉え方もあります。

しかしそんな悠長なことを言っていたら、田んぼの稲は全部倒されてしまい食べる稲もなくなってしまいます。(笑)むかしの人たちは存在としてのお山の使いを大切に尊重しながらも同時に境界をつくり「お互いがここまで」という結界を設けました。

かつての文献を調べると山際の田に小屋を建てて夜通し番をし声を上げたり、笛や鳴子を使って追い払ったり、村ぐるみで石や土を積みシシ垣という巨大な境界を築いたともあります。

お互いの生活圏、お互いの領分がありここからはこちら、ここからはそちらという境目を丁寧に結んだのです。これは分断や断絶ではなく、調和や共生、折り合いをつけていたのです。お山からいただいている恩恵を里で頂戴し、お山にまた送り返す感謝のお祭りもまたこの暮らしの循環の一部でした。

来月、新嘗祭ではお山の神様に感謝してお山に御見送りする神事を私たちは和樂で行います。これもまた、いのちの循環の中で大切に関係性を維持するむかしから生きていく智慧の一つです。

早速、私たちも昨夜は夜通しライトアップしてラジオをつけタール系の忌避剤を撒き境界の対策をしました。今日から収穫を開始することに変更して、電気柵の結界も検討しています。畔周りなどを荒すまではいいけれど、田んぼの中は我々の食べ物だからダメですよとお知らせしていきます。イノシシにも子どももいて暮らしがあります。

「お互いを思いやり敬いながらも暮らしを守る。」

大切なのはご縁や関係性の中でどのように折り合いをつけていくか、これは現代の人たちの大切な場の思想だと思います。日本人としての場づくり、むかしからの伝承を守っていきたいと思います。

ということで、大切な御報せがあります。

当初は10月10日の巳の日の神事で稲刈りをと思っていましたが、こんな状況にもなったので明日から稲刈りを開始し10日までに終えるという計画で手刈りをはじめます。

もしも我こそはお山の神様と共生するぞという真心でお手伝いいたける結の方がいたら、ぜひ稲刈り稲架かけをご一緒いただけますと幸甚です。またご連絡をいただけますと、よろしくお願いします。

 

稲魂

そろそろ稲刈りが近づいてきて、翌年の稲の準備もはじめていきます。この一年の結集としての稲を手で刈り、束ね、稲架に掛け、自然の風で乾燥させ、種籾も残します。

懐かしい稲との暮らしの時間を味わいます。

古代より、稲魂(いなだま)という言霊があります。これは稲に宿ると考えられた霊・穀霊です。稲の生命力を神格化した存在が宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)です。

この宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)は、日本神話に登場する食物・穀物の神で『古事記』では須佐之男命と神大市比売の子として登場し、のちに稲荷信仰を代表する神として日本全国各地で祀られます。いわゆる「お稲荷様」です。

この「うか」は食物や穀物に関係する言葉で「みたま」は神聖な霊や働きという意味です。稲に限らず食べ物を生み出し、人々の生命を養う力そのもののハタラキです。

種を播いても人間の力だけで稲はできません。数々の自然の恩恵、ハタラキを経てはじめて実ります。そのおハタラキそのものが宿っているというのが稲魂ということでしょう。

私たちの田んぼ「むかしの五穀田」の場は、氏神様は五穀神社があり見守っていただいています。太古のむかしから、五穀の霊性が宿る場として大切に食べ物を生産してきた場です。

その場を今も子孫のために甦生していこうとする試みが今の私たちの取り組みです。

宇迦之御魂神と共に、自然のおハタラキを祈り謙虚に学び、そのいのちの循環を次世代まで祈り続けようとする実践。それが五穀豊穣のいのりです。

「実るほど頭が下がる稲穂かな」

むかしの五穀田の稲刈りは10月10日土曜日、巳の日です。

一年間の数々のおハタラキに感謝する一日にしていきたいと思います。

無一物中無尽蔵の銀杏拾い

現代は何でもお金の価値に換算して購入する時代です。特に産業革命以降、大量生産大量消費を実現してから人々から手仕事が消え、人と人、人と自然との関係性も減退していきました。誰がどこでどのように、何を守り育て、そして分け合い助け合いそのものが自分の手元に来たのかなどは考えず、もっぱら他の商品や海外の輸入品と比較して高いか安いかの判断価値基準しかありあません。

例えば、お米であっても機械で改良されたお米を大量生産をするようになりそれが農協に集められ他のお米と混ざられてブランド米として市場で販売される。田んぼがどうなっているかや誰がどのようにしてどのような思いで、そして場との関係性などは知る必要もなくなっています。

本来は、ご縁と関係がなければ譲ってもらえないものですから場に関わり、一緒に働き、手伝い、分け合い、譲り合い、思いや心などの日頃の結びつきがあってはじめて手元に入ってきた存在でした。これはお米に限らず、すべてのことがご縁で結ばれた「暮らし」の中で営まれてきたものです。

今週の日曜日は古民家和樂で銀杏拾いを行います。

今では便利にスーパーなどに行けば銀杏は安価で購入できます。誰かが拾ったのか、どこのどのような環境の銀杏かなどは、関係もなく購入して食べればどれも同じようなものでしょう。

しかし一年間、感謝して銀杏と暮らし、銀杏拾いのために丁寧に下準備をして銀杏が傷まないようにシートをかけ、拾ったものの果肉を井戸水で丁寧に洗い、一つ一つを秋の澄んだ太陽の光で天日干しをする。数十粒つくるのにも大変な手間暇と真心を使います。

この銀杏のご神木は、百年以上ずっと故郷の関の山から吹いてくる山風を受け、棚田の栄養豊富な地下水脈を得て古民家の懐かしい風景と一体になって地域を守っている銀杏の木。この暮らしと銀杏の木の御蔭で、この季節は私たちの活動を一緒にしてきた人たちと銀杏を食べて心安まる憩いの場になっています。

便利な時代、何でもサービスでもお金で解決します。しかしご縁も関係性もないお金中心のお金の残高ばかりを気にする生活は疲れます。暮らしや関係性の残高をよくよく観つめ、私たちが実践しているような暮らしフルネスを学べば何もない中に本来の仕合せや喜びがあることに氣づき直せるものです。

まさに銀杏の木そのものが「無一物中無尽蔵」の世界を教えてくれます。

心の奥底にある偉大な豊かさに触れるご縁を銀杏と拾いに来ませんか?