暮らしの一部

今月は色々な年中行事が暮らしフルネスでは行われます。年中行事というのは、自然のリズムや季節の巡りに和合して生きる先人の智慧でした。

現代は、人間都合のスケジュールに合わせて生きていますが本来の自然のリズムに合わせることで心も体も調っていきます。

これは季節が変わり生態系が変化成長していくように、月の満ち欠けで心身のお水が変わっていくように、私たちは自然から離れても自然の偉大な環境の影響を受けて細胞や心も調和していきます。

先人たちは未病といって病気にならないような暮らしをしました。それを養生ともいいます。養生を健やかにするのに「場」を調えていきました。それが「暮らし」です。

私たちが調えている場には、暮らしがあります。

10月3日には、古民家和樂にて銀杏拾いと稲の稲架用の竹取りをします。10月10日は稲刈りをして稲架までします。10月23日は十三夜祭、そして11月3日には結による井戸掘り祭をします。そして11月23日は新嘗祭です。どの日も、美味しい竈ごはんや炭火をつかった秋の味覚を楽しめます。音楽、そして懐かしい未来、どれも格別なハレの日です。

年中行事はイベントではなく、暮らしの一部です。

暮らしの中にすっと入ってみると、心が癒され安息します。

実りの秋のひと時を一緒に過ごせたら仕合せです。

宇賀弁財天の神徳

昨日は、英彦山弁財天の秋の大祭を無事に執り行うことができました。この弁財天は、頭に白蛇の蜷局を巻いているのが特徴的です。これを別名、宇賀弁財天ともいいます。

この宇賀弁財天の頭上には、宝冠の中に白蛇の姿をした宇賀神が表されています。経典には「冠の中に白蛇があり、その顔は老人のようで、眉は白い」と説かれます。この白蛇は、単なる飾りや使いではありません。中世の天台密教では、白蛇そのものが宇賀神の本体と考えられました。さらに、その蜷局を巻いた姿は如意宝珠とも重ねられ、生命、豊穣、福徳を生み出す力の象徴とされてきました。

つまり一般的な弁財天が智慧や働きを表すのに対し、宇賀弁財天はその奥にある生命力や福徳の源も和合しているといわれます。

この宇賀神は、古代から「宇賀神」という完成した姿で信仰されていた神ではなく、平安時代の末から鎌倉時代にかけて日本の神仏習合や密教の世界の中でいくつもの信仰や象徴が重なりながら日本の神様に変容していったといわれます。

もともと日本には、稲や食物の霊を表す「ウカ」という古代信仰がありました。『古事記』に登場するお稲荷様とも言われる宇迦之御魂神もその一つで、食物や穀物、特に稲の生成に関わる信仰です。そして日本には古くから蛇を特別な存在として崇める信仰があります。

蛇は地中に潜り冬眠し、春に再生します。脱皮することも重なり生命力の象徴でした。そこに仏教が伝来し、龍王や如意宝珠の思想が入ってきます。

龍王は雨や水を司り、如意宝珠は願いをかなえ、必要なものを生み出す宝の珠とされました。水があり、作物が育ち、食が生まれ、暮らしが成り立つその循環が人々にとっては福徳であり富となりました。

そこにインドの河川神サラスヴァティーが中国を経て日本へ伝来します。当初は、智慧や弁舌、音楽、護国などを司る仏教の女神でしたが平安末から鎌倉時代になると日本の霊場や修験の世界の中で土地の神や水神、福徳神と和合して宇賀弁財天となります。

日本的な蛇神、穀物神、地主神、宝珠信仰、福徳信仰が宇賀弁財天の特徴です。結局、神道の神とも、仏教の菩薩とも、蛇神とも、龍神とも、穀物神にもなったのです。

私の勝手な直観ですが、元々、お水が湧きだすお山には「宝珠」が存在する。その宝珠とは、いのちのお水のことではないか。そしてその宝珠は螺旋状に湧き出してくる。そして其処に蛇が棲む。蜷局は螺旋を意味してお水が天から降り地上を生きる生命の根源として再生する。その再生した存在こそが、人であり龍であったと。

お水が湧くからこそ私たちの暮らしは豊かになります。これは稲作をすればすぐに分かります。今年はお水不足で農家はみんな大変な苦労と心配がありました。降りすぎれば洪水になり、減りすぎれば田んぼが枯れる。お山がお水の循環を調整してくれているからこそ、暮らしは安定します。

当たり前すぎて氣づかない空気のような存在がお山に湧き出すお水です。地下水脈の中に、奇跡の福徳が存在する。

2026年11月3日は弁財天の巳の日です。この縁日に和樂古民家の敷地内で井戸掘り行事があります。地下水脈のお水を結のみんなで手掛けます。宇賀弁財天のもつ福徳のハタラキや力を学び人類がこれからどう生きていくかの真の智慧を学び直します。

地域の子どもたちはじめ、たくさんの仲間たち共にお水が地下から湧く瞬間を記憶に留めて子孫へと譲り渡していきたいと思います。

循環の暦

昨日は辰の日で龍とのご縁が深いお彼岸の日、また満月の英彦山はたくさんの雨が降りました。遠方から法螺貝のお受け取りの儀式のために来られた方々と一緒に祈り、法螺貝の甦生と吹き方の練習を行いました。

とても澄み切ったお水に包まれた場でみんなそれぞれに自分らしい法螺貝の音を鳴動させ、これから新たに法螺道に入っていきます。

見送りの法螺貝を立てながらこの先にどのようなお導きがあるのか、英彦山のお山や此処からはじまる新たなご縁を深くいのります。

今日の午前中は英彦山の弁財天の秋の大祭を行います。今日は巳の日、お水や芸能、弁天様の縁日です。

古代の人たちは、日時を単なる記号やスケジュールなどとは思っていませんでした。暦は、関係性のことです。今日はどのように関係が巡り、循環した一日であるか。12日と60日とをよく観察し、因果応報がどのように成熟して今になっているのかを振り返る大切な一日でした。

お山のお水をよく観察していると洞察できますが、このお水は雨によってもたらされます。その雨は川になり海になり雲になりまた戻ってきます。このお水が戻ってくるのにどれくらいの巡りを経て今此処に辿り着いているのか。循環を感じます。

お山の甦生をしながら循環のお手入れをしていると、この暦や日取りはとても大切に思えてきます。

私はいちいち、法螺貝を甦生するのに場所やお水や縁日、そしてタイミング(刻)にこだわります。それはこのご縁がどのような巡りの中に入っていくか、それが乱れないように美しくあるように、また調和するようにといのるからです。

現代は何でも自分都合、人間都合、権威権力都合や法律都合などでスケジュールで時間を動かしていきます。しかし本来の時というものは、巡るものでありそれを内省して調和していくための道具です。

今日という日をどう結ぶのかは生き方次第です。

豊穣の秋にいのり育つ場で実っているお米を奉納して残りの収穫までを弁財天の見守りに感謝します。

そして今度の収穫祭は10月10日、日干支は「丁巳」という火を帯びた日。かがり火を囲み、一期一会の収穫をみんなと一緒に味わっていきたいと思います。

 

自然循環

今年は怪我をしたり心が傷ついたりすることがたくさんありました。秋分の日を境に色々と振り返って見ると、時々に止まるようにブレーキをかけられその都度、大切な氣づきをいただきました。

人生というのは、一度きりの旅路です。戻ることはありません。戻ることができたとしても同じことはありません。まさに一度切り。だからこそ、悔いのないようにその時々に今の判断を積み重ねていくこと。

人生は何を手に入れたかや成功したかなどが問題ではなく、何を積み重ねてきたかという継続や実践が最も大切な問題になります。

実際に振り替えれば、偶然に手に入ったものでもその手に入る理由があり、成功も失敗もその瞬間を切り取った一部でしかありません。全部を丸ごと人生として観察すれば、どのような経験をしてどのような心を磨き、一つの生を終えるときに納得できるようなものであったか。つまりどのような氣づきをいただいたかというのが遺ります。

氣づきは、努力や苦労や精進によって神様のはからいのように与えられるものです。

なぜ今、こうなっているのかは数々のご縁と関係性が結ばれた過程です。そして自分のご縁は、次の人や後からやってくる人たちの道に組み込まれていきます。

自然と同様に、人生も循環を已みません。

だからこそ自然循環の一つになるように、今を研ぎ澄まし今を生き切ることが循環を邪魔しないことになっていくように思います。

子どもたちが健やかに仕合せに育つ場ができるよう、今日も今を遣り切っていきたいと思います。ありがとうございます。

月の心

昨日は徳積堂で十五夜祭を暮らしの中で執り行うことができました。ここ数年の中でも特に印象深い素敵な心月の余韻を過ごすことができました。

秋分からお彼岸の時季ということもあり、彼岸花や稲やススキ、銀杏の実やお芋などをお供えしました。おはぎのお布施もあり、また芋名月ということから芋のお菓子の奉納もたくさんいただきました。

全員が集まってからは尊敬する禅僧と共に先祖供養をし、参加者全員のご先祖代々への感謝を一人ひとりいのりました。そしてみんなで協力して里芋などを使った芋煮けんちん汁をつくり、お月見団子や和え物、お漬物を準備しました。子どもたちもたくさんいて、一家親族の集まりように和気あいあいと楽しみます。

そして食事の前に感謝やよりよく生きるための五観の偈文を唱えいただきます。いのちをいただきながら、お月さまとの思い出話や関係の深いそれぞれのご縁をみんなで語り合います。食後はお月見をして徳積堂へ移動し、調った場で一期一会の十五夜の音楽をみんなで味わいます。

ちょうど昨日は花火大会ということもあり、遠くで花火の灯りが差し込み、音が響き合い、コオロギや鈴虫などの鳴き声とも調和して永遠のような優しい刻を過ごすことができました。演奏の最後は、みんなで唄い予祝をして静寂な時間に入りその余韻で語り合います。世の中の競争や喧騒を忘れて、1000年以上続いてきたこの中秋の名月の年中行事に心を合わせます。

何もなくても全てがある透明で澄んだ境地。

この世にこのような贅沢と幸福があるのかと思えるほどの心の静けさ。これがお月さまのいる場の空氣ではないかと実感しました。

そもそも文章では語れないものですが、目指している心は文章では綴れます。文章ではなく、その深淵にある人類が目指してきた真の調和や平和。

かつてお月さまを眺めて数々の詩や言霊が産まれてきました。

月は雲に隠れようが、欠けようが、ネオンの光で無視されようが、ずっと傍にいて離れることはありません。見守り続けていつも心の中に存在しています。心は光を当てるとき、澄んだ耀きを放ちます。

どう生きるか、どう歩むか、一つのコンクリートの文明が終焉していき、再びお山の中のような調和な文明が甦生していきます。お月様を感じるとき、いつも私の心は英彦山守静坊の枝垂れ桜を包む月光に照らされます。

お月さまへのこれまでの見守りへの感謝を澄んだ心で味わう十五夜祭、そして来月の10月23日は十三夜祭です。少し欠けたお月さまに深い慈愛と労いを感じます。また息子たちが奏でる倍音調和の月の音色をまた皆さんと一緒に味わいたいと思います。

ありがとうございました。

 

渾然一体智

私たちは何でも分別知といって、分けて考える癖があります。分析することで、様々なことを科学的に解明できる便利さが出ましたがその反面、感覚的に全体を直観したり察知する感性のようなものを使わなくなってきました。

内在する力を使わずに、外にある代替えの力に頼ると自分の内在する力がさぼりはじめていきます。これは身体の免疫も同じことです。その場しのぎで楽をすることや、便利なことで手に入れ苦労をしなくなると本来具わっている力を使わなくなるのです。

自然治癒力というものがあります。

これは自己免疫によって身体を調えていく仕組みのことです。これは人間に限らず、自然界のあらゆるものに存在しています。それを阻害しないようにすることや邪魔しないことで活性化していきます。

では何が邪魔をするのか、それが先ほどの便利さや分断すること、つまり分けることで色々な問題が発生します。

そもそも分かれているものなどこの世界には存在せず、繋がっていないものなどは宇宙にありません。水も空気も大地も太陽もすべては関係しあって渾然一体です。それをむかしの人たちは「いのち」と呼びました。

この世のものを「いのち」として接しているか、果たして単なる物として観ているか。

脳は便利な機能ですが、それだけを駆使したら楽かもしれませんが実際には実践したり、苦労しないと本当のことは顕現しません。

子どもたちの未来を思うと、AIや分析がさらに進みますからそれ以上に感性や感覚、苦労や努力の醍醐味、自己免疫や自然治癒などの意識を學ぶ場を譲り遺していきたいと思います。

一期一会の歩み

私は一期一会が座右ですが、そのためご縁を辿るのが暮らしの中に入っています。あのご縁は何か、このご縁は何か、関係性や組み合わせをいつも観察してワクワクと楽しんでいます。

人生というものは、振り返って見たときにあのご縁はこれだったのかと実感するような出来事と物語で紡いでいるものです。あの時、あの出会い、あの事件がなければ、この今は存在しません。

一つの出会いがあって道が分かれていきます。まだ見ぬご縁もまた道が待っているのです。一つの音楽でまったくそれまでの過去が変わってしまうこともあれば、一つの場に行くことでそれまでの意識がまったく変わってしまうことがあります。

つまりご縁次第で人生は過去も未来も今もすべて変化するのです。

ああ、あの出会いがあったからかと振り返ると感謝の気持ちが湧いてきます。それは素直にご縁というものを丸ごと実感していることでその有難さを味わえるのです。

ご縁を大切にして生きることは、今というものを丸ごと味わう生き方です。

受け入れがたい出来事や事件もたくさんあります。しかし時を経て、そのご縁が結実したときそのご縁からお互いに学び自分が変わっていったこともあります。お互いに切磋琢磨するご縁であったこと、その御蔭様でと言えるような今にしていくこと。

ご縁を大切にするかどうかは、目先の損得や自我欲の優先ではなくまさにご縁そのものへ丸ごと感謝しようとする姿勢が問われます。

来たものを選ばない生き方というのは、ご縁を丸ごと信じるという全て今にお任せするという実践を生きるということです。

引き続き、自分を生き切り一期一会の歩みを味わっていきたいと思います。

じねんの生きざま

英彦山六峰というものがあります。豊前の地域の修験道の暮らしをしていたお山たちです。昨日は蔵持山にお彼岸の供養とご祈祷をしてきました。かつての霊山は今ではほとんど宿坊もなくむかしの石積みや石垣、墳墓の跡だけが残っているだけです。

もともと中世から近世の豊前には、英彦山を中心として福智山、普智山、蔵持山、求菩提山、松尾山、檜原山という有力な山岳寺社が展開していました。「豊前六峰」「彦山六峰」とも呼ばれています。中心寺院はそれぞれ金光明寺、等覚寺、宝船寺、護国寺、医王寺、正平寺で、それぞれのお山で多数の坊や行場を持ち修験道の実践や暮らしを営んでいました。

蔵持山(くらもちさん・くらもてさん)は現在のみやこ町犀川上高屋にあり、標高は約470メートルです。ここは千年以上の歴史を持つ豊前屈指の霊山です。『彦山流記』にも彦山四十九窟の第二窟として「蔵持窟」が出てきます。別名、空躰窟・空鉢窟とも呼ばれ、静暹聖人(じょうせんしょうにん)が開いたと伝えられています。彦山領域の北限として「蔵持山法躰岳」とも記されます。

この「蔵持」という名前は、静暹上人が山中で修行していたとき、空の鉢を飛ばして門司関から米を得て、その米を収める蔵を建てたことから「蔵持山」と呼ばれたという伝承です。この「空鉢」は聖観音の化身とされました。蔵持山神社の隣にも上宮や山頂にも観音様が安置されています。

この鉢を空へ飛ばして食料などを得る「飛鉢譚」は、静暹聖人だけでなく白山を開いたとされる泰澄、播磨一乗寺の法道仙人など、日本各地の山岳聖にも同じような伝承があります。研究では、こうした話は古代から中世へ移る時期に、山岳寺院の縁起として各地で形成されたものではないかとも言われています。

千年前の修験者がお山に入り、岩窟で暮らし始める。そこに多くの修験者が集まり一大聖地になっていくというもの。これが全国各地のお山の伝承に遺っているというもの。

特にこの蔵持山は四土結界といってお山を大切に扱い信仰してきた場があります。お山全体が一つの修行と暮らしの場になったのです。その暮らしそのものが聖域ということでしょう。人間がどこまでお山に入り、お手入れすることがもっともこの世を極楽浄土にするのかを実践したのが修験道開祖たちの生き方です。

それぞれのお山には、魂が遺ります。

その魂に触れ、どう甦生させていくかは今を生きる私たちのお山への新たな関わり方が鍵を握ります。お山と結び、かつての人々が志した美しく澄んだ「じねん」の生きざまを実践していきたいと思います。

場の甦生医

場というものには全てが宿ります。場の力がどのようなものか、それはそれぞれに異なります。私は、本来の場の使命やご縁を辿りそれを洞察し甦生するのが得意です。

一見、何もない場に観えてもその場がどのような場であったかは余韻に遺ります。いくら鬱蒼とした森であってもそこに在る存在をよく観察するとその場がどのようにしているか、どうしたいのかという意志が働いているのが分かります。

そもそも場というものは、あらゆるご縁の集合体でもあります。そして無限に結ばれた関係性の集積とも言えます。それを紐解き、解き、また結び直す。これを場に投影して手入れをするのが私の本業であり場の甦生医としての役割です。

例えば、極端かもしれませんがこの広大な宇宙の中で銀河系がありその中に太陽系があり地球があります。すでにここから最初の場ははじまっています。なぜお水があるのか、お月さまが寄り添うのか、そして人類が居るのか、今があるのかと辿っていけば今の場が読み解けます。さらに、今の自分がいただいているご縁からつながりや関係性を直観すると場のお手入れの要点が決まるという具合です。

実際に、それぞれの時代や社会ではそこに流れている時間軸が異なり動いています。

現代はコスパ、タイパの時代ですからスピードばかりをあげて効率を優先しています。なので、対処療法の時代です。目先の問題にはお金も時間も人も費やしますが長い時間をかけて取り組んでいくことや、じっくりと非効率でも小さく循環を促していくような積み重ねには予算も人も費やしません。

時代が変わればこの逆の時代もあります。人の価値観や生き方、つまりは時間がどのように使われているのかでその時代の本質は読み取れるのです。

とはいえ、目先のことばかりに対処療法に追われるとその副作用が連続して結局は破滅してしまいます。身体であれば、病気ばかりを見ては人を観ず、全体を無視すれば次第に打つ手が失われて崩壊していくのに似ています。環境問題などはまさにこれに似ていて、打つ手が次第に失われてきています。

だからこそ長期的に観て、さらに緊急性が高く、もっとも今、改善していくものを小さく手入れすることに尽力していかなければこの先の真の課題が先送りになります。

私が徳積循環をはじめ、暮らしフルネスなどの実践をするのもこの先送りできない問題を解決するためのお手入れの要諦に集中しているからです。

ただし、現代社会の効率優先の時間軸の中でその逆のことを行うというのは時代に逆行する分、負担も衝撃も障害もあります。しかしどの時代も風穴を開けたり、水を流れるようにするのは時間もかかるし投資も必要です。

引き続き、場の甦生医の取り組みを実践しながら未来と今を結んでいきたいと思います。

法螺貝とめぐり逢い

連休中は法螺貝と向き合い、法螺貝をつくっています。その人の波動や相性、ご縁をよく観て法螺貝が結ばれます。不思議ですが、その人に最初から出会うように私のところに貝はやってきます。

現代では、商品として何でも価値をつけて売買されていきます。価値さえ誰かがつければそれが価格というものになります。この世の中では何でも価格にしてお金に換金していきます。お金の価値は本来は紙屑です、あるいは仮想通貨などは単なるドットの一つです。

しかしそれが長い時間を経て醸成されてきた自然物に対して簡単に費用が決まります。その費用の決め方も希少性や人気があるかどうか、あるいはその時代の流行や欲望の影響を受けていきます。テレビやインターネットでの宣伝や評判などもあります。人間の都合で値決めされ価格がでます。本物が手に入らないとわかれば、偽物でも本物ようにして価格を決めて換金していきます。そのうち、偽物ばかりが増えて本物風が市場ではやり取りされ本物は誰も見たことがないという始末です。

本物はお金で買えないから本物風で妥協するというのは、最初からそれは手に入れるものではなかったのではないかとも思います。自然物というのは、あらゆる関係性やご縁が結ばれて一期一会に姿を顕現していきます。人の計画通りにできていないからこそ、自然であり唯一無二の価値があります。

価値というのは、人間が価値を決めるものでは本来はないのではないかということです。そのものにはそのものの価値がある、それが本物です。そしてその価値は、あらゆるご縁が無限に結ばれてできているものです。

なのでご縁をいただいた、結ばれて今、あなたのところに現れたと感謝しかない気持ちに出会います。それが真の価値を与えてくれるものです。

色々な人の手や、色々な偶然の組み合わせがあってあなたの元にやってきた存在。

その存在をどのように大切に受け取るか、あるいは存在に感謝できるか。

一つの法螺貝が一生のめぐり逢いを豊かにします。

私はいつもご縁を結ぶとき、そしてお渡しするときに儀式をします。その儀式は、ご縁を結ぶ感謝の儀式です。金銭では交換できない、関係の儀式です。

今のように何でも便利に交換できる便利な世の中だからこそ、法螺貝はそうではない螺旋の道を示してくれます。また週末は、新たな法螺貝の人たちのめぐり逢いがあります。

丁寧に暮らしを調えていきたいと思います。