和の大切さ

言葉は語られる人によってその人に多大な影響を与えるものであると思う。自分では気づいていることでもそれを他人から言われなければ気づかないこともある。

気づくということは、体験を交わし合うことであり、互いにその体験を共感し受容するということである。人が自立するためにも社会の中でこのような相互受容の環境を用意されていることは人間にとって大切なことであると思う。

しかし人は身勝手なもので、ある人からの言葉は聴き入れることができ、またはある人からの言葉は聴き入れることができない人があるものだ。

性質が素直な人であれば、我以外皆わが師ではないけれど誰の言うことでも正直に受け取ることができるし、逆に性質が偏屈や意固地、頑固で捻くれた人であれば誰がどんなに何を言っても一向に受け取らないものである。

この世の自然界の慈愛は平等であるからして、常に正直で素直であるものには安心とともに優しく感じられ、そうではないものには不安とともに厳しく感じるもの。

生き方というものは選べるのに、それに気づかない人は多いものである。

人生の中で師という絶対的に何を言われても聴き入れる人を持つことはとても大切なことでそういう信頼でき、尊敬できる人を一人は持つということは人生で迷いをなくし自分らしく生きていくためには大切なことであろうとも私は思う。

以前、メンターというものを得たいと相談をされたことがあるけれど、そうであれば素直になることだと何度も諭したことがある。しかしその人は結局最後まで素直に心を開かずメンターが身近にいることもわからないようであった。

そういう人は善い習慣を身に着ける事であり、素直の習慣付けは「我以外皆わが師」に勝るものはないと私は思う。

人の言うことをそのままに受け容れることができる人は、自分のことや相手のことをありのままそのままに受け容れることができる人でもある。

この受け容れるの正しい定義は全部丸ごと受け容れることを受け容れるということなのに、自分の都合の悪いところは受け容れず、自分の都合の良いように一部だけ切り取って受け容れましたというのでは本当の意味で全部丸ごと受け容れたということではない。

正しく受け容れるというのは、素直にありのままにすべて聴き入れますということである。

人はつい保身から自分を守ろうとして最初からどうしても相手のいうことを素直に丸ごと聴こうとはせず、最後は何とか自分なりの解釈に落とし込もうと躍起になる人もいる。

親身になって相手を思いやる人がいくら周囲にたくさんいたとしても本人がそういう素直な心がけがなければ人との和を大切にすることはできなくなる。

和の大切さとは、人が人を信じる事である、そして正しく明るく柔かく心を清らかでいることで存在を丸ごと受け容れてくれる人と受け容れられた人で深いご縁を結び同行しつつ共生協力してそれぞれの道を豊かに歩んでいけるものであると私は思う。

ここでの和の実践とは相手のことを丸ごと信じる事が自分でできてはじめて、自分のことを丸ごと信じてもらう実践のことである。その人の存在を丸ごと受け容れたところで語り合い助け合うことこそが和なのである。

それをまず自分からできてはじめて素直に和を大切に生きる事なのである。

今の時代は、ずるがしこい都市化された経済社会の中でどうしても傷を持ち自らで癒せず刷り込みに苦しんでいる人たちがたくさんいる。こんな悪循環を正そうと、世の中の人たちを救うべく一人一人の苦しみを取り除こうと精進されている人がいる。

これも仏縁というものかもしれない。

今回の素晴らしい出逢いの中でも、自らの道の定めた真言の意味を悟る。
仏法に帰依するということは、現実の言霊に生きることである。

縁尋機妙 多逢聖因、人生はやっぱり不思議なことばかり。

子どもたちのためにも一期一会の念と感謝とともにさらなる精進の機会にしていきたい。