昨日は、故郷の氏神様、綱分八幡宮の参道のお手入れを子どもたちや同志、仲間たちと一緒に行いました。ご鎮座1300年の見守りに感謝して自分たちも何かできないかと有志でご奉仕させていただきました。
御蔭様でみんなで力を合わせて200本以上の竹を切り片づけました。この竹は、これから竹垣にしたり竹炭にして地域をより好循環するために大切に活かします。
はじめのご挨拶には51代目になる宮司さまからこの土地が嘉麻と呼ばれていたころの総鎮守としての歴史の話をしていただきました。かつてこの地域がどのような場所だったか、どのような変遷を辿ってきたのかを改めてみんなで思い出す機会になりました。
その後は私からは「見守り合い」のお話をみんなにしました。見守りは、片方だけで行われるものではない。見守りは「お互い」に見守り合った時にこそ感じられるということ。
いつも私たちはたくさんの存在に深く見守られています。この神社であれば、産まれてくる前からご先祖さまや両親、そして自分の誕生から子孫へとこの土地に守られています。例えば、生きているだけでこの場所の空氣やお水に包まれ。様々な生き物や食べ物や風景を与えてくれています。この心体のほとんどはこの場所でできたのです。そして七五三や初詣など健康や幸福を祈祷してきました。これはどれだけの歳月、ずっと同じように取り組んできたのでしょうか。いつも一緒に結ばれている心の故郷があることを神社には感じます。1300年という時をこの場で一緒に刻み、今の自分が存在しているのです。
想像力を働かせてみると、様々な自然災害や飢饉、いくさや疫病などに何度も滅びそうな苦しいときもあったでしょう。または豊かで幸福、平和なクニができたときの喜びのときもあったでしょう。歴史は決して過去の終わったものではなく、今も私たちと一緒に生きているからこそ今も見守り合いが続いているのです。
だからこそ私たちはいくら環境が変わってしまい忙しく自分のことだけで精一杯になりそうになったとしてもその見守られている存在のことを思いやり感謝して、これからもずっと見守り合い続ける関係を続けていく必要があるように思います。これは別に啓蒙活動などではなく、それが「生きて活かされる」という「生活の根源」だからです。
そして古来より、私たち日本人は「まつりごと」をしてきました。これは現代のマスコミがよく報じる人間社会の政治ではなく、神事(かみごと)としてみんなで見守り合いを実践してきたのです。本来、「まつり」とは、神様を中心に据えてみんなで見守り合い助け合うことです。まつりごとには安心感と清々しさがあります。神社のある場はそれを思い出させてくださる存在です。大切な初心を忘れないようにしていきたいと思います。
最後に、綺麗に美しく風通しもよくなり光が差し込んでくる参道をみんなで歩き祈ると懐かしい未来が観えました。伝承というものは、「場」を見守る中にこそ存在します。荒んで廃れた場は、私たちの心を見失わせます。場を調えることこそ真の教育の本義であり、それぞれの場で日々に新たに自己の心のお手入れをすることです。それが道場です。
清らかでいること、澄ましていくこと、洗うことや片づけることは素直の心のままでいることを実践することです。それが心地よいという心の状態を保ってくれます。
心の故郷がいつまでも子どもたちにとって心地よい場所のままであるように、みんなで脚下の実践を丁寧な暮らしで刻んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
これから十五夜祭ですが、月の見守りに感謝していきたいと思います。
