田んぼの伝承

大神いにしえの田んぼで、仲間たちとみんなでむかしのような草取りをしました。炎天下で背中はじりじり焼け、また太陽光の水の照り返しでだいぶ日焼けしました。草取り後の天然水の流しそうめんとスイカはそれまでの苦労を忘れるほどに美味しく、真夏のメリハリを感じて心身が喜びました。夏は夏の徳があります。

田んぼの稲は御蔭さまでしっかりと育っていましたが、それ以外の草たちもよく育っていました。一般的に雑草と呼ぶそれらの草草は、人間にとって益草と害草に分けられます。

この草取りというのは、稲の生育にとって害となる草だけをとることを言います。特に有名なものが稗(ひえ)があります。稲に擬態していてそっくりで遠目ではほとんど見分けがつきません。近づいてみてもギリギリ判断できるかどうかです。これは稲の近くで生えて、稲の養分を奪うので害草とされています。しかしむかしはこの稗も雑穀として一緒に食べていました。天候不良の不作の時の救荒作物として重宝されてきた歴史があります。

人間は、その時の都合で益や害を使い分けていくものです。それは現代の経済全体でも似たようなことが起こります。ある時は益でもある時は害になる。害を徹底的に排除したとき、その益が害に換わるということもあるのです。

最近、薬草の研究をしていますが薬などはその益と害のバランスで成り立っています。摂取しすぎると害になり、適量だと薬になります。菌の発酵と腐敗のように適度なバランスを保つことで益害よりも中庸、調和が最適ということです。

ではなぜそうではなくなるのか。

そこに人間の都合が入ってきます、一気に簡単にスピーディに効果を出したいと思ったり、発酵も腐敗も完全に止めてしまって消費期限を延ばそうとしたり、稲の収量だけを増やしてたくさん稼ぎたいと思ったりと本来のバランスが崩れる発想を持つようになるのです。大体そこにはお金が絡んでいますが、自分にとってのみの益と害を分けてはそこで完結させようとします。

本来は、自然というのは無限の生き物が生息していますから自分だけで生きている存在ではなくみんなで分け合って助け合って共生しあって生きているものです。自分の益は何かの害にもなる。お互い様、お陰様とちょうどいいところを模索するところに自然との共生の智慧があるように思うのです。

結局は、誰かの益だけに集中すればそれ自体が全体の害にもなります。自然が調和しなくなれば、その害は間違いなく益ばかりを求める方へと集まりそれ自体がそのうち災害なります。

自然災害もまた調和のために発生するものであり、その災害が小さくなるよう、緩やかになるようにと本来はみんなで自然のバランスを保ってこの地球で暮らしてきたように私は思います。

世の中は米騒動で備蓄米を放出したり米価が上がったり下がったりと、目先のことばかりに躍起になっていますが本来の田んぼから私たちが學ぶことを忘れないようにしないといけません。

お米づくりをするのは単なる食料を確保するだけではない、自然の智慧を學び、その智慧を後世へと伝承していく役割があるのです。私が田んぼをむかしのように今も取り組む理由は大災害を未然に防ぐためでもあり、徳や智慧の伝承のためです。

引き続き、仲間たちと共に発信をして子孫たちへと自然と先人たちへの感謝と御蔭様を結んでいきたいと思います。