生死の行方

人は生き方が選べるように死に方も選べるように思います。

例え人生が今までどのような習慣を持ち生きてきたといっても、最期の瞬間に自分の求めた真の生き方に気づけたなら死に方もまたその瞬間に変わるように思います。自分がどのように死ぬのか、それを正面から向き合えば今、自分がどのように生きるのかが問われます。

これは今の自分の生き方そのものが死に方そのものになるからです。

生き方とは、簡単に言えば今この瞬間にもどのような選択をしたかの集積です。人は日々に大小さまざまな選択をして生きています。

人によっては、思いやりや優しさ、善や真心で幸せの種を蒔いていくような生き方を選ぶ人もいますし、また逆に利己的で自分のことばかりを優先し、奪うことや独占することばかりで不幸の種を蒔いていく生き方を選ぶ人もいます。

人はそれも自分で自由に選択することができ、どんな境遇であっても誰かの御役に立ちたいと願ったり、幸せを噛み締めてその幸せを周りへと広げたいという人になりたいと思うのです。

しかし世の中を直視してみれば如何に思い込むことで生きてしまっている人があまりにも多いのではないかと思うのです。人生が寂しいものになり、孤独になるのもその思い込みから抜け出せずに自分の自我に引き籠ってしまうからのように思うのです。これは自分で思う以前の問題で、そうならざるを得ないような生き方を選択した過去が存在しているのです。

人の思い込みというものは、過去に何かの出来事がありそのことの不幸を転じることができずに引き籠ったことで発生したままその記憶から抜け出せなくなることに似ています。そうして抜け出せないだけではなく、いつまでも同じことの繰り返しをしそれが次第に生き方に反映されてしまうのです。

過去の出来事がいつまでも尾を引くことで、その思い込みから抜け出すことができないのです。

思い込みはいつまでも自分の外側の世界に心を開かず本来の人間の美しい姿や愛情、自然の真心などが歪んで観えません。

本来、この世界はとても豊かで美しく、感謝と愛と真心、偉大な思いやりの中で私たちを活かしてくれていてそこに気づくことで心を幸せにし、その心の余裕こそが人々の中の平和を生み出していくように思うのです。

それを奪うのは全てにおいて過去の思い込みといった刷り込みによるものです。

これを取り除くには、覚悟が必要でその覚悟とは今の心が決めたということがいります。つまりは過去の自分と決別し、新たに今に約束した新たな自分の生き方を徹底して習慣にまで昇華させて未来を変えるのです。

人は小さなことでも、心で決めたことを遣り抜けばそのうち世界が自分が引き籠ったものから解放されていくのです。それもまたご縁と道との出会いが必用でまるで「啐啄同時」のように生死の境目にある絶妙なタイミングがあるのです。

この「啐啄同時」は禅語ですが、卵の中のヒナ鳥が殻を破ってまさに生まれ出ようとする時、卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」といい、ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」といいます。雛鳥が内側からつつく「啐」と親鳥が外側からつつく「啄」とによって殻が破れて中から雛鳥が出てくるのです。

両方が一致して雛が生まれる「機を得て両者相応じる得難い好機」のことを「啐啄同時」というのです。親鳥の啄が一瞬でもあやまると、中のヒナ鳥の命があぶない、早くてもいけない、遅くてもいけない、いのちを分ける大事で危険な一瞬だからこそ啐啄は同時でなくてはならないのです。

この人が変わるという瞬間、その生死の行方の境目というものは、運命の大きな掌の中にあるように思います。

コンサルティングをしていると、いつもこの機縁は透徹された絆を結び、仁義の通じ合った絶妙たる絶体絶命の時にこそ訪れることが多いからです。人の生き方や死に方というものを左右する、刷り込みの消去はひょっとすると生死の間にこそあるのかもしれません。

変わりたいという心の叫びが助けを求めているのかもしれません。

刷り込みを取ろうなどと、また世界を変えたいと真摯に願うのはひょっとすると狂人のような世界かもしれません。先日の死から再び学んだものは、生き方を変えたいと願う人たちの救いを求める心の叫びと許しの中にある愛の囁きでした。

生きていれば色々と向き合いたくない過去の自分も、今も変われない自分とも出会うものです。しかし未来を変えたいと願うなら、勇気を出して挑戦し、最期まで希望を失わないで遣り切ることができれば後は全てを天に委ねる。

それが生死の行方を決めるのです。

これからどうするか、、もう一段、自分は変化成長しなければなりません。
今は何を学ぶべきか、その道筋が少しだけ観えてきた気がするのです。

生死の行方は、私にも訪れています。