天分を出し切る

一日一日を出し切るという実践をするとはどういうことかと考えてみる。

よく一日一生という言葉で使われるように、日々は二度とないのだから大切に使い切るということで語られることが多いように思います。もしも明日死ぬとしたらと考えて遣り切るのも、人生は二度ないということを認識するためのようにも思います。

しかしこれをよく考えて観たら、それを自分ひとりの野心や野望のために遣ろうとする人と、自分に与えられた天分を活かすために遣り切る人とはまた異なっているようにも思います。それは心の寛さ狭さにもあるようにも思います。

自分自身はどんな天与の才能を与えられているか、それをもっと世の中のために生かそうとする人は、毎日を絞り出し、遣り切り、出し切って、成し遂げようとします。逆に、そういうものは自分のものだと自分本位に与えられていることも忘れてしまっている人は使おうとはせずに自分が楽をする方へと自堕落していくものです。

世界で独りしかいない自分を何に役立てていこうとするかは、与えられた自分の天分や本分に感謝してそれをより皆様のためにお役に立てたいと思う時に発揮されるように思います。自分のものと思うところが心の狭さになり、それはみんなのものだと思うことで心は寛く豊かになります。

そしてリーダーは、自分の天分も活かし、同時に他人の天分も活かすことができるかによるように思います。

庭を眺めればそれぞれの花々や植物が太陽の光と透明な風、そして潤いの雨や互いの存在の中で百花繚乱それぞれに自分の色を放っています。その放っている姿に、天からいただいているものをお返ししようと自分を精一杯出し切っている心があるように感じるのです。

自分の心を出し切るというのは、与えられたこの自分の全てを全部与えらた量をお返ししようといった心の働きのことをいうのかもしれません。幸せというものは、そうやっていただいたものを循環し合う中ではじめて深く寛く実感できるものかもしれません。

日々、ちゃんと使い切ったかどうか、いただいたいのちをお返しできているかどうか、内省し、あの花たちを見習ってどんなお役に立てるのかを楽しみながら自分の花をしっかりと開花させていきたいと思います。

自分の天分を出し切る一日を省みて、自律の日々、御恩返しを味わっていきたいと思います。