自他一体の境地~共感~

御互いを深く共感し理解し合うのに実践を共にするということがあります。そしてこの共感というものは、実践を通じて同じ感覚を互いに持ち合っているという意味でもあろうと思います。

何かの出来事があるたびに、痛い思いをしたり感動したりし、心と感情が揺さぶられたあと人は反省し素直になって心を決めます。その決めた心を忘れないようにと気づき・言葉・行動・心を合せて新たな実践を増やしていくものです。

そうしていると、周囲には同じような課題に取り組んでいる仲間たちやそれを共にする機会に恵まれるように思います。実践する輪が広がっていくのも、互いに共感し合うものがあるからであろうと思います。

人物の理解というものは、表面上の言葉や姿だけでは本当のその人の苦しみや悩み、歓びや幸せは理解はできず、人生の同体験をし共に実践を行う時にはじめてその人の生き方や考え方、理念などを確認し新たに理解できるように思います。

そうやって人は生き死にの中で共に同体験を通じて語り合ったり、同感するものを分かち合ったりしていく中で言葉にならない感覚を共にしていくのです。これが共感です。

そして人が本当に自分のことを分かってくれていると実感できるのもこの共感するものがあるなと思うときであり、それは自分のために相手が同じ実践をしてくださっていると実感するときが多いようにも思うのです。

いくら何度も言葉で説明しても、共に実践してみないと本当に伝えたいことは伝わりません。だからこそ自分がどうしても相手を思いやり伝えたいことは共に実践してもらうしかないのです。それは自分のためにやってもらうのではなく、共に実践していこうという自他一体の思いやりの中ではじめて共感できるものではないかと思います。

人間は同じ苦しみを共にします。

だからこそ自分の体験が必ず誰かの御役に立てると信じる事から実践を取り組もうという志が芽生えていくのではないかとも思うのです。その同じ苦しみを持つ誰かを自分だと思えるか、自分のことのように感じることができるか、これも共感の芽生えであろうと思うのです。

人生には無駄がないというのは、自分の生きたことが必ず意味が存在すると実感するからであろうと思います。人間は、誰しもこの世にいるだけで必ず何かの御役に立っている、それが自然です。だからこそ、共に実践をして反省をし、さらに改善を続けていくことで共感を高めていくのが人間の育成であり成長し続けているということになるのでしょう。

つながりが観える自他一体の境地で居続けるためにも、御役に立てるところで働き、自らの共感を高めて日々の実践を改善し正していきたいと思います。