情報リテラシー4

私たちは「保育環境の情報創造リテラシー企業」と自社のことを謳っている。
なんだか長いタイトルなのだが、どの単語も全部必要なので全部入れている。

どのようなことをやるのかというと、保育という普遍的な「人が生きる」という最初の場において、その環境の工夫にフォーカスし、情報の持つ今の時代のありようを問いながら子どもたちのための未来を創造していくために集まった事業ということだ。

そして最後の「リテラシー」というのは、膨大な情報の中から本質や軸を生み出し調和させていこうという思いが込められている。

今回のタイトルも、「情報リテラシー」。

インターネットが急速に普及し、情報格差のなくなった今の時代だからこそ、草の根である我々がちゃんと情報というものを理解しないといけないという「人間が生きていくために必要な力」の優先順位の高いもののひとつになった。

歴史を振り返ると昔は、情報は一部の権力者の特権だった時代があった。
今は、インターネットを使って自らの価値観を世の中へ自由に発信できる。
しかもそれを自由に受け取ったり、お互いが高めあったりとコミュニケーションはより垣根を越えて文化が創発されるようになった。

これはIT革命といって、文字通り革命的な出来事だと思う。
革命とは、常に権力者が引きずりおろされて血が流れるイメージがある。
別に安易にパソコンを覚えるのが苦手だからIT革命という意味ではない。

今のIT革命で、いったい誰がどのように権力から引きおろされるのか?情報を使って大衆を操作をしてきた何かがそこにあるとすればまずはそこからだろう。人間の良心を信じ、良い方向へ良い方向へと向かってくれることを祈ってやまない。

ではそんな時代、子どもたちの未来に関わる使命を帯びた我々は情報のリテラシーを学ぶに於いてまずはどこから取り組む必要があるのだろうか?

私はまず、既存の情報を疑い物事の本質から考えることをはじめることだと思う。

違う言い方をすれば刷り込みを取るとでもいうのだろうか?
分かった気にならないリテラシーとでも言うのだろうか?

私たちカグヤ社内には、「分かった気になるな貯金箱」というものがある。何かを分かったと思ったら、あっまだまだだと100円を入れるようにしている。

これは、「大切な気づきの100円」として貯まった人が自分を振り返ったり、また本当の価格を自らで決めたりとカグヤ社内ではとても重宝している。
そしてある程度貯まったら、カグヤのみんなで納得したボランティア団体やNPOへ寄付をするようにしている。

カグヤの活動でも私が特に本質だと思っている活動のひとつになっている。

私の経験でもあるのだが、「分かった」と思うとそこまでで限界が生まれそれ以上先へ深く物事を考察しなくなっていく。また脳がそれをインプットしたいがために都合の良い解釈をはじめ、どんどん真実を捻じ曲げていく。

そうなってしまったら、もう何もかもがマンネリ化して無関心になり何かキッカケがあっても現象だけに囚われ何もかもが無茶苦茶に捻じ曲げられていく。
それを元にもどそうとすれば、新しいものを生み出すしかない。
しかし、それでも決して元通りにはならないし多くの犠牲を生んでしまう。

常に先々を見通し、今の時代を洞察し本質を変えないように環境を工夫してリテラシーを創造する。忘れてはいけないことは、ちゃんと次世代へ引き継いでいくのも情報リテラシーの大事なスキルのひとつだ。

情報には、忘れてもいいものと忘れてはいけないものがあると私は思う。

たとえば、歴史書を見たって人類が長い年月で刻む意味があった出来事が何がしかの理由で年号になっている。別に学校のテストのように記憶をするために、また進学をするために作られたわけではない。

それを分かった気になって次へ進むからいけないのだろう。

どうせ正しく物事を洞察できないのならば、なぜ先生や教科書は言い切るのだろうかといつも思ってしまう。言い切らないといけない社会とはなんだかとてももの悲しい気がする。

話を戻すと、ここでの分かるとは単に記憶が分かったということではないのだ。
分かるということの本質は、分からないということなのだ。

つまりは、物事には人間ではどうしても理解できないし考え付かない何かしらの叡智というか偉大なるものが必ず身近に存在しててそれを見つめていこうというのが「道」であるのだと思う。知識の本質とはきっとそのようなものだろうと思う。分かってしまうことが知識のゴールだとしたらまるで無機質なロボットのようにつまらないことだなと思ってしまう。

仏陀や孔子のことは、まだ私自身まったく分かっていないがきっとそういうことを説いているのではないかと思う。

あまり身近にないけれど、この「情報リテラシー」を粗末にしてはいけない。

今のように情報が氾濫する世の中だからこそ、道を志す立派な理念に裏づけされた本来の「自分軸」をきちんと醸成していかないといけないのだ。
まだまだやることは本当にいっぱいある。

こんな時代だからこそ子どもたちには、幼い頃から「自分の目で、そして自分の耳で聞いて、自分で触って、自分で味わってみたもの以外は信じるな」と伝えていきたい。

そうやって情報リテラシーそのもの道を創っていきたいと切に願う。