hana花

春になると一斉に、美しく個性溢れる花々が命の限り咲き乱れる。
あたしい息吹が燦燦と輝く季節だと彼方からやってくる風の香りがそれを足元へ運んでくれる。

いつからが春だとか、どこからが夏だとか境界線をはっきりしないこの自然界の余韻が特に心地いい。

そうやって誰かが引いた境界線なんて関係ないように在るがままに変化というものを体現しやすいこの日本という島国は本当に「美しいクニ」なのだと心底思う。

国境もなく地球にいる一人のニンゲンとしてあるがままにある命の幸せは何ものにも代え難い至福の邂逅であると思えるからだ。

私は「美しさ」とは、「花」のようなものだと思う。

花はそれとして誰と比較するのではなく、ただ自分の命の花を必死に咲かせているからだ。

自然界の偉大なルールの中で、それぞれの個性豊かな花を咲かせている。
別に誰かに美しくされたのではなく、自らが命の限り自らを咲かせている。
そして、美しいと思われたいのではなく自然に命の花を咲かせている。

そこに、人間の心が美しいと感じるだけなのだと思う。

そしてその美しさは、周囲を様々に活かし活かされていることを含有する美しさでもある。

今、人間は多くを手に入れ多くを失ってしまっていると私は思う。

自然はコントロールするものではなく、その自然にどう自分があわせていくのかがニンゲンの与えられた叡智なのだと思う。

そしてその自然から多くのものを得ていき、だからこそ「ニンゲンらしく」あるのだと思う。

花は自らの命を精一杯咲かせるからこそ、他が活かされるのだと知っている。
ニンゲンはどうだろうか?

ニンゲンが自然界から学ぶことをやめたら、どうやってこの大自然の中の自由というルールの中で他を活かし、活かされるようになるのだろうか。

ある意味で間違えた、自分だけの命のためにだけにしてはいないか。
自分の種だけ生きればいいになってはいないか。

今はそれが不自然であるからこそ、地球の調和が乱れていくのだと思う。

万物の霊長として、もっと自覚を持って厳粛に自らの花の意味を知りそしてその花をキチンと咲かせないといけない。

もちろんこの美しい国を掲げる我々の国も子ども達には、国家は国家それとしての「子ども像」が必要だと思う。
しかし、その子ども像はみんな同じ姿という金太郎飴の意味によく間違えられているがそうではないと私は思う。

ここでの子ども像とは、それぞれの命を精一杯咲かせてあげるための「スガタ」のことだと思う。

だからこそ子どもがが思う存分命の花を咲かせるために、荒野を花園に還るために我々大人がどうすればいいかもう一度よく考えなければならないと私は思う。

なぜならニンゲンが咲かせた自らのhanaに、虫や鳥や動物などあらゆるものが活かされるのだから。

共生とは、それぞれの命の花をそれぞれにちゃんと咲かせる包容力なのだ。

勝手な人間のエゴでバランスを壊してはいけない。
バランスをとりたいのならば、命を咲かせる邪魔をしないだけでいい。

少し先の欲望をちゃんと我慢して、幾世代を超える未来の子々孫々へこの無限のぬくもりと平和を譲り遺してあげるために、すぐに現れる結果よりも足元を省みて満たされることを知り、改めて穏やかに静かに歩んでいきたいと思う。

子ども達には、そんな命の花をただただ咲かせようとする大人のスガタを「美しい国のオトナ像」としてまずは自らを正しその背中を見せていきたいと誓う。