磨く①~磨徳道楽~

今年は貝磨きの体験から磨くそのものの価値について再認識することができました。気づくことはできていましたが、気づきに気づくということには到達していなかったように思います。ここで磨くということをもう一度、整理して深めてみたいと思います。

磨くという字で思い浮かべる四字熟語には、「切磋琢磨」や「磨斧作針」があります。

「切磋琢磨」は中国の「詩経」の中で 「切」は骨や象牙を切ることで「磋」はそれらを研ぐことだとし、細工師の技工や完成した細工品に喩えて切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き向上することを言いました。

そして「磨斧作針」の方は、学問に挫折した若い頃の李白が帰郷するか悩んでいるとき老女に出会い、鉄の斧を磨いて針を作っていた老女の行動から努力、根気の強さに反省し李白は学問に励むようになったことから、惜しまずに努力し続ければ、困難なことでも必ず成就することを言いました。

どちらにしてもここでの「磨く」というのは、忍耐と根気によって継続して実践を続けて已まないことを例えています。

磨くというのは、単に摩擦していることではないことがここでわかります。一見、無理で難しいと分かっていることであっても諦めずに励むことでどんな石でも磨けば光る玉になることを示しています。つまりは、そのものの対象に問題があるのではなく磨く本人にこそ問題があることに気づけるのです。

例えば、気付くという一つの実践があります。継続して実践していける人というのは、関心を失うことがありません。あのエジソンが何千回、何万回の実験と努力を通して新たな発見・発明を産み出したように根気強く丁寧に気付きを内省する人は同じ実践をしていても必ず確かに磨かれていきます。

それは本人が気づこうとするかどうかに由るからです。

単に同じことをしているから磨かれるのではなく、もっと改善していこう、そこから大切なことを気づいていこう、心を澄まして感応していこう、気付いたことを次に活かそう、「発見=気づき(徳)=発明」と精進するものではじめて磨くことができるからです。

「玉磨かざれば光なし」という故事があります。

この「玉」は丸い形の宝石のことで、 宝石が原石のまま磨かれなければ美しい光を放たないのと同じように、人もどんなに才能があっても、学問や修業を怠れば立派な人間にはなれないということ。これは 『礼記・学記』に「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」という言葉よりの引用です。

人が道を歩むということは、日々に気づくということです。そして日々に気づく人は次第に徳が引き出されその器が出来上がってくるということでしょう。

磨く楽しみというのは道を歩んでいる愉しみであり、玉を磨くというのは徳を引き出していく歓びなのでしょう。

産まれてきては生きる意味を味わいたいのが人生です。その一度きりの人生がどのような自分を与えられたにしても、その人生をより善くしていきたいと誰もが願うものです。

生きている間、磨ける仕合せを味わいつつ実践を盡していきたいと思います。