同道志の御魂

今年も有難いことに無事に松陰神社に参拝することができました。また神社の近くの吉田松陰の墓地には、美しい花々が活けられ丁寧に手入れをされていました。

吉田松陰はその当時は処刑された罪人ですが危険を省みず17名の志士たちがその名を刻んだ水盤や花立、灯籠が供えられています。純然たる魂が感応し、その真心と意志を受け継ぐ者たちとして不退転の初心を決心したものだったのだろうと私には感じました。

志士たちというのは、我が身よりも大切なもののために生き切ろうとします。魂を優先して大義を盡す真心の生き方を師弟一体に学んだんではないかと静かに目を閉じ共感すると心に観えてきます。

そして吉田家の墓の中に吉田松陰を見守るように正面から見てすぐ右上に高杉晋作の墓もあります。

一緒に至誠の道を歩んで共に真心を盡した生涯の同志だったのでしょう。それは師弟というよりは、まるで同じ人物が容を変えて顕れているようにも感じます。魂というものは研ぎ澄まされ磨かれるほどに同一化していくのでしょう。

この同志の間には、道があることを実感する関係を吉田松陰と高杉晋作は築き上げました。今ならはっきりと自明するのですが、吉田松陰の「至誠」に対して、高杉晋作の「面白く」は同一のものです。

言葉の解釈というものは、その人の感じ方に由るものですが真心を盡すにはふざけなければならないのです。それだけ世の中というものが、本質的ではなくなっているからです。あの当時の吉田松陰は狂人や狂気だと周りに評されましたが、今の時代でも本質を維持しようとしたら変人やキチガイだと嫌われるものです。魂を優先するというのは、他人の評価など気にせずに信念を持ち、本質を最期まで貫くということですから他人ごとのような生半可な生き様では決して到達することもできません。

高杉晋作と吉田松陰の獄中からの手紙のやり取りの中に下記の文があります。

「世に身生きて 心死する者あり 身亡びて魂存する者あり 心死すれば生くるも益なし 魂存すれば亡ぶも損なきなり」

世の中に迎合し、知識ばかりを詰め込まれ刷り込みと妄想の中で生き流されるだけで死ぬなら心は失われてしまいます。如何に魂を優先するかは、初心の実践と本質の練磨によるものです。それを自分が先に生き切って省み発見したことを弟子に伝える「命懸けで生き方を教えている」松陰の真心の後ろ姿を感じます。

私にしてみれば真心を盡すというのは、面白きことのなきこの世を面白くすることです。与えられた天命に感謝し、真心こそ自然一体の御魂であると心に刻み、今を愉快痛快に遣り切って古来からの至誠の道を受け継いでいきたいと思います。

  1. コメント

    今、中々心の整理や、言葉に出来ない事が続いています。
    真心というのも、面白くという意味合いに昇華出来ない事も同じなのかも知れません。
    これからの母の事もそうですが、そもそもの自分の本気を問われているように感じます。ただの正しい選択に終わらぬように。それが福となり面白くなり、最善となるように。やはりいま、機会を頂いているのだと、ようやく今日を振り返り気づく事が出来たように感じます。まずはやはり、今日から学び、掴み取り明日を迎えたいと思います。

  2. コメント

    維新の志士たちは、教育ではなく、師との一対一の魂の交流によって、その心のうずきを顕現していったのでしょう。不惜身命の心が分からないままでは、至誠の道は歩めません。松陰先生のように魂で生きるということは、未だ一日もできません。今日のいのちに感謝し、日々初心を問い続けたいと思います。

  3. コメント

    何もしなければ過ぎてく日々も心の赴くままに従うことで、心のどよめきを感じます。走っていると心臓がドキドキ動いているのを感じ、息をしているのを実感します。ただ平然と過ごすよりも生きている実感を感じる、面白き方を選んでいきたいと思います。【○】

  4. コメント

    この時間からまた子ども達は朝練を始めるのだと思うと、つい先日のことですが懐かしさを感じます。巣鴨学園も真冬の六時二十分から武道の寒稽古を行っていると言いますが、何に対しても厳しさを面白さに感じることが出来るのは同志がいてこそなのだと感じます。いつも感化してくれる仲間がいることは本当に有難いこと、その感謝の心を忘れず決めたことを粛々と行動に移していきたいと思います。

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