解決の発掘

先日、ある園で理念形成のお手伝いをした。

その中でベテランの主任先生と色々な話をした。

経験があるというのは、解決方法をたくさん知っているということ。
そして、知っているとそれをすぐにでもやりたくなるもの。

よく話を伺っていると、才能が溢れている方や知識が豊富な方はすぐにそのやり方を指示し実行し物事をまたたくまに解決してしまう。

そういう方の持つバイタリティやエネルギーには驚くばかりだ。

営利企業ではそういう人が常に求められているし、そういう人はどこの世界でも評判が高いと思う。人材発掘の定義でも、そういう人は今のようなスピードが速く短い期間に成果を出すことを求める世の中では得てして人気が高い。どうも幼稚園や保育園でもそういう人は引っ張りだこで色々な現場に呼ばれることが多い。

そこでも力がある主任がヘッドハンティングされ、園を一気に改革しようとしていた。
異年齢や、コーナーなどもすぐに明日にでもやろうという意気込みだ。
きっと実行すれば、すぐに園の中はまたたくまに変わっていくだろう。

しかし、本当にそれが良いのだろうか?

私は経験ある方こそ問題はすぐに解決しない方も大切なのではないかと私は思う。

何でも人は、解決方法に向けて突っ走っていく。
もちろんそれは不安だからだ。

しかしゆっくりとじっくりと、その意味を観察するようなことが最近はあまり評価されないためか何か齷齪と「不安を抱えることがイケナイこと」だと何かについで急ぎ足で傾倒していく。

不安とは、安心の反対にあり常に不安がなくならないのが人間なのだ。
だとしたら、不安についても安心についてもなく常に中心軸は「意味を感じる」ことに観点は置くのがいいのではないかと私は思う。

その園では、主任と一緒にもう一度問題を観察しているうちにその根幹がもっと深いところにあることに気づいていただいた。それをもとに大変ですがじっくりとゆっくりと今年は一年間、すぐにでも解決できると思うものを三歩下がって『観察』しようとお互いが共通理解した。

どうせ力があってすぐに解決できるならば、もう少しだけちゃんと観察しようという定義だ。

どんなモノゴト、問題の中にはよく観察することで原因の大元の答えが横たわっていてその「意味」を発掘することで本来の歪みを見通すことができるのだと思う。

しかし、人間はその歪みを早く直したいあまり急いで事に当たろうとする。
そうしているうちに、同じようなことを何度もやっているだけで意外とほとんど前に進んでいないことが多い。

その場限りとは、問題から逃げたいだけで問題を受け容れているわけではないのだ。

では、「子どもが育つ」ではどうだろうか?

子どもという観点でモノゴトを観るとき、その子の人生を考え見通してみるとその子にとっての問題とはすぐに解決するよりももっと大事なものが其処にあることに気づく。

たとえば、何か子ども同士の関係に問題が起きたとする。

その際に、もちろん心身にとても危険なことがあるようならその見通しを持って止めるのだがそうでなければその問題は自分達で解決するように「観察」することが大事だと思う。

観察していると、なぜこれが起こったか?これが一体どこから来ているのか?この意味はどこにあるのか?などが次第に見通すことができるようになる。

そして、それを見守っていると余計なことはせずに「ほんの少し」の歪みを直せば周りは正常に循環をはじめる。

長いスパンでじっくりとゆっくりと焦らずモノゴトを観察することは、魂の力が必要なのだと私は思う。

子ども自身が抱えるその時々の問題をすぐに解決することがその子の将来にとってどれだけの機会損失になるのかを思うと心が戒められる。

私もせっかちな方で何でもすぐに解決したがる傾向があるが、最近は子どもを大事に思うように接していこうと戒めている。

『そこに「確かな意味」がその人にあるからその問題は発生した。
 それは、その人にとってもっともふさわしい問題だった。』

取り除くよりも問題と相手をそう尊び、敬い、寛く受け容れるようにしています。

今のスピード感ある時代の子ども達には、問題があったときにその問題を味わうだけの意味を感じる力や発掘していく喜びを持ってもらいたいと思う。

そのためにもまずは、自分自身辛いと思える様々な問題をよく咀嚼し、天が私に与えてくれている有難い試練として受け容れ、自分の自己研鑽の糧にしながらしっかりと、そしてじっくりと問題とともに一生豊かに歩んで生きたいと思う。